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【大企業リストラ】私が“追い出し部屋”を卒業するまで

【はじめに】

【ある調査によると】 2024年の早期退職者は前年から急増し、およそ3年ぶりに1万人を超えた。なお、足もとでは、さらにその数は加速している模様だ。

 ──真実は細部に宿るという。ならばこの数字のなかには本当の細部はない。私という細部が。  
 大企業という巨大帝国の小さな歯車の一つにすぎない私が……。

何気ないはずだった朝

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 九月のある朝。その日は私にとって特別な日にならないはずだった。  
 40代も半ばになると目覚めのいい朝なんてない。選挙もないのにいちいち顔を出さなければならない太陽に深く同情する。
「あなたー」と呼ぶ声がして、一階に下りると、朝食の準備がすでにできていた。  
 先に座っていた小4の息子が「パパおはよう」と振り向く。息子については中学受験のことをいろいろ考えているところだ。
「おはよう。早いな」と頭をなでてから私も座った。
「パパが遅いんだよ。このごろずっとね」息子は “ねえ”と妻とうなずき合っている。  
 そして、妻がよそったみそ汁を私の前に置いてくれながら言った。
「あなた、今日から新しい部署なのよね?」  
 不意だった。自分のことではあるのだが……。  
 横の息子がお米つぶをつけた口で「えっそうなの?」と興味を示す。  
 ──だが心当たりがない。
「そうだったかな」  
 イスをひき直した。うちの床はもっとすべりやすかった気がする。  
 妻もテーブルの向かいに座った。
「あなたがこの前言ったんじゃない。“辞令が出た”って」  
 ──私が!? 言った!?  季節は秋だ。さびしい季節ではあるが、しかし決算後の異動シーズンというわけでもないこの時期に……。  
 どうかしたのかという感じでのぞき込む妻。みそ汁の湯気がうわっと上がってきた。
「ああ、そうだった。ちょっと日付を勘違いしててね。うっかりしてたよ」  
 本当はさっぱり思い出せていない。そんな大事なことなのに。まさか若年性の認知症とかだろうか。このごろは多いと聞く。ただ、一生懸命思い出そうとすると、何かが記憶の奥にひっかかっているように感じる。
「きっと疲れているのよ、あなた」と、妻は自分でお茶を入れて両手をそえて飲みながら言った。
 私はまた箸をしっかり持って、ごはん茶碗に手をつけた。
「で、どこの部署なの?」  
 ドキリとした。妻とは社内結婚だった。だから会社のことはよく知っている。おかげで愚痴もこぼしやすいのだけど……。
「それも言ってなかったのか……」
「パパ大丈夫?」  
 息子はごちそうさまの手でこちらを見ていた。





 朝食後。  
 二階にて、鏡の前でネクタイ選び。  
 ネクタイを選んでいるときの顔はこんなにも老け込んでもいいものなのだろうか。それとも朝陽の入り込み方の加減なのだろうか。
 ところが、ここでも──真実は細部に宿る。  
 どんな柄のものをあてがってもしっくりとこないのだ。  
 ふと、私は何の会社に勤めていたのかが急に自信が持てなくなってきて、名刺入れをカバンからひっぱり出してみる。まだ住宅ローンだってたっぷりと残っている。子供の頃にあつめたビックリマンシールのようにキラキラとケースが反射する。その名刺に刷られた文字を見てようやく心当たる。私の勤め先に、だ。肩書は『事業部長』とある。  
 ──そして、最後にあてがった一本を首に結ぶ。私は鏡に対してのみ私なのだ。  
 少し長くなったが、実はここまでの二階での狂想曲は毎朝くり返している。いずれこの意味についてはわかってもらえると思う。  
 上着を着込む。ダークスーツ。シャドーストライプ。
「それじゃあ、行ってきます」私が靴べらを入れていると、妻が玄関へ来た。
「あなた、またそのネクタイ?」
「え!?」
 朝だけで何回驚けばいいのか。
「いいかげん変えたら?」
「そうするよ」
 私がほどいていると、息子がくつ下ですべり込んできた。
「パパ、ボクが今ちがうのを持ってきてあげるよ」  
 元気よく階段をのぼっていった。

まさかの配属先



 家を出てから会社までの行きかたは足がしっかりと覚えている。暦では八方塞がりの年の私もまだまだ歩き回れる。  
 駅のコンコースでのピンポーン音をしばらく立ち止まって聞いた。乗換スムーズ。  
 下車駅はほとんどうちの会社のバッジをつけた人間ばかりだった。ぞろぞろとその流れにまかせて歩く。建屋があいまいなままでの通勤がこんなにも非現実的感覚をもつものだとは思わなかった。  
 そびえ立つ本社ビル。わざわざ見上げるのなんて私だけだ。ガラス張りにぺったりとコピペしたような空が映る。 『企業の公正さ』を表したデザインの会社ロゴがでかでかと主張している。  
 入る前に、一度立ち止まってスマホで会社情報をおさらいしておく。なんだかまぬけな産業スパイみたいだ。

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【会社概要|総合電機メーカー|創業|まもなく百年|連結従業員|約20万人|年間売上高10兆円】  

 教科書通りの大企業だ。自分となかなか結びつかない。  
 せーので、入口階段の一段目──つまづく。まるでワークライフバランスでも崩したかのように……。
 周りの誰も笑ってくれない。ひどく冷たい雰囲気を感じた。そもそもこれだけの同僚の群れの中で、遠慮会釈なく私に話しかけてくるものなどいない。朝だからだろうか。いつもはどうだったんだろう。  
 場所も何もかもわからないので、ゲートで守衛さんに、今日から異動なんだけどと告げると、
「お調べします」と言ってカードを持っていきすぐに戻ってきた。  
 やけに言いにくそうに私の行くべき場所を教えてくれた。
「階段で行かれます?」
「エレベーターは使えないの? 故障?」
「いえ、エレベーターは使えます……そちらの部署のかたは階段で行かれるかたが多いので……」  
 ずいぶん健康志向の強い部署だな。でもヘルス関連機器の部署なんてうちにあったっけな……。  
 もちろんエレベーターで上がる。なんせ8階だ。  
 朝なので満員に近いのだが、なぜかわからないが私のまわりには少しスペースがあった。  
 8階では私だけが降りた。  
 やけにひっそりとしたフロアだ。日当たりも悪い。  そして私の新しい配属先へ着いた。  

 え!? ここが……!?  

