美智子さまの称号「上皇后」は歴史的に不吉

何よりも強い違和感を覚えるのが、先后陛下(※美智子さま)のために作られた「上皇后」という称号だ。

新年一般参賀で、上皇后さまと並び手を振られる上皇さま=2025年1月2日午前、宮殿・長和殿
写真提供=共同通信社
新年一般参賀で、上皇后さまと並び手を振られる上皇さま=2025年1月2日午前、宮殿・長和殿

先后陛下については、先例からすれば「皇太后」を用いるべきだったが、いまや皇太后号は「未亡人との意味合いを帯びたものとして受け止められるようになった」などと有識者会議が主張して、新たな称号を創作することになったという経緯がある。

有識者会議は上皇后号について「歴史上使用されたことのない称号」だとしているけれども、正確には五胡十六国時代の中国に存在した王朝・前趙(304~329)において用いられた例がわずかに確認できる。

そして問題は、前趙におけるこの称号がとにかく不吉だとしか表現しようがないものであることだ。北宋の第五代皇帝・英宗の詔によって編纂された歴史書『資治通鑑』から、関連部分のあらましを次に示そう。

前趙の「上皇后」は自害している

前趙の第三代皇帝である劉聡は、女色に耽り、三人の皇后を囲った。官吏である陳元達が「皇后を三人も立てることは礼に合わない」と諫言したものの、劉聡は怒って陳を左遷した。ある時、「上皇后」とされていた靳月光の姦淫が明らかになったので、陳が劉聡にこの事実を突きつけたところ、后位を廃された月光は恥じ入って自害した。

劉聡はその後、改めて樊氏を上皇后に立てた。再び皇后三人体制となったが、他にも七人に皇后の璽綬が与えられるなどしたので、前趙の秩序は大いに乱れた――。

劉聡には暗君としてのエピソードが多数あるが、もはやこれ以上の紹介は要るまい。有職故実を重視していた明治維新前の朝廷であったならば、上皇后という案は「凶例」としてほぼ間違いなく退けられたことだろう。