生成AIと著作権の衝突を象徴する訴訟として世界的な注目を集めていた、大手ストックフォト企業Getty ImagesとAI開発企業Stability AIの法廷闘争は、英国の法廷で一つの大きな節目を迎えた。ロンドン高等法院は2025年11月4日、Getty Imagesが主張した著作権侵害に関する訴えの主要部分を退ける判断を下した。この判決は、Stability AI側にとって大きな勝利であると同時に、AIの学習データが国境を越えて処理される現代において、既存の著作権法が直面する深刻な課題を浮き彫りにした。なぜ「動かぬ証拠」を提示したはずのGettyは敗れたのか。そして、この判決はクリエイターとAI業界の未来に何を投げかけるのだろうか。
ウォーターマークが語った「 厚顔無恥な侵害」
この法廷闘争の根幹にあるのは、Stability AIが開発した画像生成AIモデル「Stable Diffusion」の学習プロセスである。Getty Imagesは2023年、Stability AIが自社のWebサイトから数百万点にのぼる著作権保護された画像を無断でスクレイピングし、Stable Diffusionの学習に利用したとして提訴した。
Getty側が「動かぬ証拠」として提示したのが、Stable Diffusionが生成した画像の中に、Getty Imagesの象徴とも言えるウォーターマーク(透かし)が歪んだ形で現れる事例だった。これは、AIモデルがGettyの画像を学習したことを示す明白な痕跡であり、Getty側はこれを「a staggering scale(驚異的な規模)」での「brazen infringement(厚顔無恥な侵害)」だと厳しく非難した。
この訴訟は単なる一企業間の争いを超え、AI開発企業がインターネット上から膨大なデータを収集してモデルを学習させるという、現代のAI開発における根源的な行為の合法性を問うものとして、世界中のクリエイティブ業界とテクノロジー業界から固唾をのんで見守られていた。
判決を分けた「管轄権」という見えざる壁
しかし、裁判が進む中で事態は予想外の展開を見せる。Getty Imagesは、裁判の核心であったはずの「著作権侵害」に関する主要な申し立てを、審理の途中で自ら取り下げるという決断を下したのだ。
その理由は、極めて技術的でありながら、グローバルなAI開発の現実を突くものだった。AIモデルの学習が、英国内で行われたことを証明できなかったのである。
Joanna Smith判事の判決文によれば、Getty側も「Stable Diffusionの学習と開発が英国内で行われた証拠はない」ことを認めたという。判決文によれば、学習プロセスは英国外にあるAmazonのサーバー上で行われた可能性が高いとされている。Smith判事は「Getty Imagesは、モデルが実際に学習された管轄区域で訴訟を維持することはできるかもしれないが、この管轄区域(英国)ではその訴訟の根拠はない」と結論付けた。
これは、今回の判決が「AIのトレーニング行為自体が著作権侵害にあたるか」という本質的な問いに対して、法的な判断を下したものではないことを意味する。あくまで技術的な、あるいは法手続き上の理由で、その核心部分に触れることができなかったというのが実情である。この点について、一部の法律専門家は、AIと著作権に関する最も重要な論点が未解決のまま残された「期待外れの判決」だと指摘している。
「二次的侵害」も認められず:AIモデルの仕組みが鍵に
主要な主張を失ったGettyは、次なる論理武装として「二次的侵害」を主張した。これは、たとえ学習が海外で行われたとしても、その結果として生み出された「侵害物」(この場合は学習済みAIモデル)を英国内に持ち込み、使用することは違法である、という主張だ。
しかし、裁判所はこの主張も退けた。ここでの鍵となったのは、生成AIモデルの技術的な仕組みそのものへの理解だった。Smith判事は、Stable DiffusionのようなAIモデルは、学習に用いた画像のコピーを内部に保存しているわけではないと指摘した。モデルが保存しているのは、画像の特徴を学習した結果として調整された数値の集合体、いわゆる「重み(weights)」である。
判事は次のように述べている。「モデルの重み自体は侵害コピーではなく、侵害コピーを保存するものでもない」。これは、AIが写真を保管するデジタルアルバムではなく、無数の写真から「猫らしさ」や「風景画のスタイル」といった概念やパターンを学習した、いわば抽象的な知識体系であるという理解に基づいている。したがって、学習済みモデルを英国内に「輸入」したとしても、それは著作権で保護された画像のコピーを輸入したことにはならず、二次的侵害は成立しない、と判断されたのである。
これは、AIモデルの構造そのものに踏み込んだ判断であり、モデル自体を著作権侵害の直接的な対象と見なすことの難しさを示唆している。この判断は、AI開発者にとって極めて有利な法的解釈であり、一部の専門家からは「英国の二次的著作権制度は、クリエイターを保護するのに十分強力ではない」との懸念も表明されている。 事実上、海外でトレーニングされたAIモデルは、そのモデル自体が著作権侵害の複製物と見なされない限り、法的な制約なく英国内に「輸入」できるという前例になりかねないからだ。
Gettyが得た「限定的な勝利」とその戦略的意味
