7話「王竜王」
流れる雲は下位戦闘魔術師である。
本名はフラウ=クローディアという。
彼女は真面目であり、嘘つきであり、そして野心家であった。
フラウ=クローディアという少女の半生は、天に浮かぶ一等星のように、眩しいぐらい輝いている。
わずか三歳にして魔術の才能を見込まれ、魔術結社『草世葉木』の最高位戦闘魔術師に弟子入り。六歳の時に本格的な魔術の勉強を始め、十歳の時には初級魔術師、十三歳の時には中級魔術師の認可を受けた。平均よりも七年は早く、彼女は生きてきた。
十六歳。歳はともかく、技術は上級魔術師の認可を受けることのできるレベルになっていた。上級魔術師の認可を受ければ、中位戦闘魔術師の位置づけになる。中位戦闘魔術師ともなれば、魔術師としては一人前。フリーランスの魔術師になってもいいし、どこかの国に雇われてもいい。生半可な魔術師より遥かに高い報酬で雇ってもらえる。下位と中位では大人と子供ほどの大きな差があるのだ。
さて、彼女が上級魔術師の認可試験を受けるためには師匠の承認がいるのだが、その師匠は現在、非常に苦しい立場に立たされていた。
魔術結社『草世葉木』も組織であるがゆえ派閥がある。中でも、もっとも大きいのは太陽派と月派。最高位戦闘魔術師の師匠は月派の幹部であった。
師匠の所属する月派は太陽派の裏工作によって有能な人材を何人も失い、それに伴って大きな仕事が減り、太陽派に追い詰められていた。
そんな中、認可試験を望むフラウに、師匠は言った。
「今はそんな暇は無いし、第一お前はもう少し、体力を付けたほうがいい」と。
フラウは焦った。このまま派閥がつぶれてしまえば、師匠はよくて放逐、悪くて私刑、その弟子である自分も結社から追い出されるだろう。フラウは対抗派閥の幹部の弟子たちに疎まれている。
その前に、上級魔術師の認可試験を受けなければならなかった。
そうしなければ、別の魔術結社で別の師匠をみつけ、また一から認可を受けなおさなければならなくなる。今までの苦労が水の泡、というわけだ。
それは困る。
フラウには野望があるのだ。
お金持ちの魔法使いになって、全世界に孤児院を立てるという野望があるのだ。
その野望を潰えさせないため、フラウは王竜討伐に参加した。
既に目的は果たした。その筋で有名な聖騎士団のバルコルに裏金を渡し、初日で『草世葉木』の最高位戦闘魔術師であり、太陽派の党首である『昇りくる太陽』を襲撃させ、その場にいた数名の幹部ともども始末した。
誤算だったのは、襲撃のタイミングが夕方で、バルコルが思いの他に容赦なかったため、魔術団体は全滅。あやうくフラウも死ぬところだった所か。
死にかけたのは自分の身を安全なところに移動させていなかったフラウの落ち度だ。バルコルは約束を破ってはいないし、結果として昇りくる太陽は死んだため、よしとした。バルコルがやったとアールたちにバラしたのは、ささやかな報復だ。
さて、魔力も体力も尽きたところを運よく夢見がちな馬鹿に助けられたものの、このまま手ぶらで帰ってしまうと、いささかマズイことになると思い至った。
事の顛末すら見届けずに逃げ帰ったと見なされては、師匠に泥を塗る結果になりかねない。あまつさえ一人だけ生き残ったとなれば、お前が他の連中を殺したのだろうと疑われるかもしれない。
少なくとも、王竜王との戦いに参加したという結果が欲しかった。トドメを刺さずとも、最後まで戦い抜いたという結果があれば、魔術結社の顔が立つ。そうなれば流石に太陽派も正面からは糾弾できまい。
つまりそんなわけで、フラウは現在、王竜と戦っていた。
普通の王竜よりも一回り大きい程度だった。
だが、フラウが初日に戦った三匹の竜よりは明らかに場慣れした動きで、狭い洞窟が広く思えるほど、空間をうまく使って立ち回ってくる。
使用するのはその巨体の割りに小さく鋭い爪と、重力魔術。そして火炎ブレスだ。
「――装填」
強い、これが王竜王か。そう思い、フラウは右手を両足に魔力を装填させる。左手の杖には既にフラウが使える中で最強の水撃魔術を装填済み。
草式戦闘魔法。
その戦闘術は両手足を弾丸として扱う。半詠唱により四つの部位に無意味の魔力を装填、使う直前に残りの半詠唱で意味を持たせ、射出する。
弾丸の使い道は三つ、攻撃、防御、移動。
最も巨大な魔力を扱えるのが媒体となる杖を持った左手、フラウは最善のタイミングで術を叩き込めるように、最大の攻撃力を持つ術をそこに装填していた。
「――移動」
爪が襲いくる。右足の魔力に意味を与える。点火、弾かれたように真横に跳躍。
「射撃――散火弾」
着地間際に右手の魔力に意味を与える。点火、三つの火弾がそれぞれ違う軌道で王竜に襲いかかり、爆発。蚊に刺された程度の痛痒を与えることに成功。ダメージは皆無と断定。フラウの扱う火弾魔術は対人間を想定したものばかりで、巨大生物との遠距離での撃ち合いには向いていない。
巨大生物との戦いを想定した水撃魔術の射程はゼロ距離だ。相手の血液を沸騰させ、瞬時に死に至らしめる必殺の術。
