とある日の保育園…
僕は室内でお絵かきをしていた。
元々絵は好きだったが、見るだけのことが多かったから
こうやって自分で描くようになったのは
ここに来てからが初めてかもしれない。
出来上がったテトの絵を、おもむろに持ち上げる。
自分で言うのもなんだが…うん、かわいい。
テトが元々可愛いからこそ、僕が描いても可愛いのだろうけど。
いつの間にか、ダイヤが近くに見に来ていたらしい。
何を描いたのか気になるみたいで
考えるみたいに首を傾げている。
…どうやら、楽しみにしてくれているみたいだ。
なるほど、アキ達がダイヤと仲がいいのは
こういうところもあるんだろう。
ダイヤがいると、一段とものづくりが楽しくなるし
なにより、心が軽くなる。
なんだか、春の陽だまりみたいだな…
そう言いながら、そっとダイヤの方へ絵を差し出す。
ダイヤの身振り手振りを、ちゃんと読解出来ているかどうかは
分からないけど…なんとなく、とても褒めてくれているような感じがした。
かわいいとか、きれいとか…多分そんな感じだと思う。
僕は、絵が上手いわけじゃない。
あんなに綺麗なゾーヤを、僕が描けることは無い。
描けるわけない。
だって、ゾーヤは
宝石でできた百合の花みたいだ。
…だからこそ
黒く、塗りつぶしてしまう。
僕が、許せないから。
描きたいんじゃないか、後悔しないか
そう言われたような気がした。
……どう、なんだろう。僕は、どうしたいんだろう。
ダイヤは褒めるのが上手だな…
……もう一回、描いてみようかな。
「きれい」と褒めてもらって、背中を押してもらって
それで何もしないのは、簡単に諦めるのは
覚悟も美しさも、優しさも
蔑ろにするようで、嫌だ。
「シュヤが一番ゾーヤのことわかってる」って言われたけど…
どうだろうか…
案外ダイヤの方がよく分かってるんじゃないだろうか……
綺麗には、描けないだろうけど。
でも、これは僕なりの愛情表現の一つだから
大事にしたい。後悔したくない。
…伝えられる時に、伝えなきゃ。
そう言いながらクレヨンを握る。
若干の緊張からか、指先が震えてきた。
困るな…上手くできないじゃないか…
……そういえば、初めてだ。
残すつもりで、誰かの為に描くものなんて。
今までずっと、自分の為に描いていたから。
……ちょっとだけ、怖くもあるけど…
楽しいとも思う。…多分、幸せだとも思っている。
好きな人のことを想って描くのだから。
…真剣になると、つい呼吸さえ忘れそうになる。
良くない癖だ…
そういえば、三つ編みはこの感じで合ってるだろうか……
というか目は…やめておこう、深く考え出したらきりがない。
応援してくれているのが嬉しくて、自然と笑顔になる。
少しだけ、心がぽかぽかする。
暖かくて、良いものだと思った。
人は、こういう出来事を幸せと呼ぶのだろう。
……そうだ!せっかくだから
ゾーヤの表情も笑顔にしよう。
僕の一番好きな、ゾーヤの表情。
ゾーヤの笑顔は、僕よりもっと綺麗で
僕よりもずっと、優しいんだ。
〜数分後〜
今までで一番上手く描けたとはいえ、やはり緊張はするものだ。
手には上手く力が入らなくて、産まれたての子鹿みたいになってるし…下手に力を込めると紙をくしゃくしゃにしかねない。
そのくらいには緊張している。
……褒めてもらえるのは大変嬉しいことだが
どうしたらいいんだろう、緊張で頭が散乱している…
ともかく今はそれどころでは無いのだ……
とても嬉しいが。
流石に荷が重い…
いや、自分で渡すのが一番いいことであるのは
自分が一番よく分かっているが。
…動揺が顔に出過ぎてしまった。
よかった…ここに本人がいなくて…
危うく僕が爆発するところだった……
…聴き馴染みのある声。
いつもみたいに優しくて、いつもより嬉しそうな声色だ。
外に遊びに行っていたゾーヤが
いつの間にか帰ってきていたのだろう。
これ自体はおかしなことではないし
タイミングも悪くはない…だろう。多分…
僕に度胸がないことだけが問題である。
その言葉を聞いて初めて、やらかしたと思った。
普段のゾーヤなら言わない言葉だ、しない声色だ。
あんな、悲しそうな……
そりゃあそうである。
僕のせいで、優しいゾーヤが傷付くなんてこと
あってはいけないのだ。
それが、僕のわがままであるなら
尚のこと。
何故か逆に僕の方が慰められている…
ありがたいような、情けないような、申し訳ないような……
ともかく言葉にならない気分である。
…こんなに悲しくなるなら、後悔するなら
最初から逃げなければよかったものを…
つくづく自分が嫌になる。
翻訳してくれたゾーヤは、少し不思議そうにそう言った。
何の話か分からぬままに聞いたからだろう。
頭にはてなマークが浮かんでいそうな表情をしている。
不安を押し殺して、最終決定を下す。
これだけ時間をかけて、挙句ゾーヤを悲しませておいて
何一つ成せない、なんてことがあってはいけない。
せめて、渡すくらいはできなくては…
この謝罪が、どれについての謝罪なのかは
僕にも分からない。
…あぁ、今日は色々ダメな日だ。
なんにも、上手くできない。
さっきだってネガティブ発言だったし…
今だって、ゾーヤの目が見れないまま
俯きながら紙を差し出している。
…不安やら緊張やらで押し潰されそうだ。
その言葉にはっとして、勢いよく顔を上げる。
丁度ゾーヤと目が合った。
時計の針が十二時を指すみたいに。
満月のような、美しい瞳が柔らかく細められて
ゾーヤの唇が弧を描く。
心臓が跳ねる音がする。
…シロップの中に溺れるみたいな気分になって
甘くて、幸せで嬉しくて
壊れてしまいそうだ。
……色々あったし、なんか大変だったけど
あんなに喜んでもらえるなら
たまには、まぁ…
形に残すのも、いいのかもしれないと思った。
傷付けないことも、幸せにすることも
僕には難しくて。
……だからこそ、気付いている。
僕の選択は、きみを傷付けることの方が多いことに。
せめて、残る物だけは
きみを、幸せにする
きみの、幸せの礎になる
そういうものにしたい。そうであってほしい。
ただそれだけを、祈っている。
自分の腕を、強く掴む。
ギチギチと、聞き慣れない音を立てていたが
あまり痛くはなかった。
……もし、僕が居なくなっても
どうか
先に進むきみの生は、穏やかでありますように。
そのための、物だから。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!