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「死んでしまえばいい」と叫ぶ田原総一朗は「やめてしまえばいい」 人生100年時代の辞め時問題

常見陽平千葉商科大学基盤教育機構准教授/働き方評論家/社会格闘家
田原総一朗さんは辞め時を間違えたのだと思うのですよね写真:アフロ

「あんな奴は死んでしまえと言えばいい」

 ジャーナリスト田原総一朗が10月19日放送のBS朝日の討論番組「激論!クロスファイア」内で、自民党の高市早苗総裁に関して言い放った発言が物議を醸した。発言は大炎上した。田原氏は自身のXで謝罪した。テレビ朝日側は、田原の発言は政治討論番組としてのモラルを逸脱していると判断し、当該放送回をもって番組を終了すると発表した。また、番組はVTR収録のため不適切発言を編集でカットすることができたとし、番組責任者ならびに管理監督者である編成制作局長を懲戒処分としたと発表した。

 私はこの問題は日本の言論空間が抱えてきた問題が爆発した瞬間だと捉えている。著名ジャーナリストの老害芸、テレビの世界での問題と捉えてはいけない。田原総一朗を反面教師に、自分自身の去り際を考えようではないか。

「死んでしまえばいい」はなぜ許されないのか

 旗幟を鮮明にさせてもらう。この田原の発言は許してはならない。田原総一朗側が「この発言はまずいのでは」とテレビ朝日に相談したが、そのまま放送されたことなどが明らかになっている。テレビ朝日側も上記のとおり、局側の責任を認めている。これに関して、田原総一朗擁護論を唱える者もいる。まるで田原総一朗が「被害者」であるかのような空気も醸成された。

 しかし、そもそも「死んでしまえばいい」という発言を、事前録画の番組だとはいえ、国会議員などの共演者がいる前で口にすること自体が問題ではないか。居酒屋や楽屋のトークではない。収録の現場で、である。「死ねばいい」が見せ場になるのは、『エリザベート』くらいのものである。

 政治家や経営者、芸能人など著名人の暴言・妄言・失言などは、熱烈な支持者の会合などクローズドな場で起こることが多い。ジャーナリズムはこれらの言葉をとりあげ、彼ら彼女たちを失脚させてきた。「カットを提案した」ことは言い訳にはなるが、とはいえ発言の責任があることは明々白々だろう。そして、田原総一朗なら何を言っても良いという驕りが本人になかったか。テレビ局も、彼になら何を言わせてもいいと思っていなかったか。視聴者も、平常運行だと思っていなかったか。

 もちろん、高市氏に関して、そして、日本の未来にジャーナリストとして警鐘を乱打したかったのだろう。なんせ、総務大臣時代に電波の停波をチラつかせた高市である。とはいえ、「死んでしまえばいい」はないだろう。他者の生、そのものを否定する言葉だ。批判と否定は異なる。政策批判でも、政治判断への異論でもない。政治家としての能力、資質に関する批判だとしてもあまりに雑だ。「存在の否定」に踏み込んでいる。政治の場にいる相手を「倒せ」ではなく「死んでしまえ」と言うことは、対立しながら共存するという前提を破壊する発言である。

 私は高市早苗を支持しない。ただ、ジャーナリスト、論者たるもの「届く声で批判する」ことが大切であって、「死ねばいい」などと安易に言ってはいけない。世界中で血が流れている現在、そんなことを公の場で言う人間を、私は心の底から軽蔑する。ましてや日本を代表するジャーナリスト(ということになっている)方の発言である。これを田原総一朗の「芸風」と矮小化してもいけない。プロレスラーやデスメタルバンドのボーカルでも、死ねばいいとは安易に言わないのだ。毒蝮三太夫の「ババア、生きているか」のように、愛があるわけでもない。

 田原総一朗擁護論、同情論や、彼を番組からおろすための陰謀説まで流れている。笑止千万。そうやって田原総一朗を甘やかしてきたのがメディアであり、支持者ではないか。

 彼の何がすごいのか。それは、長寿で現役であるということに尽きるのではないか。たしかに、『朝まで生テレビ!』が輝いていた時代はあった。田中角栄以降の歴代首相全員にインタビューし、肉薄し、ときに引導をわたしてきた。

