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5話「見限られた少年」

 暗い海での出来事だ。

 チキは海が苦手である。

 砂地の多い土地で生まれ育ったという事もあるが、どうにも海の生物は好きになれない。

 例えばタコだ。

 タコは現在、チキの体に絡み付いている。

 万力のような力でチキを締め付け、恐らくそのまま骨を砕いて食う気なのだろう。

 チキは暴れる、ガムシャラに。

 失神しそうなほどの気持ち悪さに背筋を震わせながら、がぼがぼと助けを呼んで暴れる。

 その近くを通りかかったのは、殺し屋組合の受付をしている男だ。

 この男はロリコンで、いつも仕事を取りにくるチキの体にいやらしく目線を這わせたり、胸や尻に手を伸ばしたり、あまつさえ偶然を装って抱きつこうしてくる。

 タコと同じぐらい厄介で、嫌いな相手である。

 だが、彼の方がまだ言葉が通じるからマシであるはず。

 チキはそう判断し、彼に助けを求めた。

 無駄だった。

 彼はタコに絡みつかれて身動きの取れないチキに血走った目を向けると、その言葉を無視してのしかかってきたのだ。

 ああ、顔も知らぬ父さん母さんごめんなさい、チキは今宵純潔を失います。

 チキが覚悟を決めた時、ふと拘束が緩んだ。

 なんと、タコと男が戦っているのだ。

 それは筆舌しがたい死闘であった。思わず逃げるのも忘れて見入ってしまうほど。チキは生まれてからこのかた、これ以上激しい死闘を見た事がなかった。

 勝ったのはアールだった。

 アールはその大剣を目にも留まらぬ速さで抜き放つと、王竜を一刀両断したのだ。

 そしてチキを抱き上げると、その唇に……。


 と、そこで目が覚めた。


 寝ぼけ眼で周囲を見回す。

 もうすぐ夜明けらしい薄暗い部屋、外で小鳥の鳴き声が聞こえてくる。

 隣のベッドに寝ているのは流れる雲だ。彼女の寝相は悪い。毛布を跳ね飛ばし、ヘソを出しながら、涎で枕を濡らしている。

 ふとチキは己の腹のあたりに違和感を感じ、そっちを見た。

 そこにはタコ……ではなく、女が絡みついていた。シャイナだった。

 おかしい、彼女は隣のベッドで寝ていたはずだ。この部屋にはベッドは二つしかため、シャイナと流れる雲は一緒に寝ているのだ。

 それがなぜ、チキのベッドにいるのだろうか。

 夜這いだろうか。この女は変態的な行動を取ることがあるから、もしかしたらと思っていたが、やっぱりそうなのだろうか。

 いや、それにしてはよく寝ている。悪夢らしく、険しい顔でうんうん唸っているが、よく寝ている。寝る子は育つ。この女は育ちすぎだが。やはりよく寝たのだろうか。チキもよく寝たほうが背が伸びるのだろうか。

 よく見ると、シャイナの額には痣があった。目の端には涙の後もある。

 チキは悟る。あの寝相の悪い流れる雲に蹴られたのだろう。

(可哀想に)

 よく二週間近くも我慢したと思う。

 チキはベッドから起き上がり、シャイナに毛布を掛けると、フラフラした足取りで室外へと出た。寝ぼけ眼でトイレに入り、用を足した。水モノの夢を見る日は危ないと知っていた。

 そして部屋に入ると、そこにあるたった一つのベッドにもぐりこみ、眠った。



 ふと視線を感じ、チキは目を覚ました。

 すぐ目の前には、ここ二週間ほどでよく見知った男の顔があった。

 チキの脳から搾り出された知識によると、この男の名はアール。命の恩人である。

 彼は困惑と驚愕と焦燥の入り混じった顔でチキの顔を見ていた。

 チキは悟った。

「夜這いとは男ラしいな、アール。しかし、チキよリ隣で寝てル女、どちラかの方が具合が良いのではないか?」

「具合といわれても……隣に寝てる女はチキさんだけですし」

 アールは寝起きだというのに、実に理性的で知的だった。

 普通、隣に美少女が寝ていたら、好奇心を押さえきれずイタズラをしてしまうだろう。あまつさえ、イタズラですまない場合もあるだろう。

 その自制心にチキは感動すら覚えた。

 夢の中に出てきたゲスとは大違いだ。出来る事なら、将来はこうした紳士を伴侶に迎えたいものだが、チキはまだ肉体的に見て成熟した大人とはいえないので、あくまでも将来の話だ。

