『断腸亭日乗』を読む
『断腸亭日乗』に「老人の性と生」という視点で迫る.荷風の女たち,『●東綺譚』などに独特の読みを展開.(解説=小野民樹)
■編集部からのメッセージ
永井荷風(1879~1959)の生誕130年,没後50年の記念の年にあたり,4月の新刊,菅野昭正『永井荷風巡歴』に続き,5月には新藤兼人『『断腸亭日乗』を読む』を読者の皆様にお届けいたします.本書『『断腸亭日乗』を読む』は今年97歳になる映画監督が荷風晩年に焦点を合わせて『断腸亭日乗』に「老人の性と生」という視点で自らの老いの心境を読み込みつつ迫る,出色の荷風論です.
荷風は大正6〔1917〕年9月16日(当時37歳)から死の前日の昭和34〔1959〕年4月29日(当時79歳)まで42年間にわたって『断腸亭日乗』を書きつづけました.「断腸亭」とは荷風の別号,「日乗」とは日記のことで,『新版荷風全集』(第1次刊行1992~95年,第2次刊行2009年~)では全6巻,約3200頁に及びます.
新藤兼人監督は70年に及ぶ映画人生において人間にとって本質的なさまざまのテーマを取り上げてきました.「性」はその最も重要なテーマの一つです.全6巻のシリーズである小社刊行の《新藤兼人の足跡》の第3巻『性と生』の「まえがき」で新藤さんは「性.生命の根源である性.性をぬきにして人間は考えられない」と書き,第1章「わが性的ユートピア考」では「人間関係をたぐってゆくと結び目には性があった」と書いています.
性に関わる新藤さんの映画では「鬼婆」「本能」「性の起源」「触角」「強虫女と弱虫男」などがありますが,私は「鉄輪〔かなわ〕」に強烈な衝撃を受けました.これは能の「鉄輪」に想を得た作品で,若い女(フラワー・メグ)と濃厚な情事にふける中年男(観世栄夫)に対する妻(乙羽信子)の異常なまでの嫉妬,執念がこれでもか,これでもかと徹底的に描かれます.そして,こののち「老人の性と生」を正面から取り上げた「北斎漫画」や「東綺譚」が製作されていきます.
本書の第I部は第II部への導入部です.ここでは90年代の著者の日常生活を記し,映画監督3人(溝口健二,小津安二郎,ルイス・ブニュエル)の老いにふれ,荷風の最晩年の,浅草の老舗蕎麦屋・尾張屋でのエピソードを添えます.
第II部は岩波市民セミナー(1992年2月5日~26日)の記録です.新藤さんは前年12月に映画『東綺譚』を撮りおえていました.シナリオ執筆の過程で『東綺譚』と『断腸亭日乗』を繰り返し読み,映画では『東綺譚』の「わたくし」を荷風(津川雅彦)におきかえて主人公とし,時系列にそって『断腸亭日乗』のエピソードを映画のあちこちに配置して,玉の井の戦前の姿とヒロインお雪(墨田ユキ)を浮かび上がらせています.
「荷風の戦災日記」では,新藤さんがどのようにして『断腸亭日乗』の世界に入っていったかということが話の中心です.昭和20年3月の東京大空襲で荷風の住居・偏奇館が焼け,その後戦災を避けるために関西,中国地方まで流浪を余儀なくされ終戦を迎えるところが,著者の自宅の焼失という当時の現実と重ね合わせて語られます.
「荷風の女たち」では荷風文学の重要な要素である「女性」がテーマです.『日乗』昭和11年1月30日の項では「余が帰朝以来馴染を重ねたる女を左に列挙すべし」と16名の女性の名が掲げられています.著者はそれぞれにコメントを加えながら,荷風がどのように女たちと接したかを語ります.
「社会を見た荷風の目」では文明批評家,社会時評家としての荷風が語られます.荷風の反骨精神は戦時下の『日乗』に明らかであり,軍人の専横に強い怒りが表明されています.著者は「井戸端会議的なことを,当たり散らしているようであっても,荷風の品性の高潔さがその発言を高めている」と記しています.
「『東綺譚』について」は本書の最大のヤマ場です.著者は『綺譚』の成り立ち,荷風の玉の井における取材,『綺譚』執筆以後の荷風の芸術上の制作欲と肉欲との関係などについて述べています.著者自身の体験と重ねながらの論の進め方は甚だ説得的です.ラストシーンでは,昭和34年4月30日の荷風の死と三ノ輪浄閑寺(江戸~明治期の遊女の「投げ込み寺」として有名)境内の荷風記念碑のことが記されています.荷風は昭和12年6月に同寺を訪れており,毎年4月30日に「荷風忌」が開催されています.
本書の解説は小野民樹大東文化大学教授が執筆しています.小野さんは以前は岩波書店の編集者で,1976年に新藤さんに『ある映画監督――溝口健二と日本映画』(岩波新書)の執筆を依頼してから2007年の退社に至るまで,『祭りの声』(同前),『日本シナリオ史』上下,前記《新藤兼人の足跡》全6巻など多くの作品を企画,編集しました.「解説」では,本書の特質と新藤さんのこれまでの歩みが新藤さんへの尊敬の念をこめて簡潔な文章で描かれています.「戦争をおそれ,権威をきらって独立して生き抜いた二人」「明治生まれの偏屈老人たちはしたたかで面白い」――永井荷風と新藤兼人をこれほど見事に表現した文章はめったにありません.
(T・H)