しかし、フラウは距離を詰められない。さすがは王竜王、馬鹿ではない。一撃必殺を持つ魔術師を懐にいれるような生物ではない。
一瞬、術の選択の誤りを感じ、否定する。
フラウの持ちうる術の中で竜を一撃で倒せる術は他にない。
「装填」
魔力の失われた右手と右足に魔力を装填。
ジリ貧。そんな単語が思い浮かび始める。
決定打が与えられぬまま、ジリジリと体力と魔力を失っていく。
「ダァァァァリャァァァァ!」
フラウの装填の隙を消すように、シャイナが片手剣を振りかぶり、雄たけびと共に跳躍、斬撃。竜の前肢の肘あたりに接触した刃は、ギャインと凄まじい金属音を立て、火花と共に浅い傷を作る。
火花は魔力が斬撃を防いだ証だ。王竜は常に全身に重力魔術をいきわたらせ、防御を固めている。
剣術は技術と剣気で敵を斬るが、魔術と相殺しあう事で、威力を減殺される。シャイナは従来の腕力程度のダメージしか与えることが出来ない。彼女の腕力では、竜の硬皮を貫通させることができないのだ。
「シッ!」
さらに、渾身の斬撃を加えたシャイナを援護するように、チキがナイフを投擲する。
目を狙った投擲。目は堅皮に覆われていない部分だ。が、竜にもまぶたが存在する。キンと軽い音を立ててナイフは弾かれるが、一瞬の目晦ましには成功。シャイナは間合いを取り直すことが出来た。
決定力が無い。
王竜には小さなダメージを与えているが、引き換えに相応の体力と魔力を消耗している。ダメージと消耗が同程度だとしても、フラウら三人を合わせたよりもでかい王竜の方が、魔力も体力も、絶対量が多い。
フラウは歯噛みした。
せめて自分にもう少し機動力があれば、この必殺の術を叩き込む余地もあったろうに。
草式戦闘魔法による移動がなければ、フラウは歳相応の女子に過ぎない。
よくよく考えれば、フラウの実戦経験など片手で数えられるほどしかなく、どれもが敵を人数で圧倒している戦いだった。五分の戦いもしたことがない、まして形勢不利の戦いは想像すらしたことがなかった。
一撃でも貰えば死ぬという状況、予想以上に、体力を使う。
「雲ちゃん、大丈夫?」
「はぁ……はぁ……」
シャイナが横目で心配そうに声を掛けてくるが、フラウは返事をすることもできない。
王竜討伐に出かける前、師匠に言われた言葉が甦る。
『君はもう少し、体力をつけたほうがいい』
鼻で笑ったものだが、今となっては後悔している。少しでも走りこんでいれば、今、こうして無様に肩で息をする事もなかっただろう。長期戦を視野にいれた体力作り、戦闘魔術師にはそういうものも必要なのだ。どれだけ瞬間的な魔力を発することができても、こうして決定力が伴っていなければジリ貧になる。
シャイナとチキはフラウの三倍は動いているというのに、まだ余裕がありそうだった。特にチキなど、先ほどからまったく足を止めずの疾走を続けて竜を撹乱しているというのに、口の端に微笑など浮かべている。
チキの戦闘スタイルは高速で走り回り、隙を見つけてナイフを投擲するというものだ。
投げたナイフには極細の糸が付いており、はずしたナイフは引き戻すことによって予測困難な二撃目を放ちつつ、ナイフはチキの手元に戻ってくる。ナイフの形状によっては遠心力を利用して鎧を貫通させることが出来るものもあるようだが、それでも攻撃力不足。王竜へのダメージは皆無だ。あくまで人間を殺すための技術なのだろう。
チキは走り回りながら、ナイフを投げ、時折フェイントを交えては竜の攻撃を避け、間隙を縫って攻撃するシャイナを援護する。
自分も動かなければ、とフラウは思う。
足はガクガクと震えている。疲れもある、恐怖もある。師匠の見栄のためにこんな所までのこのこ来るべきではなかった。あのままアールと一緒に町に帰っていればよかった、心の底からそう思う。
後悔は無意味。
動かなければ、動かなければ、動かなければ。
「ウアァァァァァ!」
シャイナの斬撃が、竜の腹側、やや柔らかい部分を抉った。
「ゴァァァァァァァ!」
硬皮に守られていない部分を切りつけられ、竜が苦悶に叫ぶ。
「……やった!」
フラウは思わず叫んだが、次の瞬間、それが間違いであると悟る。シャイナの技量は高かったが、技と術は拮抗する。非力な彼女では、竜の腹を斬りぬけることすら叶わない。
埋まった剣、止まった動き。
フラウがまずいと思った時、シャイナは竜の強烈な重力魔術を真上から食らっていた。
「げぐっ!?」
お世辞にも上品とはいえないうめき声を上げて、地面にたたきつけられるシャイナ。
竜の足が持ち上がる。トドメを刺す気だ。
助けなければ、助けなければ、助けなければ。
「シャイナ! どじルな!」
生まれたての子羊のように全身を震わせながら立ち上がろうとしているシャイナを、チキがナイフで牽制しつつ、救出しにいこうとする。
竜は読んでいた。
何度か繰り返されたパターンの中から、チキが動くであろう行動を読んでいた。
竜の口内に光が灯る。禍々しい赤色。火炎ブレス。
あれを食らえば、チキなどひとたまりもない。
恐ろしい圧力を持ったブレスが今、まさにチキに吐かれようとした時、フラウの手が動いた。
