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「祈り合い神想観」 は何故効果が多いか

 
          生長の家創始者  谷 口  雅 春 大聖師


 『汝らのうち病める者あらば互いに祈り合うべし。 互に祈り合うとき、吾が力汝らの上に来らん。 自己が癒されることを祈るはなお自己の利害にとらわれていることあり、互に祈り合うとき愛の心あらわれ、神の霊波そのまま汝らの上に感ずべし』
                   (『懺悔の神示』)

 ここに示されている通り皆さんも、祈り合いの神想観をなさるといいですね。

 祈り合いの神想観というのは、その原則として言いますと、司会者が、

 「この中で病気を治して貰いたい人がありましたら、こちらの側に坐って下さい」

 といって、「治して貰いたい人」 を一方に集めます。 それから、「自分は治して貰いたいことはないが、誰かのために祈って治して上げたい人は、その向う側に集って下さい」 といって互に向い合わせに坐らせるのです。 そして治して貰いたい人は、

 『神の無限の癒す力、今自分のうちに流れ入って、自分の全身に神の癒す力が光明燦然と輝いて、満ち満ちておって、一切の自分の病は消えて行きつつあるのである。 既に病いは消えました。 有難うございます』 と、繰返し念じて、今、これらの深切な人の祈りによって癒す力が流れ入る有様を心に凝視しつつ念ずるのであります。

 一方、それに向き合掌している 「治してあげたい」 という側のグループの人たちは、

 『神の癒す力がこれらの人達の上に天降り流れ入って光明燦然と輝いて、一切の暗を消し、一切の悪を消し、本来の実相の完全な相を現わし給いつつあるのである』

 とジイッーと深く心に念じつつ治して貰う人々に光が天降って、光明が満ち満ちて、すぐにそれらの人々が癒されている有様をできるだけハッキリ心に描いて念じて上げるのであります。


 こうして治して貰う側の人と、神の癒しを祈ってあげる人と二群に分れて祈りますと、自分一人でやる事よりも効果が多いのであります。 「二人して祈れば何事にても成就する」 とイエスが教えたのは、こういう意味に於いてであります。 人数は二人よりも多い方が想念の集積で効果が多いのであります。 だから教化部とか、道場とか、相愛会などで集ってやる方がよいのであります。

 受ける方と、与える方と、つまり陰陽の電気の流れみたいなものであって、その与える方と受ける方と、電気でいえば謂わば、+プラスと-マイナスの電気が祈りによって接続されることによって、その癒しが尚一層よく完全に行われるというようになるわけであります。 神示は次のように仰せられております。

 『互に祈り合うとき愛の心あらわれ、神の霊波そのままに汝らの上に感ずべし』

 ただ自分だけ治して貰いたいつりで、「神の癒す力が流れ入っている」 と念ずるのでは、それは 「自分が治して貰いたい」 というだけですから、一種の謂わば利己主義の心が幾らか働くのであります。

 これに反して、他の人々を治して上げたいという思いが、その会合の別のグループから起ってくると、これは全然利己主義じゃなくて、純粋に愛他的でありますから、神の愛の心そのものに波長が合うということになりますから、この祈り合いの神想観をして、プラスとマイナスと、「与える方」 と 「受ける方」 とがシックリ調和してつながり、電気の陰と陽との結びつきというような神想観が其処に行われるということになるので功徳が多いのです。


 神様の癒しの世界は純粋に愛他的な心が必要なのでありまして、利己主義は、神と自分とを相隔てることになるのであります。 だから、

 『祈るとき、金を惜しむ心、金を欲しがる心、いずれも神の霊波に波長の合わぬ迷の波動なりと知れ』

 と神示には仰せられているのであります。
 
 「あなたの癒されるために祈って上げますから幾らくれますか」 と欲張ってもいかぬし、「奉納金は幾らいるのですか。 いや、あんなに取られたらかなわんな」 と思ったりして金を惜しむ心を出すのも、金を貰いたいと欲張る心を出すのもいかぬ。 そういう心が働いたら神様に波長が合わぬので効果は少ないのであります。 だから 『祈るとき、金を惜しむ心、金を欲しがる心、いずれも神の霊波に波長の合わぬ迷の波動なり』 と教えられているのであります。 また “懺悔の神示” には、

 『地方の信者たち互に団結して祈り合え。 家族同士互に祈り合うべし。 祈りて癒ゆるとも自己の力にあらず、神の力なり』 と示されています。

 「癒し」は皆、神の力ですから、「私があんたを治して上げたから私にお礼を寄こしなさい」 なんて言うのは、神の御徳を自分に奪いとって神を冒涜することになるのであります。

 それは、病をいやし不幸を癒す力は人間にはないのであります。 みんな神の生かす力、癒す力に依って、癒されるのであります。 祈っても祈らなくても治るという事実があるのは、神の力が常にはたらいていられるということである。

 一例をあげれば、吾々が怪我をしても中から肉が上ってきて皮膚が出来てくるというのは、人間の力で出来るものではない。 それは神なる内部生命が、肉を盛り上げ皮膚を新たにこしらえて下さるのであります。 ですから、どんな場合にもわしが祈ってやったから治ったのだ、わしが治してやったのであるから、お礼を私が貰うのはあたり前だなどと思うのは増上慢なのであります。

 それで神示には、 『祈りて癒ゆるとも自己の力にあらず、神の力なり。 本を忘るべからず』 と書かれているわけであります。 更に神示は訓えられます。

 『愛をつくし合い敬虔を竭し合い、神を敬すべし。 この世界は光と迷の反影が交錯してあらわれている映画なれば、迷を一日も早く消すが世の苦難を済う唯一の道なり』 と。

 そういうわけでありますから、皆さんは神を本(もと)として、真理の光を拡げることに依って 「迷い」 が消え、「迷い」 が消えることによって色々の苦難から人々が癒されるのであります。

 しかし、癒されても自分が癒したと思っては神徳を自分に横取りすることになるのであって 「自分はただ天の使いとして、神様のお使いとして光を配達させてもらったのである。 自分が功徳を積まさして貰ったのである。 有難うございます」 と、そういう感謝の心になることが、神様と人間との間の不導体である我欲を取り除き、神様の御力を自分に発現するための必須の条件になるのであります。


      『光の泉』  昭和38年新年号 より


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 『生長の家』 谷口雅春先生の教えとは何でしょうか
 『生命の實相』 『神想観』 『愛国心』 ではないでしょうか

 ところが最近 ・・・

 ※谷口雅春先生は『生長の家』を宗教として始められたのではない
 ※自分で祈るよりも『神癒祈願』『聖経法要』『祈り合い』にお願いした方が良い。


 などと書いたブログ書き込みを見てしまいました。
 TOPの指導がそのまま幹部信徒に伝わっているんですね
 すっかり脱力状態です 

 ヤフーブログ http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32 とあわせて
 谷口雅春先生の御言葉を伝えて行きたい決意です。

 
 
 
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