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時の魔術師~Der Zauberer von Zeit
町から遠く離れた場所にある一軒の家。
人目を避けるようにひっそりと佇むその家の灯りは消え、辺りは夜の静寂に包まれていた。
カーテンの隙間からわずかに差す月の光が淡く照らす薄暗い部屋に、一人の男が足音も立てずに入ってくる。
「……良く眠ってやがる……」
寝台に横になり、規則正しい寝息をたてながら、スヤスヤとしあわせそうな顔で眠る少年の元へと近づく。
少年を起こさないように静かにその隣りに腰を下ろすと、男は少年に向けて愛しそうに目を細めた。
男を知る者がそれを見たら、驚愕し、逆に恐怖を感じるほどの穏やかな笑み。
その笑みはすべて、少年にだけ向けられるものだった。
「なぁ……、忘れたなんてとぼけてないで、そろそろ俺に真名を教えろよ」
頬にかかる少年の前髪をそっとかきあげてやりながら、独り言のように呟く。
ツァイト・デア=ツァオベラー。
今、男の目の前で気持ち良さそうに寝ている者が名乗っている名まえ。
時魔術を使用した結果失敗し、その反動で望まぬままに己が時を止めてしまった愚かな人間。
少年の姿のまま、老いる事もなく、時間の流れから切り離された永遠の時を生きる者。
古代の言語で「ツァイト」は「時」を。
「デア ツァオベラー」は「魔術師」を表した。
時間の流れから切り離され、少年は老いることも死ぬ事も出来ぬまま長き時を生きる。
誰もが望む不老不死を望まぬままに手に入れてしまった少年は、だが、己が止まった時を時間の流れの中に戻す方法を探している。
時には流れを早め、時には遅くし、必要があれば時を止め、時間を意のままに操ることが出来る魔術師の事を、「時の魔術師」と呼んだ。
少年のように、「時の魔術師」は、己が時間の流れを止めて永遠の時を生きると云われていた。
だが、時の魔術師になり損ねた少年の、皮肉のようなその名まえは、男が少年と初めて出逢った時に男が名づけたものだった。
男は少年に名を訊いた。
面白い気配を放つ少年に、気まぐれに己が言葉に魔力を込めて尋ねた。
―――お前の名は?
男の言葉に逆らえる者は魔族の中でも数少ない。
言葉の魔力に捕らえられ、大抵の者はその声に導かれるままに己が「真名」を口にする。
しかし少年は一瞬苦しそうに眉を顰めた後、こう男に返した。
―――名など……もう忘れた。
名がなくて不便ならお前の好きに呼べばいい……そう答えた。
意外そうにほんの少しだけ目を大きくさせた後、クックッと喉で笑った。
だから男は名づけた。
ツァイト・デア=ツァオベラーと。
一目見た瞬間から知れた、少年が纏う時の流れの中から弾かれた気配。
時の魔術に失敗し、だが人間誰もが望む不老不死を手に入れた少年に、憐れみと称賛を込めて。
人間も魔族も「真名」と呼ばれる隠された名がある。
その者の真実の名。
本人と、それを付けた者以外には知られてはならない名まえ。
真名は、人間にとってはあまり意味を持たないモノだが、魔族には特別な意味がある。
魔族が他の魔族に真名を名乗るという事は、それはその魔族に対して絶対の服従を意味する。
人間が人間に己が真名を教えても、そこに拘束力はない。
だが、それを魔族に知られると、真名を知るその魔族に逆らうことが出来なくなる。
逆もまた然り。
人間が魔族の真名を知ると、その魔族を従えさせることが出来る。
しかしそれは、片方だけがもう一方の真名を知る場合にのみ当てはまる。
互いの真名を知り、互いに真名を呼びあうのは、生涯を共に過ごすと誓いあった証。
故に、魔族は絶対に己が真名を口にしない。
そして人もまたそれを隠した。
頭を撫でるその手の感触が気持ち良いのか、少年は無意識に口元に小さく笑みを浮かべる。
男がこうやって寝ている少年に触れても、少年は目を覚まさなかった。
一度寝ると、朝まで目を覚まさない少年。