 常々思っていたが、アールは紳士だ。理想的と言える。

「しかしな、夜這いではないとしても、乙女のベッドに潜リ込んで何もしないというのは失礼だぞ?」

「それは知りませんでした、ついでに乙女にベッドに潜り込まれた男がどう振舞うべきかを教えていただけるとありがたいのですが……」

「とりあえず、ぎゅっとしてみろ」

 ぎゅっとされた。頬が逞しい胸板に押し付けられ、チキの口元がゆるむ。

 さて、次は何をしてもらおうか。

 チキは考える。

 冷静に考える。

 すると、ようやく寝ぼけていた頭が動き出したらしい。チキはここがどこで、今どんな状況なのかをしっかりと把握した。

「……おはよう、アール」

「おはようございます、チキさん」

 ぎゅっとされていた。

 普通なら、悲鳴を上げるところだろうか、とチキは思う。

 絹を裂くような悲鳴を上げて、目の前の男に不埒者の烙印を押すべきか、迷う。

 果たしてそれが正解だろうか。

 チキの心情はさておき、もぐりこんだのはチキで、迷惑しているのはアールだし、チキにとっては役得だ。そもそもチキは絹を裂いた音など聞いた事もない。

 そういえば、知り合いの娼婦がこんな事を言っていた。

 もし、朝起きた時にとなりに男が寝ていたら、絶対に調子に乗らせてはいけない。男という生き物は、一回寝ただけで、すぐに女を自分のものだと思いたがるから。

「おいアール、あまリ図にのルなよ」

「…………図にのっては、いけませんか」

 チキがそう言うと、アールは表情に陰りを見せた。

 怒らせてしまっただろうか。

 そういえば娼婦はこうも言っていた。

 男が調子に乗っていても、決して調子こくなとか言ってはいけない、プライドの高い男は逆上して首を絞めてくるから。

 チキは心の中で慌てた。

 今、ぎゅっとされていて身動きが取れない。まずい。絞められる。

「王竜王を倒すのに必要なもの、なんだかわかりますか?」

 寝ぼけたチキの妄想に反して、アールは極めて真面目な声を出した。

 とにかく怒ってはいないらしいと判断したチキは、近くにあるアールの顔を見上げた。

「まず絶対的に必要なのは攻撃力。重力魔術に、甲羅のような外皮、人間族より明らかに重く硬い骨肉、それらを両断するための剣術、もしくは魔術が必要です」

 アールの顔に、およそ人間では作り出せないような、気持ち悪い笑みが浮かんでいた。

「そして次に必要なのは防御力、耐久力、持久力。これは攻撃力より重要です」

 その笑みのあまりの禍々しさに、チキは身震いした。

「一般的にはドラゴンの攻撃は回避が容易であるから、王竜王の攻撃もまた、同じような回避運動でどうにかできると思っている人が多いんです」

「ち、違うのか?」

「王竜が単体での戦闘力最強というのは、そもそも王竜王が無敗である事からつけられたと言われています。王竜の中で唯一、人間族の『武術』に興味を持ち、己の体と術と技を磨き、戦術と戦略を構築した竜です。その練磨の度合いは数千年レベルですから、人間族が一生をかけて修行をしても「ちょっと齧った程度」といわれてしまうぐらい、かの王は戦いに長けています。全ての攻撃を回避しきるのは不可能に近いでしょう」

「しかし、所詮は竜だロう」

「中央大陸の全ての山を支配している竜族を『所詮』と言ってしまえるチキさんには脱帽しますが、ただの竜と竜王では生まれたての赤子と屈強な傭兵ぐらいの差があると考えてください。でなければ、英雄ランシャオや北神カールマンが敗北するはずがありません」

「うん? 北神は王竜王を倒し、いずこかへ消えたのではなかったのか? チキは子供の頃にそういう話を聞かされたことがあルぞ」

 アールは禍々しい笑みのまま、自嘲げに苦笑してみせた。

「そうなんですか? 僕は王竜王に負けてその生涯を閉じたという話を聞きましたが……北神英雄譚の最後の幕ですからね、何種類かあるんでしょう」

 チキの知る限り、「北神が負けてその生涯を終えた」などという結末は聞いた事がないのだが、それこそ地方によって違うだけかもしれない。チキも民話や神話についてそれほど詳しいわけではない。

 シャイナが言うには、アールの故郷は考えられないぐらい田舎という話だし。

「で、攻撃力と防御力。その二つを兼ね備えたのが英雄です。ランシャオとカールマン、二人が敗北した、として話をしますけど……二人は英雄で、技量も王竜王に迫っていました。では、何故勝てなかったのだと思いますか?」

 チキは二秒ほど考え、答えを出す。

「ふむ……竜だかラと侮っていたかラか?」

「かの英雄ランシャオは、乱戦の中、王竜王の武勇を認めたうえで一騎打ちを挑んだそうですし、カールマンはその話を聞いて、決死の覚悟を決めたという事ですから、ちょっと違いますね」

 チキはブルリと身を震わせた。

 気づけば、チキはアールの顔に恐怖を感じていた。

 アールの顔がなぜこんなに恐ろしいのかわからない。

 これはなんだろう。チキは今までこんな顔をする人間を見た事は無かった。

 組合の受付の男がチキに対して抱いている欲望とは違う。

 もっと本能的な何かだ。

 欲よりも本能的な……そんなものはあるのだろうか。

「彼らが負けていたのは、心です」

「ここロ?」

「自信と言い換えてもいいでしょう。絶対に勝つという心が無ければ、剣先は鈍り、体は弛緩します。勝てる勝負も勝てなくなる。それが互角の勝負であればなおの事、鈍った剣先は勝機を逃します」

 そういった話はチキも知っている。

 チキが知っているのはそれとは逆で「負けるかも」「死ぬかも」「失敗するかも」といった負の感情が人を逃げ腰にさせるため、一部の同業者は魔術や薬物を使用してそういった感情を取り払っている、という話だが。

「数いる英雄は強靭な心の持ち主です。ランシャオも、カールマンもそうだったでしょう。でも負けた。一騎打ちの直前まで、彼らは戦いを創造し続けたでしょう。相手がこうしてきたら、こう返す、こうしてきたら、こう攻める、こうしてきたら、こう防ぐ。そうしているうちに、絶対に勝つという心がぐらぐらと折れてしまったんです。あの巨体と強大な魔力を持った竜が、さらに武術と戦術まで兼ね備えているのです。絶対に勝つ方法などありえません。考えれば考えるほど深みに嵌り、自信は揺らぎ、答えの出ぬまま戦場に至り、敗北に至った」

「精神論というやつか?」

「戦いは常に流動的です。初対面の二人、同等の技量を持つ二人、百度戦えば五十勝五十敗になるような二人、最初の一戦ではどちらかの命が失われます。それが自分になるのか、敵になるのか、それを決定付ける要素は覚悟、度胸、根性など、言い方は様々ですが、要は心だと思うんですよ」

 ああ、とチキはようやくこの震える感情に心当たりが付いた。

 恐らくこれは、先祖からの贈り物だ。

「だから、僕は、王竜王を倒すまで、図に乗って、調子こいて、勝つことが当然だと思い続けます。そうすれば、剣先は鈍りませんから。ですので、チキさんには申し訳ありませんが、もう少し、調子に乗らせてもらいます」

 そこで、ようやくアールの笑みが柔らかいものに変わった。

 チキの震えは止まらなかった。この感情は天敵に対する細胞からの警告だ。

 ヘビに睨まれたカエル、猫に押さえつけられた鳥、竜の前に立つ人間。

 最後の一つが過去のものになって久しい今、忘れ去っていた感情が甦るのだ。

 竜を打倒できる者は、例外なく人間にとっても天敵となりうる。

 アールは、ヤバイ。

 チキの直感がそう告げていた。



 そんな会話のあった日の昼過ぎ、チキたちは例のごとく王竜山にいた。

 町を出た頃から雲行きが怪しくなり、今にも雨が降りそうな曇天。

 チキは天気から今後の運勢を予想するような宗教にハマった覚えは無いが、心なしか嫌な予感を覚えていた。

 今朝のアールとの会話が気になる。

 あの会話の後、アールからは禍々しい雰囲気は消え、元通りのお気楽、能天気で微笑を絶やさないアールに戻った。シャイナや流れる雲は感じていないようだが、チキにはその態度が白々しいものに思えてしかたがなかった。

