第8話 教室での絶対防壁
教室の扉を開けた瞬間、それまでざわついていた空気がぴたりと静止した。
数十の視線が一斉に俺たちへと突き刺さる。それはまるで、異物を発見した警戒心の強い草食動物の群れのようだった。
教室はかなり広く、天井も高い。窓から差し込む光が、磨き上げられた床を明るく照らしていた。机や椅子も、俺が前世で使っていたものとは比べ物にならないほど上質だ。
だが、そんな教室の立派さも、今の俺には何の慰めにもならない。
なにせ、教室にいる生徒全員が、俺と、俺に腕を絡めるルナリアを凝視しているのだから。
「おはようございます、皆様」
その重苦しい沈黙を破ったのは、ルナリアの澄んだ声だった。
彼女は少しも臆することなく、優雅に微笑んでみせる。
その一言で、教室の凍りついた空気が少しだけ溶けた。何人かの女子生徒が「お、おはようございます、ルナリア様…」とか細い声で返す。男子生徒の多くは、ルナリアの美貌と、その隣にいる俺への嫉妬で固まったままだ。
俺は居心地の悪さに身を縮こまらせながら、とりあえず空いている席を探そうとした。
しかし、ルナリアは俺の腕をがっちりとホールドしたまま離してくれない。
「ユウキ様、私たちの席はあちらですわ」
そう言って彼女が指さしたのは、窓際の一番後ろの席だった。
漫画やアニメなら主人公の特等席だが、今はただの公開処刑台にしか思えない。
俺たちが席に着こうとした、そのタイミングで予鈴の鐘が鳴り響いた。
間もなく、一人の壮年の男性教師が教室に入ってくる。
「席に着け。ホームルームを始める」
教師の厳格な声で、生徒たちは慌てて自分の席に戻った。
教師は出席簿を確認した後、その視線を俺に向けた。
「今日からこのクラスに編入することになった、ユウキ・アスカワくんだ。シルフィード公爵家のご推薦による特待生だ。皆、仲良くするように」
淡々とした紹介。だが、「シルフィード公爵家のご推薦」という一言は、教室内に再びさざ波を立てるには十分すぎた。
「ではアスカワくん、前に出て自己紹介を」
「は、はい」
俺は覚悟を決めて教壇の前に立った。
再び、全ての視線が俺に集中する。好奇、探り、嫉妬、そして一部の女子生徒からの純粋な興味。
様々な感情が渦巻く視線の濁流に、俺の胃がきりりと痛んだ。
「えー…本日付けで編入しました、ユウキ・アスカワです。出身は、東の方の…小さな村です。特技は特にありませんが、治癒魔法が少しだけ使えます。皆さんと早く仲良くなれたらと思っています。よろしくお願いします」
当たり障りのない、完璧に無難な自己紹介。
俺は一刻も早くこの場から解放されたくて、早口にそう言うと深々と頭を下げた。
しかし、生徒たちの興味はそんなところにはなかった。
一人の男子生徒が、おずおずと手を挙げる。
「先生。質問いいですか」
「なんだ、ブラウン」
「アスカワくんに聞きたいんですけど…ルナリア様とは、どういうご関係なんですか?」
きた。絶対に聞かれると思っていた、核心の質問。
教室中の誰もが、固唾を飲んで俺の答えを待っている。
俺がどう答えようか迷っていると、教師が「ブラウン、私的な質問は休み時間にしろ」と制してくれた。助かった。
「アスカワくんの席だが…」
教師が空いている席を探して教室を見渡す。
その時、すっとルナリアが手を挙げた。
「先生。よろしければ、私の隣の席はいかがでしょう? ユウキ様は編入されたばかりで、何かと分からないことも多いかと存じます。私が学園生活の補助をさせていただければと」
完璧な理由付け。そして、有無を言わせぬ公爵令嬢のオーラ。
教師は一瞬ためらったが、すぐに頷いた。
「…そうだな。それが良かろう。ではアスカワくん、シルフィード嬢の隣に」
こうして俺の席は、ルナリアの隣に決定した。
背後から「ちっ」という舌打ちがいくつか聞こえた気がするが、俺は聞こえないふりをした。
授業が始まっても、俺は全く内容に集中できなかった。
教科書を開いてはいるものの、隣からの熱烈な視線が気になって仕方がないのだ。
ちらりと横を見ると、ルナリアは頬杖をつきながら、うっとりとした表情で俺の横顔を見つめていた。黒板など一瞥もしていない。
彼女の瞳には、ハートマークが浮かんでいるようにさえ見えた。
「…ルナリアさん、授業中…」
俺が小声で注意すると、彼女はこくりと頷き、小さな声で囁き返してきた。
「はい。ユウキ様の真剣な横顔を、しっかりと目に焼き付けております」
ダメだ。話が通じない。
俺は諦めて、正面の黒板に向き直った。もはや、授業内容は右から左へ抜けていく一方だった。
◇
そして、待ちに待った(待ちたくなかった)休み時間がやってきた。
授業終了の鐘が鳴り終わるか終わらないかのうちに、それは起きた。
まるでダムが決壊したかのような勢いで、生徒たちが俺の席に殺到したのだ。
「なあ、アスカワ! お前、本当にルナリア様とどういう関係なんだよ!」
「東の村って、どこ? 聞いたことない名前だけど」
「なんで公爵家の推薦が取れたの? もしかして、どこかの国の王子様とか?」