 まるで宇宙船の耐火シールドみたいに重そうな扉の上に『ライフキャリア・クラップ室』と表記されている。  
 仮にも私は事業部長だ。なんなんだ、この部屋は。あまりにも閉鎖的すぎる。  
 まさか……。と思いながらも扉をおそるおそるスライドさせた。
  ── 一斉に、中にいる人たちが私を見た。  
 まさかここでノスタルジイを感じるとは思わなかった。並びが学校の教室のようだったからだ。生徒側に同じ向きで私と同じ年代の社員たち、そしてドアからすぐの教壇のところには人事部で見かけたことのある30代の男性社員が見下ろすように座っていた。  
 私を見た無気力な視線はすぐに無関心なものとなり、みな顔を伏せると自分の世界に戻っていったのがわかった。そこでようやく私にもわかった。これが噂に聞いていた追い出し部屋ってやつか、と。
 ショックがそれほどないのがショックではあった。それにしてもみんな出社が早い。
「おはようございます」  
 教壇側、生徒側、それぞれに小刻みにお辞儀しながら入った。  
 管理担当さんの前を通ったときに私を見て、目の色を少し変え、「あ、変えましたね、やっと」と声をかけてきた。 
「え?」
「ネクタイですよ。ずっと同じのだったからさすがに言おうかと思ったんですよ」
 どうして今日からお世話になるこの人は今日以前の私のネクタイのことを知っているのだろうか。さっきショックがなかったことの副作用が一気にきて手に汗をかいてきた。
「ああ、もちろん、この部屋のルール違反ではないですから、気にしないで下さい」  
 管理担当さんは右手をさっと広げて、どうぞと私の通行を促した。
「あのう、私は前の部署のデスクの物をとってきたほうがいいでしょうか」
 べつに観測気球ではない。素直にたずねたのだ。  
 すると彼は「またか」という表情になった。 「もうすべて、こちらにありますよ」  
 変な汗は止まらなくなった。  
 よろめくようにして唯一空いている席へと歩いた。まるで期末試験中にトイレに行って帰って来たようなロード感があった。何人かが咳払いした。  
 ゆびでその席を指しながら、ここでいいのか振り向いたら、彼はうなずいた。  
 静かに、でもドカッと腰を下ろしてからイスをひいた。閉じたノートPCといくつかの会社資料が重なっていた。  
 この席で私は何をしたらいいのだろう。  
 とんとんと後ろの人が背中をつついてきて振り向くと、すっかりスタインベルグ風の漫画みたいな表情になってしまった男性が、 「あなたは、自主的に社史の編纂に取り組まれているようですよ」と教えてくれた。この人も前から私を知っている。
「あ、社史、社史……そうですか……」  
 またなにかの警告音のように咳払いがいくつかあった。  
 壁の時計を見てまた机の上に目を戻す。学校で使うやつよりは二ふた回りくらい大きい。  
 ノートパソコンを開く。付箋がいっぱいついている。 『妻は知らない』と私の文字。 『ここにきてからの日数』と書かれた付箋には正の字が並んでいた。
 正、正、正、正、正……  その数をかぞえているうちに息苦しくなってしまった。  
 ── もう三か月にもなっているじゃないか。  
 管理担当さんのするどい視線を感じた。  
 ふるえる手でPCを起動する。  
 ホーム画面にでかでかと自分で設定したと思われるメッセージが浮かび上がった。

注意!! 記憶のリセットまであと15時間』

追い出し部屋の面々



 ── いっさいは過ぎていく。  
 まるで太宰治の例のあの小説を終わりから読むかのように、時は過ぎるものだ。  
 さらに一か月が過ぎようとしていた。  
 あの衝撃の日の夜からネクタイをあらかじめ前日のうちに選んでおくようにしたら、夜に記憶がリセットされてしまうというショック症状もなくなり、『正』の字も必要なくなった。  
 おかげで少しずつ自分の身の周りのことが整理できるようになってきた。  
 ──追い出し部屋。  
 時計の針の音と静寂との調和。  
 私は今日も一生徒のように前を向いて座っている。時間から遊離しているというか、なんというか……。
 暇そうに爪をいじっている管理担当のうしろには黒板もホワイトボードもない。なにも書き伝えることなどないからだ。  
 ラジオ、テレビ、レコーダー、ビデオテープ、カーナビ、ゲーム機……いつも世の中を驚かせてきたこの会社にいられることが誇りだった。いくつかの事業部で、主に製造、販売部、アフターサービスの分野を渡り歩いてきた。毎日毎日、まるで戦場のようにオフィスや製造を駆け回り、指示を出したときは開発や設計の連中ともぶつかった。ひっきりなしの電話、顧客、サプライヤー、メディア、官公庁、……、コール音がエネルギー源みたいにバリバリ働いた。それらすべてがまるでウソのように今は静寂に包まれている。これは職場なのか。  
 何の指示もない。  
 あの日、統括人事部長との面談で、「あなたのやる仕事はもうない」と告げられてから、それを痛感するだけの毎日だった。  
 現在この部屋には40名くらい在籍している。ちょうど一クラスくらいだ。もちろんこの一か月でもメンバーはけっこう入れ替わった。この部屋を出ることを『卒業』と呼ぶ。  
 良い卒業もあれば悪い卒業もある。  
 外出には許可が必要なので、大人になってトイレで手を上げなければならない。ズタズタにプライドを打ち砕いて、自主退職に追い込みたいのだろう。上乗せの退職割増金カットのためにコンサルまで雇っている。  
 この前家でトイレに行くときに手を上げてしまい、妻が目をまんまるにしていた。  
 妻にはあの日のあと、新しい部署の感想を聞かれたりもした。
「少し勝手は違うが、風通しの良いところだ」と答えておいた。空調はあまり効かない。
  “今、スキルを磨いておけば、この先ブルーオーシャンですよ”と、会社が提携する転職支援サービス会社の人は言った。まったくおためごかしもいいところだ。  
 この会社がなぜこんなにもリストラに舵を切り出したのか……。会社はマスコミリークばかりで我々社員はいつも報道でそれを知るようになった。会長兼社長への権限の集中……思えばそれが前兆だったのかもしれない。 『想定以上の市場の縮小や外部環境の変化』  それは建前で、結局は株主資本主義のなれのはてなのだ。  
 経営判断のあやまちを認めずに高額報酬をもらいつづけ逃げ切ろうとする役員たち。  
 そして、その犠牲として、未来も何もかも奪い取った中堅ベテラン社員たちをここに送り込む……。  
 私はこの先の自分の歩む道をまだ決めかねていた。寄らば大樹ではないが、金がいるのはたしかだ。御用組合に掛け合ったところでムダムダ。  
 けっしてしがみつくわけではなく、この会社が好きだから残っている人は結構いる。  
 ときおり奇声が上がったりもする。だが、そういう人はまだ元気な人の部類だ。  
 もちろんそういうのだってひとつの社史の細部といえる。  
 私がこの部屋で新たに社史を編纂しようと思ったのも、この会社が好きで好きで頑張ってきた自分を見失いたくないという理由からだった。社史に打ち込むことで、自分を慰めたかったのだ。  
 PC作業に少し疲れて顔を上げた。  
 ほかの人たちもみんな何かに打ち込んでいる人が多い。
 それでは、私がときどき会話をするメンバーを中心に紹介しようと思う。  

◎ふちなしメガネをかけてずっとひたすらネットサーフィンをしているA田さん。粘り強い営業が売りの人だった。  
◎ひたすら資格取得のための勉強をしている女性、B川さん。面倒見のいい人で、初の女性だけの部署でリーダーを任されていた。留学経験もある。  
◎髪ツンツンの元エンジニアのC本さんは、よくわからないが、オリジナルの新製品に関する開発提案書をコツコツ書いている。心はもう外部の人なのかもしれない。通るとは思えないが。  
◎そして、ミイラとりがミイラじゃないけど、人事部ながらロックオンされてしまい、この部屋に来たD山さん。ずっとチャットGPTと会話している。この部屋に来てからヴィーガンになったらしい。  

 そんなところだろうか、
 その他の人はほとんど話さない人ばかりだ。  
 みんなどれくらい転職活動を進めているんだろうか。 ぐるぐる見回していたら後ろからつつかれた。
「われわれのこの部屋も立派な社史ですな」と後ろの席の人にに小声で言われた。この人には出来かけの社史を一度見せたことがある。感想はなかったが。
「ええそうですね」  
 これが『黒社史』ってやつだろう。
「ところで〇〇さんは、昼休みはどこで食べるんですか?」
「あ、もう昼か……」私は時計を見て言った。  
 この部屋の住人で社員食堂へ行く者などいない。知った顔に会いたくないからだ。ほんとうは社員食堂が一番安上がりなのだが、しかたない。  
 私は机の上を整理してから、「資料室に用があるので」と答えた。
「そうですか」と言ってその人はポケットに手をつっこんで部屋を出ていった。  
 私も仮出所みたいに体をちぢこめて部屋の外に出た。