 別段、アールが分不相応で世間知らずな田舎の腕自慢じゃなかったとしても、チキの命を助けた事実は変わらないため、アールが王竜王に挑む手伝いをやめようと思うわけではないのだが、妙な胸騒ぎがする。

 これが天気のせいなのか、アールの禍々しい本性のせいなのか、それとも朝食に嫌いなピーマンが出てきたせいなのか、宿を出る時に結んだ靴紐がうまく左右対称にならなかったせいなのか、チキにはわからないし、どうでもいい。

 大切なのは、今、嫌な予感がしているという事実だ。

(……非常にまずいぞ)

 チキに殺し屋としての仕事のやり方を教えてくれた師匠は、技術以外の四つの心得を教えてくれた。

 生涯現役の殺し屋を目指すための四つの心得。

 一つ、仕事は広く浅く。あらゆる組織は闇を抱えています。決して深入りしないように。

 一つ、客を選ぶな。特定の敵を作らないことが長生きする秘訣。嫌な客でも笑顔で応対。好きな客でも笑顔で刺殺。仕事に忠実が美徳です。

 一つ、同業者と仲良く。常に笑顔で顔広く。そうすると割りのいい仕事に誘ってもらえるかも。裏切る時は禍根を残さないように綺麗に消し、誰かに擦り付けましょう。

 一つ、感覚を大事に。ヤバイと思った時の感覚を信じましょう。目の前の餌がどれだけおいしそうでも、即座に逃げるのがベストです。逃げた後、自分が行くはずだった場所にどんな罠が張られていたのかを調べることも忘れずに。

 特に一つ目と四つ目を大事にする事。

(……今回のケースは四つ目)

 ヤバイ方向に近づいていると感じている。

 体は教えに忠実で、先ほどから足が横へ横へと逸れていこうとしている。なんとも他愛ない時間稼ぎだ。その度にシャイナか流れる雲から指摘があり、進路変更をしている。

 絞首台へといざなわれる死刑囚のようだが、いや、それほど切迫しているわけではない。

 切迫してはいないが、教えに従うなら、そろそろこの場から立ち去るべきだ。

 だが、チキは口ベタだ。

 言って納得してもらえるとは思えないし、そもそも説明するのも面倒だ。喧嘩に発展した挙句、後腐れのある分かれ方をしそうだ。それでは教え三つ目に反してしまう。彼らは同業者ではないが、初めて出来た仲間だ。禍根を残したくはない。

 いっそ……。

 いっそ、全員、殺してしまおうか。今日だけでそう何度考えただろうか。

「近いわね」

 ぞくりと背筋が震えた。

 チキが懐のナイフを握り締めた瞬間、いつのまにかすぐ傍まで移動してきていたシャイナが口を開いた。

「ああ、近いな」

 何が近いのかはさておき、チキは内心の動揺を悟られないように同意しておいた。

 殺そうと思う度に、この女騎士が隣に来る。

 チキは自称だが、凄腕の殺し屋だ。

 だが、このシャイナという女騎士には寝込みを襲っても勝てる気がしない。彼女は自らに向けられる害意のようなものに凄まじい速度で反応する。特殊な訓練でもつんだのか、天性のものか、未来予知でもしたかのような反応速度だ。

 極限まで鍛えられた武人は相手が攻撃する瞬間がわかる、というが、シャイナが極限まで鍛えられた武人というには、なんというか若すぎる。

 どうにもこの女は謎が多い。

 死神騎士と呼ばれるに至る経緯は、伝聞で、しかも完全ではないが、一応知っている。

 中にはそれこそ『味方を殺さなければ脱出不可能』な状況から生還しているという話も知っている。いや、実際に聞いた話によると『味方を殺しても脱出不可能』だったということだが。

 とにかく噂によると、シャイナ=マリーアンという騎士は、一度戦場に赴けば、敵も味方も皆殺しにする狂った騎士ということだ。

 生き残るためだったら味方も殺す狂った騎士。

 裏切ったにしては敵も殺す狂った騎士。

 聖騎士に追い続けられる狂った騎士。

 チキがそれらの噂を収集したのはごく最近だが、眉唾だと思った。

 そんな奴がいるはずがない。聖騎士が追っているというのは本当らしいけど、なら噂のほとんどは聖騎士の流したデマだろうと思っていた。そうでないなら、一つか二つの事件が誇張されているだけなのだ、と。

 悪名高いシャイナと接すれば接するほど、信じられなかった。

 そんな人物ではない。噂は噂。聖騎士団のネガティブキャンペーンに過ぎないのだ。窮地に陥って味方が全滅したことはあるかもしれないが、それだって、彼女が窮地を乗り切るだけの力を持っていて、仲間が持っていなかっただけなのだ。

 そう。

 その上でさらに何かあると思っていたが、チキにはあまり関係ないことだろうと、どこか客観的に見ていた部分もあった。

(……今朝までは、それでよかった)

 今は違う。この件から手を引こうと思ってから、百八十度考えが反転した。

 危険人物だ。

 シャイナは間違いなく、チキを死地へと追い込もうとしている。

 先ほどから、行動を起こそうとするたびに出鼻を挫かれる。

 一度や二度なら、そういう事もあるだろう。人というものはなぜか同時に行動を起こすがある。自分がトイレに行こうとした瞬間、誰かが同じように何かに思い至って立ち上がるとか。二回ぐらい連続してそれが起きたって、おかしな話ではない。

 だが、こうも続くと、偶然とは考えられない。

 意図的に動きが封じられているのを感じる。

 例えば、なんとかしてチキが「何かヤバイ気がするからチキは帰ってもいいか?」とか「仕事の期限が迫っているから一旦離脱してもいいか?」とか切り出したら、彼女はどうするだろうか。

 断言できる。間違いなく、理屈に正論を重ねて言殺するだろう。

 チキはそれに抗える自信がない。チキは口下手なのだ。

 死神。という単語が再び浮かび上がってくる。

 この女騎士は、きっと、今まで一緒になった人たちを、こうして死地に追いやったのだ。

 チキにはわかる。

 こいつは特殊な感覚の持ち主なのだ。死地に向かいつつも、しかし自分の生存能力の高さに気付いていない。彼女は『危なくなっても逃げられる位置』まで連れて行ってくれるが、それはあくまで『シャイナだから逃げ切れる位置』なのだ。

