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日本近世美術史の革新(続) 11 伊藤若冲再論  核廃絶・核抑止?

A.文人画・中国から日本へ
中国の唐から宋元と続く絵画が伝わって、日本でも描かれるようになった漢画、あるいは水墨画であるが、その画題は風景画である山水画もあれば、伝説上の人物を描く仏画や皇帝貴族や高僧の肖像画である頂相画もあれば、清明上河図(北宋)のような都市風俗画もある。なかで、水墨とはいえない色彩豊かな花鳥図というものがある。これは、龍や鳳凰のような伝説上の動物ではなく、現前する動植物を観察して描くもので、明清代に盛んになり、日本では江戸時代前期に本草や博物学的関心が高まり、動植物を集めて写生するという絵師が現れるにいたる。その「写生」を美術作品として高度な作品を遺したのが伊藤若冲である。

「〈不可思議解脱〉という仏世界のことが、維摩経に出ている。そこに住む菩薩は、須弥山を芥子粒の中に入れたり、四大海の水を一つの穴に入れたり、十万世界の風をことごとく口に吸い込んだり、空間や時間を自由自在にもてあそび変形してしまうのだが、須弥山に住む神々も、四大海のもろもろの魚や亀やワニたちも、そうなったことにまったく気付かない。
 伊藤若冲描くところの「動植綵絵」三十幅に飽かず見入っていると、これもまた、ある種の不可思議世界ではないかと思えてくる。どの部分も同じ密度で、びっしりと描きつめられた画面は、一見、若冲が日頃見慣れていたであろう豪華な西陣織を思わせる。現に二代目川島甚兵衛は、二十世紀初め、これを西陣織に仕立てて、セントルイスの万国博に出陳したという。しかし、綺麗な絵模様として眺め楽しむためには、「動植綵絵」は少々不向きなのではあるまいか。画中に描かれた、というより織り込まれたといったほうがよいような草木や鳥の、葉脈の一本一本、羽毛の一筋一筋までが、何かただならぬ存在感をもって訴えかけてくるようだ。画中の鳥たちは、若冲のしつらえた三角や丸の幾何学図形に呪縛され、窮屈な姿勢で画面に凝結されながら、そのことは至極当然といった顔つきをしている。若冲自身も(そしておそらくは当時の世間もまた)彼の描いたものが絵画の常識から逸脱しているなどとは一向に思っていなかったようである。それにしては、すべての細部があまりにも落着きはらった計画性によって仕上げられているからだ。隅から隅までびっしりと描き込まれながら、署名の場所にはちゃんとその分だけの余白がとっておいてある。
 動植綵絵の空間の奇妙なぎこちなさは、あとでも触れるように、おもに、彼の独学による自己流に由来するのだが、その「自己流」の中味には、心理や意識の問題が、いや応なしに関わり合ってくる。私はこの方面の学問にはほとんど不案内なのだが、若冲の絵をみていると、ユングの説く集合的無意識—―心の内なる宇宙—―といったものの存在を考えないわけにはゆかなくなる。おそらく個々の人格の「内なる宇宙」にもエネルギーの違いがあって、若冲の場合は、それが異常に強大であるため、彼の日常の視覚にいろいろ作用を及ぼしてくる。「独楽窩」と名づけられた彼のアトリエにこもっているとき、そのような内部世界からの交信は、特に怪しいまでに活発だったのではないか—―素人考えでおぼつかないのだが、若冲の絵の不可思議の仕掛けはこんなところにあったと想像する。
 このように、心の内なる秘密を絵のなかに持ち込んだ画家は、江戸時代を通じて他にもいなかったわけではない。岩佐又兵衛、狩野山雪、曽我蕭白、葛飾北斎らの名を同類として挙げることができる。だが、若冲の場合のように、それが、装飾美と織り合わされ、濃密艶麗なイメージの集積として表されることはなかった。