別館資料室の赤鬼



資料室は別館にある。環境問題への取り組みの一環で敷地内に人工的に作られた『再生の森』という緑の中に、ひっそりとたたずむ洋館風の建物だ。
 勤務中に来るとちょっとした異世界気分を味わえる場所として新人なんかには人気がある。

 私の若いころにはこの建物はなかった。あっても来なかったと思う。とにかくがむしゃらだったし、同期ライバルより一秒でも職場を離れたくなかったから。そういう時代だった。  
 今の私は御しがたい無関心が自分を満たしはじめているのがわかっていた。だから社史のために資料室に来ることは何か自己矛盾ではあった。  
 ノックしてから入口のドアノブをまわした。押戸なので押して入った。
「こんにちは」と声をかけるが応答はない。とりあえず必要な資料文献を探すために書庫を回る。やるからには手を抜きたくない。意地もある。  

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 何冊か抜き取り腕に抱えていると、声をかけられた。いつもの渋みのあるやさしい声だ。
「どうですか、社史づくりの調子は」  
 スーさんである。スドウのスー。ここの管理人だ。スラムダンクの監督さんみたいな風貌。私の置かれている状況はぜんぶ知っている。
「ええ、ぼちぼちです」
「コーヒーどうですか?」
「ありがとうございます」  
 休憩コーナーで向かい合わせに座った。
「あ、とてもいい豆ですね。それにこのカップも」  私の浅い知識で言ってみた。高いのくらいはわかる。 「交際費みたいなのがあるんですよ。使わない手はない」  

 スーさんの淹れてくれたコーヒーをいただく。人工とはいえ森の中で飲むコーヒーは最高だ。
「実は何人か、上の人にインタビューしようかと社内メールで申請してみたんですけどね。断られました」
「まあ、そうでしょうな」  
 定年間近のスーさんはうなずいてから遠い目をした。それは会社と闘ってきた男の目だ。  
 彼はその昔、組合運動が盛んだった頃、『労組の赤鬼』と呼ばれ、その断固として引かない姿勢で会社側から恐れられていた人物だった。
「それが今じゃあこのザマよ」  
 ひととおりいつもの、旗指物に突撃太鼓時代の武勇伝を語った後で、今日もそう締めくくった。  
 いつしか閑職に追いやられ、腫れ物扱い。そして最後にはこの場所におさまった。いや、おさめられた。
「あの頃は会社と社員の関係にも血が通っていた。ひとりひとりの人生がきちんと花開いていたんだ」  
 私はしずかにうなずいてコーヒーをすする。私に言えることなど何もない。
「キミのために闘ってやりたいが、ごらんのとおりでね」
「いいんですよ」
「そういや、昼食は?」
「いえ、食べないんです、いつも」
「そうかい。現在の一日三食の食習慣の基本ってのは産業革命から確立されたんだってな」  
 スーさんは膝をたたいた。
「ならなおさら、私の生産性では食べられないですね」  
 二人して苦笑い。
「ぼちぼち行きます」  
 そろそろ昼休みも終わりだ。私は立ち上がった。
「ほら、忘れものだよ」  
 置きっぱなしの資料をぽんっと渡された。

精神科への通院



 今日は月に一度の精神科クリニックへの通院の日だ。  
 この頃は徐々に失っていた部分の記憶が取り戻せてきたことを伝える。夜の記憶リセット現象が起こる回数もかなり減った。  
 もっとも回復すればするほどボディーブローのように現実が効いてくるのだが……。
「いいですか」と今日も白衣ではない先生。
「すべてを思い出すということはとても覚悟がいることなんですよ」
「はい、わかっております」  
 先生が私のことを思って言ってくれているのはわかっている。必要な薬も必要なだけ処方してくれる。おそらく最重要な何かが奥底にはある気がする。
 人物……影……。  
 きちんとしかるべき診断書を書いてもらえば労働審判に持ち込むことだってできるのかもしれない。だがここでもまたプライドが邪魔をする。  
 緑の物の多い診察室。先生はこちらを向いて座ったまま手のひらをひざの上にきちんと両方乗せて話した。 「あなたは忘れているんじゃない。拒絶しつづけているんです。そのことが『忘れる』という形で表面化しているだけなんです」
「はい……」  
 それに、これを家族への言い訳に使いたくはなかった。妻に話せていないことはかなり心の重しになっていることは事実だ。  
 少し間があいたタイミングで、しっかり待ってから、先生は「では、また来月」と私に言った。

豪華な食卓


 その夜の食卓はなぜか私の好物ばかりが並んでいた。社食にすら行けない今の私には目がチカチカしそうなラインナップ。まだまだ持ってくるらしい。妻と息子が協力しあってキッチンで忙しくしている。
 私は待っている間ずっとテレビをつけたり消したりしていた。無意味な作業をしていないとこのごろは逆に落ちつかなかった。
「腕によりをかけたわよー」  
 妻は最後の皿を運びながら笑顔で言った。
「ボク、料理人になろっかなー」と言いながら息子もやってきた。調味料をくるくるさせている。
「ずいぶん豪華だな」  
 物価高騰の波は例外なく我が家へも押しよせていた。  
 二人が席についた。
 “やっぱりだね”と二人で顔を見合っている。
「ん? どうした?」
「だって今日はあなたの誕生日じゃない」
「パパおめでとう」
「そうだったか……」
「それに久しぶりの異動先でもうまくやってるみたいだし、それのお祝いも兼ねてよ」
「どの料理も好きなものばかりでうれしいよ」  
 家族の優しさがナイフのように胸をえぐってくる。私は毎日追い出し部屋に通っているだけなのだ。
「でも、けっこう高いんじゃないか、これだけ作ると、材料費が」
 すぐ上の電球がいっときチカチカした。そろそろ替えなきゃだ。
「あなた最近お値段のこと細かくなったわよね。前はそうでもなかったのに……」
「うん、パパ、このごろ少しケチケチしてるよ」
 一家の大黒柱は太くて強くなければならない。今夜の私はせいぜい相撲の突っ張り稽古を食らっている鉄砲柱だ。妻と息子からビシバシ食らう。
「よーし」と威勢よく声を出して私は精一杯の笑顔をつくった。
 まるで食いしん坊の見本のようにフォークとナイフを持ってみる。
「今夜は食うぞー」  
 胃はそうは思ってなかったらしい。  
 夜中にすべて吐いてしまった。

