映画『国宝』は何を語らなかったのか?──空白と終幕を読み解く
映画『国宝』。映像の美しさ、役者たちの迫真の演技に圧倒されました。しかし物語が進むにつれ、私は次第にその世界の外側に取り残されていきました。ストーリーの省略が多く、登場人物の心の動きにうまく寄り添えなかったのです。
それが悔しくて、原作も手に取りながら、物語の空白に意味を探しました。すると、二度目の鑑賞では、まるで別の映画のように深く胸を打たれたのです。このnoteは、そのときの考察を解説したものです。私と同じように物語に置いてきぼりを感じた方も、すでに『国宝』を傑作として堪能された方も、この作品をより深く味わう手がかりになれば嬉しいです。
そして最後には、ほとんどの人が気づいていないであろう、ラストシーンの意味を読み解いています。どうぞ最後までお付き合いください。
※以下、ネタバレ全開ですのでご注意ください。
◉なぜ春江は喜久雄のもとを去ったのか?
映画を見ていて、最初にひっかかったのがここでした。若き日に喜久雄(吉沢亮)と一緒に刺青を背負い、「うち、喜久ちゃんがおらんかったら生きていけんもん」とまで言っていた春江(高畑充希)。彼女はなぜ俊介(横浜流星)とともに失踪したのでしょうのか?
まず押さえておきたいのは、春江は喜久雄を裏切ったわけではないということです。その根拠は、失踪の直前に彼女が喜久雄からのプロポーズを断っている点にあります。
アパートの布団の上で、春江はプロポーズにこう返します。「喜久ちゃんは役者。いまが登り坂の大事なとき。うち、うんと働いて喜久ちゃんの一番のご贔屓になる」。ただ、この言葉をそのまま受け取るわけにはいきません。たしかに喜久雄にとって大事な時でしょうが、互いに愛し合っているのなら、時機を見て結婚することもできたはずです。
春江はこう思ったのではないでしょうか。「芸の道に邁進する喜久雄は、もう自分を必要としていない。自分が身を引くことが彼にとっても最善なのだ」と。それを思わせる描写があります。春江が大阪に出てきて、アパートで久しぶりに喜久雄と再会した場面。喜久雄は興奮気味に稽古のことを語るばかりで、春江のほうを見ません。そしてプロポーズの時も、ふたりは体を重ねていても、互いに目を合わせようとはしない。のちに「悪魔との取引」で歌舞伎が上手くなること以外に何もいらないと言った喜久雄の本質を、春江はすでに見抜いていたのかもしれません。
プロポーズを断った翌朝。出ていこうとする喜久雄を、春江は見送らず、目に涙をためて肩を震わせます。あそこで、ふたりの男女としての関係は完全に終わったのだと思います。どこまでもついて行こうと思っていた喜久雄に自分は必要ないと知り、春江は深く傷ついたのでしょう。
しばらくして、父に代役として指名されず傷心の俊介が春江に会いに来ます。「雨宿りや」「入り」「ええ、帰るわ。ほなな」。傷ついたふたりの、わずかなニアミス。おそらく春江は後になって気づいたのでしょう。あのとき俊介は自分を頼って来たのだと。自分を必要としなくなった喜久雄との関係が終わった一方で、俊介は自分を必要としてくれている。
そして、喜久雄が「曾根崎心中」の代役を務めるシーン。観客席で喜久雄の芸を見た俊介は人生のどん底に叩き落とされます。しかし、実は春江もまた深く傷つき、人生の道しるべを失った状態であの場に座っていました。それでも絶望せず、もう一度、新しい人生を生き直そうとしていた。だからこそ、俊介が泣きながら口にした「俺は逃げるんちゃう」という言葉に「わかっとるよ…」と応えることができたのです。その瞬間、俊介は驚いたような表情を見せます。すると春江は、それに重ねるようにもう一度「わかっとるよ」。春江だけは自分のことをわかってくれる。その確信が生まれたからこそ、俊介は「俺、ほんもんの役者になりたいねん」と自分の心の奥をさらけ出したのでしょう。春江はその言葉を受け止め、彼を支えることに次の人生を賭けようと決めたのだと思います。あの日、春江が彼の手を引いたのは「裏切り」でも「逃避」でもなく、「人生の再出発」だったのではないでしょうか。
◉なぜ俊介は歌舞伎界に戻ってきたのか?
