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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

このブログは私の思いを超えている!

2025-09-03 05:01:16 | 雑感
ブログ開設して今月で11年...
あっという間、いつの間にかというのが実感です。
人生でこんなに続けたものなんか無かったし、訪問者数が100万を超えているなんてこともずっと日陰で生きて来た私にしたらあり得ないこと...私の思いを超えたことですよ。
こんな何を書いているのか、捉えどころの無い内容ばかりにも関わらず...
しかし、私自身にとってはある時から、その中心となる、書いてゆく上での道標のようなものが与えられるようになりました。
それは、自分でこうしようとしたものでなく、正に私を超えたものから与えられたものだったのです。
そのことを私は何回ここで書いたことだろう!...そう、こうして書いているだけで、そくそくとその超えたものの現臨を感じるようになったということなのです。正にそれについて記していると、必ずといっていいほどそうなる!(正に今の現実!)...書くのを促すようにも!
最初はそんなことは...無かったですねえ!...これは多分、その11年前の暮れ、その現臨、神の手に捉えられ、思考機能、為そうとする意志想念も失い、至福のその時間が止まったような意識状態に導かれた辺りだったと思います。
何を書こうかというよりも、勿論そう意図して書くこともあるのですが、その根っこの方にはそういうものが息づいているのです。
それがこのブログの命なのです。いや書くことが命と言ってもいいのです!
誰にこの言葉に言い表せないことが伝わるかは知る由も無いですが!...
しかし、それもこのグーブログでの投稿期限は、あっという間に後一月を切るという事態に!(グーの運営者方には、こうした場を与えられたことに感謝するしかありません)
この先のことはまだ何も考えていないのですが...だから気がついたらそんなことが迫ってる訳なんだ!...
こうして長く続けてきて、書きたいことは大体書いてきたようにも思うのですが...そくそくと“これ“が私の実存に迫ったら、促しを受けたらどうするんだ!...それは何回あっても、毎回が新たなる命の恵み、気付きに与ることではないのか!
又、たとえ100万超の読者が居られても、たった一人でも共感、共鳴をして下さる方が居られたら、続けて行きたいという気持ちは今でもあります。
ただ...他社に移行するにしても、そういうことに全く疎い私には、ただただメンドクサイな、と感じる訳で!...ただでさえもメンドクサがり屋とキテます!
どうかこういう(ああいうのとは別にしても)私の思いを超えたものが、働くことを願いつつ、ぼちぼちそっちの方を進めたいと思っている次第なんであります。...
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夏の終わりのつぶやき

2025-09-01 04:20:06 | 詩的文章
暑い!
暑すぎる!
纏わり付くように蒸してくる
身に刺すような直射日光
ちょっと外に出ただけで頭くらくら...

出掛ける予定は引っ込めた!
こういう時は外に出ないに限る!
クーラー付けて部屋に閉じこもって!

閉じこもったまま?...
このまま閉じたまま?
通らない!...
思いがどんより重く纏わり付く
どこにも出口が無い
このまま滞り、凝ってしまうのか?
ここから出ないと!
出ないと...出せない!
でも、気力が出て来ない!
んんんっ...
ダメだ!...
気力で、念を凝らそうとしても空回りするだけ...
開かれて来ない!
臨んで来ない!
それでも...待ち望むしかない!
すると...りん、りん、りん...
いつの間にか部屋の外には秋の虫の声...
きん、きん、きん...耳鳴り!
じん、じん、じん...
虫の声と耳鳴り...色々な雑音を消し去る無音の響き...
開かれた!
出れた!...あの鈍重な閉じられた空間から
私の思いを超えて!
出た!...出せた!
終わりそうで終わらない夏の終わりに...

微風に乗せたこのつぶやきが!...



