プライドを引き裂く課外活動



キュ、キュ、キュ。小気味よい布の音。どんどんピカピカになっていく。  
 ──銅像が……。  
 メインゲートの一番目立つあたりにある初代と二代目の社長の胸像を何人かでていねいに磨いていく。さらにその周りの床も。汗だくだ。  
 今日は追い出し部屋名物の課外活動の日だ。我々の班以外は草むしりやドブさらい、トイレ掃除に、社用車の洗車などを言い渡されている。  
 労働として体力的には我々の班はましな方かもしれないが、一番人目にさらされるという点ではきつい。  
 この課外活動でプライドをズタズタにされ去っていく者も少なくない。  
 向こう正面の受付の女の子が、見てはいけないものを見たかのように違う方をずっと向いている。  
 ずっしりとした台座には『息吹』という文字。それもピカピカにする。こうなりゃ先人の爪の垢まできれいにしてやる、とばかりに私は腕をまくる。
「まあそう力みなさんな」  
 同じ班のD山さんが雑巾を絞りながら言った。
「そうですね」  
 D山さんはこのごろあの部屋でオンラインゲームをやらなくなった。チームでやるゲームをやっていたが、そのゲーム内でもリストラされたらしい。  
 水を替えたバケツを持ったC本さんが「まったくやってられませんわ」とそれを置いた。  
 女性のB川さんはずっと無言でテキパキと動いている。むしろ男性陣のトロさにイラついているようにも見える。──『バリキャリ』。彼女はついこの前までそんな言葉がよく似合う人だったはずなのに……。  
 脚立に乗って初代社長の口ひげのところをていねいに磨いていたA田さんが「ま、解雇規制様様さまさまですな」と言った。みんなで苦笑。  
 いつも不思議なのはメンバーのみんなは私を介して話をするということだ。けっして仲が悪いというわけではないと思うが、それぞれが会話しているのはあまり見ない。  
 ぼさぼさしていたらバーッと水滴が降ってきた。ホースの先をつぶしたB川さん。
「ちょっと冷たいですよー」  
 そんな男性陣を尻目にB川さんはクールに言い放った。
「ノアは雨が降る前に箱舟を造ったわ」

同僚の口から出た衝撃の事実


 その日も17時きっかりに退社した。追い出し部屋の住人たちはいつも会社から散っている。
 方向は違えど一様にさびしい背中が夕陽を浴びるのを見ながら、まさか毎日まっすぐ帰るわけでもないだろう、と思った。早すぎる。  
 家族に打ち明け済みの人はそれでもいいかもしれないが、私のような身の者はたまには飲んで帰らないと怪しまれてしまう。  
 汗もかいたし、少しやるかな。さびしい財布の中身を確認してから歩き出した。   





 千円でベロベロに酔えることから通称千ベロと呼ばれる安い立ち飲み屋を三軒ほどハシゴしたらほどよく酔いが回った。  
 冷たい風にあたりながら呑み屋小路を出てさらに歩いた。ブルッとなって薄手のトレンチコートの襟を立てた。  
 過ぎゆく若い人たちがものすごく若い人に見えた。同年代の人もとても若く見える。私以外みんな若く見えた。フラフラした。もう冬は近い。まだ早すぎるクリスマスイルミネーション。みんなスマホで今を切り抜くようにあちこち撮りまくっている。星のない夜空──だから、星がないのかな。  
 少し静かめな人の流れのある公園通りへ。ここはあまり会社の人には会わない。強めに剪定されたプラタナス並木が湯の風物詩的に並んでいる。

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 ヨーロッパタイプのおしゃれな街路灯が集まるあたりにさしかかったとき、路上ミュージシャンの歌声が聴こえてきた。  
 聴衆はちらほら。スポットライトのように照らされ、小さな折り畳みイスに座って脚を組み、抱えたギターをかき鳴らしながら歌っている。ジーパン、革ジャン。そんなに若い人ではない。ストレートな歌詞に誘われて私も近づいた。

 ♪ひとりでは生きていけない  
 Ah でも今はひとりでいたい   
 愛なしでは生きていけない   
 Uh でも今は孤独でいたい   
 明日なしでは生きていけない   
 Woh でも今は   
 Yeah でも今は夢の中にいたい  

まるで私の思いを代弁しているかのような歌詞に聞きほれてしまった。朝が来なければと何度思ったことか……。
 でもなんだか聞き覚えのある声だと思い、さらに近づいてよく顔を見て、
「あ」と声を出してしまった。
  歌が終わったところで拍手してから、 「C本さん!? ですよね?」と声をかけた。
「どうも」とギターをしまいながら照れくさそうにこくりと首を動かすC本さん。会社のときとはぜんぜん雰囲気が違う。  
 私は驚きやら感動やらのチャンポンで酔いがぶり返した。  
 そのまま近くのベンチで並んで座って話した。
「すごくいい歌でしたよ」
「ありがとうございます。でも会社の人に見られちゃってまいったなー。しかもよりによって追い出し部屋の人に……」  
 口の両端をいっぱいに広げた苦笑い。
 どうぞと缶コーヒーを私は差し出す。  
 カチッと蓋の開く音が立て続けにふたつ。あとは夜の静寂。  
 ベンチの背もたれが深すぎて二人とも前かがみ気味で前を向いて話した。さながら試合展開をベンチで見つめる控え選手のようだ。  
 彼はまだ少しハイだった。またギターを抱えだして、ポロンとかき鳴らしながら話す。
「オリジナリティあるものを自由に作れていた頃が懐かしいですよ。また戻りたいな」
「そうですね」  
 元エンジニアの彼は実際、マニア垂涎の名機を作ったこともあった。
「自分、独立考えてるんですよ」
「C本さんなら、きっとうまくいくと思いますよ」
 心からそう思った。  
 技術のあるC本さんがうらやましかった。
『特技・事業部長ができます』なんて言ったってどこも雇ってはくれない。夜空に月もないことにそのとき気づいた。  
 ジャガジャガジャン。
 ドライに響く。
「いつしかまったくチャレンジさせてくれない職場になっちまってた……」
「まったくです」
 コーヒーを飲みほした。究極の利益追求型である株資本主義の末路……。  
 バブルの頃までは長持ちする製品が目標だったのに、製品が適度に壊れないと新しいものが買ってもらえないという流れにいつのまにか変わってしまい、10年ほどで壊れるものを作るようにした、と言われている……。  ──人材も、10年で壊れるものがいいってことなのか……。
 ピンピンピンと少し神経質に弦をはじく音がしてC本さんがつぶやいた。
「これ、言ってもいいのかな……」  
 足もゆすっていてとても気になる。
「なんのことですか? 言ってください」  
 今思えばこのときもうちょっと覚悟を持って聞くべきだったかもしれない。
「自分から聞いたって言わないで下さいね」
「もちろん」
「……演技かと思ってましたよ」
「え!?」
「最初にあなたがあの部屋に来た頃はあなたは演技してるのかと思ったんです。生還するためのね」
「そんな……」
 缶を落とした。すぐ拾った。
「本当にあまり記憶がないんですか、あのことも」 「あのこと!?……まあ精神科には毎月通ってるんですよ、本当に……」
「なら教えますよ。実はあの部屋のなかにあなたをリストラ対象に追いやった人がいるんですよ……」  
 酔いは一気にさめた。肌寒さ以上に寒くなった。 「誰?……いや、待って……」  
 理解が追いつかないと同時に聞くのが恐い。私はひざをC本さんの方に向けていた。
 まさか一人ではない…… ?
「すべては指名制なんですよ。あの部屋にいる人間が次の候補を指名して引っ張り込むというまあ、悪しき習わしというか……それでポイントを稼いでうまくいけば元の部署に生還できるシステムです。うまくいけばですけど。あなたも本当は知ってたはずですよ、全て……」
「……」  
 同じ被害者のあつまりだと思っていたのに……。策謀渦巻く闇世界だったってわけなのか。鵜呑みにしていいのか、この話。のどが渇く。
「私も頭がどうかなりそうでしたよ。何も信じられなくなった。もうずっとそうでしょうね……。さあ、でももうこれ以上はしゃべれません、勘弁して下さいね」  
 ジャガジャガジャン。  
 その音はやけにあたりに響き渡った。


