巨人軍監督としての長嶋は、V9の川上哲治名監督に比べ、リーグ優勝は3回したけれど日本シリーズ日本一は2000年、王監督のダイエーに勝ったのが最後でした。70年代の山倉、中畑、篠塚、原、90年代の松井、槇原、斎藤、桑田など、長嶋巨人で名を残した選手を育てたといわれますが、投手は別として、天才的な打撃センスをもつ長嶋が、指導者・コーチ教育者として優秀だったかは疑問です。だいたいこの人の言語は、メイクドラマとかへんな英語を乱発したり、監督1年目に朝日記者に語ったという「ひとつのいわゆる監督としての仕事にね、そういうあたりに入ってきますからね」などと意味不明な非論理不合理な思考があらわれて、要するにこの人物自体がカリスマ化されていただけだと思います。常勝巨人を期待されて、スポーツメディアを牽引していた読売と日テレの権力を背負って、他チームの有力選手を引き抜き、圧倒的な資金と人脈を駆使してトップを目指したのにもかかわらず、さほどの結果を出せずに終わったのです。
ここで、ぼくはこの「栄光の高度経済成長の象徴」だった「元気あふれるニッポン」のヒーローを、2025年のいま振り返るのに何の意味があるのか?と呆れられるのもわかります。そんなことはもう歴史の遠い過去への懐古にすぎないし、年寄りのノスタルジアで長嶋、そしてもっと前に死んだ力道山なんて思い出しても、くだらない老醜老残の慰みではないか。とも思ったのですが、今日ある雑誌に載った文章を読んで、いや今こそ「昭和のオヤジ」の根っこを探る試みは、現代的な意味があるのではないかと思ったのです。その文章というのは、7月の参議院選挙で躍進した参政党について分析した、成蹊大学の伊藤昌亮氏の「参政党 「真ん中」からの反革命」(岩波書店「世界」10月号)でした。
参政党の躍進は、多くの日本人、とくに左派的なリベラル勢力にとって驚きでした。だってその主張は極右的復古主義で、しかも外国人排斥の差別的排外主義と夫婦別姓やLGBTに否定的な戦前回帰で、その憲法改正案は日本人とは、3代前から日本国籍がないといけないというようなとんでもないものでした。だから、ぼくたちはこんな政党がどうして支持されるのか理解できず、ばかげたデマや偏見で有権者は騙されたと思ったのです。でも、この論文が指摘していることは、もっと深い日本の現状への危機感の逆説的な現れだということでした。読んでみると確かに、左派的な反発は事の本質を片面でしか見ていなくて、参政党の戦略が従来の古びた自民党的伝統保守ではなく、「左から入って右にいく」巧妙な仕掛けであり、小泉構造改革でずたずたにされた「真ん中」、それなりに生活を保っていた中間下層に焦点を絞ったロウアーミドルへの、訴求力のあるメッセージだったことです。以下、いくつかそれを引用します。
「まず政策全体の分析から始めよう。今回の参議院選挙での参政党のマニフェストは、以下の三つの柱から構成されていた。①「日本人を豊かにする~経済・産業・移民~」という、排外主義的な考え方に結びついた経済政策、②「日本人を育む~教育・人づくり~」という、復古主義的な考え方に結び付いた文化政策だ。さらにその先の議論として、「創憲」という考え方に基づく新憲法草案があった。
これら三つの柱にはそれぞれ三つの個別政策が掲げられていたが、それらはいずれのパートでも、広く共感を呼びやすい導入部の実際的な提案から、イデオロギー色の強い結論部のコアな主張へ、という順番で並べられていた。たとえば①の排外主義的経済政策では、「”集めて配る”より、まず減税」という導入部の「共感調達パート」から入り、「行き過ぎた外国人受け入れに反対」という結論部の「コア主張パート」に至る、という具合だ。
さらに三つの柱の全体としての構成も同様の順番になっており、しかもそれは、参政党自体の発展の経緯に対応しているものだった。