俊介が姿を消してから8年後、襲名披露の舞台で白虎(渡辺謙)は吐血し、「俊ぼん…俊ぼん…」とつぶやきながら舞台の外へ運ばれ、他界します。それから2年後、ようやく俊介が戻ってきます。父の葬式にすら顔を出さなかった彼が、なぜこのタイミングで復帰を決意したのでしょうか?その答えは、「ほんもんの役者」になれたから、だと思います。
これを理解するうえで鍵となるのが、「獅子の子落とし」です。10代の頃の俊介が父とともに踊っていた演目「連獅子」。白い毛の親獅子、赤い毛の子獅子のそれぞれが豪快に毛を振っていました。この演目の中で、親の白獅子は我が子を谷底に落とし、這い上がってくるのを待ちます。この白い獅子を演じていた父が、後に「白虎」を襲名するのは偶然ではないでしょう。
父が代役に喜久雄を選んだのは、跡継ぎとして俊介を見限ったからではありません。むしろそれは、「子落とし」そのものでした。二日酔いで舞台に立つなど、随所で甘さを見せていた俊介に、芸の道の厳しさを教えるための非情な選択。俊介が逆境を越えて這い上がってくるのを、父は信じて待っていたのでしょう。
白虎が吐血して死に瀕していた時、俊介はストリップ小屋でドサ回りをしていました。父の死に目に会わず葬儀を欠席するのは苦渋の決断だったでしょうが、崖を必死に登っている途中だったのでしょう。その2年後に「ほんもんの役者」になって戻ってきます。即座に万菊に取り立てられたのが何よりの証でしょう。喜久雄も「万菊さんのことや。見極めたうえでやろ」と言っています。俊介は父の最期に間に合わない「世界一の親不孝者」でしたが、自らの力で崖を登りきり、父が待っていた場所までたどり着いたのです。
◉なぜ喜久雄は端役しか与えられなくなったのか?
十年ぶりに帰ってきた俊介は、歌舞伎界のプリンスとしてテレビに出演し、万菊にも取り立てられました。一方で喜久雄はむさくるしい大部屋で化粧をしています。若きスターだった頃の面影はそこにはありません。まさに「血がないのは首がないのと同じ」という言葉の通り。しかし、白虎の後ろ盾を失っただけで、俊介を凌ぐ芸を持ち、あれほど世間にもてはやされた喜久雄が、そう簡単に落ちぶれるものでしょうか?
喜久雄がセリフももらえない端役に押しやられた、もうひとつの理由。それは、竹野(三浦貴大)の「先代から半二郎の名跡をかっぱらったと思われている」というセリフに表れています。これはもちろん事実とは異なりますが、梨園の秩序を外れた存在である喜久雄には冷ややかな視線が向けられていたのでしょう。
さらに、もうひとつの隠れた理由があります。それが、「万菊(田中泯)による子落としがおこなわれている」というものです。この物語では、白虎が俊介を崖に落とし、万菊が喜久雄を崖に落とすという、対照的な構造があります。
襲名式で白虎の手を引いて舞台に着いた時、喜久雄は万菊にじっと見つめられます。しかしまるで怯えるように目をそらしてしまう。これは、「喜久雄には半二郎の名跡を継ぐだけの芸はまだない」という暗示でしょう。そもそもW襲名は「もう一花咲かせたい」という白虎の野心から生まれたもので、喜久雄自身は「一」(東一郎)から「二」(半二郎)へと格上げされるほどの力量には達していなかった。その襲名式で白虎が吐血した際、他の役者たちが慌てふためく中、万菊はただ首をわずかに動かすだけ。「俊ぼん…俊ぼん…」とうめく白虎に「すんまへん…」と涙を流す喜久雄を、万菊は冷たい視線で見つめるのです。
血がなくとも芸がある喜久雄を取り立てられる存在があるとすれば、万菊をおいて他にいません。しかし、名跡に見合う芸を持たないうちは、手を貸そうとはしなかったのでしょう。
一方で、「ほんもんの役者」になって戻ってきた俊介を万菊は抜擢し、稽古をつけます。それを横から覗き見る喜久雄。その姿を認めた万菊は、俊介に語りかけながらも、明らかに喜久雄にも聞かせるように、役者の道を説きます。「あなた、歌舞伎が憎くて憎くて仕方ないんでしょう。でもそれでいいの。それでもやるの。それでも舞台に立つのがあたしたち役者なんでしょうよ」。スキャンダルまで暴かれた喜久雄に対して、這い上がってこいという万菊なりの激励だったのでしょう。このあと喜久雄は歌舞伎界を追放されることになりますが、万菊の言葉に従うように、地方のドサ回りで舞台に立ち続けます。
◉なぜ喜久雄は歌舞伎界から追放されたのか?
