「スポーツカーなのにオートマですか?(汗)」 これはアリ?ナシ? MT派の美学vs技術進化、現在地を考える
筆者への反対意見
一方で、MT信奉者の抵抗感は依然として根強い。彼らにとってスポーツカーとは、自分で操作する楽しさを体現する存在だ。 「フェアレディZやインプWRXでATだったら嫌でしょ?」 「良いエンジンはMTで回したくなる」 といった声には、好みを超えた美学がある。操作の手応え、エンジンの回転を自分でコントロールする感覚は、スポーツカー文化の核として今も尊重されている。 ただし、ATがもたらす制御の合理性と競合する場面もある。燃費や排ガスを最適化する制御は、アクセルレスポンスがMTほどダイレクトに感じられないこともあり、運転して楽しいという感覚に影響する場合がある。さらにブランド保守派からは、 「見た目はスポーツカーなのに中身がATではがっかり」 という感情も根強い。ここには伝統と合理性の間で生まれる文化的溝があることがうかがえる。 興味深いのは、この抵抗感が現実の技術環境と並行して生まれている点だ。前述の「今時MTの探して乗ってみ? 内装古臭くて悲しくなるぞ」という声が示す通り、 ・MT = 古典的 ・AT = 現代的 という認識も広がっている。つまり、MT派の美学は感情的価値として強固でありつつ、社会の技術的・合理的変化との間に自然な緊張関係を抱えているのだ。 このように、MT派の抵抗感は保守趣味というより、スポーツカー文化と運転体験の伝統的価値を守ろうとする心理的・文化的反応と捉えることができる。現代のスポーツカー市場では、このふたつの価値観が並存していることが、議論の複雑さを生んでいる。
「あり/なし」ではなく「どちらも正しい」
この議論を単純に“あり/なし”で二分するのは、現代のスポーツカー事情を見誤る考え方だ。ATは技術革新と社会合理性の象徴であり、MTは運転文化とブランド伝統の象徴。どちらも 「自動車文化の重要な要素」 であり、対立ではなく“共存”が自然な姿である。 スポーツカーの本質はスペックの数値やギア形式ではなく、走りを楽しむ意志にある。シフトレバーを自ら操作することで体感する楽しみも、高性能CPUが制御するATの俊敏さも、いずれもドライバーにとって価値ある体験だ。選択肢の多様化こそが、現代のドライバーに求められる柔軟性といえる。 さらに、メーカー側にとってもATとMTの両方を提供できる体制は、 「文化と技術の両立」 を可能にする。市場のニーズは単一ではなく、伝統を重んじる層も、利便性と安全性を重視する層も存在する。両者を排除せず、選択の自由を残すことが、現代スポーツカー市場の成熟度を示す指標ともいえる。 「ギアチェンジの時間が無駄だけど、MTに乗りたい」 という矛盾したネットの声は、まさに現代のドライバーのリアルな心情を映している。こうした矛盾を理解することこそ、スポーツカーの評価において不可欠だろう。