 京都錦小路の青物問屋「桝源」の長男として生まれ、数え年二十三歳で家業を継いだ若冲が、絵の道に入った動機についてはよく知られていない。恐らく、三十を過ぎてから、何か一つは趣味をとすすめられて画筆を把ったのではなかろうか。「少シテ学ヲ好マズ、字ヲ能クセズ」、芸事は一切駄目、「凡ソ声色宴楽、人ノ娯ム所、一モ狥ル所無ク」と、相国寺の僧大典に評された(「藤景和画記」)ような無芸の堅物である彼の、唯一の道楽が絵だったわけだが、これが昂じてついには稼業を放棄するまでになる。その裏には、商人に向かない自分の性格—―独身癖、隠遁癖にまつわる人知れぬ悩みがあったらしい。丹後の山奥に二年間姿をくらましたことがあったとも伝えられる。その救済を一方で仏教に求め、それが彼より三つ年下の大典禅師との出会いとなったと推測される。若冲が大典と知己を得たのは、彼が三十六、七歳のころである。以後、大典は若冲の思想上の教師として、あるいはまた、絵画理論の教師として若冲の進路に決定的な影響を及ぼす存在となった。
 不惑の四十歳を迎えた宝暦五(1755)年、彼は家督を次弟宗厳に譲り、早ばやと楽隠居の身となった。すでにこの時までに、彼の画技は、京都の寺院にある中国花鳥画のひたむきな模写を通じて玄人はだしのものとなっていた。というより、若冲独特のスタイルの原型は、すでにでき上っていたとみられる。彼にとっての天職が青物の商いになく、絵筆にあることはもはや誰の目にも明らかだったろう。
 いまや稼業の煩わしさから解放された若冲の制作意欲はすさまじい。一幅の大作「月梅図」(バーク・コレクション)、「虎図」(エツコ&ジョー・プライス・コレクション)、「旭日鳳凰図」(宮内庁三の丸尚蔵館)はこの年の二月から四月にかけての作品であることが画中の年記から知られる。ほかに「月下白梅図」(個人像)、「雪梅雄鶏図」(京都・両足院)、「紫陽花双鶏図」(エツコ&ジョー・プライス・コレクション)、あるいは最近世に知られた「白鶴図双幅」(個人像)、「双鶴図」(エツコ&ジョー・プライス・コレクション)、「松に鸚鵡図」(ボストン美術館)、待望久しく再び世に現れたもと東本願寺伝来の「雪中遊禽図」(個人像)などの秀作が、宝暦五年から七年にかけてのころのものと推定できる。これらの作品のいずれ劣らぬ密度と緊張感は、若冲が「動植綵絵」制作に取りかかる直前の、極めてボルテージの高い充電状態を示している。「動植綵絵」三十幅制作の構想はすでにこのとき彼の意中にあった。彼がそれを実行に移したのは、私の推定によれば、四十二歳(宝暦七年)の後半である。そして、約十年の歳月をかけて三十幅は完成し、相国寺に寄進された。
 「動植綵絵」がほぼ完成したと見られる明和三年、五十一歳の若冲は、みずからの立派な寿蔵(生前の墓)を相国寺の墓地に建てた。独身の彼が後継ぎと頼んでいた末弟宗寂が前年亡くなったことが動機だったらしい。墓碑銘を依頼された大典は、自分は年少なのでと、いささか当惑しながらも、若冲の生い立ち、画歴、画の特徴、人柄のすべてにわたる詳細な銘文を残している。これは、他にほとんど伝記資料のない若冲のことを知るための最重要の記録である。
 この銘の中で、大典は若冲の画技習得の過程をおよそ次のように述べている。
「若冲は最初『狩野氏ノ技ヲ為ス者』に従って遊学しすでにその法に通じた。ある日、自問して曰く、是の法は狩野氏の法である。これを自分が能くしたとしても狩野氏の絵の枠を越えることはできない。『舎ステテ宋元ニ之ユクニ如シカズ』と。そこで、宋元画を学ぶことにして臨模することおびただしい数に上ったが、又自問して曰く、宋元の名手と競ったところで優劣は明らかだ。そのうえ、彼は『物』を描いているのに、自分がそれを写していたのでは、差はへだたる一方である。『親みずカラ物ニ即つキテ筆ヲ舐なめンニ如カザルナリ。物カ物カ、吾レ何ヲカ執ラン』―-ところで、物といってもさしあたり何を対象にすればよいのか。雲上を飛ぶ麒麟とか中国の故事人物のあれこれは、むろん対象とならない。山水といっても、自分が見ているような日本の山水を描いたものにまだものにまだ出会ったことはない。とどのつまりは、動植物を対象にする以外はないのだが、孔雀や鸚鵡のような珍鳥はいつでも見られるというわけにゆかない。ただ、鶏は、村里で馴染みの深いものだし、その羽毛は、五色のきらびやかさを持っている。自分はこれから始めよう。というわけで、窓下に数十羽の鶏を飼い、その形状を極めてこれを写すことに何年も費やした。そしてのち、対象を、植物や動物、昆虫や魚にまで広げ、『ソノ貌ヲ悉クシソノ神ヲ会シ、心得テ手応ズ』の境地に達した。その筆致、彩色はすべてみずからの意匠によって創出したもので、『一毫ノ踏襲』すらない。『古人の韻致』に合わない点があるようだが、それでも、『骨力精錬ノ工たくミ』なことによって、卓然とした名家なのである」
