第3話 奇跡と初めての光

黄金の光が、まるで朝霧が晴れるかのようにゆっくりと消えていく。

周囲は水を打ったように静まり返り、道行く人々は皆、何が起こったのか理解できないという顔で俺たちを遠巻きに見ていた。

心臓が嫌な音を立てて脈打つ。


(やってしまった…!)


ただの擦り傷を治すだけのはずだった。それなのに、なぜ力が暴走した?

俺の意思とは無関係に流れ出たあの膨大な魔力は一体何だったんだ。

冷や汗が背中を伝う。とにかく、今は言い訳を考えなければ。これは珍しい治癒魔法の副作用だとか、光って見えるのは魔道具の効果だとか…。


俺が必死に頭を回転させていると、目の前の少女がゆっくりと顔を上げた。

そして、俺は彼女の瞳を見て、思考が完全に停止した。


虚ろだったはずの瞳。どこを見ているのか分からなかったはずの瞳。

その空色の瞳が、今は真っ直ぐに俺を捉えていた。

まるで雨上がりの空のように澄み渡り、吸い込まれそうなほど深い蒼。そこには、確かな光と意志が宿っていた。


「あ…」


少女の桜色の唇から、か細い声が漏れる。

彼女は信じられないといった様子で、ゆっくりと自分の手を見つめた。指の一本一本、その皺までを確かめるように。

次に、視線を空へと移した。どこまでも続く青い空と、白い雲。

そして、色とりどりの花が咲き誇る街路樹や、人々が纏う衣服の色。

その一つ一つを目に焼き付けるかのように、彼女は何度も瞬きを繰り返した。


やがて、その澄んだ瞳から大粒の涙がぽろぽろと零れ落ち始めた。

それは悲しみの涙ではない。

絶望の闇の底から、初めて光を見出した者の、歓喜の涙だった。


「見える…世界が、見えます…!」


震える声で紡がれた言葉に、俺は全てを察した。

この少女は、目が見えなかったのだ。

そして俺の回復魔法は、擦り傷どころか、彼女の盲目さえも完治させてしまった。

それだけではない。彼女の顔色は先ほどとは比べ物にならないほど血色が良く、その体からは弱々しい雰囲気が消え失せ、生命力に満ち溢れている。


もしかして、何か病気でも患っていたのか?

だとしたら、俺はそれすらも治してしまった…?


事の重大さに、俺の顔から血の気が引いていくのが分かった。

これはもう、言い訳でどうにかなるレベルの話ではない。

奇跡だ。誰がどう見ても、神の御業としか思えない現象だ。


穏やかなスローライフが、ガラガラと音を立てて崩れていく。

俺は今すぐこの場から逃げ出したかった。しかし、涙を流しながらも幸せそうに微笑む少女を前にして、足が縫い付けられたように動かなかった。


少女は涙で濡れた瞳で、もう一度俺を見つめた。

そして、おぼつかない足取りで一歩、俺に近づくと、深々と頭を下げた。


「ありがとうございます…! なんとお礼を言えばいいのか…」

「い、いや、俺はただ擦り傷を治そうとしただけで…」

「いいえ、違います」


少女はきっぱりとした声で俺の言葉を遮った。

そして、ゆっくりと顔を上げると、今度は人生で最高の輝きを放つ笑顔を俺に向けた。

それは、どんな宝石よりも美しく、どんな花よりも可憐で、見る者の心を根こそぎ奪っていくような、破壊力のある笑顔だった。


「貴方様は、私の光です」


その言葉は、静かに、しかしはっきりと俺の胸に届いた。


「生まれてからずっと、私の世界は闇に閉ざされていました。魔力枯渇症という不治の病のせいで、私の目は光を映さず、自由に体を動かすことさえできませんでした。それが…今、こうして色鮮やかな世界を見ることができて…自由に立つことができて…」


魔力枯渇症。

この世界でも特に厄介な不治の病として知られている。体内の魔力が生まれつき枯渇し、魔法が使えないばかりか、五感や身体機能にまで深刻な影響を及ぼすという。治療法は存在せず、罹患者は例外なく短命だと聞く。


俺は、そんな絶望的な病と盲目を、道端でたまたま、軽い気持ちで治してしまったのか。


「このご恩は、一生涯をかけても返しきれません。いいえ、私の全てを捧げても足りないくらいです」

「いやいやいや! そんな大袈裟な!」

俺は慌てて手を振った。

全てを捧げるなんて言われても困る。俺が欲しいのは穏やかな生活だけで、それ以上は何もいらない。


しかし、彼女の決意は固いようだった。

彼女は俺の前に進み出ると、そっと俺の手を取った。

その手は、先ほどとは違って驚くほど温かかった。


「お名前を、お聞かせ願えませんか? 私の、運命の人」


真剣な眼差しでそう問いかけられ、俺は言葉に詰まった。

ここで名前を名乗れば、間違いなく面倒なことになる。

俺のスローライフが遠のいていく。


だが、目の前で期待に瞳を輝かせている少女を前にして、偽名を名乗るほどの狡猾さを俺は持ち合わせていなかった。


「……ユウキだ」

絞り出すような俺の一言に、彼女は花が咲くようにぱあっと微笑んだ。


「ユウキ様…!」

彼女が俺の名前を愛おしそうに繰り返した、その瞬間。

遠くから切羽詰まったような声が響いた。

「ルナリアお嬢様! どちらにおいでですか!」


複数の足音が、こちらに近づいてくる。

まずい。騒ぎが大きくなる前に立ち去らなければ。

俺は少女の手をそっと振りほどこうとした。

だが、彼女はその手をぎゅっと、決して離さないという強い意志を込めて握り返してきた。

そして、俺の目をじっと見つめ、もう一度、微笑んだ。

その笑顔は、俺の全ての逃げ道を塞ぐには十分すぎるほどの力を持っていた。

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