「射撃――水幕/移動」
装填したばかりの右手と右足に同時に意味を与える。
王竜の口元に向かって水の壁を発射。火炎ブレスを相殺。発生した水蒸気爆発によって、チキが後方にぶっとばされる。それを横目に、魔術による跳躍移動でシャイナの傍に着地。その襟首を掴み挙げる。
すぐ真上には、今にも下ろされようとしている竜の後ろ足。
残った左足に意味を与える。
「移動っ!」
猪に体当たりされたかのように真横にかっとぶフラウとシャイナ。
彼女らのいた場所に振り下ろされる王竜の足。はじけ飛ぶ地面。間一髪、脱出。
「大丈夫なの!?」
「……うぅ?」
フラウはシャイナを見下ろす。鎧がヒビだらけだが、幸い死んではいない。朦朧としているが意識も残っている。王竜の重力魔術は鎧が肩代わりしたようだが、鎧一つで完全に殺しきれるようなものではない。ダメージは確実にシャイナに貫通していた。
チキの方を見る。
チキは壁端で蹲っていた。余波で吹っ飛ばされ、壁にたたきつけられ、肺腑の空気を無理矢理吐き出させられ、呼吸困難に陥っているらしい。
「……」
王竜が音も無くフラウを見下ろした。
万事窮す。
すでに装填された魔術は杖の水撃魔術しかない。強力だが、状況を打破しえない。
王竜の口内に絶望的な赤が灯される。
それを見上げ、フラウは思う。
あっさりとしたものだったな、と。
そもそも、自分たちはこの王竜に勝てる可能性があったのだろうか、と。
勝算もなく挑み、無駄な徒労の末に命を落としたのではないか、と。
どうすれば勝てたか、それを反省するのは、無駄となる。
ああ、自分は諦めたのか。
そう思った時だ。
「撃て」
竜に幾つもの光の矢が突き立った。
「ファランクスを組め……突撃だ!」
それは眩い白鎧の集団だった。
彼らは整然とフォーメーションを作り、塊となって王竜に迅速に突撃した。
「ガァァァァ!」
王竜が反応し、口内の炎を引っ込める。
「重力魔術を使わせるな、聖術員、前へ!」
中央に立った野卑な男の号令で、後衛、最初に光の矢を投げた一団が前へと出る。手にするのは剣を模した杖。全員が魔術、いや、『聖ミリスが与えたもうた聖なる術』の使い手だ。
「黒の女王が下賜なさる、阿が祖、英霊となりて錫剣とならん」
ミリス聖典が一説。
王竜の重力魔術が消し飛ばされるのを、フラウは目撃した。
防壁を失った王竜。
重力魔術を消し飛ばすのは王竜退治のセオリーだ。重力場を失った王竜は自重に耐え切れない、再度魔術を掛けなおすまで、イモムシのように地面を這い、白銀の騎士に必殺の赤い炎を吹きかけるしかない。
無駄。正規の聖騎士の纏う破邪装甲に掛けられた防御聖術は頑強。数人の肌を恋する乙女のように、ほんのり赤く染めたしただけで終わった。
白鎧の騎士が、満足に身動きできぬ竜に殺到した。
余りにもあっけなく、フラウたちを苦しめた王竜は死んだ。
吐きそうなほど王竜の血の臭いを充満させる洞窟の中で、フラウたちは一纏めにされて囲まれていた。
武装解除はされたものの、縛られてはいない、素手では破邪装甲を突破できないゆえ、そこまでする必要は無いと判断されたのだろう。
聖騎士団は、巷で言われているよりも紳士の集まりらしい。禁欲的な表情で三人の監視と周囲の見張りを行っており、数人が王竜の死体を検分している。
紳士でない者もいる。シャイナが野卑な顔をした男に胸倉をつかまれていた。
バルコル。フルネームも通り名も知らない。聖騎士団の偉い人。フラウの認識はその程度だ。昇りくる太陽を潰す際に直接話したため面識はあったが、向こうはこちらのことを無視しているのか、はたまたシャイナにしか興味が無かったのか、フラウには一瞥もくれない。
「知ってるかシャイナ、死神騎士には聖ミリスから賞金が出てんだ」
「掛けたのは貴方でしょ?」
「そうだとも。お前の裏切りで死んでいった仲間たちのためを思ってな」
「ハッ! よく言うわ。本当は誰が裏切ったのか、ここにいる子たちに聞かせてあげたほうがいいかしら?」
「部下に変な事吹き込まれちゃかなわねぇな」
バルコルは陰湿な笑みを浮かべる。
まるで盗賊の頭領が、たまたま襲った馬車にいた令嬢に対し淫猥な行為に及ぼうという構図であったが、バルコルはやるまい。
フラウの見るところ、バルコルは肉欲よりも金銭、名声のほうを大事にするタイプだ。彼がシャイナにどんな劣情を抱いていようと、部下の目の前では節度をわきまえた行動を取るだろう。
まして、感情に任せてシャイナを殺したりはすまい。
「しっかし、今日は本当に幸運に恵まれた日だぜ。王竜王を仕留め、シャイナの息の根も止められる。人生最良の日じゃねえか? こいつも、聖ミリスのご加護だぜ」
「私にとっては、人生最悪ね」
言いながらも、シャイナは絶え間なく視線を周囲に行き来させている。ちらちらとこちらを伺っているのは、せめてフラウとチキだけでも逃がそうと考えているのだろう。
余計なお世話だとフラウは思った。
その時、竜の死体を検分していた騎士の一人が戻って来た。