まず①の排外主義的経済政策は、2024年の10月の衆議院選挙からマニフェスト化されたものであり、昨今の物価高の状況や排外主義運動の広がりなどを背景とするものだった。次に②の農本主義的政策は、2022年7月の参議院選挙からマニフェスト化されたものであり、当時のコロナ禍の状況や反ワクチン運動の広がりなどを背景とするものだった。さらに③の復古主義的文化政策は、2020年4月の結党当初から訴えられてきたものであり、日本会議を始めとするそれ以前の右派運動の広がりなどを背景とするものだった。
つまり彼らのマニフェスト全体の結論部には、最もコアな支持層に向けたもっとも古くから訴えられてきた③の復古主義的文化政策があり、そこがコア主張パートに当たるといえるだろう。一方でその導入部には、比較的ライトな支持層に向けて比較的新しく訴えられるに至った②の農本主義的環境政策と、最もライトな支持層に向けて最も新しく訴えられるに至った①の排外主義的経済政策があり、そこが共感調達パートに当たるといえるだろう。なかでも①は、今回の彼らの大きな躍進の要因となったものであり、共感調達の役割をひときわ強く果たしたのではないだろうか。
こうした構成の中で支持者はその層に応じて、つまりコア層かライト層かなどに応じて異なるところを見ていたのだろう。加えて支持層と批判層の間でも、やはり見ているところが違ったのではないだろうか。批判層は主としてリベラル派の論者だったので、もっぱらコア主張パートの右派的な主張を取り上げ、批判を向ける。③の復古主義的文化政策や、その先にある新憲法草案、あるいは①の経済政策の中の排外主義的な主張の部分などだ。一方で支持層、それもとくにライト層はもっぱら共感調達パートに目を向け、指示を与える。とりわけ①の経済政策の中の実際的な提案の部分だろう。
その結果、両者の議論が嚙み合うことはなかった。支持層は経済の話をしているのに批判層は憲法や人権の話をしている、という具合だったからだ。
参政党の経済政策の基礎にあるのは、MMT(Modern Monetary Theory:現代貨幣理論)を始めとする反緊縮、積極財政の経済理論だ。それによれば通貨の発行権を有する国は、いくら国債を発行してもその返済のために通貨を発行すればよいので、債務不履行に陥ることはない。そのため財政規律に縛られることなく国債の発行を続け、積極財政を行なうべきだという。
ポストケインズ派の流れを汲む理論であるMMTに、党の創設者の一人である元財務官僚の松田学が提唱した「松田プラン」などを付加した独自の理論を彼らは擁している。その実現のために、赤字国債の発行を禁じている財政法第四条を改正することを政策化したほか、新憲法草案の「財政」の章には、「税は唯一の財源ではない」「財政は・・・・通貨発行により資金を調達する」などと謳われていた。
こうした信念に基づき、彼らは大判振る舞いの積極財政をアピールすることになる。消費税廃止はもとより、税と社会保険料による国民負担率を10ポイント下げることや、15歳までの子ども一人につき月10万円を給付すること、給付型奨学金を拡充することなどが謳われた。
こうした彼らの政策は、低所得者に対象を絞るような選別主義的なものではない。普遍主義的なものだが、しかしその政策カタログには、とくにいくつかの層への支援策が重点的に記されていた。たとえば「借金・廃業に追い込まれる小規模事業者・フリーランスを守る」ことや、「非正規雇用の正規雇用化」、あるいは「アルバイトやパートタイムで働く人々」「お母さんや専業主婦」を守ることなどだ。