 以前。若冲の図録の解説で、この文章を取り上げたとき、私は「文脈を整える必要からか、思考と実践の過程があまりにも整然と段階づけられすぎている点を除けば、ここに書かれていることは恐らくすべて事実であろう」と書いた。しかし最近になって、私は大典のこの記述の裏に、『宣和画譜』のような中国の画史・画論のあることに気付いた。
 『宣和画譜』(1120年)は、北宋末の芸術家皇帝として有名な徽宗の絵画コレクションを画家別に記述したものだが、各画家の伝記の中にはこの時代の絵画観や制作理念をうかがう上での資料が豊富につまっている。そしてその中には、前記の大典の銘文のもととなったと思われるものが、いくつも見出せるのである。
 例えば、北宋の山水画の名手范寛については、こんなように書いてある。
「(かれは)始め李成に学んだが『既ニ悟リ、嘆ジテ曰ク』、前人の法は、すべて例なく『物』に近しく接することを旨としている。自分は人を師とするより『物』を師とした方がよい。『物』を師とするより、(自分の)心を師とした方がよい。そこでかれは、改めて太華山の麓に住居を移して、四季朝夕その景観のうつり変わるさまをひたすら観察した」
 これは実景の観察だが、花鳥画についても、自宅に植物を栽培し、鳥や動物を飼い、そのかたちや生態を観察写生した五代、北宋の画家の例は、『宣和画譜』の中で、二、三にとどまらない。籐昌佑は、時世に超然とした高潔の士で、彼は「幽閒の地」に隠棲し、植物や花を栽培してその「栄悴」を観察し、それに自分の意想を寓すことに努め、久しくしてその形似を筆端に得るようになった。そしてついには、花鳥や昆虫、動物の類いをも工みに描くようになった。師から教わったものにもっぱら頼ることは未だ嘗てない。その後さらに鵞鳥や芙蓉、果実にまでレパートリーを広めた。易元吉もまた、長沙の自宅の後に池を掘り、石や草木・竹藪で自然のままの環境をこさえ、「水禽山獣」をそこに飼ってその「動静遊息之態」を写し、それを作画の意想の助けとした。それゆえ、動植の状を写しては、彼の右に出る者はなかった。また、梅行思は、鶏を描くのをもっとも得意とし、世に「梅家の鶏」と呼ばれ、もてはやされた。闘鶏の類いが特によく描けていて、それが敵のもとに赴くさま、「昂然トシテ来リ、竦然トシテ待チ、磔毛怒癭たくもうどえい(これは首の羽毛を広げて相手を威嚇するさまをいうのだろう)」のさまなど生けるがごとくに描いていないものはなかった。また、鶏の夫婦親子が餌をついばみ、互いに呼びかけ合う態度など、鶏の生態を描きつくして誉れを得た。
 以上挙げたような『宣和画譜』の記事を、さきの大典の銘文と重ねあわせるとき、銘文の論旨の主要な部分が『宣和画譜』からの巧みな翻案であることが明らかになるだろう。しかし、こうした大典の文章のネタをあげつらうのが私の目的ではない。楽屋裏をあばいた責任をとって、私は、不得手な思想史の領域に、多少なりとも足をつっこまずばなるまい。
 『宣和画譜』の絵画理論は「造化ヲ奪ッテ精神ヲ写ス」(巻十五、花鳥敍論)ことを主旨としている。これは、一種の二元論であって、一方で、造化の秘密を奪うためには、「物」を徹底的に観察しつくすという、客観主義的態度が強調される。他方で、そこに画家の精神を反映させるために、描き手の心、すなわち、主観による意想が重んじられる。今挙げたような諸画家の作画態度は、それの具体的な実践である。ここには当時の知識層の間で行われた士夫画論(文人画論)の投影があり、その背後には老荘思想があるのだが、この少しあとで南宋の朱子が唱えた「格物致知」―-物の理を知ることによって心の理を究める――という思想に重なり合う点も見逃せない。「一草一木一昆虫の微に至るまで、各亦理あり」という、朱子の言葉も、ここで想い起こされる。