「家内には連絡しないで欲しい」と言った彼




 翌日、もはや私の目に映るこの追い出し部屋内の景色は一変していた。  
 秒刻みの犯人さがし。社史そっちのけで。
 ──私をこの部屋へ追いやったのはどいつだ。なにしろ真実は細部に宿るのだから、目を皿のようにして、  こいつか。いや、こいつか。  
 よほどな目つきだったんだろう。たまたま目があった人が少しイスの上でジャンプして見えたくらいだ。
 もう誰も信じられない。信じてはいけない。会社も社会もなにもかもだ。  
 キョロキョロしすぎて管理担当さんから注意を受けた。
 みんな敵だ。  
 ふと、そのとき既視感が襲った。  
 そういえば学生の頃、こんなふうに教室中を見渡したことがあった。私の私物がなくなったからだ。犯人さがしをして、クラス中を巻き込み大騒ぎした。みんなから嫌われ、でも結局私の兄弟がそれを勝手に持って行っていただけだった。あのとき、後悔の中で幼いながら二度と人を疑わないと誓ったことを思い出したのだ……。  
 ぶるると首をふるわせた。いけないいけない。私は息子にものごとの善悪を説く身なのだ。こんなことは良くない。  
 それに、みんなもそれぞれ疑心暗鬼の中でもがいているのだろうから……。そうなのだ、やはり同じ被害者なのだ。やめだ、やめだ、こんな犯人さがしは。  
 まっさらに戻した気持ちでまた私は部屋の中を見回していた。するとさっきまで気づかなかったあることに気づいた。  
 A田さんの顔色がやけに悪いのだ。──蒼白、とても苦しそうだ。
 あっ、  
 手を上げてトイレに立とうとしたA田さんはそのままバタンと前へくずれるように倒れた。すごい音がした。  管理担当が少し迷惑そうに駆け寄ると、A田さんは「大丈夫です」と言いながら立とうとした。
「そうですか」と事を荒立たせたくないのが見え見えな態度を見かねて、少し離れた席の私は席を立って近寄った。ちょうど罪悪感にかられていたときだったのもあったと思う。他の人も何人か来た。
  私はA田さんの体を支えながら「無理は良くないですよ、病院へ行きましょう」と声をかけた。  
 他の人も同調している。
「なんでもないんです」  
 さっきよりもA田さんの顔色はさらに悪い。
「早く救急車を!」と、私はぼさっと立っている歳も年次も下の管理担当さんに強めに言った。こんなときに私に以前のような権限がないのが苛立たしい。
「え!? 呼ぶんですか? 救急車」  
 あからさまなその保身。この部屋の社員には人権はないと言うのか。
「人と人でしょうが。人の心はないのかよ。A田さんになんかあったら責任とれるんだな」  
 声を荒げていた。何人かが私の体をおさえていた。でも頭の中はけっこう冷静だったりもした。ある意味ではこの時にはもうこの会社を見限っていたのかもしれない。支えたA田さんは体の力がもう抜けている。
「わかりました。すぐ呼びます」  
 ほどなくして、裏口に救急車が到着。救急隊員が声を合わせながら、慎重にA田さんを運んでいった。
 そして、私が病院へ付き添うことになった。任せてはおけない。  
 それと運ばれている途中のA田さんがもうろうとした意識の中でこう言ったからだ。 「家内には連絡しないで欲しい」と。  
 その意味が私にはすぐにわかった。知られたくないのだろう、追い出し部屋のことを。  
 わかったと強くうなずき返したら、また目を閉じた。  
 救急車の中で横になったA田さんはずっとうんうん唸っていた。社訓を唱えたのには驚いた。もう最近では朝礼でもやらなくなったやつだ。彼も会社を愛する一人なのだ。    

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 病院に着いた。救急総合病院。地域医療の最後の砦。  A田さんはストレッチャーに寝かされたまま応急処置室へまるでベルトコンベアの上の製品のように入っていった。  
 待合室で待っている間。  
 あの── 10年で壊れる人材を作れ! の悪夢の大号令がずっと頭の中で鳴っていた。
 しばらくして、うつむいて座っていた私に声がかかった。  
 顔を上げると青いスクラブを着用した男性救急医の方が立っていた。
「あ、どうも」と私は立ち上がる。
「会社の方ですか」
「ええ」
「結論から言いますと過労です。点滴して様子見て、大丈夫そうなら帰宅していただきます」
「そうですか……」  
 とりあえず、大事でなくてよかった。
 彼が横たわるベッドの横へ移る。  
 点滴が繋がれ、少しやわらいだ表情で天井を見つめるA田さん。
「ご迷惑をおかけしました」  
 かすれた声でそう言った。
「いいんですよ、でも無理はよくないですよ」
 私は立ったままで少しのぞきこむような姿勢で話した。
「そうですね……」
「先生の話だと、様子見て帰れるそうですよ」
「ええ……会社ではどんな仕打ちも耐えられるんです……。でも……家で家内に嘘をつき続けるのがとても心苦しくて……」
「わかります、わかりますよ」  
 痛いほど……。  
 しばらくは沈黙がつづいた。救急の現場は大忙しみたいで、さまざまな声が飛んでいた。  
 看護師さんが状態を確認しに来て、戻っていった。 「いったん会社に連絡入れてきますね」
 行きかけた私を、A田さんが止めた。
「ちょっと待って下さい。○○さん、あなたに恥を忍んでお願いしたいことがあるんです……」  
 そのA田さんの願い事というのはとんでもないものだった……。

妻の寝顔を見ながら



 その日、病院から会社に戻ってからもいろいろバタバタして、夜遅くに家に帰ると、寝室の明かりがついたままで、妻はベッドで眠っていた。そっと布団をかけてあげる。  
 ずっと待っていてくれたんだろう。申しわけない。  
 妻のその寝顔を見ながら、今日の『A田さんのおねがい』を思い出していた。    
 それは簡単に言うと、 『自分の家内に追い出し部屋にいることを代わりに説明して欲しい』というものだった。  
 そこでふと思う。  
 仮にこの今やすらかに眠っている自分の妻に、そんなむごいことを私は説明できるだろうか、と。  
 とてもできそうもない。  
 私はそのA田さんのお願いを渋々受けてしまった。  
 妻がムニャムニャとしだして何かを悟られたかとドキッとした。まだしっかり眠っている。  
 私は妻を起こさないように電気を消してそっとベッドに入った。