ただ一それらの支援策には、通常の経済政策にあるような賃上げ策は含まれていない。実際、「賃上げ」という語は彼らのマニフェストにも政策カタログにも一切出てこない。同様に積極財政を掲げていた国民民主党のマニフェストでは、「手取りを増やす」ことに関連してこの語が頻繁に使われていたが、そうしたスタンスとは大きく異なるところだ。つまり、彼らがことさら守ろうとしていた人々は、昨今の賃上げの動きとはあまり縁のない人々だったのだろう。労働組合を通じて賃上げを要求することができる大企業の社員や公務員などよりも、中小企業の社員や非正規雇用労働者、あるいは自営業者やフリーランサー、さらには主婦などが念頭に置かれていたのではないだろうか。
ただし、それらの人々は必ずしも貧困層に当たるわけではない。たとえばやはり積極財政を掲げていたれいわ新選組のマニフェストでは、「不況で困窮する人々」として「中卒、高卒、非正規や無職、障がいや難病を抱えて」いる人などが挙げられていたが、それらのいわゆる社会呈弱者に配慮するというスタンスは参政党には見られない。 要するに彼らが守ろうとしていたのは、いわば上でもなければ下でもない、「真ん中」にいる「普通の人々」であり、とはいえ昨今の賃上げの動きからは取り残された、どちらかといえば「ロウアーミドル」の人々だったのではないだろうか。 (中略)
「真ん中」を守るというメッセージを人々に届けることは、しかし思いのほか難しい。「真ん中」である以上、承認されて当たり前なので、ただ守るというだけでは届きにくいからだ。そこで「真ん中」ではないところ、「端っこ」を切り捨てることをあえてアピールする必要がある。たとえば「高齢世代」を否定することで「現役世代」を肯定する、「外国人」を否定することで「日本人」を肯定する、という具合だ。
いわば否定法による肯定法というこうした話法を存分に活用してきたのが参政党の神谷宗幣代表だった。外国人の件はもとより、「LGBTなんかいらない」「発達障害など存在しません」などと発言し、性的マイノリティや障碍者を切り捨てるような態度を見せたり、終末期医療を保険対象外にするなどと発言し、高齢者を見捨てるような姿勢を示したりしてきた。それらは差別発言、それもレイシズム(人種差別)、セクシズム(性差別)、エイジズム(年齢差別)、エイブリズム(障害者差別)にまたがるそのオンパレードとして受け取られ、リベラル派から激しく批判されたが、しかしその実態はこうした話法、「端っこ」を切り捨てることで「真ん中」を守ることをアピールするためのものだったと捉えられる。
そしてそれが一つの政策にまで高められることになったのが、彼らの外国人政策、排外主義的な主張だった。それは大きな支持とそれ以上に大きな批判を集め、とくに選挙戦の後半では大きな争点となったが、そこではとくに二つの問題が扱われていた。まず一つは外国人労働者問題であり、「弱い外国人」のイメージに関わるものだ。移民として日本にやってきた貧しい外国人労働者を保護するために、日本人が払っている税金や社会保険料が使われてしまっている、福祉国家のシステムに彼らはタダ乗りしているのではないか、という考え方によるものだ。
もう一つは外国人投資家問題であり、「強い外国人」のイメージに関わるものだ。中国人などの豊かな外国人投資家に日本の土地や資源が買い漁られている、景勝地や水源地のほか、タワマンが「爆買い」されるなどして不動産価格が高騰し、日本人が住めなくなってしまっている、という考え方によるものだ。
前者の考え方は「福祉排外主義」と呼ばれ、ヨーロッパなどで従来から見られたものだ。一方で後者の考え方は「投資排外主義」とでも呼ぶべき、日本固有の新しいものだろう。外国人による不動産購入に対する規制が日本にはほぼないことに加えて、円安やインバウンド政策、中国経済の急成長とバブルなど、いくつかの条件が重なって生み出されたものだ。
いずれの言説もデータに裏づけられたものではなく、思い込みに基づく感覚的なものにすぎず、デマや事実誤認に基づいて語られることが多かったが、しかし「真ん中」を守るという彼らのメッセージを人々に届けるには格好の話題だった。 (岩波書店『世界』2025年10月号、pp18-24.)