喜久雄は白虎に代わる後ろ盾を得るため、若い彰子(森七菜)に近づき肉体関係を持ちます。しかし、父・千五郎(中村鴈治郎)の激しい怒りを買い、喜久雄の浅ましい計画は打ち砕かれます。かつて喜久雄を大阪へと連れてきた丹波屋の手代の源吉(芹澤興人)は「喜久ぼんは歌舞伎界におれんようになってしまうんやろか」と涙声で俊介に問いかけます。何が起こったのでしょうか?
「丹波屋の名に泥を塗ってしもうて」と頭を下げる喜久雄。それを聞いた幸子(寺島しのぶ)は何か言おうとしますが、結局何も言わずに孫の一豊のところへ。屋敷を去ろうとする喜久雄に後ろから声をかける俊介も「すまん。一豊のためや」と言います。
「名に泥を塗る」という言い方からすると、千五郎との一件もゴシップ記事にされ、世間からの強いバッシングを浴びたのかもしれません。俊介も自分が干されるだけなら戦うこともできた。しかし、息子・一豊の未来を思って、幸子と相談の上、泣く泣く喜久雄を追い出すことに決めたのだと思います。屋敷の前で一発ずつ殴り合うふたりの姿は、舞台の前に緊張を解くためにした「でこぴん」と対照的で、痛々しい場面でした。
◉なぜ老衰した万菊は喜久雄を呼び戻したのか?
歌舞伎界を追放された喜久雄は彰子とともにドサ周りをしています。日を追うごとに彰子の表情は険しさを増していく。かつて喜久雄が囁いた愛が偽りだったことはわかっているようです。それでも意地で喜久雄を支えているのでしょう。
かつての俊介と同じように、ドサ回りを通じて喜久雄の芸は磨き上げられたようです。とある宴席で、喜久雄の色香に惑わされた宴席の客の一人がふらふらと立ち上がり、喜久雄に近づきます。舞台裏でその客らに暴行を受けたあと、喜久雄は屋上で酒をあおりながら踊り始めます。それに対し、彰子は落ちた羽織を後ろからかけ「もうやめよう」と言います。彰子にはまだわずかに喜久雄への愛が残っていたのかもしれません。しかし、喜久雄の目の焦点が合っていないことに気づいたのか「どこ見てんの」と言い放ち、去っていく。喜久雄は「どこ見てたんやろ」とつぶやき、泣きながら笑い、踊り狂います。白塗りが剝がれかけた顔は人間離れしていて、悪魔との取引を思わせる異様さがありました。人間性を捨てた果てに、芸がひとつの高みに達したのかもしれません。
そのことを知ったかのように、翌日、引退して3年になる万菊が喜久雄を呼び出します。道中、「いまさらなんでや」と喜久雄が問うと、竹野は「やっとあんたのこと認める気になったんだろ。芸だけ残してあの世に行っちまう気なんかね」と言います。つまり、万菊は血を残していない。その代わり、自分が去った後の歌舞伎界に、直接自分が芸を教え込んだ俊介に加え、崖を這い上がってきた喜久雄を残そうとしたのでしょう。
ところで、国宝にまで登りつめた万菊はなぜ一人で安宿にいるのでしょうか?原作では、認知症や経済的困窮などからではなく、万菊の意思によるものであることは描かれつつも、真相は「藪のなか」となっていました。映画でも「ここはきれいなものがひとつもないだろ。なんだかほっとするのよ。もういいんだよってやっと誰かに言ってもらったようでさ」という言葉からすると、自分で望んでのことなのかもしれません。
万菊の印象的なこのセリフは、喜久雄と初めて会った時の「ほんと、きれいなお顔だこと。でも、あれですよ、役者になるんだったら、そのお顔は邪魔も邪魔。いつか、そのお顔に自分が食われちまいますからね」という言葉ともつながっているように思えます。美しい顔をもつ喜久雄はどこへ行っても、その顔が自分につきまとう。決して美から逃れられない業を背負ってもがき続けてきた喜久雄こそ、国宝・万菊の芸を受け継ぎ、次代の女形を背負うべき存在だったのかもしれません。
◉なぜ喜久雄は歌舞伎界に復帰できたのか?