Getty Imagesは主要な論点で敗れたものの、完全に手ぶらで法廷を去ったわけではない。判決は、Stable Diffusionが生成した画像にGettyのウォーターマークや、同社傘下の「iStock」といった商標が含まれる場合、それは商標権侵害にあたると認定した。
これは「極めて限定的な範囲」の勝利ではあるが、戦略的には重要な意味を持つ。この判断は、AIモデルが生み出すアウトプットに対して、開発者であるモデル提供者が責任を負うことを明確にしたからだ。Stability AI側は、個々のユーザーがプロンプトを入力した結果として侵害物が生成されたのであり、責任はユーザーにあると主張していたが、裁判所はその理屈を退けた。
この判決を受け、双方の声明は自らの立場を強調するものとなった。
- Getty Images: 「これは知的財産権者にとって重要な勝利だ」「Stable Diffusionが生成したアウトプットにGetty Imagesの商標が含まれることは商標権侵害であると確認された」と述べ、権利保護の観点からの前進を強調した。
- Stability AI: 「この最終的な判決は、核心的な問題であった著作権に関する懸念を最終的に解決するものだ」と述べ、中核的な主張が退けられたことをもって事実上の勝利を宣言した。
専門家たちの交錯する見解:判決が残した大きな「宿題」
この歴史的とも言える判決に対し、法律専門家の間では評価が大きく分かれている。それは、この判決が明確な答えを与えた以上に、多くの「宿題」を残したからだ。
- 悲観的な見方: 法律事務所Addleshaw Goddardのリーガルディレクター、Rebecca Newman氏は、この判決が英国のクリエイターにとって「悪い前例」を作ったと警鐘を鳴らす。「英国の二次的著作権制度は、クリエイターを保護するのに十分な強度がないことが示された。事実上、英国外で侵害データを用いて学習されたモデルが、法的な影響を受けることなく英国に輸入されうる」と同氏は指摘する。
- 「期待外れ」との見方: MichelmoresのIPパートナーであるIain Connor氏は、Gettyが主要な主張を取り下げたことで、この訴訟は「大規模な期待外れ(massive damp squib)」に終わったと評する。「この決定は、AIモデルが著作権物を学習するプロセスの合法性について、英国に有意義な判断を残さなかった」とし、テクノロジー業界とクリエイティブ業界の間の根本的な対立に答えを出せなかったと失望感を示した。
- 限定的な評価: FreethsのIP法責任者であるSimon Barker氏は、より冷静な見方を示す。この判決は、AI生成物が保護された商標を再現した場合、その責任が誰にあるかを明確にした点で意義があると評価し、今後の訴訟や政策議論に影響を与えるだろうと分析している。
これらの見解が示すように、今回の判決はAIと著作権を巡る法的な不確実性を解消するものではなく、むしろその複雑さと、既存の法制度が直面する困難を改めて浮き彫りにしたと言えるだろう。
国境を越えるAI開発と「法の空白地帯」
今回の判決が突きつける最も本質的な問題は、AI開発が国境という概念をやすやすと飛び越えてしまうという現実だ。Stability AIのモデルがどこにあったか定かではないAmazonのサーバーで学習されたように、現代のAI開発はグローバルなクラウドインフラの上で展開されるのが常である。
この事実は、特定の国の著作権法だけでAI開発を規制することの限界を示唆している。今回の判決は、AI開発企業に対し、法規制が比較的緩やかな国や地域でモデルの学習を行い、完成したモデルをグローバルに展開するという、一種の「リーガル・アービトラージ(法の裁定取引)」とも言える戦略を助長する可能性すらある。
過去、Napsterに代表されるP2Pファイル共有技術が国境を越えて広がり、各国の法整備が後追いで対応を迫られた歴史がある。しかし、AIはそれとは比較にならないほど複雑で、影響も広範だ。単なるコンテンツの複製ではなく、コンテンツから「知識」を抽出し、新たな創造物を生み出すというプロセスは、著作権の根幹である「複製権」や「翻案権」といった既存の概念では捉えきれない側面を持つ。
今回の英国での判決は、一つの法廷闘争の終わりであると同時に、より大きな国際的な議論の始まりを告げる号砲と見るべきだろう。主戦場は、Gettyが同様の訴訟を起こしている米国カリフォルニア州の法廷へと移る。米国では、著作権法における「フェアユース(公正な利用)」の概念がどのように解釈されるかが最大の焦点となる。
この問題は、もはや一企業や一国の法制度だけで解決できる段階にはない。クリエイターの正当な権利をいかに保護するか。そして、社会に多大な便益をもたらす可能性を秘めた技術革新の自由をいかに確保するか。この困難なバランスを、国際社会全体で模索していく必要性が、ロンドンの法廷から改めて世界に突きつけられたのである。
Sources
- Courts and Tribunals Judiciary: Getty Images -v- Stability AI
- Getty Images: Getty Images issues statement on ruling in Stability AI UK litigation
- The Register: UK judge delivers a ‘damp squib’ in Getty AI training case, no clear precedent set