同期のコミヤマ


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「それじゃあ、カンパーイ」  
 カチンッと音を立てて二つのビールジョッキが重なる。  
 誰かと居酒屋で飲むなんて久しぶりだ。  
 同期入社で気の置けない仲のコミヤマをこちらから飲みに誘ったのだ。例のA田さんのお願いの件で相談したかった。  
 相変わらず日焼けサロンで焼いて黒い顔。おしゃれなダブルスーツを着て、仕事できる感が溢れ出ている。もともと目端の利く男だったから、次第に重用されて気づいたら同期で一番出世していた。今や気軽に会えない存在だ。  
 ごくりと飲んだ。
「あーうまい」  
 どちらともなく感嘆の声。  
 もちろん彼は社内での今の私の置かれている状況のことは知っている。  
 でもそこは若かりし頃からともに青雲の志を胸に秘め、ともに切磋琢磨してきた間柄なので、水入らずとなった。  
 昔話をいろいろしていたら、なんだかあの頃に戻った気になる。  
 もう一杯もう一杯とビールを頼みつづけた。
「コミヤマ、おまえ、もうすぐ役員入りの噂もあるんだってな」
「よせよ、おれは政治は好きじゃないんだ。それに稼いでも累進課税でがっぽり持っていかれるわけなんだ」
「ずっと競ってきたけど、やっぱ、おまえが偉くなって、俺はうれしいよ」
「なんだよ、終わっちまったみたいに言うなよ、おまえの反撃にオレは期待してるんだぜ……で、相談ってなんだ」  
 そうだそうだ、そのことで今日は呼んだんだ。
「実はなコミヤマ……」と私はA田さんにお願いされたことを話した。  
 ふんふん、なるほど、と煮物をつつきながらコミヤマはうなずく。
「困っちゃってさ……こんなこと他人の奥さんに言えないよ……」
「うん、でもさ、お前だって〇〇〇さんに言ってないんだろう?」とコミヤマは私の妻の名前を出した。
「まあ、そうだけど……」
 どこかの席の大学生がはしゃいでいる声が聞こえた。 
 ひと口飲んで、どかっとジョッキを置いた。
「だったら、ほら、自分のときの練習だと思ってやるしかないね」  
 コミヤマはそのあともいくつかアドバイスをくれたけが、そんなことよりも久しぶりに飲んで元気をもらえた。

他人の奥さんに告げた真実



 ピンポーン。
 ── あーあ、鳴らしてしまった。
 玄関横のインターホンのボタンからやっとのことで指を離す。

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 休日の午後。結局、スーツを着てきてしまった。
 A田さんのお宅はすぐにわかった。もう少し探すのに手間取りたかった。こだわりの強いA田さんらしいスタイリッシュなデザインの外観。お庭も広い。車は出ていてない。予定通りにA田さんは外に出ているんだろう。
 手ぶらでもなんなので、菓子折りを持参している。
 もしもキツそうな奥さんだったらどうしよう……。
 ピンポーンと、もう一度鳴らす。
 留守であってくれ……。
 ガチャっと鍵が開く音がして「はーい」という声とともに玄関のドアがこちら側に開いてしまった。
 ワンクッションが無かったことで、私のあらかじめ用意していた何もかもは儚くも崩れ去った……。
「あ、はーい、すいませーん」
 思ったよりもお若い奥様だった。お召し物が真っ白過ぎてとても眩しい。
「あー、えーと」
「主人の会社の方ですね」
「え!?  はあ、そうです」
「バッジ」と言って、奥様は私の襟元のあたりを指した。社員バッジをしっかりとつけてきていたことを忘れていた。
「私、〇〇と申します。ご主人さまにはいつも会社でお世話になっておりまして……」
 菓子折りをお渡しした。
「主人はもうすぐ帰って来ますので中でお待ちください、どうぞ」
 どう切り出せばいいんだ……。
「いいえ、ここでいいんです」
 私のこの態度で奥様の態度が少し硬化したのを逆に好機と捉え、ここで切り出すことにした。
「実は今日は奥様にお話があって来たのです」
「私に……、ですか……?」
 できるだけ相手がショックを受けないように、前もって私は暗い顔を作った。
 察してくれただろうか。
 奥様はドア留めを足で下におろして固定すると、ドアから手を離した。
「どんなお話でしょう……?」
「ええ……、それがですね……」
 言いかけたら、家の奥から「ママー、まだー?」と男の子の甘えた声が聞こえてきた。うちの息子と同じくらいの年頃だろうか。
「ちょっと待ってなさい」と奥さんは奥に向かって大きく言ってからまた私を見た。途端に私の口は重くなってしまった。
 心の中だけで深呼吸。
 そして一枚のあれを差し出した。
「奥様この名刺を見てください」
「なんですか、これ?会社名意外何も入ってない……」
「ええ、そうなんです。つまり……、これが今のご主人たら私のある部署なんです……」
 目を見れなかった。おそる、おそる、見る。
 奥様は私の言いたいことがわかったようだった。なにか最近ひっかかっていたのかもしれない。表情を取り繕ってはいたが、肩が震えていた。
「主人もバカですわ。あなたにこんなことを……。申し訳ありません……」
 頭を下げられてしまい、慌てて、私も自分の妻にまだ言えていないことを打ち明けた。
 奥様はなかなか顔をあげてくれなかった。
 後ろの方で、キ、キーっと一旦帰ってきた車がまた出ていく音がした。

息子の告白



 その晩の家での夕食の席。
 腹は減っていなかったが腹の中は決まっていた。
 もう自分も家族に全て話そうと思った。A田さんの件で踏ん切りがついたのだ。
 そもそも、会社に見切りをつけて転職活動を始めるにしても、まずはこの状況を家族に打ち明けなければ始まらないわけで。
 皆が席についた。
 珍しく息子は私の横じゃなくて向かいに妻と並んで座った。べつにいいのだが。
 いただきますをして、「ちょっと聞いてもらいたいことがあるんだ」と言おうとしたら、先にそれを言われてしまった。── 息子に。
 息子はいつになく神妙な顔つきだ。
「なんだいったいどうしたんだ……」と私は二人を見る。妻も何か知っているようだ。
「さあ、話してみなさい」
「うん、実は……、ボクのクラスで少し前からイジメが流行っててさ……、ボクはそういうのからは距離を置いてたんだけどさ、イジメに加わらないならお前をイジメるぞって言われて……、なんか困ってるんだよね……」
 肩をすくめて申し訳なさそうに眉を寄せて話す息子。
「学校や担任の先生は把握しているのか?」
 それに対しては息子は首だけを振った。妻が言葉を挟む。 
「わたし、学校に話しに行ってみようと思うの」
「うん」と頷いてからすぐに私は座り直して姿勢を正した。
「パパも行こう。君に任せっきりも良くないし。新しい部署はわりと時間に融通が効くんだ」
「そう、それなら助かるわ」
 黙って聞いていた息子が顔を上げた。
「そこまではまだしなくていいよ。大丈夫だからさ」
「無理に行かなくたっていいんだぞ。会社じゃないんだから」
 ── 会社じゃないんだから。なんでそんな言い方をしてしまったんだろう。
「うん、わかってるよ。そのときになったらそうする。あーあ、でも、ほんとにみんなガキでやになる。早く大人になりたいなー。ねえ、パパ、大人になればそんなくだらないことないよね?」
 しっかりとその目に応えねば……。しかし……、私は……。
「もちろんだ。大人の社会にはそういったことはない」
 もっともらしくうなずいて見せた。
 安心した顔の息子を見るのがつらかった。
 妻が鍋の蓋を取り、「さあ、シチューが冷めないうちに食べてしまいましょう」と言ってよそってくれた。
 湯気がうわっと立ち昇ってきた。 
 ── 冷めたメシを食う。
 それが会社だ。

そんなキラキラした目で私を見ないでくれ



 ── また今月も人事部との面談の日が来た。 
 前回も、その前も、次の追い出し部屋行きの候補社員を挙げろと言われて、拒否していた。
 案の定、今回の面談の席で、統括人事部長から「あなたはポイントが足りていない」と言われた。
「もうそれほど長くはあの部屋にも置いておかない」とも言われた。最後通告だろうか。
 会社がどうなろうが上の連中は役員報酬をたっぷり貰い逃げ切る。どこまで社員をバカにするのか。
「大変恐縮ですが、私には誰かを売るなんでとてもできません」
 そう言って立ち上がった。
 そしてお決まりのいつものセリフを聞く。
「今後もあなたの実りあるキャリア形成のためにできるだけの支援を我々は惜しみません」
 あとで問題にならないようにいろいろな点を押さえてあるんだろう。
「ドアは開けておきますか?」
 もう私は体半分、部屋の外に出ていた。