「それにしても、王竜王たって、あっけねぇもんだったな。伝説上の生き物と思って全力で当たったが…………何だと?」
部下に耳打ちされ、眉根を寄せるバルコル。
ほぼ同時だ。入り口を見張っていた騎士が叫んだのは。
「敵襲!」
それを見た瞬間、フラウは感動を覚えた。
巨大な竜だった。
つい先ほど聖騎士団の倒した竜も巨大であったが、それよりさらに一回り大きい。
体中に古傷。歴戦、百戦錬磨をうかがわせる。
体に纏うは黄金の硬皮。他の王竜のようなくすんだ黄色ではない。数百年という時間経過によって磨きぬかれ、輝きを持つに至った、王竜の名に相応しい、王者の金色。
その金色が包むのは、パンパンに鍛えられた筋肉だ。野の獣にあるまじき、目的意識を持って鍛えられた全身の筋肉。あの巨体が、重力魔術抜きで自重を支えていると聞かされても納得できるほど、見るだけで畏怖を覚えるほどの筋肉。
全身からにじみ出るのは神々しいまでの貫禄。先ほどの王竜が酒場の用心棒だとするなら、今、目の前にいる竜は大陸に名をとどろかす血に餓えた剣豪。
そして、何より、目が違った。
所詮は獣、そう切って捨てられない、知性を称えた目。
一目見れば、自然と名前が浮かび上がってくる。
王竜王カジャクト。
伝説上の生き物を肉眼で見た事に、フラウは感動していた。
恐らくは、この場にいた全員がそうだったのだろう。
少なくとも五秒、誰も動けなかった。
その五秒の間で、最低でも十人は命を落とした。入り口に近いほうから十人。
「……え?」
無防備な相手への一方的な虐殺。
聖騎士団が恐慌状態に陥るのに一秒。
圧倒的な力、どうしようもない力を前にして、それまで力で物事を解決してきた男たちは立ち向かうということに思い至らず。ただ恐れ、慌てた。
阿鼻叫喚。
瞬く間に人が死んでいく。
シャイナが動く。フラウの襟首を掴み、途中で己の剣を掴み、洞窟の奥へと走り出す。
バルコルが舌打ちする。シャイナを追うよりまず、聖騎士団に指示を飛ばす。ファランクス、防御陣形、聖術隊は陣を組め、防御壁を張れ。
チキはその合間を縫って、ナイフを回収、シャイナの跡を追う。
「装填」
フラウは左右の手に魔力を込める。
なぜかこちらを振り向いたバルコルと目が合った。
「射撃――連火弾」
同じ軌道を通り、右手からある一点に向かって火の弾が飛んでいく。着弾。天井に突き刺さった。
爆発が洞窟を揺らす。パラパラと落ちる土。ひび割れる天井。
「射撃――水波撃」
間髪いれず、フラウの左手から天井へ、圧縮された水の塊が飛んでいく。着弾。
ひび割れに水が浸透。一瞬にして硬い岩盤が脆い土塊と化す。
そして崩落。
視界は明かりと分断され、洞窟内は一瞬にして闇に包まれた。
最後に聞こえてきたのは、聖騎士団の憐れな断末魔だけだった。
フラウが明かりをつけた時、その場にいたのは四人の人間だった。
シャイナ、チキ、フラウ。
そしてバルコル。
シャイナはバルコルに剣を突きつけていた。形勢逆転。
「咄嗟の判断で部下を見捨てるなんて、さすがねバルコル」
「……まぁ、てめぇについてきゃ、一時凌ぎだろうと生きながらえるからな」
一瞬の判断。
バルコルは洞窟の奥へと逃げるシャイナを見て、混乱する部下たちをまとめて王竜王と戦って勝つか、シャイナに剣を突きつけられるこの状況に陥るのを覚悟して洞窟の奥へと逃げるかを天秤にかけ、迷うことなく後者を選んだ。
自分の手の上で踊る部下より、手を焼かされ続けたシャイナを選ぶ。
およそ自分に関わる人物を客観視してきたからこそ出来ることだ。自分と他人、そんな分け方をして自分を常に優先してきたからこそ、出来ることだ。
「おいシャイナ、こいつ殺しとくぞ」
チキが三本だけ回収できたナイフの内、一本を逆手に持ってシャイナに問う。
「それがいいわね」
シャイナも当然とばかりに頷く。
フラウも反対する理由が無い。建前上、バルコルは仲間を殺した憎き敵であるし、本音で言えば、フラウが昇りくる太陽をハメたことを知っている人物に生きていてもらうのは困る。後でゆすられたりしたら敵わない。
三対一。
いくら三人が傷を負っていて、バルコルが聖ミリスの誇る破邪装甲を纏っているとはいえ、魔術師を含めた三人、分が悪いどころではないはずだ。
しかしバルコルは不敵な笑みを浮かべ、剣を抜く素振りすら見せない。
と、フラウと目が合う。
「宿に残してきた副官は、俺が死んだら、魔術結社に伝えちまうだろうなぁ」
「……何を言っているの?」
唐突に意味のわからない言葉に、シャイナは戸惑う。
フラウは身を固くして、しばし思考する。
フラウは初期の目的を見失えるほど馬鹿ではなく、シャイナのようにバルコルに対して個人的な恨みがあるわけではない。
バルコルがその場しのぎの嘘を言っている可能性もあるが、確かめる術はない。
何か取引をしたら、保険を掛けておくタイプの男だ。自分の利が少なくても。相手の不利になればそれでいいと考えるタイプだ。
ゆえに判断は簡単だった。
「雲ちゃん……あなた、この男に何か弱みでも握られているのかしら?」