万菊の前で踊りを見せた喜久雄は、歌舞伎界に復帰し、俊介と「二人道成寺」を踊ることになります。復帰に至る詳しい経緯は描かれず、観客の想像にゆだねられています。
「いつか俺が喜久ちゃんを呼び戻すから」と言った俊介。あの時の言葉は喜久雄には届きませんでしたが、俊介はその気持ちをずっと持ち続けていたのだと思います。それは「喜久ちゃんの一番のご贔屓になる」と言った春江も同様だったのでしょう。
引退して3年が経っても国宝の万菊の推挙があれば、周囲も認めざるを得ない。子落としから這い上がった喜久雄の芸に万菊のお墨付きが与えられたことで、俊介が喜久雄を呼び戻す環境がやっと整ったのだと想像します。
◉どうやって喜久雄と俊介の確執は解けたのか?
若い時と同じように「二人道成寺」を演じる喜久雄と俊介の間には、かつてのわだかまりがなくなったように見えます。白虎の死後も、残した借金を肩代わりし、丹波屋を守った喜久雄。その喜久雄を、自分の息子の未来のために追い出した俊介。そんなに簡単にふたりの雪解けが訪れるものでしょうか?
ひとつの大きな理由は、喜久雄の復帰に俊介が尽力したことなのでしょう。そしてもうひとつは、喜久雄が俊介と同じようにドサ回りを経験して、その辛さを身に染みて感じたからなのでしょう。「結局、血やないか」と吐き捨てた喜久雄でしたが、俊介がどれほど辛い思いをして芸を磨いたのかを身をもって知ったことで、「逃げ出したやつ」という見方が払拭された。同じように崖を這い上がってきたからこそ、ふたりは昔よりもさらに深くわかり合える関係になったのだと思います。
◉結局、血なのか?芸なのか?
物語の前半のテーマは、芸と血の対立。喜久雄と俊介のどちらが上回るのかということでした。それを軸に見てきた観客には、片足を失った俊介が「曾根崎心中」のお初を務め、女形のはずの喜久雄が徳兵衛役に回ることに、戸惑いを覚えたかもしれません。
物語の前半では「芸と血のどちらが勝るのか」というのがテーマでしたが、後半ではそれが「芸と血を体現するふたりの魂の共鳴」へと移っていきます。
それを示唆するのが、東一郎と半弥の「東半」コンビが、半二郎と半弥の「半半コンビ」になったことです。春江のスナックで、若き日の俊介(半弥)は喜久雄(東一郎)に「なんで東半やねん。半東やろが」と文句を言います。これは当時のふたりが「どちらが上なのか」という競争関係にあったことの表れでしょう。しかし、「半半コンビ」ではどちらが上という関係ではありません。半分と半分、ふたつでひとつ。互いが互いの「半身」であるという関係になったのです。
そんな矢先、俊介は父親と同じ糖尿病のせいで左足を失います。血に守られてきた俊介が、血に呪われてもいた。それでも俊介は舞台に立ち、喜久雄と力を合わせて『曾根崎心中』を演じます。
「死ぬる覚悟が聞きたい」とお初になりきる俊介。かつて白虎は「死ぬ怖さと、惚れた男と死ねる嬉しさ」が込められていると言いました。俊介のセリフにも、役者生命が終わる怖さと、それを喜久雄と一緒に迎えられる喜びが交じり合っているように思えます。差し出す右足も壊死が始まっています。
舞台で倒れ、必死に舞台袖まで歩く俊介。「もうやめよう」と言う竹野の言葉を受けて、喜久雄が「最後までやる。やれるわな」と言い、俊介が「当たり前やろ。誰にもの言うてんねん」と応じる。このシーンは、まさにふたりでひとつの半半コンビ。魂の共鳴を感じさせます。
◉悪魔は何を奪ったのか?
少し話が戻りますが、半二郎を襲名する前、喜久雄は藤駒(見上愛)との娘・綾乃に悪魔と取引したことを明かします。「『歌舞伎を上手うならして下さい』て頼んだわ。『日本一の歌舞伎役者にして下さい』て。『その代わり、他のもんはなんもいりませんから』て」。この悪魔は喜久雄から何を奪ったのでしょうか?
