第59話:理想郷
王国調査団のアヴァロン滞在は、エルンスト辺境伯にとってまさに驚愕と自己嫌悪の連続だった。
アッシュは彼らの行動を一切制限しなかった。
「好きなだけ見て回るといい。この都市に隠すものは何もない」
その言葉通り、彼らは警備の獣人の案内のもと、アヴァロンの隅々まで視察して回ることが許された。
そして彼らが見るもの、聞くもの、その全てが、彼らが信じてきた『常識』を根底から破壊していく。
彼らがまず案内されたのは『アヴァロン学術院』だった。
そこではエルフの教師が人間の子供に古代文字の読み方を教えていた。その隣の教室では、ドワーフの子供が獣人の教師から狩りの獲物の解体方法を真剣な眼差しで学んでいる。
そこには種族による教育の格差など存在しなかった。全ての子供たちに等しく最高の教育機会が与えられている。
「……信じられん。我が国では貴族の子弟でさえ、これほど高度な教育を受けてはいない……」
エルンストは愕然とした。
次に彼らは『アヴァロン工房』を視察した。
魔導炉から供給されるエネルギーで半自動化された生産ラインが休むことなく稼働している。ドワーフの職人たちが人間や獣人の見習いたちに、その秘伝の技術を惜しげもなく教えていた。
「……彼らはなぜ、自分たちの技術を他の種族に教えることを厭わないのだ?」
ロデリックが信じられないといった様子で案内の獣人に尋ねる。
獣人は当然だとばかりに答えた。
「なぜなら、俺たちは皆『アヴァロン』という同じ船に乗る仲間だからだ。仲間の誰かが強くなることは、船全体が強くなることと同じだ。当たり前のことだろう?」
そのあまりにもシンプルで、しかし力強い答えにロデリックは何も言い返すことができなかった。
王国ではギルドは自分たちの技術を秘匿し、特権を守るための排他的な組織だ。だがここでは技術は共有し、発展させるための公共の財産として扱われている。
彼らは清潔な公衆浴場で汗を流した。
そこでは屈強なドワーfenixと痩せた人間の文官が、湯船の中で肩を並べて楽しげに語り合っていた。
彼らは豊かな市場で食事をした。
そこでは植物工場で採れた新鮮な野菜が、信じられないほどの安値で売られていた。誰も飢えている者などいなかった。
そして夜。
彼らは自分たちに与えられた清潔な宿舎の窓から、眼下に広がる光の海を見下ろした。
魔導街灯が都市の隅々までを闇から守っている。その光の下で、子供たちが夜遅くまで安全に走り回って遊んでいた。
王都では日が暮れると裏路地はならず者たちの巣窟と化す。貴族でさえ護衛なしでは夜道を歩くことはできない。
「……これが統治か……」
エルンストは、その光景をただ呆然と見つめていた。
アッシュという男は武力でも恐怖でもない。『豊かさ』と『安全』と、そして『希望』によって、この多様な民を完璧に統治している。
それは彼が生涯をかけても決して到達することのできない、為政者としての理想の姿だった。
滞在の最終日。
エルンストは最後にもう一度アッシュとの面会を求めた。
「……アッシュ殿。いや、アッシュ公」
彼はもはやアッシュをただの追放された罪人として扱うことはできなかった。一国の指導者に対する最大限の敬意を込めて、彼は語りかけた。
「私はこの数日間で思い知った。我々がどれほど愚かであったかを。そして貴殿がどれほど偉大であったかを」
その言葉には偽りはなかった。
「……一つだけ教えていただきたい。なぜこれほどの国を創ることができたのだ? 貴殿は我々に全てを奪われたはずだ」
それは彼がどうしても理解できない最後の謎だった。
アッシュは静かに茶を一口すすった。
そしてゆっくりと答えた。
「あんたたちは俺から地位と財産と魔力を奪った。だがたった一つだけ、奪えなかったものがある」
「……それは?」
「知識だ」
アッシュの黒い瞳が鋭い光を放った。
「俺の頭の中にあるこの知識だけは、誰にも奪うことはできなかった。そしてその知識を信じてくれた仲間がいた。それだけだ。俺がやったことは自分の知っていることをただ実行に移しただけだ。特別なことなど何もない」
そのあまりにも事もなげな答え。
だがその言葉こそが、エルンストに自分とこの男との間の決定的な『差』を痛感させた。
自分たちは目の前の権力や過去の栄光にしがみついていただけだった。
だがこの男は常に未来を見ていた。そしてその未来を自らの手で創造するための『知識』を持っていた。
「……負けました」
エルнストは深く、深く頭を下げた。
「我がアルビオン王国はあらゆる面で貴国に完敗している。これは帰国後、ありのままを陛下と王太子殿下に報告するつもりだ」
その言葉にアッシュは何も言わなかった。
ただその瞳の奥に、微かな憐れみのような色が浮かんでいるようにエルンストには見えた。
まるで、もう手遅れだとでも言うかのように。
王国調査団はアヴァロンを後にした。
彼らの心には出発の時とは全く違う感情が渦巻いていた。
嫉妬。驚愕。そして自分たちの国への、深い深い絶望。
特に団長のエルнストは、この旅で完全に心を折られていた。
彼は理想郷を見てしまったのだ。
そしてその理想郷が自分たちの手で切り捨てた男によって創られたという、残酷な現実を突きつけられてしまったのだ。
このアヴァロンでの経験が彼の、そしてアルビオン王国の運命を大きく、そして悲劇的な方向へと変えていくことになる。
そのことをまだ誰も知らなかった。
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