金正恩総書記が医療に本腰―北朝鮮「病院ラッシュ」の裏にある深刻な現実
北朝鮮で「病院づくり」が国策として動いている。金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党総書記は各地の医療インフラ整備を繰り返し指示し、平壌総合病院などを党の成果として強調する。しかし背景には、薬も医師も足りない医療インフラの脆弱さがある。それは住民の不満や感染症リスクに直結し、体制の安定に深刻な影響を与える。いまや金総書記にとって統治の弱点であり、同時に解決すべき優先課題となっている。
◇「国家が医療を面倒見る」
北朝鮮の医療は、建国期のスローガンこそ「無償医療」だったものの、実際には慢性的な薬不足・設備不足・人材不足にさらされてきた。社会主義体制では「国家が医療を面倒見る」という建前があるため、住民は「本来、病院での診療や薬を無償で受けられる」と教えられてきた。
ただ、その建前が機能した期間は長くない。1990年代中盤の「苦難の行軍」と呼ばれた経済危機以降、国家が配給も医薬品も支えられなくなった。地方の診療所は患者を受け入れる以前にガーゼも注射器もない▽麻酔薬が足りず歯の治療が拷問のような痛みを伴う▽抗生剤がないため軽い炎症が重症化する――などの話を、筆者は中朝国境地帯で脱北者から何度も聞いたことがある。
北朝鮮における医療は、国内政治において、優先順位が低いまま何十年も放置されてきたようだ。核・弾道ミサイルは「国家の尊厳」であり、軍需産業は外貨獲得の手段となる。最高指導者の記念碑建設は権威の演出だ。だが医療はそうではない。地味で、軍事パレードのように国威宣揚に直結する素材にはなりにくい。その結果、住民の健康は優先順位が下げられ、医療は制度として「無償」を掲げながらも、実態としては国の資金は十分に投じられてこなかった。
その結果、生まれたのが国内の医療格差だ。党や軍のトップクラスは基本的に国内の一般病院に頼らない。専用病院があり、重い病気になると、高度な検査機器や手術環境の整った中国やフランス(かつては日本)など、国外で治療する。
海外渡航が認められた党幹部や貿易関係者らは国外で薬を買う、あるいは外国の友人・知人に取り寄せを依頼する。動悸や息切れを抑える市販の強心薬、解熱鎮痛薬、止瀉薬、抗生物質、ビタミン剤まで、とにかく「外国の薬=効く」という共通認識がある。彼らにとって、薬は贈り物ではなく命綱といえる。そもそも国内の薬局は品切れが多かったり、薬が売られていても効果が安定しなかったりするようだ。
さらに最も厳しい状況に置かれているのが一般住民だ。発熱や腹痛といった日常的な症状でさえ、十分な診察を受けられず、薬を入手できないことがある。地方の病院は建物はあるものの、ベッドは壊れ、薬品や医療用消耗品も著しく不足しているようだ。医療従事者は献身的だが、給料だけでは生活が苦しく、賄賂・物品の「お礼」を受け取らざるをえない。
つまり医療の現場はすでに市場化しており、「医療はタダ」という建国以来の看板は実質的に崩れている。
◇医療は国家の失敗を映す鏡
金総書記は、こうした現実を座視できなくなっている。
ひとつは政治的安定だ。住民が目の前で病気になり、病院に行っても何もしてもらえず死ぬという経験は、直感的に「国の失敗」として受け止められる。これは体制の正統性を侵食する。最高指導者が「人民の父親」であると宣伝する以上、「父親は子どもを死なせない」という最低ラインは演出し続けなければならない。
またひとつは、感染症リスクだ。新型コロナ禍で北朝鮮は極端に国境を閉ざしたが、隔離だけでは感染は防げなかった。伝染病は軍や幹部にも広がる。医療の土台が崩れていれば、朝鮮人民軍の戦力維持すら難しい。一定水準の医療インフラは軍事安全保障の一部ともいえる。金総書記にとって病院建設は「統治インフラ」の側面も持つのだ。
それゆえ、金総書記は「地方にも近代的な病院を」という号令をかけ、平壌だけでなく地方都市に「総合病院」の建設計画を打ち出している。どこまで中身が伴うか別として、建設すれば、それは宣伝になる。
金総書記本人にも思い入れがあるだろう。母親である高容姫(コ・ヨンヒ)氏が乳がんを患った際、国内では十分な治療が受けられず、秘密裏にフランスに渡って手術や療養を受けた。最高指導者となる人物の母親でさえ、平壌の医療では救えないという現実を突きつけられた。金総書記にとって、極めて屈辱的な経験だったはずだ。
医療インフラの脆さは、体制を支えるエリートの健康と生存を直撃する。金総書記にとって医療は、単なる福祉政策ではなく、家族の記憶と政権維持の双方に関わる「痛点」だといえよう。
◇「よく効く薬」がレバレッジ?
医療・公衆衛生は、住民の生存と政権の安定に直結する領域であり、北朝鮮側も重要性を否定できない。清潔な医療消耗品、基礎的な救急ノウハウ、感染症管理、常備薬の確保といった要素は、北朝鮮当局にとっても喉元に刺さった課題であり、同時に絶対に外部に依存したくない部分でもある。
北朝鮮にとって医療は、「弱点」であり「恥」であると同時に、金総書記が是が非でもテコ入れしたい統治インフラなのだ。病院建設は北朝鮮国内向けには「人民思いの指導者」という宣伝、対外的には「近代国家」の演出になる。だが、薬も医師も足りない現実は消えない。
北朝鮮の医療は、政権の弱点であると同時に「人民を守っている」と示す宣伝分野でもある。中国やロシアなどから一定の医薬品や装備の支援を受けている可能性はあるが、それだけで体制を安定させるには限界がある。
北朝鮮住民の間には、日本は医療・衛生面で「圧倒的に進んだ国だ」というイメージが根強い。これは高度な医療技術だけでなく、「日本の市販薬はよく効く」「薬局に行けば必要な薬がすぐ手に入る」といった実感に裏打ちされたものだ。
そのイメージをうまく活用して、北朝鮮に一定の働きかけをすることはできないだろうか。懸案解決に向けて北朝鮮をテーブルにつかせるための、一つの材料にならないだろうか。金総書記に「痛点」があるならば、そこをターゲットにした策を考えてみる余地があるかもしれない。