 一方で、そのような経歴を知らずに彼を初めて見た人はどう思うだろう。いつの間にか、相手の話を聞かず、遮り、怒鳴り散らし、暴言・妄言を吐く人になっていった。正直、もう「厳しい」ことは本人も周りもわかっているのではないか。いつの間にか、彼を起用するメディアは、彼の延命のための装置なのか、彼に延命させてもらっているのか、わからなくなってきた。

若手を出し、延命してきた田原総一朗

 友人・知人にも田原と共演したことがある人がいる。彼ら、彼女たちは田原への感謝を口にする。ちゃんと向き合ってくれた、チャンスをくれたなどと。「若い論客や新しい才能に場を与える」のは田原の功罪の「功」の部分だろう。いや、新しい才能に限らず、初期の朝生などは、これまでテレビ局に出ることのなかった人をスタジオに立たせ、その声を届けようとした。田原は若手の起用によって、若手からの批判を緩和してきた。「若者応援おじさん」は強いのだ。

 一方で、若手を出すことは、田原総一朗自身を更新・延命させるための方法でもあった。「最先端の若者と触れ合っている俺」「生涯現役」というブランディングである。若い論者、新しい才能の起用は、言論空間への貢献を装った、巧妙な生命維持装置でもあった。その恩義が、田原本人に対しては批判のトーンが明らかに弱めていないか。牙が引っ込む。これはものすごく大きい。これにより「田原にチヤホヤしてもらったクラスタ」が形成される。

 私は一度だけUstreamの企画で共演したことがあるが、田原から声がかかったわけではなく、イベント主催者からのキャスティングで、一度もチヤホヤされたことがないのだけれども。笑え。笑え。彼に認められるだけの才能がなかったということなのだろう。はいはい、私は同世代の著者よりもはるかに売れていない。だから忖度なく、田原批判を続けられる。この田原発言を批判せずして、何がジャーナリストだ、論者だ。

私の田原総一朗批判が新聞社に抹殺された日

 その田原批判も、ときに抹殺される。あくまで私の経験談だが、2022年4月6日にある新聞社のPodcast番組に出演した。田原総一朗と長年共演してきたジャーナリストと一緒だった。女性政治家を増やすにはというテーマだった。その後、同社のイベントに田原総一朗が出る予定だった。私は、田原の各種番組でのマンスプレイニングまがいの言動などから、彼の起用が適切なのかと問題提起した。また、そのイベントにある特定の政党が呼ばれていないことについて指摘したところ、そのジャーナリストは硬直してしまった。田原に言われるがままに人選していたようなのだ。

 その新聞社からは後日、電話があり、私の田原批判と、そのジャーナリストの硬直シーンはカットされることになった。「お前の批判が雑だったのだろう」というツッコミもあるだろう。ただ、メディア企業や、子飼いのジャーナリストも含めて、田原の延命システムを構築しているという点には注目しなくてはならない。田原は「何を言ってもいい人」として君臨し、起用するメディアは批判する人を巧妙に排除してきたのではないか。

著書に繰り返し登場するおなじみエピソードたち

 田原総一朗の最大の強みは、「続けてきた」ということ自体である。90歳を超えても司会席に座り、討論を回す(実際に回せているかどうかは、読者に判断を委ねる)。しかし、これは同時に罠にもなる。続けること自体が目的化する。言葉がアップデートされないまま、同じスタイルの延命に入ってしまう。

 それは著作にもはっきり顔を出している。田原総一朗ウォッチャーとして本をいくつか続けて読むと、ほぼ誰でも気づくはずだ。内容の1/3から半分は同じ話なのだ。教科書黒塗り話に、岩波映画製作社やテレ東での話、朝生、歴代首相との対話、若手との交流というおなじみの話が繰り返される。伝統芸能そのものだ。いや、伝統芸能は伝承され、磨かれていく。「集金ツアー」と揶揄されるベテランアーティストの来日公演には新しい発見と感動がある。同じものを見せられている。

