山家直生

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山家直生
@yamaienao
空白JPという、悟りと真理についてのブログを運営。真理は客観的には証明することはできませんが、主観的には認識されうるものです。その道理をわかりやすく解説。悟りに至る、実践的で再現性のある方法を提案しています。 著書『空白JPアーカイブ』 amazon.co.jp/dp/B09VS4KCXQ
ku-haku.jpJoined January 2021

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「私は在る」という感覚は、古典では“浄化具”と呼ばれます。 一体、何が浄化されるんでしょうか? 「私は在る」ことによって、何が起こるのかを見届けてみるといいかもしれません。
退屈な時間って長く感じられたりしますよね? そこに自我がいるからです。 寝ている時には自我がないので時間もありません。 自我に依存しないルーティン行動は時間が短く感じられたりもします。 自我が前面にでてくるほどに、時間は長く感じられるようになります。 退屈な時、自我は最前面です。
ダイエットしたいなら、運動以外にも、食事の量を減らすという選択肢があります。それと同じように、真理を理解したいという場合には、瞑想以外にも、日常の刺激の量を減らすという選択肢があります。
先が見えないと人は不安になります。 解決策を考えようとします。 でも、解決策が見つからないと人はさらに不安になります。 不安スパイラルです。 でも、そもそもの不安の原因は解決策が見つからないことではなく、結果をコントロールしたいと思うからなんです。
人はどこか無自覚な前提を持ってます。例えば、「非二元的であることが正しい」などの前提です。一体、どうやってその前提は生まれたんでしょう?(それは本当に正しいんでしょうか?) 何の知識も体験もないまま、そういった認識が生まれることは無く、大事なのは、その過程を自覚することなんです。
ブログを更新しました。 ものすごく久しぶりですね。 四半期ぶりぐらいになってしまいました。 「苦しみとは理想と現実のギャップ【3つの解決法】」
我慢することはない。 好きなことをするといい。 飽きるまで。 何回でも。 この言葉を軽薄に感じる人が、探求者になる。 そこにゴールはない。 同じことの繰り返し。 うんざりだ。 そのことが分からなければ、探求はできない、その必要がない。 その時、探求は我慢にはならないだろう。
神の声が聞こえる人が教えるべきは、神の声の聞き方なのであって、神の声を代弁することではないはずです。他人を経由するよりも本人に聞いたほうが誤解が少ないでしょう。
何も興味なければ、何もしなければいいですし、何か興味があれば、それをするのがいいと思います。無理に興味を持とう(捨てよう)とすることは、自身を偽ることでしょう。意志は興味に対する先導者ではなく、従者であるべきかもしれません。
「瞑想しても思考が止まらない」とよく言われるのですが、思考には水圧のようなものがあって、「圧」がある限りは思考は止まらないでしょう。問題なのは思考が止まらないことなのか? それともそこに「圧」があることなのか? 思考が止まらないなら放流すればよく、「圧」は自然と下がっていきます。
起こりがちな誤解の一つに「探求が終わればすべてが分かる」というのがあります。実際のところは、分からなくてもいい部分はどこかということが分かるようになります。夢のすべてを知る必要はなく、それが夢であると気づくだけです。〝空〟であることを分かったフリをする必要はないんです。
ラマナ・マハルシは「真我探求ほど易しいものはない」と言います。瞑想を実践したことがない人でも、ハートを理解することがあるのはその易しさが理由です。ただ、多くの人は虚無感を避けながら真我探求を行いたいという矛盾する考え方にとらわれるため、それはとてつもなく難しく感じられたりします。
