北千住など行ったことがないので初めていくことになった。11時30分、女性職員が書類を渡しに来る。そのときにわたしは1年前の毛塚葉子です、と訴えていたが、職員といった人種がいつもそうやって訴えるがわたしとは話ができないことを知っているので、そうやって訴えていることは分かっていたがそれ以上突っ込むと害があるから帰った方がましだと思ってそのまま事務所を後にした。弁護士もいないようであった。突っ込むと何があるか分からない津波ほど恐ろしいものはない。事件記録には、被告人をバカに仕切っているような性的な文章が並び、まともに読めるような性質のものではなかった。勾留を取り消した理由に関しても、業務の内容についてさらに事実関係を再調査する必要が生じ勾留継続が不相当と判断されたため、と書いてあるだけでそそられる点は1ミリもなかった。性的に悪辣で興味を持ては持つほど害悪を受け、性的に悪辣であって繊細な者や優しい者が参加できるようなものではない。そのような信号波は常に出ているがどうにもならない。だからクソ東京なのである。ここは裏切りだらけの失敗地帯で、もうだめだ。気づかなければいいものを、大人の世界に子供でも突っ込んでいくと何をするか分からない。5月17日に警察の業務を妨害したと、いかにも、被告人が、性的に悪辣で、その当時に、妨害する気まんまんであったかのように書いている。そういう故意とかそもそも嫌疑があったということを書いている。9月9日に高裁で嫌疑がないという決定が出たために、津波の状況が変わった可能性もあるが、発生から半年経過しても、あんな書き込みに嫌疑があると思っていることが不思議という他ない。なぜ被疑者が5月17日に、性的に悪辣で、交番に警官を出勤させる必要や動機があるのか。警察から逃げ回っている被疑者がそんなことをするはずがないといっても、あるといって主張を変えない。最初の嫌疑の部分があるとはいえないので、はなからおかしいじゃありませんか。なんでこのような、ないことが明らかな事件にいつまでも拘っているのかが理解できない。嫌疑の部分があることが明らかであればこちらも少しは考えるが、嫌疑の部分がいかにもないのだから、実につまらない事件である。このような、逮捕令状に、読むところがない事件になぜいつまでも拘るのか。
逮捕令状には、任意捜査にも応じようとしないし、罪証隠滅や逃亡のおそれがあると書いている。いい加減なことが適当に書いてある記録が全体となっており、その時々に自分のいいたいことが、全く読ませるところもなく書いているだけである。そんなことは一読して誰でも理解できるのに、このありさまである。
最初は、そのように書いておいて逮捕して、その後も次々に、その時々に検事や警察があると思っていることを一方的に書いているだけの巧妙な記録が刑事記録として一体となっている。そのような記録で希望になるのは、最終的に、もう勾留の理由がなくなったので中止する、という、さんざん、ないところに、あるあると言い続けて、仕方がなくなってきたら、理由がなくなった、と書いている。ほとんどの世間の性的に悪辣な猛者どもは、こんなものは読んでいなくて、捜査機関が、なくなった、とか、釈放する、と書いているところしか読まないし、一番最後の、なくなった、釈放、無罪、といった自分にうれしい文言しか読んでないのだという。法学部卒からすればなんともつまらない実務家である。法学部卒の私は、書いている理論に興味があるが、検察官は、マンコを濡らすために、刑事訴訟法大コンメンタール第2巻202ページを参照しているのであって、別に、刑事訴訟法には興味がないのだという。最後の方しかみていないのだという。
12時過ぎ頃に、北千住から小菅につく。東京拘置所という特別な建物が視界に入る。もちろん公園みたいなスカスカな施設であることは分かっている。