樋口尚文の千夜千本 第233夜『MISHIMA』(ポール・シュレイダー監督)
80年代的な表層文化にまみれたジャンル映画の愛嬌
1985年のカンヌ国際映画祭で公開され、最優秀芸術貢献賞を受賞したものの、目玉作品となること請け合いだった同年に始まった東京国際映画祭では公開かなわず、ついにご当地日本では一度も一般公開されなかったポール・シュレイダー監督の『MISHIMA』。それがこのたびの第38回東京国際映画祭の日本映画クラシックス部門で、実に完成から40年ぶりに元の日劇の大スクリーンで公開されることとなった。
物見高いファンたちによるチケット争奪戦で瞬時に全席完売したことでも話題になったが、実際に劇場で上映された『MISHIMA』を観ると、なぜこの映画の公開が40年も封印されて来たのだろうと首を傾げる一方で、いやある意味で40年前の過去作として観たことで許される作品にもなったのでは、と思うところもあった。
シネフィルの間では有名なことだが、この幻の作品がどんなものなのかを確認すること自体は案外早々に可能であった。80年代後半の華やかなりしレンタルビデオショップには、本作の画質音質は宜しくないものの概ね内容は確認できる海賊版VHSがそこかしこに並んでいた。それはナレーションが緒形拳ではなくロイ・シャイダーで、海外版なのになぜか烏丸せつこのアンダーヘアーにボカシが入っていた。製作年から時を置かず、80年代の同時代作品として本作を初見した時は、正直言ってちょっと困り果てた。なんとなく三島という人間の掘り下げ方が表層的で、あまつさえ三つの原作を描く部分の石岡瑛子の美術は長時間にわたってPARCOのCMを見せられているようで辟易した。
もちろんコマーシャル・アートにおける石岡瑛子の仕事は尊敬しているし、それこそPARCOや『地獄の黙示録』の傑作ポスターなどが厖大に展示された石岡瑛子展は圧巻であった。そんなアートワークに紛れて『MISHIMA』の金閣寺セットのレプリカが再現されていたのは、展覧会場のオブジェとしては嬉しいものですらあったのだが、しかしあれはまともな映画美術とは見なしがたい。ある大物監督があの金閣寺のセットは戸田重昌の影響もあるのではと私に聞いてきた時は、あの絢爛と映画から美術が浮いて悪目立ちしている石岡瑛子のセットと、極めて異色な意匠を映画の真髄から抽出し、映画になじませる戸田重昌のセットは根本的に思想が違うと反論した。
ただそんなアレルゲンを孕みつつも、本作はどこか憎めない、気になる映画でもあって、その後、本作が『三島由紀夫と一九七〇年』というムックの付録として不意にDVD化された際も、近年ついに凝ったアートワークでクライテリオン・コレクションから(緒形拳のナレーションも付けて)Blu-rayとしてリリースされた時も、いちいち入手して観なおしてみたりしていた。そして40年を経て、79歳となったポール・シュレイダー監督とともにスクリーンで初見するという機会に恵まれたわけだが、やはり映画はスクリーンで観てこそ伝わるものもあると感じたひとときでもあった。
まず40年の時間は、この映画の公開を阻んだ理由として囁かれるいずれのケースも(それが本当ならば)まるでナンセンスなものにしてしまったわけだが、同時に私が同時代に『MISHIMA』を観た際に感じた表層的な印象や美術の意匠にまつわるアレルギーをかなり鈍化させてくれた。そんな感覚で出会い直した『MISHIMA』はあいかわらず手放しでは誉められない、ちょっと困った作品ではあれど、もはやその気になった点すべてが赤裸々なまでに80年代的な「時代の風物詩」なのであった。
そして私はそもそもここに至るまでのポール・シュレイダーの『ザ・ヤクザ』『タクシードライバー』『ローリング・サンダー』の脚本の着想、テイストはひじょうに好きだったし、監督作の『ハードコアの夜』も気に入っていた(『アメリカン・ジゴロ』や『キャット・ピープル』も小味な魅力があった)。いわばジャンル映画ウィルスの新型株のような風味、それとも絡むジャンル映画的な潔い単純さが、ポール・シュレイダーの暖簾の色だと思っていて、そこが何より好みだったわけだが、そんなB級志向を身上とする監督の日本文化への造詣が高じてオオゴトな三島研究映画を創ってしまったようなとまどいが当時はあった。
しかしこのたび大スクリーンで観た『MISHIMA』はそんな肩に力が入った大作というよりも、『聖なる映画 : 小津/ブレッソン/ドライヤー』という小津研究の著作まであるシュレイダーがなぜか石岡瑛子の80年代的ジャパネスクに巻き込まれながら「やってしまった」、三島をめぐるシンプルなジャンル映画という感じに見えたのだった。そういう意味で『MISHIMA』はわが国の熱狂的な三島論者を深甚な文学的考察で唸らせることはないかもしれないが、思いのほかポール・シュレイダー印の作品にはなっていたという気がする。
そんなシュレイダー監督の本作での三島観は、上映に先立つスピーチのなかでの「三島由紀夫は『タクシードライバー』のトラヴィス・ビックルとは知性の面では真反対の人間と思われているかもしれないが、自らを過酷に追い込むことで生の違うステージに到達しようとした、同種の人間だと思う」という一節で腹に落ちた。40年を経た『MISHIMA』は、そういうジャンル映画的なアウトローの美学を流行りものの意匠のなかで描いたキワモノの愛嬌をもって楽しまれるべきものだろう。