まずわかるのは、藤駒と綾乃の人生でしょう。成人した綾乃に「悪魔はんに感謝やな」と恨みの言葉を言われます。喜久雄があくどいやり口で彰子を騙したという意味では、彰子の人生もまた、悪魔に奪われたのだと思います。
しかし、これだけでは「あなたが拍手をもらうためにどれだけの人が泣いて傷ついてきたか」という綾乃の言葉には足りません。悪魔は白虎の命、そして俊介の両足も奪ったのだと思います。もちろん喜久雄はそんなことになるとは思いもしなかった。しかし、悪魔はその取り分をちゃんと奪っていく。そして、喜久雄の半身である俊介が生贄になったからこそ、喜久雄は国宝になれたのでしょう。だからこそ、俊介との「曽根崎心中」の後、物語は一気に国宝認定のシーンへと飛びます。
国宝になった時、インタビュアーに対して喜久雄が答える「ただただみなさまのおかげです」という言葉。「周りの人間たちの幸せを奪って自分はここまで来たのだ」という自覚を込めた言葉だとすれば、そこにあるのは感謝ではなく懺悔だったのかもしれません。
◉喜久雄が探していた景色とはなんだったのか?
そのインタビュアーに「女形を極められた三代目はこの先どこへ向かわれるのでしょうか」と聞かれ、喜久雄は「なんやずっと探しているものがありまして。景色なんですけど」と答えます。
これは雪の中で父・権五郎(永瀬正敏)が倒れていく時の景色でしょう。長崎では珍しい雪の中、刺青を露わにするも、銃弾で撃たれ、血を流して倒れる父の姿。最初は泣き叫んでいた喜久雄ですが、やがてその景色に見惚れるような表情を浮かべるようになります。
この景色と最も近いものを見せてくれたのが、万菊の「鷺娘」でした。宙を舞う紙吹雪が、父の背に降った雪に重なります。喜久雄が「二人道成寺」や「曾根崎心中」を演じた時も、その景色を垣間見る瞬間が描かれます。
多くの人々を犠牲にしながらも芸を極め、とうとう探していた景色にたどり着いた喜久雄は、「きれいやなぁ」とつぶやきます。白虎に「あんたは芸でいつか仇とったるんや」と言われたように、父の仇討ちという悲願も、ここで果たされたことになります。そして娘からは、「おとうちゃん、ほんまに日本一の歌舞伎役者にならはったね」と祝福されました。芸に生きた喜久雄もまた、血に導かれた人生を歩んだのです。
◉ラストシーンが本当に意味するものとは?
いよいよ、物語の最深部へと踏み込んでいきます。ラストシーンについてはすでに触れてきましたが、そこにはさらに深い意味が潜んでいるように思えてなりません。
「鷺娘」の舞台へ向かう喜久雄。楽屋には、若き日の喜久雄と俊介が稽古をしている写真、そして厳しくも愛情をもって指導してくれた白虎の写真があります。舞台裏の道には、「二人道成寺」の大きな鐘、「二人藤娘」の藤が置いてあります。喜久雄が進むその道は、死の間際に見る走馬灯のようです。
巨星・万菊が演じたのと同じ「鷺娘」を、喜久雄が踊ります。舞の終盤、鷺娘はもがき苦しみ、力尽きて息絶える。喜久雄もまた舞台上に倒れ、幕が下ります。そして次の瞬間、彼はまるで深い眠りから目覚めたかのように目を開け、ふらふらと立ち上がるのです。
ここで不思議なことがあります。幕が下りたはずなのに、喜久雄の前には幕はなく、観客席が広がっているのです。正面からスポットライトが当てられている。そして最後に「きれいやなぁ」とつぶやきます。この描写には、現実ではあり得ない奇妙さがあります。これはいったい、どういうことなのでしょうか?
