第4話 シルフィード公爵邸へ

「ルナリアお嬢様!」


声のした方から、屈強な体格の男たちが現れた。

揃いの黒い執事服に身を包み、腰には剣を下げている。その鋭い眼光と隙のない動きは、ただの従者ではないことを示していた。シルフィード公爵家に仕える護衛だろう。

彼らは俺たちの姿を認めると、安堵と驚愕が入り混じった表情で駆け寄ってきた。


「お嬢様、ご無事でしたか! 屋敷を抜け出されたと聞き、皆で探しておりましたぞ!」

リーダー格と思しき、口髭をたくわえた壮年の男が言った。

しかし、その言葉は途中で途切れる。

彼は、そして彼の後ろに控える護衛たちは、信じられないものを見る目でルナリアに釘付けになった。


無理もない。

彼らが知るルナリアは、きっと屋敷の奥で静かに療養する、光を知らない病弱な少女だったはずだ。

だが今、目の前にいる彼女は、誰の支えもなく自分の足でしっかりと立ち、その澄んだ瞳で護衛たち一人一人の顔をはっきりと見ている。


「…お嬢様? その、目は…」

壮年の護衛が、震える声で尋ねた。

ルナリアはこくりと頷くと、満面の笑みで答えた。


「ええ、見えるのです、ロイド。貴方たちの顔も、この街の景色も、何もかもが」

「なっ…! まさか…奇跡が起きたとでも…!?」

ロイドと呼ばれた男は絶句し、他の護衛たちも息を呑んで目を見開いている。

彼らにとって、それは天地がひっくり返るほど衝撃的な出来事なのだろう。


まずい。非常にまずい。

この奇跡を起こした張本人が、今ここにいる。

護衛たちの視線が、ルナリアに、そして彼女に手を握られている俺へと注がれる。

疑惑と、畏怖と、そしてかすかな期待が込められた視線。居心地が悪くて仕方がない。


俺はそっと、ルナリアに握られた手を引こうとした。

今ならまだ間に合うかもしれない。「通りすがりの治癒術師です」と言い残して、人混みに紛れてしまえば…。


しかし、その微かな抵抗は、ルナリアによって即座に封じられた。

彼女は俺の意図を察したのか、空いている方の手で俺の手を上から包み込むように、さらに強く握りしめた。

そして、逃がさんばかりの力で俺をぐいと引き寄せると、誇らしげに胸を張って護衛たちに宣言したのだ。


「奇跡ではありません。この方が、私を救ってくださったのです」

「なんと…!」


護衛たちの視線が、一斉に俺に突き刺さる。

それはもう、単なる疑惑の視線ではなかった。神か何かを見るような、畏敬の念がこもった眼差しだった。

やめてくれ。そんな目で見ないでくれ。俺はただの、スローライフを愛する平凡な青年なんだ。


「この方は、ユウキ様。私の恩人であり、私の光。そして…私の運命の人です」

「う、運命の…!」


ルナリアの爆弾発言に、護衛たちが息を呑む。

俺はもう顔面蒼白だ。違う、そうじゃない。俺はただ擦り傷を治そうとしただけなんだ!

心の叫びは、しかし声にはならなかった。


「ロイド。ユウキ様を公爵邸へお連れしなさい。お父様に、一刻も早くご紹介しなければ」

「は、ははっ! かしこまりました!」


ロイドは感極まった様子で涙ぐみながら、ビシッと敬礼した。

そして、俺に向かって深々と頭を下げる。

「ユウキ様と、お呼びしてよろしいでしょうか。我が主、ルナリアお嬢様を救ってくださったご恩、シルフィード家一同、生涯忘れることはございません。ささ、こちらへ。最高の馬車をご用意いたします」

「いや、あの、俺は…」


断ろうとした俺の言葉は、またしてもルナリアによって遮られた。

「ユウキ様」

彼女は俺の袖をきゅっと掴み、潤んだ瞳で上目遣いに見上げてくる。

「行ってくださいますよね…? 私、ユウキ様にもっとたくさんのお話を聞いてほしいのです。貴方様がくれた、この素晴らしい世界の話を」


そんな顔で、そんな声で言われたら、断れる男がいるだろうか。

少なくとも、押しに弱い俺には無理だった。

それに、周囲を見渡せば、いつの間にか大勢の野次馬が集まり、俺たちを指差してひそひそと噂話を始めている。


「おい、あれってシルフィード公爵家のお嬢様じゃないか?」

「本当だ。でも、あの方はご病気で目が見えないはず…」

「待てよ、あの青年に触れられた後、急に光が…まさか、治ったのか!?」

「神よ…! なんてことだ!」


完全に包囲されていた。

ここで下手に騒げば、さらに目立つことになる。

もはや、逃げ道はどこにもなかった。

俺は力なく肩を落とし、観念したように頷くことしかできなかった。


「…分かりました」


その一言を聞いて、ルナリアは花が咲くようにぱあっと微笑んだ。

その笑顔の眩しさに、俺は自分の敗北を悟った。



護衛に案内されるまま、俺は人混みをかき分けて大通りへと出た。

そこには、シルフィード公爵家の紋章が刻まれた、豪華絢爛な馬車が停まっていた。黒塗りの車体に金色の装飾。馬車の後ろには、さらに数名の護衛が控えている。

まるで王族のパレードだ。こんなものに乗ったら、悪目立ちすることこの上ない。


「ユウキ様、どうぞ」

ロイドが恭しく馬車の扉を開ける。

中を覗くと、ビロード張りのふかふかした座席が設えられていた。庶民である俺が一生お目にかかることのないであろう、別世界の乗り物だ。


俺が躊躇していると、ルナリアが俺の手を引いてにこやかに言った。

「さあ、行きましょう。私の隣に」

彼女は当然のように俺を隣に座らせるつもりのようだ。

もはや抵抗する気力も失せた俺は、ため息をつきながら馬車に乗り込んだ。ルナリアも嬉しそうにそれに続く。


扉が閉められ、御者の合図と共に馬車はゆっくりと走り出した。

石畳を叩く蹄の音が、やけに遠くに聞こえる。

ふかふかの座席に身を沈めながら、俺は窓の外に流れていく景色をぼんやりと眺めた。

人々が皆、驚いた顔でこちらの馬車を見ている。


(終わった…)


俺の穏やかなスローライフは、今日この瞬間、完全に終わりを告げたのだ。

これから向かうのは、この国でも有数の権力者が住まうという公爵邸。

そこで待っているのは、きっと俺の想像を絶する事態だろう。


隣に座るルナリアは、そんな俺の心労など露知らず、幸せそうに窓の外の景色に目を輝かせている。

生まれて初めて見る、動く車窓からの眺め。その全てが彼女にとっては新鮮で、感動的なのだろう。

時折、俺の方を見ては「ユウキ様、見てください! あのお店の看板、とても可愛らしいです!」などと、無邪気にはしゃいでいる。

その純粋な笑顔を見ていると、これから自分を待ち受けるであろう面倒事を嘆く気力さえ削がれていく。


俺は、一体どうなってしまうのだろうか。

静かに暮らしたいというささやかな願いは、どうやら神様には届かなかったらしい。


いや、あるいは、これこそが神様の言っていた「どんな困難も乗り越え、安寧な生活を送れる力」の代償なのかもしれない。

だとしたら、あまりにも割に合わない。


俺はもう一度、深いため息をついた。

馬車は、俺の絶望を乗せて、壮麗なシルフィード公爵邸へと向かって進んでいく。

その間もずっと、ルナリアは俺の手を温かく、そして力強く握りしめていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る