人はヘトヘトに疲れると、何も考えられなくなって、ボーっとしたりしますよね。それは、本当の瞑想状態に近いです。でもそれは、意図的に瞑想しようと集中してる状態と、だいぶ違うんじゃないかと思います。人は、集中することの延長線上に本当の瞑想があると思いがちなのですが、実は違うんです。
あなたが瞑想をする必要はない。 あなたがいないことが、瞑想だ。 いつまで、例外のフリをしている? あなたが瞑想しようとせずとも、瞑想は自然と起こる。 あなたは、そのことを確認すればいいだけだ。 必要なことは、確認するための時間を確保すること。 そして、自然に任せていればいい。
苦しむことに飽きたという報告を受けると、僕も嬉しくなります。苦しみと向き合うことにはガッツというか、根性というか、勇気が必要なんですが、意図的に苦しみに飽きるという経験をすることは、今後の真理の探求における、大きな武器になるのではないかと思います。
ブログを更新しました。 「瞑想的な日常生活というのは、本当にこれでいいのだろうか?【Q&A】」 ku-haku.jp/meditative-lif 今回は、もうすでに十分な瞑想修行をしてきたけど、その先の方向性に迷っている、という方に参考になるQ&A記事かもしれません。1万文字ほどの長文です。
「執着を手放しなさい」 そう言われることがあると思います。 でも、人は自然と執着を手放していることがあります。 そのことに飽きてしまった時です。 飽きてしまったことに執着することは難しいですよね。 なので、執着は手放そうとするよりも飽きてしまったほうが早いのかもしれません。
自分自身を客観的に俯瞰して観ている存在は、意識でも、観察者でも、観照者でもないんです。 それは観察者が作り出した単なるイメージです。
感情を感じるのに、感情に集中する必要はありません。一方、呼吸を感じるには、呼吸に集中する必要があると思います。これが、真我探求と瞑想の違いです。あらゆる感情を避けなければ、それは自然と真我探求になっていきます。それは難しくもあり、もっとも簡単なことでもあるかもしれません。
宇宙との一体感を感じる。 その時、あなたが宇宙に広がっているのではない。 あなたの中に、宇宙があるのだ。 でなければ、そのことを認識することはできない。 知的な認識は、広がりのある形而上学を好む。 宇宙と一体であることが続くなら、知的な認識の方が揺らいでいくだろう。
意識を失うことへの恐怖(つまりは死への恐怖)は、逆説的に言えば、それを克服しようとする自我の実在性が失われることで克服されます。 ハート自身は、この現象としての意識が失われることを恐れてはいないんです。
誰も見ていなくても、おてんとさまが見ているよ。 そう言われると、おてんとさまには意志があって、物事の善悪をチェックしていると思うかもしれません。 でも、そんなことはなくて、おてんとさまは、ただ、見ているだけです。 そして、それは自分です。
瞑想をしていると思考に巻き込まれて、ハッと気づくことがあると思います。その時「巻き込まれた」と残念に思う必要はないんです。実際のところ、ハッと気づくことができており、復帰に成功しています。失敗ではなく、成功です。むしろ、「自我に関係なく勝手に復帰できた」と自信を持てばいいんです。
ただいま2022年の特別記事に取り掛かり中です。タイトルは「真理の探求における折り返し地点」で、〝第一部 瞑想という名の補助輪〟〝第二部 真理に何を求めるのか?〟〝第三部 私は在る〟という三部構成にしょうかと思ってます。
愛を探すな、あなたが愛だ。 愛を与えることは、盲目を取り除くこと。 偽りの愛は、儚く消える。 世界の中心で愛を叫ぶケモノ(仮者)はどこを見ているのだろう? 外でもなく、内でもなく、前でもなく、後ろでもなく、右でもなく、左でもなく。 偽りのあなたが、剥がれていくのを、静かに待てばいい。
自我の視点から見れば、理想を失うことは絶望的なのですが、真我の視点から見れば、理想が失われるのは解放的なことなんです。