バルコルの側に回ったフラウに、シャイナは冷静に問いかけた。
「うん」
「そう、じゃあ仕方ないわね」
フラウが小さく返答すると、シャイナはあっさり納得して剣を収めた。
「おいシャイナ、いいのか?」
「いいわ。個人的には死んで欲しいけど、こんな状況で雲ちゃんまで一緒に相手したくないし、こいつ臆病だから、こんな所で私を殺したり出来ないわ」
臆病だから、殺したり出来ない。
この言葉の繋がりがフラウにはよくわからなかったが、バルコルがハッと鼻で笑い、チキも「それなラ仕方が無い」とナイフを仕舞った所を見ると、なにやら関係があるらしい。
何にせよ、フラウは殺し合いに発展しないのは良いことだと思った。
もう走り回るような体力は無いし、魔力も心もとない。シャイナとチキを倒したはいいものの、この洞窟でのたれ死に、なんてのは勘弁しておきたい所だ。
「うし、それじゃ、一時休戦だ。やれやれ、また一歩無駄足を踏んだぜ」
バルコルは肩をすくめ、洞窟の奥へと足を向けた。
背後のガレキの向こうからは、まだかすかに振動と悲鳴が聞こえるが、振り返らない。
バルコルはそういう男だ。本質的にも現象的にもエゴイスト。自分のためなら他人を陥れることも、また助けることも厭わない。
商人によくいるタイプだ。上司や部下、客として付き合っていく分には信頼の置ける、しかし友達付き合いはしたくないタイプ。
「しっかしま、王竜王は規格外だな、ありゃ、どうしようもねぇ」
バルコルは先導しながら、誰とはなしに話を振る。
シャイナはバルコルが嫌いで、チキは彼の無駄口に付き合うつもりは無いらしい、仕方なくフラウが相手をすることにした。
「でも、あいつ、なんで、ここにきたの? 別の竜の巣なのに」
「そうさな……元々この洞窟は王竜王の巣だったってえことよ」
「元々?」
「王竜が巣を作るのは産卵期だけだ。雌は巣で卵を守り、雄は雌に食料を運ぶ。かの竜王は雄だ、てぇことは、わかるだろ?」
「……ああ、そういうこと」
この洞窟は、未来の王竜王となる、王子王女の子供部屋。
雌は卵を守るために本能的にシャイナたちを襲い、聖騎士団に退治された。
愛する妻を無残に殺された王竜王は怒り狂った。
「一目見て分かったが、王竜王にゃ、生半可な半魔術はきかねえ。王竜王を殺すには百や二百じゃ利かん。鍛え抜かれた精鋭を千人単位で集め、昼夜休まず攻撃を続ける消耗戦でようやく撃退……撤退させるのがやっとだろうよ。先を越されちゃまずいと思って魔術結社の連中を潰したが、ッチ、失敗だったな」
悔やむバルコルを、シャイナが鼻で笑った。
「魔術結社だけじゃなくて、青豹師団と王立騎士団もでしょう? そういえばこの二週間、町中で暑苦しい筋肉達磨を見かけなかったわね」
思い返せば、酒場には鳳凰の巣の連中もいたが、初日以外に見かけていない。
フラウは気にも留めていなかったが、バルコルが自分の利益のためだけに山で暗殺したなど、ありうる話だ。
「シャイナ、てめぇ、なんでもかんでも俺のせいにすんじゃねえよ」
「違うって言っても信憑性が無いわね」
バルコルが声を荒げるが、シャイナは謝罪などしない。
「昼間、双方が消耗した所を狙おうとしたのは認めるけどな、傭兵と騎士団の対立は俺とは無関係だ。鳳凰の巣の連中なんざ生きてるのかどうかすら知らねぇよ、案外初日で王竜にぶち殺されたのかもしれねぇぜ?」
「どうだか」
シャイナはバルコルを頭のてっぺんからつま先に至るまで、全て信用していないのだ。
経験からくるものだろう、とフラウは判断する。死神騎士の噂についてさほど知っているわけではないが、シャイナとバルコルが因縁浅からぬ仲なのは見ていてわかる。幾度となく対立してきた中で、シャイナはバルコルを信じるという事の愚かさを知ったのだ。
「……ッチ!」
まさか傷ついたわけではなかろうが、バルコルは不機嫌そうに口を閉ざした。
それからしばらく、全員が無言だった。カンテラを持ったバルコルを先頭に黙々と奥へ進むと、次第に竜の臭いが鼻につくようになってくる。むせ返るような臭いは奥へ行くほど強くなり、それに伴って周囲の温度も上昇していく。
孵化場が近づいているのだ。王竜山は火山ではないが、卵を最適な温度に保つため、なんらかの方法で熱を溜めているのだろう。
フラウは額の汗をぬぐう。暑いからではない。体力の低下と、緊張によるものだ。
「まて、誰かいル」
と、その時チキが全体を静止させた。
「……」
フラウは無言で『照明』の魔術を発動させ、光量を増やした。
浮かび上がるのは、残骸だった。黄とも緑ともとれないような色のぬらぬらの粘膜と、粉々になった白と黄色の斑模様の殻。
卵、だったもの。
そこには残骸しか残っていなかった。全て完膚なきまでに破壊され、周囲には生臭い臭いが充満している。
孵化場は暖かい。一日や二日もあれば腐ってしまうであろう卵が、まだこうして生臭いレベルで済んでいるのは、それがまだ割られてすぐだという証明となる。
光の向こう側に、ボンヤリと映る人の影。
フラウは夜目が利かない、薄目にしてそれを見つめる、なんだか、青い色が……。