 追い出し部屋へと戻る途中、面談の日しかもう歩くことのないこの廊下で、すれ違いざまに声をかけてくる者があった。
 この数ヶ月ですっかり、すれ違う同僚たちの無視に慣れ切っていた私は、ビクっとして振り向いた。
 そこにはよく知る若手の男子がら立っていた。
「あ、事業部部長」と彼は礼をした。
「やあ、君か」
 彼はもともと私の下で働いていた。理想家肌だったが素直さを待ち合わせた青年で、責任あるポジションも安心して任せられた。
 幹部の中には今の若い人たちのことを悪くいう人も結構いるが、私は今どきの冷めたように見える職場の若い人たちの中にある、でも世間連れしていない純真な部分がとても光って見えることがあった。きっと我々の側がすんなりと変化を受け入れさえすれば、もっと光かがやくんだろうな、と。
 しばらく見ないうちに彼はすっかりスーツの着こなしも様になっている。
「やっと会えました、事業部長に。いつかここを通るだろうと思ってたんですよ」
「その事業部長ってのやめてくれないかな……、知ってるよね? 今、私は……」
 これ以上惨めな気持ちにさせないでくれよな。
 彼はそのことは聞きたくないという感じで一方的に話し出した。
「事業部長の下で働いていた頃は本当に良かったです。みんなで数字を追いかけて、その意義をちゃんと説いてくれて、その数字を手土産にして上層部からたくさんいい条件を引っ張ってきてくれた。若手の意見もどんどん取り入れてくれた。雰囲気良かったですもんすごく。定年が近い自分の親にも言われたんです。“この人の下で働けてよかったって思える人って会社人生の中で一人いるかいないかだよ”って。でも……、会社は変わってしまった……」
 私は何も言えなかった。私は負けた人間なのだ。今更未来ある彼に何が言えよう。
「そう言えば一度僕が辞めかけた時に事業部長が言ってくれた言葉覚えてますか?」
「言葉!? 」
「“仕事って楽しいものなんだよ”っておっしゃってくれて、すごくシンプルな言葉だったけどあの時の僕には刺さったんです。それでコスパとかタイパとかそういうの置いといてがむしゃらにやってみたら、そんな自分を見つけたら、そしたら、仕事が楽しいってことが何かがはっきりとわかったんです」
「君の真剣に取り組む姿勢は誰よりも素晴らしかったよ」
「夢のようでした……。あの頃……。今の殺伐とした空気、嫌になりますよ。実は僕の今の仕事ぶりはとてもお見せできないんです」
「希望の部署へ行けたんだろ?」
 私は異動の置き土産に彼をたくさん推薦しておいた。
「静かな退職ってやつです……。知ってます?静かな退職」
 そう言って彼はペロっと下を出した。
 私はただ頷いた。彼が乗り越えられることを心から祈る。
「絶対にカムバックして下さい!みんなで待ってますから」
 そんなキラキラした目で私を見ないでくれ。もう私にはできない目だし、仕事への情熱が蘇っできそうで困る。
「あと最後にもう一つ言わせてもらっていいですか?」
「なんだい?」
「あの噂は本当だったんですね。そのネクタイ。僕らが送別会でプレゼントしたやつを見るたびにいつもしているという噂があって……」
「あ、このネクタイ、そうか」
 なるほど、そうか。
 誰かが向こうから歩いてきた。話し込んでいるところを見られて、彼に迷惑をかけてもいけない。
「もう行くよ。話せてよかった」 
 私の行くべき場所へ、私は戻るよ。

まさかアイツが



 冬も終わりに近づくにつれ、あれほど静かだったこの追い出し部屋も、何かと騒がしくなってきた。
 リストラ目標が引き上げられ、締め付けが厳しくなり、毎日、法務部の特殊チームがガサ入れに来るようになった。
 持ち物検査も頻繁に行われる。もはや我々は社員なのか囚人なのかわからなくなってきた。
 そして、一人、また一人と、連行されていった。この強制退場劇ほど見ていて酷いものはない。
 椅子にしがみついて離れない仲間を無理やり連行して行った。そして二度と社員として戻ることはなかった。
 このガサ入れは、表向は、この部屋のことをSNSで発信して人気を博している者がいるという通報を受けての炙り出しというものらしいが、実質は守秘義務違反者を増やして割り増し退職金カットを進める狙いが裏にはあった。
 よく話していた仲間もみんないなくなった。
 ──この次はおそらく自分の番だろう。なぜか悟り切った境地にあった私は、まるで辞世の句でもしたためるかのように、社史の最後の編集後記を仕上げた。
 そういえば、この前、もう用済みになった資料を返しに行ったら、資料室が影も形もなく消えていた。もちろんスーさんの姿も……。
 誰かが教えてくれた、『あー、それ、ウチの会社の七不思議ですよ』。
 あの人工の森は鬱社員が迷い込んで、いろいろな幻のを見ることで有名らしい。知らなかった。
 でもあのコーヒーの味、香り……。 
 それに、あとの六つってなんだよ。
 まあもうどうでも良い。
 そろそろ今日のガサ入れの来るころだ。
 私は手を挙げて立ち上がって、管理者さんのところまで行った。
「社史、出来上がりました」
 データを入れた情報端末を差し出す。
「ご苦労様でした」
まるでリストにない人からのお歳暮がきた時みたいな顔をして管理者さんは受け取ると、近くに置いた。
 入り口のスライドドアがすーっと開いた。
 とうとう来たようだ。
 ところが入ってきたのは統括人事部長だった。
「ちょっと」と言って私に手招きしている。
 呼び出しではあったが、少し様子が違うわようだ。
「でわ」という感じで最後かもしれない部屋の皆さんにお辞儀をしてから一緒に部屋を出た。
 人事統括部長に連れられて行った先は役員室だった。
 ノックの後にどうぞと返事があり、中へ。
 なかでは応接ソファに深々と腰掛けた銀髪の人事担当役員が足を組んで待っていた。元々はCSR(企業の社会的責任)担当の執行役員だったのだが、最近になってリストラの最高指揮官を任された人だ。私のプロフィールらしいものを見ていたのがわかった。
 私は向かい合わせに座り、統括人事長はその後ろに立った。その横の大きな水槽の中で古代魚が止まったように泳いでいる。
 役員が口を開く。
「〇〇さんは、60期入社ですかー。ということは、先代の社長の頑固一徹な精神がたっぷりと浸透しているわけですね」
 まるでそのせいでリストラが進みづらいと言った口ぶり。
 「私に浸透しているのは、あの部屋のルールだけですよ」
 この皮肉が役員なんかにわかるだろうか。
 まるで権威を誇示するかのような動きで役員は体をゆっくりと起こした。そして本題に入った。
「さまざまな報告によると、〇〇さん、あなたは良くやっているとのことです」
「そうなんですか」
 で、何が言いたい?
「会社としましては、あなたには是非、あの部屋から生還してもらいたいと思っています」
「え」のあとが続かなかった。
 そこで役員は私の後ろに立つ統括人事部長に目配せして一枚の写真を私の目の前の机の上に置かせた。
「ご存知ですよね、その写真の方を」
 ご存知もご存知、あいつじゃないか。
 ──同期のコミヤマ。
「この彼は私の戦友です」
「そうですか」と役員は言うと、やおら立ち上がり壁側を向いた。話の性質上ということなのか、そのあとは統括人事部長から説明があった。
“コミヤマには産業スパイの疑いがあるため、内密に証拠となる音声を抑えてほしい”とのこと。
「その見返りとして、君の生還を約束します」
 役員がまたこちらを向いて言った。
 元の部署に元の待遇を用意するという。
 あいつが産業スパイだって!? そんなバカな。
 私は誰よりもあいつを知ってる。ありえない。
 おそらくは飛ぶ鳥を落とす勢いのコミヤマを叩く気だろう。社内政治ってやつだ。
「私に友達を裏切れというんですか?」
「気持ちは分かる」
「彼はどうなるんですか?」
聞くまでもないことを聞くなとばかりに二人とも黙って首を振った。その時、水槽の中の古代魚が偽物だと気づいた。
「あとはよろしく」と言って役員は出て行った。
代わりに座った統括人事部長が話し出した。
「君は精神科へ通ってるようだね」
「ええ」
「なんでも、記憶のことだとか」
「まあ、そうです、どうしても思い出せない部分があるんです」
「それがもしも、この彼が原因だとしたら?」
「はい?」
 統括人事部長はもう一度、テーブルの上の写真をグッと私のほうに押した。
「彼があの部屋に君を送り込んだ張本人だとしたら話は変わるのでは?」
「え……」
 写真の中のコミヤマは笑っていた。笑っていた。笑っていた。
 あいつが私を……
 あいつが……
「君はこれのスイッチを押すだでいい」
 小さめのボイスレコーダーをこちらへ滑らせてきた。
 真実は細部に宿る。
 せめて我が社の製品にして欲しかった。