探求の方法論は2000年以上前から変わりません。 ヴェーダ「行為の止滅」、ブッダ「執着を捨てなさい」、イエス「神の王国はあなたの内にある」、ラマナ・マハルシ「ハートにとどまりなさい」、OSHO「退屈から逃れる道はない」。 同じ方法論が、覚者なりの個性で多様に(多角的に)表現されます。
人が作ったルールは人の都合でコロコロと変わります。なので、それらのルールを覚えたとしても、都合により変更されて、翻弄されることも少なくないと思います。 一方、自然のルールは都合によりコロコロと変わることはなく、それらのルールを覚えれば、普遍的に役に立つものになるかもしれません。
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神の目的を知れば、あなたは満足するだろうか? 神の目的に、従うだろうか? あなたは、謀反を起こすだろう。 神の目的を、書き換えたくなるだろう。 神の目的は、スケープゴートだ。 あなたの本当の目的は、知ることにはない。 まずは、あなたの目的を知れ。 あなたは、神を支配したいと思っている。
ラマナ・マハルシは「実在をとらえていることがサマーディです」と言います。 僕はその昔、実在というのはこの世界のことだと認識していました。 まさか、この世界が無いとは思えなかったからです。 そう思う人は少なくないと思います。 でも、ラマナ・マハルシの言う実在とはハートのことなんです。
決意するなかれ、決意は束縛になるから。 束縛するなかれ、束縛は苦しみになるから。 苦しみを避けるなかれ、苦しみは影のようなものだから。 影は自分ゆえ存在するのか、それとも太陽ゆえ存在するのか。 愚者は太陽を取り除こうとし、賢者は自分を取り除く。 太陽なくしては、その決意も起こらない。
去年末から背もたれを使わない生活を始め、結果的に結跏趺坐でいることが多くなってきました。結跏趺坐というのは探求を深めるにあたっての前提条件なのか? それとも、探求が終わった結果としてそうなるものなのか? どちらにせよ、姿勢も良くなり、なぜだか視力も上がり、健康には良さそうです。
瞑想を10年以上続けてきて、まだ瞑想の必要性を感じているのなら(日常生活の中で瞑想が自然にならないのなら)、それは瞑想の方向性を間違っているんです。その瞑想は、巧妙に退屈を避けたものになってはいないでしょうか?
ハートにとどまることは、自転車に乗っている時に自然とバランスがとられているようなもので、意図的に行うようなものではないんです。でも、誰しもがいきなりは自転車に乗れないですよね。最初のうちは、意図的にバランスを取ろうとすることはもちろん、転んでは立ち上がる意志も重要なんです。
詐欺師が相手をだまそうとする場合、100%すべてを嘘でぬりかためるのではなく、○○%かの隠された真実をあえておりまぜると言います。 それと同じようなことが真理にも言えて、自分だと思っているものの○○%かは本当に真実だからこそ、その他の自分も真実であると錯覚するのかもしれません。
意識して、姿勢を正すことはできない。 それは、がんばっている感じを、演出するだけだ。 姿勢が正しい人は、意識などしていない。 意識せずともいられるように、意識すること。 それが、意識の使い方である。
自由意志。 あなたは何故にもそんなに自信満々なのか。 あなたはこう思う。 この体をコントロールすることができる。 私は思考する主体である。 その確信は疑いようもない。 にも関わらず。 たったの30分も黙っていられる自由を持てないのはどうしたことか。
ブログを更新しました。 前回のKAYUさんとのQ&A記事の続編です。真我探求を実践されている方には参考になると思います。15000文字の長文なのでお時間がある時にどうぞ。 「ハートの感覚にも、飽きることがあるのではないか?【Q&A】」
何かを信じているのなら、信じきらなければならない。 信じていることに、他者の承認を求めてはならない。 それは疑い始めているということだ。 信じていることではなく、その疑いを見てみるといい。 信じるまでもなく、そこにあるだろう。 そこに、他者の承認は必要だろうか?