「敵だ!」
フラウがよく確認する前にチキが叫んだ。
同時に投擲される二本のナイフ。一本は真っ直ぐ、二本目は遠心力によって暗がりから。人を殺すためのナイフが、人を殺すための技術で、人に向かって放たれる。
ナイフは音もなく人体に突き刺さり、容易にその命を奪う、はずだった。
響いたのは快音。
男は一度の抜刀で一本目を、返す刀で二本目を、さらに一歩踏み込み、ナイフに結び付けられた透明な糸を斬ったのだ。暗がりで、いや日中に障害物が無い状態でも判別の難しそうな二パターンの攻撃をあっさりと凌いだのだ。
チャリンと、ナイフの落ちる音と刀が鞘に戻される音が重なった。
「こいつぁ、とんだご挨拶だ。あっしは小さい子好きなんで、大抵のおイタは鼻の下伸ばして許しちまうんですがね。チキータ。あんたぁ別だよ?」
他三名が呆然としている間、あっさりと暗がりから出てくる青い豹柄の男。白鞘に収めた装飾の一切無い刀。盲者の杖のようにコツコツと地面に叩きながら、苦笑を顔に張り付かせて、その男は現れた。青色の豹柄を纏う男。
青豹師団長ブルーパンサー。
「盲目剣なんて、初めて見たわ」
シャイナが感嘆の声を上げた。
盲目剣は有名な剣術だ。元は盲人の剣士が使った、音と空気と気配を読む術。極めて困難とされる剣術の一つ。だが習得してしまえば、月のない夜の背後からの襲撃でも容易に迎撃できる達人技だ。
「ちっ、原豹んとこの一番あぶねぇ奴じゃねえか」
バルコルが顔をしかめる。
青豹はずんずんと距離を詰めてくる。
シャイナがチキを庇うように無言で前に出た。
青豹は口の端を不気味にゆがめながら、シャイナの間合いの一歩手前で立ち止まる。
「チキータ、そいつらぁ、お仲間ですかい?」
「……お前に関係あルのか?」
「あっしはこう見えても余計なものは斬りたくない性分でしてね。うえっへへへ、自分で言っといてなんですが、面白くねえ冗談ですな。へへ、お仲間じゃねえってんなら、殺し合いはあっしとチキータ、一騎打ちといきやしょう。あっしも恥ずかしながら部下を全員失っちまいましてね、こっから脱出すんのに頭数が欲しいと思ってんでさぁ……」
青豹は不気味に笑って、腰を深く落とす。
チキは苦い顔であとずさる。
フラウには事情が飲み込めない。
「チキちゃん、これどういう事?」
チキと青豹の間にいるシャイナが、剣柄に手を掛け、油断なく青豹をにらみつけながら、背後にいるチキに伺う。
チキは残った最後の一本のナイフを握り締め、いつも通りの表情で口を開く。
「チキの今回の仕事は原豹傭兵団、幹部の殺害だ」
チキは淡々と言う。
「黒と赤は仕留めた。青はカスパール王国に雇われ、王竜王国を潰すため、裏工作をしていルと聞いてやってきた」
「ほらな、聞いたかシャイナ。王立騎士団は最初っから青豹と敵対してたんだ」
剣呑な空気を読まず、バルコルが肩をすくめ、おどけるように言う。彼はチキの仲間でもなければ、青豹と殺しあう理由もない。他人事だ。
バルコルが顎に手を当て、興味深そうに青豹に尋ねる。
「カスパール王国っていやあ、目下王竜王国とコトを構えようって国だ。なるほどなぁ、青豹師団は竜退治を隠れ蓑に、王立騎士団を山で壊滅させるのが目的か……で、この卵はあんたらがやったのか?」
バルコルの姿を認めて、青豹は大仰に驚いてみせた。
「これはこれは、よくみれば、薄汚く小賢しいドブ鼠と名高い聖騎士団のバルコルさんじゃありやせんか! そっちは死神騎士。けったいな組み合わせですねぇ。あんたら、実はつるんでたんですかい? となると、死神騎士の噂の真相は面白いことになりやすね」
「てめぇが卵を破壊した理由はなんだ? まさか王竜の目玉焼きでも作ろうってんじゃなかろうな?」
バルコルは青豹の軽口には乗らず、淡々と質問を繰り返す。
青豹も、別段、自分の行動を隠したりはしない。
「あっしが何をしたかって? ちぃと長い話になりやすが……」
彼の任務は終わっているのだ。
「その昔、王竜王の卵を食えば、不老不死になるってぇ迷信が流行った時期がありやしてね。よくある迷信ですよ。でもその迷信を信じちまった王様がいやしてね。大軍勢を率いて王竜山に入り、卵を根こそぎ奪って、食っちまったんですよ。ま、迷信ですからね、不老不死になんてなれるはずもない。一口食って効果のなかった王様は怒って卵を叩き潰し、山に捨てちまったんでさ」
シャイナとチキは、訝しげな表情を作った。そんな話、聞いた事もないのだろう。
だが、フラウは知っていた。古い文献を呼んだことがある。その結末も。
「王竜も野の獣ですからね、卵を盗まれて食われちまったって、それもまた自然の摂理、あっさり諦めた所でしょうが、ただただ叩き割られて目の前に捨てられたんじゃ、やっこさんもトサカに来ちまいましてね、山にいる王竜の全てを引き連れてその王国に向かって、三日三晩暴れ続けたんですよ。荒れ狂う重力魔術、大地を焼き尽くすブレス。地形を変えるほどの圧倒的暴力。結果できたのが、あの荒野でさぁ」
東の荒野。
何も残らない広大な死の大地。
