| 前田雄二氏『戦争の流れの中に』より
副題 『南京大虐殺はなかった』 |
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同盟通信社社会部記者として「南京戦」に従軍した、前田雄二氏の『戦争の流れの中に』より、「3 「南京大虐殺」とは」の部分を紹介します。 なお、この本のうち、下記紹介部分を含む南京攻略戦前後の約70ページについては、『南京大虐殺はなかった』とのタイトルで、独立の本として発売されています。 確かに「30万人説」を否定する内容ではあるのですが、実際にこの本を読んだ方は、タイトルから受けるイメージと実際の血なまぐさい記述との落差に戸惑ったのではないでしょうか。 皮肉なことに、「目撃談」部分に関する限り、「私は南京大虐殺を目撃した」と題名を変えても全く違和感のない内容になっています。 この「3 「南京大虐殺」とは」の章は、まず「捕虜処刑」の目撃談から始まります。
場所は違うようですが、佐藤振壽氏も類似証言を行っています。 この処刑風景は、この時期の「捕虜殺害」の、ひとつのパターンであったようです。 前田氏は、次に挹江門をくぐります。
前田氏は誤認しているようですが、これは、中国軍撤退時の混乱時の死者です。スミス記者によれば、その数は1000人程度と見積もられています。 続いて記者は、もう一つの処刑風景を目撃します。
「ラーベ日記」にも、「二つの沼から中国人の死体百二十四体が引き上げられた」(2月7日)との記述が見られます。日本軍が、「池」や「沼」を死体処理の場のひとつとして利用していたことを伺わせます。 さらに17日の「入城式」後、記者たちは、下関で多数の死体の山を目撃します。
下関における大量の死体目撃は、多数の資料で見ることができます。前田氏の証言も、その一つです。 ここでは深沢記者からの聴取として「その中に死にきれず動くものがあると、警備の兵が射殺していたという」という記述が見られ、事件後まもない時期の目撃談であったことをうかがわせます。 次が、有名な、松井司令官の「涙の訓示」です。
松井大将の「涙の訓示」は、通常は、南京戦以降の「日本軍の乱暴狼藉」について憲兵隊から報告を受け、それを嘆いたのものである、と見られています。 前田記者は、後述のように「日本軍の乱暴狼藉」についての十分な認識がなく、そのために「"処刑"や長江河畔の死体」のことかもしれない、という解釈を行っているようです。 しかしこれは、日本軍の立場から見れば「軍事行動」の一環であり、当時の軍幹部の日記等を見ても、これを松井大将が「嘆く」ことはまずありえないように思います。 さて、副題の『南京大虐殺はなかった』に対応するのは、次の記述であると思われます。
前田記者は「戦争被害までが積み重ねられて、巨大な数字にふくれあがったのではないか」と書いています。 しかし、「南京軍事法廷判決」を見れば判るように、中国側の「30万人説」は明らかに「戦争被害」をも含んだ数字であり、ここに認識の微妙なズレが見られます。 それはともかくとして、こちらには明記がありませんが、松本重治氏の証言によれば、前田記者を含む3名の同盟記者は「戦闘以外の虐殺被害者は、まず、一、二万というところではないか」という認識を持っていたようです。 *ただしこの認識は、あくまで、狭い取材活動範囲内における限られた情報を元にしたものであり、より多くの情報があれば、彼らはこの数字を上方修正する可能性があると考えられます。例えば「幕府山事件」については、当時の記者は全く認識を持っていませんでした。 以上を総合すると、要するに氏は、「三十万」は否定するものの、一定の虐殺の存在は認識していた、と考えていいでしょう。 最後に前田記者は、「日本軍の乱暴狼藉」の否定を匂わせます。
もし前田記者が自分の認識を偽りなく語っているのだとすれば、その認識の甘さには唖然とせざるをえません。 前田記者は、軍部の間ですら「常識」であった、「大規模な軍紀の乱れ」を、その気配すら感じることができなかったのでしょうか。 (なお、後述の「新井記者」の証言と組み合わせる時、この証言の正確性には疑問が生じます) まず、当HPのあちこちに紹介しているところではありますが、念のため、高級軍人や外交官の認識を、掲示しておきましょう。
これら、指揮官や外交官の証言・手記と読み比べれば、前田記者らがいかに「情報不足」の状況にあったか、はっきりとわかります。 しかし実は、「私たちは顔を見合わせた。新井も堀川も中村農夫も、 市内をマメにまわっている写真や映画の誰一人、治安回復後の暴虐については知らなかった」という前田記者の記述には、多分に誇張があるようです。 ここに名前の出てきた、新井記者の証言です。
これが事実だとすれば、前田記者らには、少なくとも「金陵女子大学」における「日本兵の乱暴狼藉」の情報が伝わっていたことになります。 ひょっとすると「外電」が伝えるほど大規模だとは考えていなかった、と言いたいのかもしれませんが、少なくとも、全く何も知らなかった、ということはないでしょう。 もし前田記者が「日本軍の乱暴狼藉」に関心を持ったのであれば、それを調査する手段は、十分にあったはずです。国際委員会に出向いて話を聞く、そこで「情報」を得た上で、被害者、あるいはその関係者に取材する、等です。 現代のジャーナリストであれば、おそらく、そのような取材活動を行ったことでしょう。 しかしもちろん、当時の環境では、そのようなことは記事にできるはずもなかったし、また新聞記者たちの関心事にもなりえませんでした。 前田記者の記述のこの部分は、彼らの取材活動の限界が伺えて、興味深いところです。 (2005.7.9)
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