 チキのような常人は、もっと早い段階で逃げ出さなければ、命を落とす。

 だというのに、この女は「まだ大丈夫、大丈夫」と言って、他人を死地に近づける。なまじ彼女の危険察知能力を知っている周囲は、それに安心して危険域へと突入する。シャイナが危ないと思った時には後の祭り。シャイナ以外は逃げ切れない。

 無意識、無自覚なのだろう。

 シャイナという人物が他人に与える安心感は絶大だ。チキでなければ、それにどっぷりと浸かってしまうだろう。だからこそ、危ない。

 アールといい、シャイナといい、どうにも危ない。

 チキは他人に頼ろうとすると、なんとも嫌な気分になるのだ。

「………」

 チキは足を止め、しゃがみこんで靴紐を結びなおす。また時間稼ぎだ。どうにかして逃げ出したいが、どうにも作戦が思い浮かばない。

 すると、一行も足を止め、腰を低くする。

 何をしているんだろう、そう思ったチキは、そういえば自分がこのチームの斥候役だったことを思い出した。

 深い思考の海から上がってくると、聴覚が復活する。

 聞こえてくるのは、剣戟の音だ。

 すぐ先の藪の奥、三メートルほどの崖下で、二つの集団が殺しあっていた。

 絶好の見学スポットだ。

 どうやら、無意識にこの争いの音を聞き、回り込んでこの位置まで移動したらしい。

 無意識での自分を褒めたくなる反面、目の前のことに集中しきれていない自分を叱咤したくなる。

「王立騎士団と青豹師団ね、この間の続きかしら」

 隣に来たシャイナがそう呟く。心なしか楽しそうだ。先日、大の大人がみっともなく殴りあうなんてみっともない、と否定していたが。彼女は喧嘩好きだ。宿屋街で起こる喧嘩をよくニヤニヤしながら眺めている。

 逆隣にはアールと流れる雲が並んでいた。アールは興味深そうに、流れる雲の表情はよくわからない。どうにも彼女は表情が希薄だ。何を考えているのかわからない。何も考えてなさそうな顔をしているが、彼女の発言は少なくも的確だ、むしろあのボーっとした顔こそが何かを考えている顔なのだろう。

 チキも彼らに倣い、眼下の戦いをつぶさに観察する。

 王竜と戦った後なのだろうか、魔術集団が全滅していたような即席の広場で、所狭しと二つの集団が戦っている。乱戦だ。

 二つ、とすぐにわかるのは、彼らの恰好が特殊なせいだ。

 片方は完全武装、鼠色の全身甲冑を身に纏い、左手に盾、右手に剣を持った重騎士。

 もう片方は青い豹柄の上着をつけ、反りのある片刃の剣を持った軽戦士。

 例外は無い。広場にいる全員がそのどちらかだ。

 あるとすれば、広場の中央で戦う二人だが、大きく逸脱しているわけではない。

 片方は、獅子をかたどった特殊な兜を被っており、もう片方は、周囲の傭兵たちが持っているものよりも、やや短い刀を逆手に構えていた。

 驚愕獅子と青豹。

 レオパルド=ポンパドールとブルーパンサー。

 姿勢も対照的だ。

 獅子が威圧的に背筋を伸ばし上段で構えているのに対し、青豹は腹でも抱えているかのように猫背で、剣に縋りつくかのような構え。

 一目見た時、獅子が青豹を圧倒しているかのようにも見えるだろう。

 だが、その事実は逆だ。

 獅子は甲冑の各所を血で染めている。兜の隙間からは苦悶の表情を覗かせている。対し、青豹は頬から血を流している以外に目立った傷は無く、不敵な笑いを浮かべている。

 よく見れば、周囲には王立騎士団と思われる者たちが何人も転がっている。

 一人でやったのだろうか、だとすれば、流石の青豹とて体力的な消耗は否めないはずだ。

 『驚愕獅子』レオパルドの噂はチキもよく聞く。不可能を可能にする男。常勝無敗の王立騎士。王竜王国発展の立役者。

 表では有名だが、裏での評価はそれほど高くない。

 勝てる戦しかしない、勝算が無ければ尻尾を巻いて逃げる、状況判断力は極めて高いが、今の所は目立った失敗をしていないだけ。本性は慎重すぎる臆病者。

 その男がこうして逃げずに戦っているという事は、状況は五分か、もしくは退路を断たれているか。

 全体的に見て、倒れているのは王立騎士団の方が多いようだが、彼らの数は青豹師団の数倍だ。状況は五分だろう。

「喧嘩の続きにしては少し殺気立ちすぎてますね、どうしたんでしょうか」

 アールが不思議そうに尋ねる。

 チキは横目で流れる雲の顔を見た。

 脳裏にあるのは、あの襲われた魔術集団だ。どこかの集団に作為的に全滅させられたのだとしたら、あるいはこの殺し合いも、その集団の策略かもしれない。

「聖騎士団だわ」

 シャイナがぽつりと言った。

「バルコルの考えそうな事よ、一番危険な集団は先に潰して、いつでも潰せる集団はここぞという時に互いを争わせる。もう少ししたら聖騎士団が現れて、消耗した二つの集団を潰しに掛かるに違いないわ」

 眉をひそめ、憎々しそうな声音でシャイナは言う。その目に嫌悪の感情が篭っている。

 チキは思わず聞いた。

「根拠はあルのか?」

「ないわ。でもバルコルならやるわよ。あの男は勝つためには競争相手を潰すことを一番に考える男だもの。『獅子は兎を狩るのに全力を尽くす』という言葉を信条にしてるけど、あの男の言う全力って『他のライバルを陥れて、残った自分が悠々と兎を追いかける』という意味なのよ」