あの地に草が生えないのは、その圧倒的な魔力の影響が未だに消えず残っているから。知らない者も多い。旅慣れた者でもあそこで命を落とすのは、その魔力が体力を著しく低下させるからだ。
「あっしがやろうとしてんのはそれの再現。けどま、ちょいとドジ踏んで卵を壊す所を王竜王にみつかっちまいやしてね。慌てて逃げた部下は恐らく皆殺し、あっしはここに隠れてて難を逃れやしたが、生きてるのが不思議なくらいでさ……」
青豹はそこで、ひぇっひぇと引き攣ったような、不気味な笑いを反響させる。
「さてと、本題にもどりやしょうか」
青豹はひとしきり笑った後、真顔になってチキへと視線を戻す。
「あっしとしては、黒豹も赤豹もいけすかねえと思ってたんで報復なんて考えてねえし、この状況で無駄に使う体力なんざないんですが……殺し屋チキータっていやあ、話と理屈の通じない凄腕ってんで有名でしてね。あっしが戦いたくないつっても、そっちが関係なしに襲い掛かってくるってんなら、やるしかないでしょう?」
シャイナはチキを振り返る。
チキは、その通りだとばかりに頷くが、シャイナはその頭を無造作に掴んだ。頬の肉がぷにゅっと歪む。
そのまま無理矢理、首が横に振られる。
「おいシャイナ、やめロ。チキの仕事の邪魔をすルな」
「だめよ。後にしなさい。もうすぐ王竜王がここにくるんだから」
チキの表情がハッとなる。
「……あんたら、まさかカジャクトを連れてきちまったんで?」
青豹の顔が青くなる。
忘れてはいけない。あの崩落によって入り口はつぶれたが、そもそも穴を掘ったのは王竜王だ、外にいた聖騎士団はもう全滅しているだろし、あれほど執拗に荒野にいた人間を全滅させた王竜王だ、巣の奥に逃げこんだを害虫を放置しておくはずがない。
ガァァァァン……。
そのとき丁度、遠くから、何かが崩れる音が聞こえる。
もうすぐ、来る。
「ちぃ……厄介なことになりやしたねぇ」
青豹は剣柄に掛けていた指を離し、背筋を伸ばした。
「せっかく隠れてたのに、厄介な相手を連れ戻しちまったってわけですかい」
「自業自得だ」
チキがつまらなさそうにナイフを懐に仕舞った。
一時休戦の合図だった。
「おい青豹の、どっかに抜け道はねぇのか?」
バルコルが青豹の背後の暗がりを覗き込みながらそう問う。
「ありゃ、こんな所でうろうろしてやいませんぜ」
チキはそんな青豹とバルコルを放って、叩き落されたナイフを回収しにいく。
シャイナも難しそうな顔をしている。
フラウはそれらを他人事のように見ていた。
青豹は数秒ほど考えていたが、魔術師の存在がいることに気付くと、一つの提案をした。
「抜け道はありやせんが、細い脇道がいくつもありやす。残念ながらどれも行き止まりですがね、そのうちの一つに潜んで、やり過ごして、そっちの魔術師さんに天井を崩してもらって生き埋め……に、できりゃあいいんですが、あんま崩してあっしらまで埋まっちまったら下も子もねえすから、時間稼ぎ程度に岩降らせて、その間に逃げるってなぁ、どうです?」
まるで、前々から考えていたかのようにスラスラと作戦を述べる。巨大な組織の幹部ともなると、頭の回転も速いのだろう。
フラウは、バルコルの目が怪しく光るのを見逃さなかった。
(この男は、また何か企んだんだ)
ぼんやりとそう思う。
準備という準備は必要なかった。時間もなかった。人を不安にさせる、ズシン、ズシンという足音がすぐ近くまで聞こえてきている。
「こいつにしときやしょう。この脇道なら見つかりにくいし、全員入れる」
やや奥行きのあるわき道に全員で身を隠す。人がすれ違える程度の細道だ。
ここに隠れ、王竜が孵化場に辿りついた瞬間、フラウが魔術で天井を崩落させ、その間に入り口に向かってダッシュ。森に入り、暗闇に乗じて散り散りに逃げれば、何人かは生き延びることができるかもしれない。
「大切なのはタイミングですぜ」
青豹が小声でフラウに話しかける。
入り口付近に青豹とフラウが陣取り、タイミングを計る。その背後には、シャイナ、バルコル、チキの順番で並んでいる。
足音は次第に近づいてくる。
フラウの心によぎるのは不安だ。もし、王竜に見つかってしまったら、もし、魔術で天井を崩落させられなかったら、もし、逃げ切れなかったら。
手が、足が、ガクガクと震えだす。
助けを求めるように背後を見る。シャイナと目が合う。驚くべきことに彼女はフラウに向かって柔らかく微笑みかけてくれた。小声で「大丈夫」と、励ましてくれた。
シャイナはリラックスしていた。これが死線を潜り抜けた数の違いだろうか。
頷きかえして前を向く瞬間、バルコルがいやらしい笑いを浮かべていた。
ズシッ……ズシッ……ズシッ……ズシッ……。
「……っ!」
息を呑む。王竜王が見えた。
金色の硬皮は暗闇の中でも発光していた、まるで皮膚そのものが光っているようにも見えたが、全身からにじみ出る魔力のせいだ。
心臓の音が聞こえる。バクバクと、眩暈がするぐらい。誰の心臓か。自分に決まってる。
音を聞かれるんじゃないか? 見つかるんじゃないか?
