ほとんどのクリスチャンにとって、断食とは、
受難週の40日間キャンディー・バーやソーダーを我慢することを意味する。
あるいは、ダイエットの一環として、死亡の多い食物や砂糖を口にしないことを指す。
全く何も食べないという考え方には、背筋に寒気が走る事だろう。
断食を伴った祈りは、今日の教会においてはあまり馴染のないことなので、信徒たちはすぐしりごみする。
「私が断食ですか?」
「何も食べずに過ごすですって」
「ひもしい思いをするなんて!」
「一体何のために?」
そして、主のために断食を考えている人でさえ、次のような問いに対して、納得のいく答えを求める。
「病気にならないでしょうか」
「まず主治医に相談するべきでしょうか」
「ただ祈るだけでなく、断食もすれば、神様は私の願うものをいつでも与えてくださるのでしょうか」
霊的な断食について、人々が抱く最も一般的な反論や疑問のいくつかを、
共に見てゆくことにしょう。
★断食をするのが御心なら、どうして教会では、一度も語られないのでしょうか。
初代教会は、主イエスと使徒たちの足跡にならい、祈りと断食をしていた。
しかし、中世になる頃には、人々は訓練としての断食に難色を示すようになっていた。
使徒たちは、断食を、修道士たちにこそふさわしい、つらく厳しい苦行だと考えていた。
その後、一世紀にわたって、断食は教会の暗部に忘れ去られ、錆び付くままに捨て置かれていた。
訓練としての断食には、その恩恵を知る人を除いて、今も大多数の人が顔をしかめる。
聖書注解者のマシュー・ヘンリー(注・01)はこう書いた。
「断食は称揚すべき信仰の行為である。
断食がクリスチャンの間でこれほどまでに無視されていることに対して、
我々は大いに嘆き悲しむものである。」
マシュー・ヘンリー(注・01)
マシュー・ヘンリーの注解書は、聖書講解の標準となり、時代を越えて最高の注解書となった。
彼は、たぐいまれな、創造力に富んだ豊かな知性を持っていた。
23/04/20 04:00