あなたが興味をコントロールするのか? それとも、興味があなたをコントロールするのか? 興味を持てるうちは、人はそのことに興味を持たない。 あらゆることに、興味を持てばいい。 興味を持てないことに、興味を持つまで。 その興味はやがて、あなたという存在を浮き彫りにしていくだろう。
私は、観察する。 この身体を、思考を、感情を、世界を。 すべてを、観察できるように思える。 まるで、双眼鏡を覗き込むように。 だが、観察対象に、双眼鏡は映らない。 私は、私を、観察できない。 あまりにも当たり前のことが見落とされている。 観察することの盲点は、私である。
ブログを更新しました。 久しぶりのオリジナル記事です。瞑想の実践方法について、軌道修正しました。より多くの人に実践しやすいものになったのではないかと思います。9000文字の長文なので、お時間があるときにどうぞ。 「無意識に任せる瞑想のすすめ【初心者にも対応】」
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思いは投げ捨ててしまっていいんです。そのことに解放感は感じないでしょうか? 従うべきはその解放感なのであって、誰かの言葉ではないんです。その解放感はどれだけ続くでしょうか? どうやって覆い隠されていくでしょうか? そこには、大抵の場合には、無自覚な自分の認識があります。→
虚無という言葉は実際のところは虚しさが有るという意味で使われることが多くそれは虚有です。その場合、虚しさを避けたい衝動を避けることはできないかもしれません。 でも諸行無常。虚有も一時的なのだということを確認するのであれば虚無とニルヴァーナは同じだということに気づくかもしれません。
Replying to
ラマナ・マハルシは、こう言っています。 「自我(意志)は、警察官のフリして泥棒を捕まえようとする、泥棒みたいなものである」 実際のところは、意志とは、意識に観照される一時的な対象でしかないんです。 でも、その言葉を、意志として考えようとする限り、その錯覚はそう簡単には解けません。
人は、眠りに落ちる瞬間を目撃できないと思います。 それは、テレビの中の登場人物が、テレビの外に出てきて、スイッチがオフになる瞬間を目撃しようとすることに似てます。 そんなことは不可能です。
真理の探求が進むと起こりうることに無意味さを感じるということがあります。それは面倒くさいと感じるのと少し違います。面倒くさいと感じるなら何もしなければいいんです。無意味さを感じる場合は意味のある何かを求めているということであり、もしかするとその手段は世界の探求なのかもしれません。
真理はひとつなのですが、真理を求める自我には多様性があります。なので相対的に、探求の終わりには多様性があります。僕は、それはいけないことだとは思っていません。ある人は、探求の終わりに満足し、ある人は、探求の終わりに満足しなかったりします。そういった相対性があるのは当然のことです。
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「放流するって何もしないこと?」と思うかもしれませんがそんな感じです。思考が止まらない状態でいればいいんです。例え思考に巻き込まれようが。それでも「圧」は下がっていきます。その段階で大事なのは、むしろ日常生活の中で「圧」を上げないように行動しすぎないことなのではないかと思います。
真理の探求の難しいところは、探求を志すこの自分こそ、苦しみの原因であると受け入れなければならないところです。そして、僕にとってはそれを指摘しなければならないところです。
意外に思うかもしれませんが、最近、キャンプを繰り返しています。山暮らしに興味があり(アルナーチャラ山に行くわけじゃないですが笑)、その前準備としてやってみてる感じです。もし、外でハンモックで寝ている人がいたならば、もしかすると、それは僕かもしれません。
自我は「泡」、真我は「海」と例えられることがあります。 泡が弾けるならば、自我は真我と一体となるという意味で使われると思います。 でも、人はもともと海なのであって、海が弾けることはありません。 大事なのは、泡として弾けようとすることではなくて、自分は泡ではないと気づくことです。
瞑想することで苦しみが避けられると思うなら、ハートは理解できないかもしれません。 理屈的に考えてもそうなんです。 ハートは感情からも意志からも解放された状態です。 苦しみをコントロールしようとする意志がそこにいる限り、意志から解放されることはないんじゃないでしょうか?
引き寄せの法則で不思議に思うのは、それらを教える方々自身は、しっかりとマーケティングの知識を学んでいるように思えるところです。 引き寄せているのはマーケティングの知識でしょうか?
僕は言葉にこだわっているように見えるかもしれませんが、そうでもないんです。 苦しみと退屈を避けないことに、言葉は不要です。 ただ、その理由を言葉にするからには、ある程度の論理性は持たせたいなとは思っています。
Replying to
「ああしなければ、こうしなければ」。もし、それらの認識が解放感を覆い隠すなら、投げ捨てるべきはそれらの認識の方です。探求の終わりに、この世界の実在性が失われるのは、この世界の実在するという認識が、この解放感を覆い隠すことができなくなるからです。
人の役に立ちなさい。 それは民主主義なのか? はたまた独裁主義なのか? その言葉をある人が聞くなら、生きた動物を殺し、よかれと思ってあなたに差し出すだろう。 あなたはそれを喜ぶだろうか? それとも「それは違う」と説教するだろうか? そこには〝誰〟にとっての善悪の判断があるのだろう?