友情の重み



 雨が傘を打った。
 裏切りに雨はつきものだ。
 私は宵の口の駅前でコミヤマを待っていた。
 飲みに誘ったのだ。
 スーツの内ポケットにはボイスレコーダーの感触。
 所詮私もただの弱い人間に過ぎない。悪魔は耳元じゃなく耳の中で囁いてきた。
 約束の時間をほんの少しすぎた時にコミヤマがやってきた。
「わりー、遅くなった」
「いつもの店か?」とコミヤマが聞いてきた。
「いや今日は違うところにしよう」
 録音に適したつくりの店をあらかじめ見つけてあった。接待をしていた頃によくコミヤマと店を探し回ったことをふと思い出した。二人で会社を変えようと言い合っていた。
「そうか」
 何も知らないコミヤマから先に歩き出した。







「カンパイ」
ジョッキを重ねる音がやけに鈍く響いた。
「本日の突き出しは菜の花と帆立のからし和えでございます」と案内あり。
「ありがとう」とコミヤマそれに言った。彼はどんな店に行っても愛想がいい。なんの商売をしても上手くいくタイプだ。それなら罪の意識が少しは和らぐか。和らぐ?
 いや、こいつは私を売った。売った。売った。
「どうした?酒が進まないな?」
 コミヤマの心配顔で我に帰る。
「そうか?最近飲む機会が多くてな。ちょっともたれたかな」
 変な笑いをした。
「そんなに飲むのか? 出所か?」
「ああ、メドが立ったんだ」
「そうか、良かったな」
「まあ、仮出所ってとかだがな」
「なんにせよよかった、飲もう飲もう」
 我が事のように喜ぶコミヤマを見てまたしても困惑した。なあ、本当にお前がやったのか……?
 それを何回も何回も心の中で繰り返しながら飲んだ。
 内ポケットに手を入れて確かめる。
 彼も酔いが回ってきたようだった。
 私は切り出した。切り出してしまった。
「この前の製品データの社外への流出の件どう思う?」
「結構デリケートな話題だな」
「井の中の蛙で何にも知らんのさ俺は、お前は結構近いところにいたんだろ?」
「聞きたいか?」
 なんでコミヤマはその時悲しそうな目をしたんだろう。
「ああ、聞かせてくれ。俺みたいな立場のもんが聞いてもどうもないだろう」
 私はスイッチに手をかけた。
「オフレコで頼むぜ」
 そう言って、コミヤマは彼に不利な内容の発言をした。なぜそんなに具体的に話すのかわからなかった。
 お前に後ろから刺されるなら本望だと言わんばかりの気迫さえ感じた。
 全部お見通しだったのかもしれない。
 魂または心が悽愴の思い一色になった。
 私はレコーダーのスイッチを押せなかった。
 もう少しで大切な友情を失うところだった。

熱い涙、家族よ



 コミヤマの件で心のつかえが取れた気がした。全てを終わらせることにした。前に進むという意味で。
 数日後の日曜日、我が家のリビングで、私は妻と息子に「ちょっと聞いてくれるか」と声をかけた。
「あのな、パパは……」
 そのまだ言ったとき、妻がテーブルの上に置いた私の手を握った。
「もういいのよ」
「え!? 」
「もういいんじゃない、パパ、お疲れ様」と息子も。
「知っていたのか……?」
 二人は何度も頷いてくれた。涙が熱く感じた。
 みんなでみんなの手を重ねた。家族。家族。
 終身雇用の崩壊は新しい何かの始まりなのかもしれない。
「明日、辞表を出すよ」
 いや、今の私は役職を解かれているから退職届けか。どちらでもいい。辞めるのだ。
 窓の外、景色は春の装い。
 長かったようで短い半年だったと言ったら嘘だろう。やはり長かった。
 じっとあの部屋で座っていただけなのに、なぜか駆け抜けた気がする。
 なぜか
 駆け抜けた
 気がするのだ。

新たな旅のはじまり


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「……と、ここまでが、つい最近、私の身に起こった出来事であります」
 そこまで言ってから大きく息をした。
 マイクを持つ私の手に力が入っている。
 人生初の街頭演説である。その長い長い第一声が一区切りついた。
 通り過ぎる通勤途中のサラリーマンたち。
 まだ足を止めて聞いてくれる人はほとんどいない。
 私はあの追い出し部屋を卒業して会社を辞めたあと、しばらく何をすべきか考えていた。
 そして、この度、国会議員選挙に無所属で立候補することにしたのだ。
 壮絶なリストラを経験した者として、サラリーマンが安心して働ける社会づくりを目指したいと思った。
 たった一人の手作り選挙戦である。でも未来って手作りでできるもんだ。
 ひたすら突き進むだけだ。
 おっと、誰も聴衆はいないと言ったが、実は二人だけ、しっかりと耳を傾けて応援してくれている人がいる。
 そう、妻と息子が応援にきてくれているのだ。
「パパ、頑張れー」
 なんだか照れ臭かもある。
 息子もあれからいろいろと考えて、今は学校へは行かずに、将来、起業するための勉強をしている。父親としてとことん応援しようと思う。
「わたくし、〇〇は、全身全霊をかけて、サラリーマンのために戦っていく所存であります。どうか応援のほど、よろしくお願いいたします」
 なんとか演説を締めくくることができた。
 二人が駆け寄ってきた。
「パパ、目がキラキラしてるよ」
「そうか、でも、キモくないか?」
「ううん、全然」
「キモかなんかないわよ、あなた」
 アハハハハ
 みんなで笑ったのなんか久しぶりだ。
 よし! これからは太陽のように毎朝ここに立とう!
 澄み渡った青い空。
 遠く、あの会社のビルが見えた。
 この青空の下では、あの巨大な本社ビルだって細部に過ぎなかった。


                      終



※この物語は全てフィクションです

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