 アールが困った顔でシャイナを見ていた。

 なぜこんな顔をするのだろうか。あまつさえ、指に手を当ててさえいる。人の陰口は言うものじゃないというジェスチャーだろうか。

 しかし、シャイナの目にそれは入らず、暴言は止まらない。

「バルコルは勇敢よ。失敗した時のリスクを恐れないという意味ならね。昇進したいなら手柄を立てるだけじゃなくて、上官も同階級の先輩も殺したのが手っ取り早い。困難な任務を装うために、味方を罠に陥れるのも厭わない。証拠隠滅とつじつまあわせが得意だから絶対にばれないし、ゴマスリも根回しも得意だからばれても大抵はもみ消せる。クズという言葉の代名詞はあの男にこそ相応しいわ。聖騎士団も同じね、クズが集めたクズの寄せ集め。見てくれだけは綺麗だけど、中身はヘドロみたいなものよ――」

 シャイナはぺらぺらと舌を動かしている。気付いていない。

 チキと、アールと、流れる雲はとっくに気付いて後ろを振り返っているのに。


「ちょっと見ねぇ間にずいぶん陰口が達者になったじゃねえか! シャイナァ!」


 山賊のような顔の男が青筋を立てて立っていた。

 その背後には、白銀色の破邪装甲に身を包んだ、屈強な騎士たちが隊列を組んでいる。

 そうだろう。シャイナの言が正しいなら、聖騎士団はどこかで戦いを見ているわけで、安全に見下ろせる位置は限られてくる。きっと、最初から近くにいたのだ。

 シャイナはバルコルの声を聞くと慌てて振り返り、すぐさま腰の剣を抜き放った。

「バルコル!」

「今日は逃がさねぇぜシャイナ! 聖騎士団、抜刀! 今こそあの悪夢の惨劇の首謀者に鉄槌を食らわせてやろうじゃねえか!」

 バルコルが凄絶な笑みを浮かべて剣を抜く。

 シャイナが切羽詰った表情で振り返る、チキと目が合った。何かを叫んだが、チキは聞いていなかった。


 背後に聖騎士。前方に殺しあう二つの集団。

 退路無し。

(……よし!)

 チキは歓喜していた。これはチャンスだった。

 チキは逃げ出した。

 まっすぐ、殺しあう二つの集団のいる崖へ、飛び降りたのだ。


 ★


 いつしか雨が降り出していた。


 ぬかるみの中を走る。

 山で雨、いつもなら悪態をついて天をにらむ所だが、今はそれが嬉しい。

 雨は足跡と臭いを消してくれる。視界も悪くなる。音も聞こえにくくなる。追跡も難しくなる。

 逃亡者にとって恵みである。

 ぬかるんだ地面は足を取られやすい、チキは何度もバランスを崩しながら、速度を落としすぎないように懸命に走った。

 日はまだ落ちていないはずだが、周囲は暗い。夜目がきくお陰で地面を見失ったりはしていないが、現在位置はわからなくなっていた。

 それでも走り続けているのは、追いかけてくる者がいるからだ。

 ちらりと背後を振り向く。

 流れる雲を小脇に抱えたアールが危なっかしく走り、シャイナがさらに後方を確かめつつチキに追随してきている。

(あの死神は、どうしてもチキを殺したいのか……)

 チキは顔をしかめた。

 そうでないことは分かっている。

 斥候役であるチキが真っ先に逃げの一手を打つ直前、シャイナが叫んだのだ。

「逃げて!」

 迅速に乱戦を突っ切ることを選択したチキの判断をアールとシャイナは是とし、迷わず追従した。

 阿吽の呼吸。絶妙なコンビネーション。目線による意思疎通。

 二週間ほど前に知り合ったばかりのチキたちの間に、そんなものがあるはずがない。

 ないからこそ、意図に齟齬が生じた。

 チキは一人で逃げようとしたのだ。聖騎士団ではなく、アールと、シャイナから。

 目が合ったのは確かだが、その視線に「逃げるぞ! こっちだ! ついてこい!」といった意図は込められていなかったのだ。

 チキは足を止めた。

 後方の二人もそれに倣う。

「……撒いたか?」

 チキは何事もなかったかのように、対して気にも留めていないことを尋ねる。

「大丈夫みたいね」

 シャイナは後方を確認し、ほっと一息ついた。

 アールを見れば、激しい上下左右の運動で乗り物酔いした流れる雲の背中をさすっている。そうだろう、あんな生き物に乗って酔わない奴は、普段から暴れ牛に乗りなれている奴以外にいないだろう。

チキやシャイナは泥や氷の上を走る時は技術で走る。

 チキが何度か振り返ってみた所、アールは力で走っていた。

 転びそうになれば、もう片方の足で無理矢理バランスを建て直し、もう片方の足も滑れば、手を使ってバランスを建て直す。あり得ないようなバランス感覚と脚力、腕力、体全体のバネがなければ出来ない事だ。

 人を一人抱えた状態で出来るかというと、人間には出来ないと思う。

 ありえない。

 やはりこの男は何かがおかしい。

 やはり、ここで別れよう。

「チキはそろそろ……」

「そろそろ夜ね。今から町に帰るより、野宿したほうが安全かもしれないわ」

「……」

 タイミングよく、シャイナの言葉が遮った。

「何? チキちゃん」

「いや、なんでもない。チキもそう言おうと思っていた所だ」

 突発的にそろそろ別れよう、と言いそうになったが、今それを言ってどうなるというのだろうか。「お前らについていくのはうんざりだ、危ない目にはあいたくない、チキは一足先に抜けさせてもらう」と、言うのは簡単だが、今は既に日没で、ここは王竜の住処で、チキは現在、位置不明瞭。

 逃げるのに、しくじった。

 失敗したのなら、今は頭を切り替えるべきだ。次にどうするのが最善か。

 目の前の脅威か、その脅威から逃げた先の暴力か。

 チキの決断は早かった。

「とにかく、移動すルぞ」

「ええ、雨も強くなってきましたし、雨宿りできる場所を探しましょう」

 アールがすぐに同意し、流れる雲に手を貸して立ち上がらせた。

 シャイナも背後に広がる森の闇を見つめ、小さく「そうね」と呟いた。

 それから、やや緊張を孕んだ顔で空を見て、首を振り、何事もなかったかのように肩をすくめた。

 チキにはその仕種が気になった。

 今、彼女は、何か危険を感じ取ったのではないだろうか。

 もしかすると、チキの首には死神の鎌が添えられているのではないだろうか。

「おい騎士、置いてくぞ」

 不安を振り払うようにチキは歩き出す。


 そうして四人は、暗い夜、森の中を歩き始めた。

 