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思いを超えたポイント

2025-08-30 05:27:36 | 求道、探究
今の世の中、数多の情報が飛び交っていて、何が正しくて、何が真実か分かりません。
宗教など精神的な道でも、あの教えとこの教えと食い違っていて、どちらが正しいのか迷ったりします。
そういう場合、普通は自分の、自分では正しいと思っているが、その実どうだか分からない(?)自分の見解に基づいて考えて、結論付けようとするものでしょう。勿論、それが本当に正しいかは分からないものだけど、人間はそういうことにしちゃいたいものなのでしょう。
私も勿論そうしたりしますが、自然に意識が自分の中に向けられるようなことになります。
これは、実に感覚的なことなので、上手く伝えることは出来ないのですが、あの思いを超えた現臨感覚をもたらす、あるいはそれによりもたらされたと言っていいような、そういう種みたいな意識的なポイントにゆだねるようになるのです。漠然と感じるものでなくて、思いを超えたポイントのようなものとして感じるのです。(モノか?...いや違うな、感覚的なモノなので上手く言えません!)
あれが正しいか、これが本当だとか考えたりしません。それに照らされて、何か“ズシッ“と反応するものがあるかどうかが、言わば判断の基準となるのです。(喩えて言えば、天秤にかけられたものが、そこに重しで傾くようなものです)
といって、これは言葉にすればそういう理屈っぽい言い方になりますが、当たり前のように感覚的にそうなることを言っているのです。
何を言っているのかサッパリ分からない人も沢山おられるかも?...ヘンですか?...これまで私には自然な当たり前のことなので、あまり言及したことが無かったのですが、思うに、ほとんどの人は意識していないので分からないだけで、実はそのアテにならない(?)自分の見解とやらの根底にはそれが働いているのかもしれないのですよ。これは多く熟慮とか内省的になることのうちに働いているのではないでしょうか?
私の場合、それがある時(現臨感が恒常的に感じられるようになった時?)から自覚的になったのです。
しかし、その神のお告げめいた(?)ものも、本当は正しいかどうかは分からないのですよ!...そう思えることが健全な精神というものでしょう?
ただこのことは、あれこれ絶えず馳せ続ける思考の堂々巡りにブレーキをかけ、あるいは又思考に基づく正しさへの固執的見解を解かすことにもつながることなのです。
これは、自分で考えることを放棄するということでなく、飛び交い、又固着しようと熱くなりやすい思考マインドを落ち着かせるものと言えるのです。それはどっかで落ちなければならない。
そう、それが普通に“決着した!、これが結論!“、と思わせるものなのでしょう。もっとも自分でそう思っているだけなら、全くアテにならないものなのでしょうが!...
私の感覚では、それが正しいか正しくなかろうがどっちでもいい!...その判定みたいなものは、思いを超えたもの、神に預けた!...それが本当に正しい判断なのではないかと言うことです。
私は元々思考マインドが強く働いて、そのがんじがらめの苦しみをよく知っているので、こういうことが自然と身に付いたのでしょう。
自然に、ね。本当は、これが元々のもの、本来から来るものなのでしょう?...
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感謝しなければなりませんか?

2025-08-28 04:34:10 | 雑感
幸福であることは、自然に感謝の思いが溢れてくるものです。
何に対しても有難~い気持ちになる。感謝の心から幸福に導かれるものでもあります。
ところが...宗教団体なんかに関わると、団体によっては“感謝しなければなりません!“とそれを強要するような教えに付き合わされたりするものです。
私が昔入っていた団体では、利他愛だとかと共に、これをしょっちゅう聞かされまして、それが本当にイヤでなりませんでした。
有難くもないのに何で感謝しなければならないのか?...内心はそういう思いが渦巻いていたのですが、でもそうしないと、その教えに従わなければ救われないのか?、という表層の思いとが交錯し、それが余計に精神的な負担となったのでした。
感謝することは、愛することと同じで、自然に、自発的に表れるものなのであって、作為的なものが入ると実に本来の人間精神を歪めることになるでしょう。
愛する人から、“あなたはもっと私を愛さなければならない!“、“好意に対して感謝しなければなりません!“、などと言われたら一辺にその愛は冷めるのは必定です。まず、あらゆる人間関係は、これでこじれると言っていいでしょう。
だから、宗教のそういう教えは、多く人間精神を分裂させ、偽善者を作り出すものなのです。“あー、イヤだ、イヤだ!“...それは感謝の心を殺すものでしかないではないか?
といって、我々は忙しくしていたり、利己的な思いに囚われたりしていると、感謝の心に気付かず、忘れ勝ちになるものです。それでも感謝を強要される理由など無いですよ。先の通り、感謝は自然な発露によらなければ生きないものです。
では、他からのそういう強要ごとからでなく、自発的に思えばいいのだな!、つったって、思おう、思おうというのは、もう作為的になってるじゃありませんか?
それに、“思っているだけじゃダメだから、行為に表さなければいけません!“、という誰かの声も聞こえて来るぞ!
出来ません!...もう、イヤだ!、こんな思いのがんじがらめ地獄!...幸福に与るものが何でこんな地獄的な思いに苛まれなければならないのか?
ですから、思わんでも、出来んでもいい!...
ただ、ちょいと意識していたらいいのです!
普段、有難い、愛していると思っているものなら、自然と意識が向けられるのです。ここから開かれる!
特別、そういう対象となるものが無くても、ちょいと意識すれば、生かされているだけでも有難く感じられないでしょうか?
私なんかは、ほら、その有難いものが現存、現臨して来るじゃありませんか?
そうなると...あ、外では秋の虫の声が!...明るくなって来たら小鳥のさえずりが!
そこから、あらゆるものに感謝の思いが向けられるようになる!
そういうものに、言葉だけの、内実の伴わない感謝など要らない!
あの感謝の圧が物言う世界は、私には遥か昔の封建社会にしか思えません。
これほど閉じた世界と開かれた世界の在り様の違いを、くっきりと映し出すものは無いでしょう!...