 この朱子学は、周知のように、徳川幕藩体制のいわば教学として重視され、朱子学のキー・ワードともいうべき「格物致知」あるいは「格物窮理」の解釈をめぐって、儒者の間で議論が盛んであった。貝原益軒(1630~1714)は、この「格物致知」が含む経験主義、合理主義の側面を尊重した。彼は『大和本草』(1708年)において、日本の動植物・鉱物千三百四種にわたる詳細な分類記述を行ない、理を窮める楽しさに身をゆだねている。この『大和本草』の出版は、十七世紀後半から知識人の間に高まりつつあった博物学への関心に拍車をかける役割も果たした。予楽院近衛家煕が享保年間に制作した『花木真写』は、京の自邸に集めた花卉を写生したものといわれ、洋風の陰影法を加味した精緻な植物図鑑である。
 大典は、室町時代の禅林に栄えたいわゆる五山文学の伝統を継ぐ最後の人といわれる。彼は張子昂ちょうすごう流の書の名手であり、文才に恵まれ、『昨非集』『小雲棲稿』『北禅文草』などに流麗な漢詩文を披露している。彼が『宣和画譜』に親しんだのは、この本が室町時代の五山僧によってすでに読まれていた、といういきさつにもよるのかもしれない(大典の先輩にあたる相国寺の僧彦龍周興は、雪舟の画に賛をした文章のなかでこの本のことに触れている)。しかし、大典がこの本の中の動植物の写生に関する記事に特に興味を注いで熟読したらしく思えるのは、当時の知識人の間に流行した博物学熱に彼もまた感染していたためではないか。
 大典は、学問ぎらいの若冲に『宣和画譜』に書いてあることを教え、その実践を課題として与えたのではないかと私は考える。つまり、大典は、若冲という素材を使って宋の花鳥画の写生を実地にテストしてみようと思ったわけである。若冲はそれを驚くべき律義さで実行したのだが、若冲がさしあたって必要としたのは、「物」自体よりも「物」を描いた絵、すなわち中国の花鳥画の手法を身に付けることだった。彼は大典のつてを頼りに、京都の寺に伝わる中国画を熱心に模索した。その中には、西本願寺伝来の元のちょうちゅうぼく筆「雪中柳鷺図」や、相国寺の秘宝とする明の文正の「鳴鶴図双幅」のような名品も含まれてはいるが、大抵は、明代の江南の職業画家たちによる、さして「物」に即しているとも思えない売絵の類いである。しかし、そこに伝承されている宋代以来の精密な写実技法は日本人にとって、脅威というほかない。それに加えて、当時沈南蘋しんなんびんや宋紫岩そうしがんら、いわゆる来舶清人によってもたらされた清の最新の花鳥技法――長崎派の手法もまた若冲の学習の対象となったが、これは、明花鳥画の伝統に、西洋画法を加味し、一方で装飾性も強めて艶麗で迫真性に富むものに仕立てた、多分に職人的技巧的なものであった。こうした細密な写実の技巧をこらした花鳥画は、日本人のあまり得意とする分野と思えず、事実、室町、桃山時代にこれをまともに学び写したものに出合うことは、小幅を除いてまずない。それがようやく江戸時代も後半にさしかかるころ、本格的な学習の対象となったわけであり、それを競い合ったのが、円山応挙と伊藤若冲であった。応挙には円満院門主祐常法親王という後ろ盾がおり、若冲には大典という理論家がついていたわけである。ここで、この二人の画風のちがいを紙面を費やしてうんぬんする余裕はない。かりにそれを一言で片づけるならば、応挙はプロ、若冲はアマということになるだろう。応挙には狩野派から学んだアカデミックな技法の基礎があり、またバランスのとれた美しい理想形態への志向が先天的に備わっていて、それ彼の画風を奇矯さから遠ざけた。一方、若冲は、初め狩野派から学んだというが、それは素人の手習い程度だったとしか思えない。彼の技法の基礎は明清花鳥画の独習によって作られ、それは本質的に自己流のものであった。もっとも若冲の場合、それは本格的な自己流であり本格的な素人絵なのである。矛盾しているようだが、こういう以外にしようがない。」辻惟夫『十八世紀京都画壇 蕭白、若冲、応挙たちの世界』講談社選書メチエ、2019.pp.134-143.