 一歩歩く毎に、二歩後ろを歩くシャイナの緊張が強くなってきているのを感じた。

 時刻は日没で、雨、小一時間歩いただけなのに、チキは消耗を感じていた。つい先ほどの全力疾走も含め、雨による体温低下と、暗闇による視野閉塞が身体的にも精神的にも消耗を強いる。夜に山を歩く技術など習ったことは無い。山を日常的に歩いている人物はこの世界には数えるほどしかおらず、山歩きを教えられる人物などいない。

 山は竜の住処で、竜は縄張り意識の強い生き物だ。特に中央大陸の中心付近に大きく広がる赤竜山脈の赤竜など、一歩でも踏み入れれば赤竜が群れで襲ってくる。王竜は竜の中でも比較的縄張り意識が弱い方だが、山で人間に出会えば必ず襲い掛かってくる。特に夜は興奮するのか、より好戦的になるらしい。こうしてチキたちが歩いていられるのは、この二週間で王竜が激減したからだろう。

 チキはシャイナの顔色を伺いながら進む。

 不安そうな顔だ。今にもどこからか何かが襲ってくるのではないか、その時自分は動けるのか、そんな顔だ。

 その表情からチキは、やはり今、彼女ですら対処しきれない危険が近づいていると見て取った。

「ねえ、チキちゃん、ちょっと……」

「どうした?」

「なんかそっちから、嫌な感じしない?」

 雨足が強くなる中、シャイナは進路変更を切り出してきた。

 チキにとっては、予想できたことだが、ここで頷くのはよくない。チキの考えが確かなら、ここで引き返して生き残れるのはシャイナだけだ。

「そうか。丁度いい、あそこに洞窟があルから、そこで野宿すルぞ」

 木々の隙間から遠目に見える、ぽっかりと口を開けた洞窟。幅広で、高さも二メートル以上、分かりやすい洞窟だ。

 チキの第六感は、そこから漂うヤバイ雰囲気をビンビンに感じ取っている。

「あの洞窟は……」

「では、あそこを一晩借りるとしましょう」

 アールの鶴の一声で、シャイナは完全に黙殺された形になった。

 なんとなく、嫌な予感がするから、あそこは避けましょう。

 シャイナだけでなく、チキだってそう声高に叫びたい。

 洞窟に近づけば、その理由も口にできる。

 まず洞窟の入り口付近から漂ってくるなんともいえない汚臭。人間は臭いに敏感だ。特に臭いを「良い」か「悪い」かの二種で判断するだけなら、犬ほどではないが、なかなか優れた嗅覚を持っている。

 臭いという事は、すなわちそこに自分以外の何かがいたという事になる。

 洞窟の縁を見上げる。綺麗なお椀形をしている。ぽっかりと開いていると、表記するのは簡単だが、なかなか自然にはこうした形にはなりにくいものだ。

 まるで何者かが、無理矢理削り広げたかのような、不自然さ。

 地面を見る。

 そこには、まるで何かを引きずったような跡が一つ、轍のように残っていた。

 ここまでくれば言わずとも知れる。

 この洞窟は王竜の巣だ。

 さて、王竜の巣、と一言で言っても、実のところ王竜は平原の獣のように特定の居住地を持たない。

 ところが、ある一定の時期になるとこうして洞窟を掘り、その中で暮らし始める。この行動をつぶさに観察したものはいないが、似たような修整を持つ動物から、いくつかの仮説は存在している。

 詳しい話はチキも知らないが、つまり王竜の雌は産卵と子育てを洞窟で行うのだ。

 産卵期というのはよくわかっていないが、いや、わかる必要もないだろう。

 この洞窟は、臭いからして生々しい。

「ふう、雨宿りできる場所があってよかったですね」

 アールが洞窟の入り口付近の、乾いた石の上に座り、一息ついてそう言った。相変わらず能天気な表情だ。ここがどんな場所かも分かっていないのだろう。

 流れる雲は先ほどまでの元気の無さはどこへやら、興味深そうに近くに落ちていた茶色い塊(おそらく竜の糞)を木の棒で弄くっていた。

 シャイナだけは青い顔をして、洞窟の奥と外、せわしなく視線を行き来させている。

 ここは死地だ。

 産卵し、子育てをする動物は、おおむね殺気立っている。王竜とて例外ではない。子供が生まれたことで優しくなれるのは人間だけだ。肉食獣の雄は自分の子でも餌と見なすこともあるから、雌は必死なのだ。

 王竜もまた、その例に漏れない。巣の入り口にいる数匹の人間を黙って見逃しておくほどのんきな生物ではない。

 もうすぐ、出てくるだろう。産卵場から、入り口にたむろう不埒者を追い払うために。

 チキはそれを待つ。

 体を休めて、心を沈めて、神経だけは尖らせて。

 こんどはタイミングを逃しはしない。しくじらない。

 シャイナを、王竜に押し付ける。その間に、逃げる。

 王竜の相手など、やりたい者がやればいい。

 アールはそのために来たのだろう。彼がどれだけ腕が立つのかは知らないが、勝てるか負けるかは逃げるチキには関係ない。

 命を救ってもらったのだから、チキはその命を大切にしたいのだ。


「そういえば」

 と、前置きをして、流れる雲がぽつりと呟いた。

「さっきの男、昇りくる太陽を殺した男だよ」

 昇りくる太陽。

 チキはその名前を知っている。北の方にある魔術結社の総帥の名前で、あの日、酒場で見かけた魔術集団の一人。その筋では有名な人物だ。

 光と熱の魔術を操る、達人級の戦闘術士。

「という事は、聖騎士団が雲さんたちを襲ったということですか」

「そうなるよ」

 アールの確認に、流れる雲が頷いた。

 言質がとれた、とでも言うべきだろうか。まあ、これも大方の予想通りだ。

「やっぱりバルコルの仕業だったのね」

 シャイナが顔をしかめた。聖騎士団が絡むと、彼女は感情的になる。

「ふむ、王立騎士団と青豹師団の争いも、やはリ聖騎士団が仕組んだのか?」

 チキが顎に手を当てて考えると、今更何を疑うことがあるの、とばかりにシャイナが反応した。

「間違いないわ」

 シャイナは頑なだ。

 聖騎士団をどうしても悪者にしたいらしい。

 魔術集団を潰したのは聖騎士団。なるほど、彼らはこの王竜王討伐に対して、本気で取り組んでいるらしい。チキがリーダーでも、やはり王竜王を倒す前に他の組織を潰しておくだろう。