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祈りと愛

2025-08-26 04:21:08 | 祈りと瞑想
祈りは、神に意識を向けることといつも言っています。
(私にとり)神は、最愛のものとも...
ということは、もう単純に祈りは神を愛することと言ってもいいのです。
ユダヤ、キリスト教、イスラムなどの聖書の宗教、浄土系仏教、インドのバクティでも、このことと関連して伝えられているのです。
神という惹かれてやまないものがあるから、こちらがそうしようとしなくても、おのずと意識が向けられざるを得なくなる...
これは神との相愛関係と言えるでしょう。自分の思いを超えて、何か一つにさせよう、なろうとするものがある。そうなるともう、それにゆだねるしかありません。
こういう水いらずのような在り方で、そうなるためのやり方、方法、テクニックなどを持ち出すのは、興ざめでしかありません。
又、分別知で神とは何か、どういう存在か、一神か、多神か、汎神かとか考えたりする...何か分かってから祈るというのでしょうか?...それは頭だけで祈っているだけ、祈っているつもりなだけでしょう。最初から愛には意識が向けられていません。
何か分からないものに意識を向けるのは不安なのでしょうか?
それは、おのずとそこに平安がもたらされる、ということが分からないということなのです。理屈を超えて導かれるものがある。
とにかく、何らの努力無しに(努力のようなものがあったとしても、そう感じない)、自力修行などで中々そうならない、思いを超えた世界に導かれるのです。
だから私は、悟るとか、究極の境地とやらに到達するかどうかはさておき、神と一つになることは神を求め、愛することそのものではないか、と感じずにおれないのです。
しかし、神を愛することに対して、“神を愛さなければならない!“、なんて義務とか義理みたいなことを言うのは、実におかしいことですよね。
まあ、旧約聖書の神とかは、そういう掟みたいなこと、そうしないと懲らしめられるみたいな、恐ろしいことを告げるようなのですが...それに限らず宗教には多かれ少なかれ、そういう“恐ろしい神“を想起させてしまうところがあります。
それが、そういう思いが我々の意識に刷り込まれていることが、中々その神との相愛関係に導かれるのを妨げる要因になっているのではないでしょうか?
その気の無い人は別として、そのように神の掟のように、自分以外の者から外側から律しようとする思いでなく、自分の中から自発的に感じられる、思いを超えて惹かれるものに意識を向けることが必要でしょう。...なんてこういう言い方も他人行儀なんですが!
ああ、こう書いているだけで、意識が向けられるだけで、そくそくと神の臨在が!...
そうさせてやまないものがある!...これはもう愛としか言いようがありません。
分かる人には何の説明も要らない。分からない人には何を言っても...せいぜい、人が言っている、信じている神でなく、あなたの神に尋ねよ!、というようなことしか言えません。
愛というものはそういうものなのでしょう?
しかし、愛を感じない人など居ないはずでしょう?
いや、誰でも神から愛されなければ、存在すら出来ないのではありませんか?
だから、神を求め、愛さずにおれないのです!...



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