前肢がすぐ目の前を通り過ぎた。何かが爪の間に引っかかっている。
「……っ!」
思わず叫び声を上げかけ、口に手をやった。
人の首が、苦悶の表情、断末魔の顔で引っかかっていた。
事は、次の瞬間に起きた。
次の瞬間に起きたことは、その時は何が起きたのかわからなかったはずなのに、なぜかフラウは誰がどんな行動をして、どんな表情をして、どんな思惑があったのかをはっきりと思い出せる。
「おらぁ! 死ねシャイナァ!」
唐突に上がった叫び声。フラウはびくりと身を震わせ振り向いた。
突き飛ばされ、まろび出てくるのは青豹。
なんで? バルコルが蹴り飛ばしたから。正確には、バルコルが王竜の目の前にシャイナを蹴り出そうとして、シャイナが寸前でそれを避けて、避けた先にいた青豹が蹴り飛ばされたから。
目の前の竜に集中していた青豹は、運が悪かった。背後には気を配っていたが、あくまでも殺気に対して気を配っていただけで、自分に向けられたわけでもない、流れ弾のような事故を回避する術はなかった。
「ぐぁぁぁぁ!」
バルコルが苦痛のうめき声を上げている。バルコルの太ももに剣が刺さっていた。シャイナの剣だ。彼女は警戒していたのだ。このタイミングで、王竜の目の前に出られるこのタイミングでバルコルが何かをすると。
「チキちゃん! ついてきて!」
次の瞬間、シャイナはフラウの襟首を掴んで走り出した。洞窟は狭い。孵化場はそれなりに広いが、通路であるこの場所に『竜が振り返るスペースは無い』。
シャイナは王竜王の脇をすり抜ける。フラウが振り返ると、チキはシャイナに追従する瞬間、最後の一本のナイフを投擲していた。狙った先は王竜ではなく、王竜王の目の前で呆然としている青豹だ。青豹は咄嗟に身を翻したが、ナイフは脹脛のあたりに刺さり、青豹は苦痛の声をあげる。転んでもただでは起きない、チキは逞しい。
シャイナの全力疾走。一瞬にしてバルコルと青豹と、そして王竜王を置き去りにする。
やった。とフラウは歓喜した。
王竜の前には、死んでもいいような外道が二人、生贄のように置き去りにされ、王竜王は自分たちに背を向けている。逃げ切れる。青豹もバルコルも足を怪我しているが、少しは時間稼ぎするだろう。そうしているうちに、自分たちは洞窟の外。
ああ、生き残れたんだ。
そう思った瞬間。
「……あれ?」
王竜王が狭い洞窟をガリガリと削りながら、振り返ったのだ。
既に距離は開いている。ブレスも重力魔術も届かない。
だというのに、フラウは怯えた。戦慄した。
王竜王はこの場にいる人間を、皆殺しにするつもりだ。
そのためには『目の前にいる、足を怪我して動けない人間』より『自分の脇をすり抜けて出口へと向かう人間』を優先すべきだと、判断したのだ。
たかが獣ではない。ここまできて甘く見ていた。
目の前の餌に釣られない。優先順位を間違えない。知性を持った猛獣だ。
「シャイナ! 走レ! 雲! 天井だ!」
チキがシャイナを追い抜きながら叫ぶ。
フラウははっとなって、両手に魔力を集中させる。
「火炎射撃――連火弾!」
高速詠唱により、やや威力が衰えながらも、撃ち出される三つの火炎弾。天井に着弾、轟音。続けざまに左手の魔力を解放する。
「水泡射撃――水波撃!」
打ち込まれる水の槍。一瞬にして硬い岩盤に浸透し、その堅固な結びつきを緩ませる。
さらに、ダメ押しにもう一発。
「火炎蹴撃――散炎球!」
足から飛ばされる五つの火炎弾。本気の一撃が崩れ始めている天井にとどめの一撃を加えた。
崩落。
今度は手加減なし。崩れ行く洞窟。バルコルと青豹ごと王竜王を生き埋めにするつもりで放った強力な魔術。
まだだ。まだ甘く見ていた。王竜王を甘く見ていた。
王竜王は一瞬、ほんの一瞬だけ天井を見上げた。金色に光る瞳。まるで撒き戻しのように崩れ始めた天井が、上へと押し付けられる。
重力魔術。もろくなった岩盤が雑巾のように水気を搾り取られ、粘土のように固められて天井へと戻る。
足止めすら出来ない。フラウが不甲斐ないせいではないだろう。
王竜王は強すぎる。
一体、どこの誰がこんなモノを倒せると考えたのだろうか。馬鹿馬鹿しい。これは王竜とは別の生き物だ。カジャクトという名の、世界で唯一の生き物だ。
王竜王と目が合った。金色の瞳がフラウを射竦める。
「……ひぃっ!」
情けない声が自分の喉から漏れる。
聞こえてしまったのだろう。シャイナとチキが振り返る。
王竜王はすぐそこだ。
追いつかれる。追いつかれる。
追いつかれて……。
死ぬの……?
「抜けルぞ!」
一瞬、ぴちゃぴちゃという不快な音と、吐き気のする臭いがしたと思ったら、次の瞬間には天が開けた。
いつしか雨が止んでいた。空には満点の星空。月明かりで周囲は眩しいぐらい明るい。
銀色の残骸が残る洞窟の入り口で、王竜王が空へと飛ぶ。
強力な重力魔術は、あまつさえその巨体を宙に浮かべることもできるのだ。
着地は軽やかだった。二週間前に見た、『死肉喰い』と同じぐらい、体を動かすのになれた動きだった。
すぐ目の前。
フラウたちは、洞窟の入り口を背にして、王竜王に追いつかれた。
追いつかれたのだ。
王竜王が前肢を振り上げる。
「チキちゃん! 雲ちゃん! 逃げて!」
シャイナがチキを突き飛ばし、フラウを近くの茂みに向かって投げ捨てる。
人間という蕾が開けば、赤い華が咲く。
シャイナに前肢が振り下ろされようとした瞬間、よく通る声が聞こえた。
「よかった、まだ終わっていませんでしたね」
王竜王の動きが止まった。
無視できない何かが王竜王の目前に出現していた。
「なっ……!」
銀色の甲冑。濡れた髪。抜き身の剣。
フラウは目を見張る。なぜか、その人物から目を離せなかった。最悪のタイミングで来た、ちっぽけで憐れな生贄にしかならないはずの人物は、強烈な存在感を発していた。
自身に満ち溢れた声で、その人物は声を張り上げる。
「我が名はアレックス=ライバック!
王竜王カジャクトに一騎打ちを申し入れる者なり!」
アールは身震いするほど威風堂々と名乗りを上げ、剣先を王竜王へと向けた。