プロ野球歴代2位の通算596盗塁をマークした元南海(現ソフトバンク)外野手の広瀬叔功(ひろせ・よしのり)さんが2日午後4時30分、心不全のため、広島県内の病院で死去した。89歳だった。葬儀・告別式は家族ですでに執り行われた。野村克也さん、杉浦忠さん(ともに故人)らと南海の黄金時代を支えた。俊足と天才的な走塁術で61年から5年連続で盗塁王を獲得。盗塁数は福本豊の1065に次ぎ、8割2分9厘の高い盗塁成功率を誇った。引退翌年の78年から3年間は南海の監督を務め、99年に野球殿堂入りした。
「元祖・盗塁王」の広瀬さんが逝った。すばしこい動きから仲間から「チョロ」の愛称で親しまれた往年の名プレーヤーだった。
55年に投手として南海にテスト入団。1年目に右肘を痛め、俊足を生かすために野手に。プロ初打席から6打席連続安打。野村さんは「天才」と評した。
57年に遊撃手のレギュラーをつかみ、59年は球団の日本シリーズ初制覇に貢献。遊撃の守備では一塁への送球を内野スタンドに投げ込んでしまうこともある強肩、送球難だったため、61年に中堅手に転向。広い守備範囲と強肩で名手として鳴らした一方、この年から5年連続で盗塁王を獲得した。個人成績には無頓着。打率維持のために四球を選んだり、快足なのにバント安打を狙わない。練習嫌いで素振りもしなかった。
64年は89試合目まで打率4割をキープ。当時はプロ10年目にボーナスが出た。この年は目の色を変えて練習に取り組んだが、その影響で左手首を故障。それでも3割6分6厘で初の首位打者に輝いた。盗塁王と首位打者を同時に獲得したのは史上初で、2度目の日本一へけん引した。この年は、当時のプロ野球記録となる31連続盗塁成功を果たした。「チームのためにならないことはしない」が信念で、接戦でしか走らなかった。次打者が打撃に集中しやすいよう、盗塁はほとんど初球に走った。
南海の黄金時代を1学年上の杉浦、野村らとともに築いた。いつも3人で遊び、日本シリーズ中も銀座で飲み歩いた。「(監督の)鶴岡(一人)さんから『南海の三悪人』と呼ばれてな」。夜のクラブでの三者三様ぶりが、それぞれの個性をよく表していた。「スギやん(杉浦)はニコニコと静かにグラスを傾けて、女性によくモテた。ノムやん(野村)は酒を飲めんのに、女の子を熱心に口説いてたな。ワシはガバガバ飲んで酔っぱらってた(笑)」。門限を破って寮に戻ると、広瀬さんが塀を乗り越えて内側から鍵を開け、2人も建物に入ることができたという。
72年に史上6人目(当時)の通算2000安打を達成し、77年に現役を引退。野村選手兼任監督が解任されたため、急きょ監督に就任。解任騒動で野村、江夏豊、柏原純一が抜けたチームは戦力が大幅に低下し、6、5、6位で80年に退任した。「準備を整えて監督をしてみたかったな」と、後年つぶやいたこともあった。
晩年は、対岸に宮島を望む生まれ故郷に戻り、評論活動の傍ら、地元の体育協会の会長も務めて地域貢献に尽力した。
◆広瀬 叔功(ひろせ・よしのり)1936年8月27日、広島・佐伯郡大野町(現廿日市市)生まれ。広島・大竹高から55年に南海入団。63~65年は外野手でベストナイン。72年にダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデン・グラブ賞)。オールスターでMVP2度。77年に現役を引退。監督通算は136勝227敗27分け。91年から2年間はダイエー(現ソフトバンク)でコーチを務めた。