中身はとっくに大人なのに、その外見に相応しくいつまで経っても子供のような少年に、男は苦笑を浮かべる。
時の魔術の反動で止まったのは身体の成長だけの筈なのに、何十年経っても中身の成長があまり見られない少年に、つい目が放せなくなる。
時には我が侭で、気が強くて、意地っ張りで、でも寂しがりやな少年は男を振り回す。
機嫌が悪くなっても、甘いものでつってやると、途端に機嫌が良くなる単純な少年。
「クッ……俺ともあろう者が、とうとうヤキがまわったな。 ったく、何でこんなガキに……」
少年の寝顔を見ながら自嘲気味に笑うが、その表情はどこか愉しそうだった。
「この俺が、こんなに近くにいるっていうのに何十年も手ェ出さねーで見てるだけなんて……奇跡に近いぜ。
アンタさぁ……そこんトコ分かってんのかよ?」
独り言のように呟くその言葉は、夢の世界に旅立っている少年には聞こえない。
上掛けからはみ出ている手をとり、手の甲に軽く唇を当てる。
「まぁ、いくら俺でも、ガキを襲う趣味はねぇけどな……」
そう呟きながら苦笑すると、部屋の隅の空間が僅かに揺れた。
少年の手から唇を離し、それを戻すと、男は上かけを肩までかけてやった。
「……主」
男と同じように褐色の肌の、耳が長く尖った人物が姿を現した。
外見だけを見れば、男よりも年上のその魔族は、その場に膝をつくと、男に向って頭を下げた。
「主、僭越ながら申し上げます。 いつまでもそのような人間風情にかまけていないで、いい加減に我らが世界にお戻りください」
「戻るさ。 コイツと一緒にそのうちな……」
「主!」
己の事を「主」と呼ぶ魔族に背を向けたまま、男は答える。
少年の髪を撫でる仕草は優しいものの、その表情にはどこか不機嫌さが混じっていた。
「云いたい事はそれだけか? 他に用がないなら、さっさと失せろ」
「主!!」
「……俺を、怒らすなよ」
男がゆっくりと振り返り、その紅い瞳で魔族を見る。
少年には一度も向けた事のないような冷たい視線に晒され、魔族の肩が大きく震えた。
「出すぎた事を申しました……主。 また後ほど……」
現れた時と同じように、その魔族はゆらりと姿を消した。
何事もなかったかのように男は少年に向き合う。
その視線は柔らかく細められ、先ほどの冷たさは微塵も感じさせなかった。
少年の顔の両脇に腕をつき上体を屈め、幸せそうに眠る少年のこめかみにそっと、軽く触れるだけの口付けを落とす。
そしてその耳元に唇を近づけ、甘く囁いた。
―――なぁ…、教えろよ。 アンタの真名を。
いい加減観念して言っちまえよ、アンタの本当の名を。
忘れた、なんて嘘吐いてないで……言えよ。
そしたらさ……俺という存在で永遠にアンタを束縛してやるから。
その声に反応するように、わずかに少年の唇が動く。
導かれるままに少年が真名を口にするのを微かに期待して、男は耳を澄ます。
けれどそれは声になることはなく、薄く開いた唇からは規則正しい寝息が聞こえてくるだけだった。
「ホント、気持ち良さそうに寝てるっつーのに、なんでアンタはこう相変わらず強情なんだかな。
まぁ、どうせ寝てて聞こえやしねぇんだろうけど……本当はさぁ、アンタが一言、俺と一緒に行くっていいさえすれば……アンタの望み、すぐにでも叶えてやんのに」
そう呟いて、男は耳元に寄せていた唇を、少年の唇へと移動させる。
少年の望みが何なのか、男も十分承知していた。
だが、男は自分が少年の願いを叶えられる事を少年には伝えていなかった。
何度誘っても少年は頑なに拒む。
それでも男に苛立ちや焦りはなかった。
最後の切り札は男の手の中にあるのだから。
互いの唇が触れ合う寸前まで近づけて、だが、フッと口元に笑みを浮かべてそこから離れ、少年の額へと移動させる。
「まぁいいさ。 どうせ時間はたっぷりあるし……楽しみはもう少しだけ後にとっておいてやるよ」
軽くチュッと音を立てて、男は少年の額に口付けを落とした。
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