 若冲の墓に刻まれた彼の画道の歩みを語る文章が、じつは『宣和画譜』という宋代の画家論のなかに、その記述の元ネタがあって、若冲の墓に刻まれた文章を書いた大典は、当然相国寺で漢籍に通じていた人だから、それを読んでいたはずだというわけだ。だとしても、若冲が鶏や動植物を実際に観察して「動植綵絵」などを描いたのは事実だろうし、それが誰かの真似や模倣などではないことも確かだ。それにしても、京都が何度も大火に見舞われ、寺院や邸宅が焼けてしまったことを考えると、それが残っているからこそ今のぼくたちも現物を見ることができるわけで、もし「動植綵絵」が焼けてなくなっていたら、はたして伊藤若冲という絵師の存在は知られることもなかったかもしれない。あの信長秀吉の安土城や大坂城の御殿を飾っていた狩野永徳の大作はみんな戦火で焼けてしまって、それがどんなものかもはや誰も知らないようなことは、いろいろあったのだろうな。


B.核抑止か核廃絶か?
 「戦後」という時代空間が、80年も続いているように思っている日本は、たぶん世界中できわめて特殊な国で、それはあれだけの大きな戦争と敗北を経験したことを、その後の人生を考えながら生きてきた戦争体験者の記憶に依存していたと思う。そして、もう戦争を体験的に知っている人はほぼいなくなる状況で、戦争、特に核兵器に対する態度を確認しておくことが、いまや世界のあちこちで戦争が起こり、さらに核の使用が現実味を帯びていると感じるならば、真剣に議論すべきだと思う。
「時をよむ 論説委員室から :「完璧な核抑止」は存在しない
 「核兵器は、絶対に人類と共存できない」 
 原爆投下から80年となった今年の夏。広島・長崎など各地で取材し、被爆者たちの訴えを、改めて胸に刻むことになった。
 被爆者の切実な願いが「核兵器のない世界」の実現。現状は対極にある。長崎大核兵器廃絶研究センターの史料によると今年、世界に核弾頭が1万2340発あり、うち9615発が配備中など「現役」で、2018年を底に増加傾向だ。
 米ロの2大核大国は数こそ微減だが性能向上などを進め、中国の急速な増加も目立つ。軍縮どころか軍拡・拡散だ。
 戦争で核が使われるリスクもかつてなく高まっている。大国の指導者から「核使用の脅し」が公然と語られる。
 どう向き合うか。自らも核戦力をいつでも使える、と誇示することで敵に核使用を思いとどまらせる「核抑止」こそが現実的、なのだろうか。
 歴史を振り返りながら冷静に考えてみる。
 「抑止」の前提は、核保有国が正しい情報をもとに冷静な判断を下すことだ。ただ、それは紙一重であり、誤解やシステムエラーなどが取り返しのつかない事態を招く懸念がつきまとう。
 つまり、「完璧な核抑止」というものは存在しえない。核の脅しが公然と語られる今、核抑止に頼るリスクはより顕在化してきたとも言える。
 「抑止」が破綻して1発でも使われ核戦争となれば、それは人類の生存の危機を意味する。
 そんなリスクと「共存」し、核の力に頼り続けることが安全保障なのか。むしろ、核抑止が現実的な対応だと固執することこそが、現実を正面から見ようとしていないように思える。
 いま、国際社会が最優先で取り組むべきことは核兵器の脅威をなくしていく外・対話の努力であり、揺らぐ核軍縮の枠組みの再建であり、具体的な知恵の結集だろう。
 道のりは簡単ではない。ただ、一朝一夕に核なき世界という目標には至らなくても、今ほど核軍縮から廃絶へと向かう行動が、そして核の惨禍を知る戦争被爆国たる日本のリーダーシップが問われる時はない。
 8月8日、長崎市内では、長崎で被爆した日本被団協代表委員の田中熙巳さんらが登壇し、核問題を考える公開イベントが開かれていた。「いま持っている夢」を問われた田中さんの答えは「核廃絶への道が見え始めること」だった。
 「夢」で亡くなる日を一日でも早く、たぐり寄せないといけない。(国際社説担当)」朝日新聞2025年9月1日夕刊1面。
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