 歴代首相との対話に関しては、最近の著書では、政治家を失脚させてきた経験から、最近は育てる、提言することを意識しているとある。しかし、これもまた驕りではないか。そして、左派が批判してきた、最近、鬼籍に入った渡辺恒雄と通じる部分はある。ただ、渡辺のように批判されるわけではない。

「君たちはどう辞めるか?」人生100年時代の辞め方

 生涯現役という言葉は美しく聞こえる。ただ、やや穿った見方をすれば、「引退できない」社会だとも言える。これは田原のような90代の高齢者に限らない。誰もが年齢の取り方、引き際に悩んでいる。「人生100年時代」はポエムのような言葉で動員の論理だ。ただ、それは辞められない時代だとも言えるのだ。

 そもそも、肉体的にも、精神的にも、社会的にも加齢のあり方が変わっている。会社や社会のルールも変わっており、年齢を重ねても安泰にはならない。一生働き、一生学ぶ時代でもある。

 労働供給制約社会である。生産年齢人口にカウントされない65歳以上の人に注目が集まっている。会社員も希望すれば65歳までは確実に働き続けることができ、70歳まで働くことができるよう応援するような社会になっている。役職定年廃止などの動きもある。会社員を退職した後、フリーランスで活躍する人もいる。

 生涯現役時代は、一生やめられない時代でもある。キャリアデザインにおいて、辞め方、去り際のデザインが必要な時代だ。ただ、これは就職、転職、昇進・昇格、起業ほどノウハウが共有されていないのではないか。

 今の田原をみて、生涯現役、全身ジャーナリストとリスペクトするか、あるいはそうではない視点でみるか。判断はあなたに任せる。ただ、辞められなかったのか、辞めさせられなかったのか。引退、勇退する機会はなかったのか。

大人の事情で惰性で続く昔のジャンプ漫画のような田原総一朗

 私に言わせると、あらゆる点で、昔のジャンプ漫画のように見える。読者ハガキにより支持され、テレビアニメのスポンサーの事情もあり、終わるに終われず、強制延長するのである。人気がない漫画が強制終了されるのも理不尽だが、物語の強制続行もまた、世界観を壊す。大人の事情そのものだ。かつては伝説だった作品が、人気と看板の都合で、惰性で延長され、ページだけが毎週消費されていく。最初の名場面はもう過去のもので、今描かれているのは「まだ続いている」という事実そのものだ。保身のためにフォローすると、いまのジャンプ漫画は、人気絶頂でも終わることができているし、世界観も友情・努力・勝利から変わっている。

 田原やジャンプの話と矮小化してはいけない。自分自身も自社も、続け方、終わり方、バトンの渡し方を考えなくてはならない。

番組の強制終了が続く前に、勇退を

 田原総一朗は続けることによって伝説となった。いや、伝説なのか。番組の強制終了ではなく、「終わりの美学」を今こそ示すべきではないか。終わりを引き受けることは、衰退ではない。成熟である。今、必要なのは、勇退ではないか。そして、私達自身も、終わり方を考えなくてはならない。

 朝生に一度も呼んでもらえなかった、アラフィフで売れていない常見の僻み、駄文だと斬られるかもしれない。そうやって矮小化していなさい。「死んでしまえばいい」と叫ぶ田原総一朗に、私は「やめてしまえばいい」と言いたい。まあ、一度くらいは朝生に出て、机を叩いてバカヤローと叫びたかったな。ただ、人生は長いようで短い。そんな暇はないんだ。

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ありがとうございます。
千葉商科大学基盤教育機構准教授/働き方評論家/社会格闘家

1974年生まれ。身長175センチ、体重85キロ。札幌市出身。一橋大学商学部卒。同大学大学院社会学研究科修士課程修了。 リクルート、バンダイ、コンサルティング会社、フリーランス活動を経て2015年4月より千葉商科大学専任講師。2020年4月より准教授。長時間の残業、休日出勤、接待、宴会芸、異動、出向、転勤、過労・メンタルヘルスによる休職など真性「社畜」経験の持ち主。「働き方」をテーマに執筆、研究に没頭中。著書に『50代上等!』(平凡社)『なぜ、残業はなくならないのか』(祥伝社)『僕たちはガンダムのジムである』(日本経済新聞出版社)『「意識高い系」という病』(ベストセラーズ)など。

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