「聖騎士団も、存外底の浅い集団なんですね……」

 アールはあまりよい顔をしていない。

 権謀術数なんて、くだらない、つまらない、そんな顔だ。

「そうは言うがなアール。競争相手を潰すのは、別に悪いことじゃないぞ」

「相手の力量を見極めることも出来ないなんて、底が浅いと言う他ないでしょう?」

「……?」

 彼の言葉の意味はわからないが、とにかく気に入らないのだろう。

「その言葉、そっくリそのままアールに返しておくぞ」

 チキがとりあえずそう言っておくと、アールはきょとんとした顔でチキを見返した。

 どんな英雄でも、共闘する仲間、ライバルを率先して狙うということはしない。あるいは語られぬだけかもしれないが、少なくとも英雄というのは、他を出し抜くことはあっても、潰して悠々と……といった行動は取らないものだ。

 アールは恐らく、英雄譚に事欠かない聖騎士がそんなことをしていた、というあたりが引っかかっているのだろう。

「静かに!」

 と、その時、シャイナが険を強くした。

「静かに……」

 口に人差し指を当てて、目をつぶり、神経を集中。まるで遠くから聞こえてくる音を拾うかのような態度。

 そして、造作もなく剣を抜いた。

 殺気は無かったと思う。

 でなければ、チキが反応できないなんてあり得ない。チキはこれでもスゴ腕の殺し屋だ。

 剣はチキの喉元に突きつけられていた。早業だ。北神流なんてマイナーな流派のことは知らないが、シャイナの抜刀術はなかなか侮れない。

 アールと流れる雲は呆気に取られていた。

「聖騎士団が、どうやってか私たちを嗅ぎつけてきたみたいよ」

「あレだけ居レば、一人ぐラい追跡の魔術を使えル奴もいるだロうしな」

「そうね」

「そレで、どうして、チキの喉に剣を突きつける?」

 シャイナは口の端を無理矢理に持ち上げて、蔑むような目線で背の低いチキを見下ろして、馬鹿にするように、

「あなたたちを囮にして逃げようと思って」

「随分と唐突な心変わリだな」

「チキちゃんたら、何を言ってるの? 心変わりなんてしてないわよ。私が聖騎士団に追われて、そのせいで死神騎士って呼ばれてるの知ってるでしょ? 最初からこうするつもりだったのよ。悪いけど、あなたたちに聖騎士団と戦ってもらってる間に私は逃げるわ」

「……」

 確かに、チキは知っていた。知っていたが、たいした事じゃないと黙っていた。

 ふと、胡乱げな目でシャイナを見ていたアールが口を挟んだ。

「仲が悪いのは見てわかりましたけど、追われていたんですか?」

「そうよ」

「そうですか。わかりました」

 アールはそう言うと、無造作に流れる雲を小脇に抱えた。

「おりょ?」

 事態がよく飲み込めていない流れる雲を抱えたまま、ずんずんとシャイナの方へと歩いてくる。

 慌てたのはチキだ。

「まて、チキが人質なんだぞ! 刺されたらどうすル!?」

「そうよ! 動かないで!」

 二人に同時に叫ばれて、アールはぴたりと止まった。

「失礼。動くなとは言われていなかったもので」

「別に構わないわ。そのまま、ゆっくりと後ろに……」

 言い終わらないうちに、アールは無造作に動き出して、チキの襟首を掴んで持ち上げると、そのまま無造作にシャイナの射程圏外まで移動していた。

 シャイナは動かなかった。タイミングをはずされた上、あからさまに敵対する行動を取られたわけでもなかったからか、動けなかったのかもしれない。

 チキは雨の冷たさを感じ、上を見上げた。

 変な顔で苦笑しているアールの顔が見えた。

「では、僕たちは聖騎士団と戦ってきますので、失礼します」

 アールは一礼して、その場を歩き去った。


 仮に昼間でも洞窟が見えなくなるぐらいの位置まで移動して、チキと流れる雲は地面に下ろされた。

 チキは渋い顔をしていた。

(失敗した。チキはこれから死ぬんだな)

 と、そう思っていた。

 予想とは少し違ったが、シャイナは絶対に逃げ切れないと悟るやいなや、チキたちを当て馬にして逃げるつもりなのだ。

 シャイナは、きっと今までもずっとこうして逃げてきたのだろう。きっとシャイナは今もなおチキたちを見張っていて、聖騎士団に見つかり、戦い始めたところで、それを迂回して逃げるつもりなのだ。なんてことはない。憤っていたが、シャイナと聖騎士団のやることなど一緒だ。同じ穴のムジナ。同族嫌悪。

「アール、あの巣の竜、おおきいよ?」

「分かっています。だから彼女は僕らを逃がしてくれたんです」

「そういうことなの?」

「ええ多分、そういうことでしょう」

 唐突に始まった流れる雲とアールの会話に、チキは口を挟んだ。

「まて、二人で納得すルな。何の話だ? チキにも説明しロ」

「気付かなかったんですか?」

 馬鹿にするような口調ではなかったが、チキはその一言で対してないはずのプライドを刺激された。

「気付くもなにも、チキにはお前等が何を言ってルのか……」

 文句の一つも言いたかったが、次のアールの言葉で思考がリセットされた。

「あそこは、カジャクトの巣ですよ」

 はて、カジャクトとは、一体なんだったろうか。

 そうだ、王竜王の名前だ。竜には自分で名前を付ける習慣などないが、人魔大戦では魔神が各竜王に名前を付けたのだ。王竜王カジャクト、赤竜王サレヤクト、海竜王レドリフト、黒竜王ルゴルクト、青竜王ラクトラクト。エトセトラ。

 現在生き残っているのは、王竜王カジャクトのみだが、他の竜王には、それぞれ討伐のエピソードがついて回っている。

 カジャクトのエピソードは逆で、かの英雄ランシャオを打ち倒すエピソード。

「つまリ、どういう事だ? あの死神は何を考えていル?」

「さぁ、なんだか洞窟の奥から地響きみたいな唸り声も聞こえてきましたし、何か考えがあるのは確かでしょうね」

「聖騎士団がきていルというのは?」

「そのうち来るとは思いますよ、彼らも王竜王の住処の情報は得ているでしょうから。今の内に僕らが居場所を変えれば、あるいはやり過ごせるかもしれませんね」

「竜と聖騎士に挟まれたアイツはどうなル?」

「死んでしまうでしょうね」

 あっさりとそう言った。

 あっさりしすぎていて、チキは混乱してしまった。

(どういうことだ?)