鷺娘を演じる喜久雄は、芝居の中でも、そして現実でも死んだのです。目を開けてからの描写は、この世ではないのだと思います。荒唐無稽に感じる方が多いと思うので、解釈の理由を、物語を遡りながらひも解いていきます。
「曾根崎心中」の稽古をしている頃、舞台の上で俊介が「あっこからいつも何かが見とるな」と言い、「何やろうなあ」と喜久雄が返します。その時、俊介の目線の先は、ちょうどラストシーンのスポットライトの光源のあたりです。
最後に流れる主題歌は『Luminance』。「特定の方向へ放射される光の輝きの強さ」を意味する英単語です。この光は、ただの舞台装置ではなく、物語の奥底につながる鍵なのです。俊介が喜久雄よりも早くその存在に気づいていたのは、生命の終わりが近づいていたからではないでしょうか。彼らを見つめる光の正体は、死後の世界とつながっているようです。もしかしたら、亡き白虎が、見違えるほどに成長したふたりを見ていたのかもしれません。
「曾根崎心中」の最後に、徳兵衛役の喜久雄は涙を流しながら、お初役の俊介に脇差を振り上げます。それはお初の死と同時に、俊介の役者生命の終わりを意味していました。幕が下りた後、喜久雄は俊介の身体を抱いて芝居をやり終えたことを喜びますが、俊介はどこかを見つめて放心しています。俊介にはあの光が見えたのではないでしょうか。では、なぜ俊介だけに見えたのか。やはりその理由は、歌舞伎役者としての死、そして肉体的な死が訪れつつあったからでしょう。
一方の喜久雄にはまだ未来がある。このギャップはとても大きな意味を持ちます。それはふたりが演じているのが「心中物」だからです。喜久雄は脇差を突き立てて俊介の役者生命に終止符を打ちますが、自分だけは生き残ってしまう。心中を果たせなかったという業を背負い、喜久雄は十六年という長い歳月をひとり生き続けることになるのです。
そして、あのラストシーンにつながります。その後に流れる主題歌『Luminance』の歌詞が解読の大きなヒントを与えてくれます。
ああ ここは
痛みも恐れもない
声も愛も記憶も
かすれて
この身体を ほどいて
あなたのもとへ
こだまする 喝采と
祝祭の音色が
こんなにも 柔らかく
響いている
ああ 透きとおる
光に溶けてく
触れられない
あなたとひとつに
そう 永遠に
ただ 満ち足りて
今 喜びの 果てまで
ひとつずつ読み解いていきたいと思います。
ああ ここは
痛みも恐れもない
声も愛も記憶も
かすれて
痛みも恐れもない場所。執着も想念も、霞のように薄れていく。まさしく死後の世界のメタファーのように思えます。
この身体を ほどいて
あなたのもとへ
これまで述べてきた「喜久雄の死」を「役者生命の完結」のように比喩的に解釈することも可能だと思うのですが、「この身体をほどいて」という表現は肉体的な死を明示しています。「あなた」は俊介でしょう。心中で先に逝ってしまった俊介のもとへ、ようやく向かうことができる。
こだまする 喝采と
祝祭の音色が
こんなにも 柔らかく
響いている
ここで描かれる死は決して悲しいものではありません。喝采と祝福に優しく包まれています。
ああ 透きとおる
光に溶けてく
触れられない
あなたとひとつに
ここで「光」が出てきます。光はあの世からの迎えのように喜久雄を照らしています。生きている時にはすれ違いが多く、あの世に逝ってしまってからは触れることすらかなわなかった俊介と、ようやくひとつになれる。半二郎と半弥。互いの半身であったふたりがようやくひとつになる。
そう 永遠に
ただ 満ち足りて
今 喜びの 果てまで
心中とは、本来、永遠に愛を誓い合うための行為です。ただ喜びだけが永遠に残る。喜久雄と俊介が果たせなかった心中は、長い時を経て、ようやく完遂を迎えたのです。
いかがだったでしょうか。一見すると、映画『国宝』は、喜久雄という一人の役者の芸の道を描いた物語に見えます。けれどその奥底には、魂を共鳴させながらも、なかなかひとつにはなれなかったふたりの物語が、静かに息づいているのです。未完の心中となった俊介の死から十六年。ようやくふたりは、約束の続きを果たし、ひとつになることができたのだと思います。






コメント
45森口さん、国宝は大ヒット作ながら、実は難解なところが多いんですよね。自分も初見の時はいろんなところにもやもやを感じました。最後のあたりは書きながら自分でうるっとしていたので、感動が共有できて嬉しく思います。コメントありがとうございました!
そこまで読み取れるの凄すぎます
国宝のあらすじや考察を動画も含めいくつも探していました。ようやく真理にたどり着いた気分です。長文でありながらも疲れることなくスラスラと読み切ることができ、不思議に思っていた点も自分の中で理解できました。本当にありがとうございます。
はじめてコメントさせていただきます。
9月に1度、11月に2度目の映画を観ましたが、2度目は『喜久雄が屋上で踊るシーン』が短く感じました。1度目に観た際にあまりにも衝撃だったので印象に残っているだけなのかもしれませんが、再編されているなんてことはあるのでしょうか。
あきさん、嬉しいコメントありがとうございます🙇♂️できるだけ皆さんに納得してもらえて、読みやすいものをと思って書いたので大変光栄です。
公開中の映画が再編集されるということはおそらくらないかと思います。やはり一度目の衝撃が大きかったということでしょうかね。時間感覚を歪ませるほどの映像と考えると、あのシーンの凄さを改めて感じますね。