参政党の考える「望ましい日本社会」のイメージは、敗戦で崩壊した軍国国家、大日本帝国の馬鹿げた幻想ではなく、まさに「昭和のオヤジ」が理想とした1960年前後の躍進する経済成長、力道山に始まり長嶋茂雄に結実した、どこまでも明っかるい「日本人」というアイデンティティが、無邪気に肯定される一瞬の幻影を取り戻したいのだとぼくは思います。参政党が守りたいという「日本人」とは、90年代から世界を支配したネオリベとグローバリズムというアメリカの覇権維持の、俺たちだけが王様という利己的な暴力に、いつのまにかどんどん衰弱していった日本の中流階級の下層、1930年代のドイツでナチスを支持した中流保守層、自営業と不安定労働者のフラストレーションが、じつに対応していると思います。だから参政党はそこに訴えて国会に進出しようとしているのです。このことの社会心理学的興味からすれば、いままた復活し伊藤昌亮氏のいうロウアーミドルという、社会学でマルクス主義からくる階級闘争論に対して、アメリカの社会階層論では、近代的自由競争の社会を理論化しました。20世紀社会学を導いたハーバートのタルコット・パーソンズは、誰もが自分の能力と意欲によって、社会的地位と威信を手に入れることができる民主主義を原理として認めたけれども、社会階層論で安定した中間層があることでその社会が破綻しないという理論が成立するのは、21世紀にはどうもあやしい。だから、ぼくの「昭和のオヤジ」の歴史的考察は意味があるといいたいのです。

B.横尾忠則と会田誠
この春、世田谷美術館で開催された「横尾忠則 連画の河」展を観て、そのパワーに圧倒された。和歌の上の句と下の句を複数人で分担して詠みあうのが連歌だが、横尾は昨日の自作を他人の絵のように眺め、そこから今日の筆が導かれるままに描き、明日の自分=新たな他者に託して、思いもよらぬ世界が開けるのを楽しむ。「連画」は、気づけば川の流れのなかにある。遠い昔に郷里の川辺で同級生たちと撮った記念写真。そのイメージを起点に、横尾の筆は日々運ばれる。水は横尾の作品の重要なモチーフの一つだが、いま、その絵画世界は悠々とした大河となり、観客の前に現れる。さまざまなイメージが表れては消え、誰も見たことがないのになぜか懐かしくもある光景――生も死も等しく飲みこんで、「連画の河」は流れていく。
150号を中心とする新作油彩画約60点に、関連作品やスケッチ等も加え、88歳の横尾忠則の現在は、脅威といえた。ぼくも絵を描くのだが、こんなふうにはとてもできない。
「2人の天才画家の作品集成本: 「横尾忠則全集」が復刻された、収録作品約360点、300㌻を超える全ページを横尾自身がデザインした途方もない書物で、それを高精細印刷でほぼ完全に蘇らせたものだ。部分瀧にはオリジナル版より美しくなっている箇所さえある。
横尾は89歳の今も旺盛な活動を続ける驚異の人だが、「横尾忠則全集」を見れば、1970年前後の横尾こそ真の天才だったことが一目瞭然だ。あの時代、演劇の唐十郎、ジャズの山下洋輔、マンガのつげ義春と並んで、日本文化の四天王だった。
昭和元禄の横尾に匹敵する怪物美術家を現代に探すなら、会田誠に指を折ることになろう。おりしも、2000年から今に至る会田の活動をまとめた『会田誠のスクラップブック』(講談社)が刊行された。図版750点以上、自作解説6万5千字超の大冊だ。
同書に集成された会田の活動はあまりに多彩で、世界文明への危機意識とこの上ない悪ふざけが一体化した巨大な混沌ともいうべきものだが、純然たる絵画の近作「灰色の山」や「電信柱、カラス、その他」の超絶的な美しさには言葉を失うほかない。恐るべき大器なのである。(LHOOQ)」東京新聞2025年9月16日夕刊3面、「大波小波」欄。