「ルナリア様の病を治したって、本当なんですか!?」
質問の嵐。好奇心の津波。
俺はあっという間に人垣に囲まれ、逃げ場を失った。
どう答えるのが正解なんだ。何を言っても、面倒なことになるのは目に見えている。
俺が返答に窮して「あ、えーっと…」と言葉を濁していると、すっ、と隣から涼やかな影が立ち上がった。
ルナリアだった。
彼女は俺の前に立ちはだかるように立つと、にこりと完璧な淑女の笑みを浮かべた。
「皆様、お静かにお願いいたします」
その一言で、あれほどうるさかった教室がシンと静まり返る。
公爵令嬢が放つ、生まれながらの威厳。それは、ただの学生である彼らが逆らえるものではなかった。
「ユウキ様にお聞きになりたいことがおありなのは、よく分かります。ですが、ご覧の通り、ユウキ様は長旅と慣れない環境でお疲れなのです」
彼女はそう言うと、心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
その仕草は、周囲の生徒たちに「私たちは特別な関係なのよ」と無言でアピールしているようにも見える。
「ですから、申し訳ありませんが、質問はまた後日にしていただけますでしょうか。今は、ユウキ様に少しでもお休みいただきたいのです」
天使のような微笑みと、有無を言わせぬ圧。
その完璧なコンビネーションの前に、生徒たちは何も言えなくなった。
「そ、そうか…悪かったな…」
最初に質問してきたブラウンと呼ばれた男子生徒が、ばつが悪そうにそう言って引き下がる。
それを皮切りに、他の生徒たちも蜘蛛の子を散らすように自分の席へと戻っていった。
嵐が去った教室で、俺は呆然としていた。
すごい。まさに鉄壁のガードだ。
俺が何も言わなくても、全ての質問を完璧にブロックしてくれた。
「大丈夫ですか、ユウキ様? 皆様、少々強引でしたわね」
ルナリアはそう言って、どこから取り出したのか、美しい刺繍の入った水筒を差し出してきた。
「喉が渇いたでしょう? 私の故郷の茶葉で淹れた、特製のハーブティーですわ。どうぞ」
「あ、ありがとう…」
俺が差し出されたカップを受け取ると、彼女は満足そうに微笑んだ。
その笑顔は、まるで主人に尽くす忠犬のようだ。いや、女神か。
次の休み時間も、その次の休み時間も、同じ光景が繰り返された。
懲りずにやってくる生徒たちを、ルナリアが完璧な笑顔と理論武装で撃退する。
「申し訳ありません。ユウキ様は今、読書に集中されていますの。この本の作者は、私も大好きな方でして…」
「ごめんなさい。ユウキ様は次の授業の予習をなさっていますの。とても熱心な方なのです」
「皆様、お気持ちは嬉しいのですが…。ユウキ様は少し人見知りをなさる方なのです。どうか、そっとしておいて差し上げて」
その防壁は、まさに「絶対防壁(アブソリュート・ウォール)」と呼ぶにふさわしかった。
おかげで俺は、誰からの質問にも答えることなく、平穏な(?)休み時間を過ごすことができた。
ありがたい。本当にありがたいのだが…。
(俺、完全に孤立してないか…?)
ルナリアの鉄壁ガードのおかげで、俺に話しかけてくる生徒は誰もいなくなった。
俺はクラスメイトから「ルナリア様を誑かした謎の男」「公爵令嬢の威を借る男」として、完全に遠巻きにされる存在となってしまった。
俺が望んだのは、目立たない平穏な生活であって、腫れ物のように扱われる孤立した生活ではない。
しかし、当のルナリアはそんな俺の心境など知る由もなく、甲斐甲斐しく俺の世話を焼いている。
「ユウキ様、教科書の次のページはこちらですわ」
「ユウキ様、ペンを落とされましたよ」
「ユウキ様、今の先生のお話、とても興味深かったですね!」
その献身ぶりは、もはや世話を焼くというレベルを超えていた。
彼女の幸せそうな顔を見ていると、「少し放っておいてくれ」という言葉が喉まで出かかって、消えていく。
そして、長い長い一日の授業が終わった。
解放感に浸る俺の元へ、ルナリアが当然のようにやってくる。
「さあ、ユウキ様。一緒に帰りましょう」
そう言って、彼女はまた、俺の腕に自分の腕を絡めた。
朝と同じ、柔らかい感触と甘い香り。
そして、校門を出るまで続く、全校生徒からの視線の集中砲火。
馬車に乗り込み、ふかふかの座席に身を沈めた時、俺はようやく一息つくことができた。
隣に座るルナリアは、今日の出来事を嬉しそうに振り返っている。
「楽しかったですわ、学園! ユウキ様とご一緒だと、何気ない授業も特別な時間に感じます」
その無垢な笑顔に、俺は毒気を抜かれた。
まあ、いいか。
孤立しようが、何を言われようが、彼女がこれだけ喜んでくれているのなら。
そう思うと、一日中俺を苛んでいた胃の痛みも、少しだけ和らいだような気がした。
だが、この過保護すぎる彼女の絶対防壁が、明日も明後日も続くと考えると、やはり胃がキリリと痛むのだった。
俺の学園生活は、始まったばかりだというのに、先が思いやられてならなかった。
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