プロ野球南海のリードオフマンで歴代2位の596盗塁を記録し、南海監督を務めた広瀬叔功(ひろせ・よしのり)さんが心不全のため2日に亡くなっていたことが5日、分かった。89歳だった。広島県廿日市市出身。

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現役時代を知らない記者にとって、広瀬さんは祖父のような親しみやすい方だった。自分のことを「フーテン」と言い、球界のレジェンドでありながら偉ぶるようなことは一切なかった。いつもニコニコして、冗談ばかり言っていた。一緒に試合を見ていても、目の前の試合から話が脱線することも珍しくなかった。現役時代のお酒にまつわる話や昭和ならでは豪快なエピソードに、何度も笑わせてもらった。

特に現役時代の話には耳を疑うものもあった。当時は注目度が低いパ・リーグ。500盗塁に王手をかけてから報道陣が多く詰めかけたことで「走ってたまるか」と盗塁を狙わずに記録達成を先延ばしにしたという。さらに89試合目まで打率4割をキープした64年は「10年選手制度」となるシーズンで、初めてちゃんと練習をしたら腱鞘(けんしょう)炎になり「いつもやらないことをしたからやな。練習したからケガしたんよ」と笑った。それでも、サインに「努力と忍耐」を書き加えていたのは「自分への戒め。わしは努力をしたこともないし、忍耐力もなかったからな」。だから、指導者になっても選手には「努力と忍耐」を求めなかったという。豪快であり、筋が通った人だった。

広瀬さんは評論の日でも、試合が終わるまで球場にいない。タイミングを見計らい、席を立つ。まるで飲み会を途中退席するように、挙げた右手を小刻みに振りながら「失礼します」とニヤニヤしながら記者席を出て行く。「何かあったら、連絡してこいよ」。そう言って帰った試合は、いつも電話する必要がなかった。

すべてを見透かしたような力に驚かされたことは、評論のない日にもあった。連絡なく球場に来られていた広瀬さんの姿に思わず「どうしたんですか?」と聞くと「これを渡すために来たんや」と、右手に持った封筒を差し出してきた。「見舞金」と書かれていた。