 シャイナは、自分たちを死地に追いやろうとしていたはずだ。

 一体どんな意図があったのかは知らないが、彼女は……。

「シャイナさんも言っていましたが、最初からそのつもりだったみたいですよ。回避不可能、対処不可能な危険に直面したら、チキさんと雲さんだけでもなんとか助けるって。自分はそのためについてきているんだと、言っていましたね」

「馬鹿な」

 全部、自分の勘違いだった、被害妄想だった。

 薄々感づいてはいたが、やはりそうだったと思うと、なんだかやるせない気分になってくる。

 と、流れる雲がパンッと手を打ち鳴らした。

 パン、パンッ。

 雨の中に、小さく響く拍手。

 次の瞬間、雨が強くなった。バチバチと木々を叩き、地面に小さな穴を穿つ。

 雨乞いの術。雲を操る彼女が何かをしたのだ。

「雨、強くしたよ。しばらく、これで紛れれる、逃げるの、頑張って」

「雲さんは、行くんですか?」

「うん。助けられたら、助けたいもん。仲間は見捨てないし、卑怯者は倒したい。最初の目的は竜倒すのだし。おんなじだよ」

「そうですか、では頑張ってください」

「ん」

 流れる雲はこくりと頷くと、ぱちゃぱちゃと足元を濡らしながら洞窟の方へと戻っていく。流れる雲は真面目な女だ。一時でもパーティを組んだ相手を見捨てたりしないし、自分たちを背後から襲った集団への報復もしたい、王竜王も倒したい。三つの目的を達成するのに掛けられる自分の命は一つだけ。三つ同時に達成できそうなら、彼女は行くだろう。

 チキは、迷った。

 チキは人情には厚い方だと自負している。師匠に「心まで冷たい殺し屋は強いけど脆いよ、長生きしたければあったかくて柔軟な殺し屋を目指しましょう」と言われたせいもあるが、元々他人を踏み台にして生きてきたつもりはない。

 頭の中で二つの思いが激突している。

 一つは、今まで一緒に行動してきたシャイナを簡単に見捨ててはいけない、という思い。

 一つは、そんな事のために命を危険に晒すのは馬鹿らしい、という思い。

 どちらも一理ある。命あっての物種というが、心残りや後悔を残したまま命だけ永らえても、やはり生きていくのに辛いだろう。すぐに忘れられるような性格はしていない。

 チキはハッとした。

 自分はむしろ、あの洞窟に戻りたいと思っているのだ。

 先ほどまで、あれほど逃げ帰りたいと思っていたのに。

 こんな事は初めてだった。自分の行動と思考に一貫性がもてない。

「チキも戻ルぞ」

 だというのに、チキはそう口走っていた。

 この二週間、最後の一日を除いてシャイナを不快だと感じたことはなかった。最後の最後まで、シャイナはシャイナのままだった。最後の一日が勘違いだったのだとしたら、それはチキの落ち度だ。シャイナが傷ついていなかったとしても、チキにはそれを行動によって謝罪する準備がある。

 決断は早い。心に決まる。

 すぐそこに突っ立って微笑んでいた少年に声を掛ける。

「よし、行くぞアール」

「僕は行きません」

 流れる雲を追って駆け出そうとしたチキの足が止まる。

「なんだと?」

 自分でも怪訝そうな顔をしているのがわかる、表情というものは、割と意識しなくても出てくるものなのだ。

「騎士を……シャイナを見捨てルのか?」

 アールは少しだけ言葉を選ぶように口を半開きにして「あー」と唸っていたが、やがて頷いた。

「……見捨てることになりますね」

 チキはこめかみを押さえた。なんだろう、この気持ちは。よくわからない。怒りとは違う。困惑とも違う。違うが、それらの感情が入り混じっているのは確かだ。

「シャイナは、アールを、助けたんだぞ?」

「何を言ってるんですか? 僕は彼女に助けられてなんていませんよ」

 冷たいのは、果たしてチキの心だったろうか、体だったろうか、それとも、アールの態度だったろうか。

 とにかくチキは頭が真っ白になるぐらいの衝撃を受けた。

(こいつ、今、なんて言った?)

 シャイナはチキと流れる雲を助けるつもりだった。じゃあ、自分はそこに含まれていなかったと、そう言いたいのか?

 胸糞悪い。

 チキはこれまでアールを正義感だと思っていた。ありもしない正義を信じる甘ちゃんだと思っていた。

 英雄になりたい、そんな事を口走る無鉄砲な男。

 決して嫌いではなかった。チキはシャイナほど達観していないし、大人でもない。むしろ、そうした生き方をするアールを眩しいとすら思っていた。

 そんな男が、ここまで胸糞悪い選択をする。

 チキは正義ではない。

 だが一人の夢溢れる少女だ。

 殺し屋などという殺伐で後ろ暗い仕事について数年になるが、夢と愛嬌は失っていない。

 密かにアールを応援すらしていた。いずれ飽きるか、現実に直面して諦めるかで英雄としての道を外れるとしても、頑張れるだけ頑張ってほしいと思っていた。

 その男が、唐突に掌を返した。

 命欲しさか。

 仲間を簡単に見捨てるような男が、英雄になれるとでも思っているのか。

「アール、見損なったぞ」

 チキは吐き捨てるようにそう言った。

 胸糞悪い男、見損なったといわれても薄く笑っているだろうと、そう思ったチキだったが、何故だろうか、アールは驚いた顔をしてきた。

 その顔はゆっくりと悲しみに染まる。

 まさか、自分が悪いことをしたと反省しているのだろうか。

 だとしたら、自分の存在も悪いことではなかった、二人で一緒にシャイナを助けにいこう、と手を差し伸べる。

「反省したなら、行くぞ、アール」

「いえ、僕は、いけません」

 悲しく、搾り出すようにそう言って。彼は踵を返した。

 チキは鼻息一つ。アールを嘲笑した。その姿は嫌な事から逃げ出す少年にしか見えなかった。普段からそうした姿勢を見せているならまだしも、いざという時にこうなると、反動がひとしお大きい。


 チキはその背中にはもはや用は無いと、無言でアールに背を向けた。


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