曲がり角でぶつかった少女に回復魔法を使ったら不治の病と盲目なのを治してしまってめちゃくちゃ懐かれてた

夏見ナイ

第1話 穏やかすぎる異世界ライフ

柔らかな朝日が石畳を照らす。パン屋から漂う香ばしい匂いが鼻をくすぐり、市場へ向かう人々の活気ある声が耳に届く。

ここは魔法学園都市アウレリア。剣と魔法が息づく異世界に来て、早一年が経った。


「ユウキさん。今日の依頼もありがとうね」

冒険者ギルドの受付嬢、エマさんがにこやかに微笑む。俺は報酬の銅貨を受け取りながら、へらりと笑い返した。

「いえいえ。薬草採取くらい、お安い御用です」

「本当に助かるわ。あなたみたいに真面目にコツコツ依頼をこなしてくれる人は貴重なのよ。たまにはゴブリン討伐とか、どう?」

「ははは。俺は後方支援専門なんで」


丁重にお断りして、俺はギルドを後にした。

俺の名前はユウキ・アスカワ。十八歳。黒髪黒目の、どこにでもいる平凡な青年だ。

ただ一つ、平凡でない点を挙げるとすれば、俺が異世界からの転移者であること。そして、神様から授かったとんでもないチート能力を持っていることくらいか。


【聖なる癒やしの手】


それが、俺の持つ回復魔法の名称だ。

名前からして大仰だが、その効果はまさに神の御業。欠損した四肢さえ瞬時に再生させ、死の淵にいる人間をピンピンした健康体に戻せる。呪いや状態異常の類は、触れるだけで霧散する。

客観的に見て、世界を救えるレベルの力だろう。国王陛下に召し上げられ、聖者として崇められる未来だって容易に想像できる。


だが、俺はそんな未来を微塵も望んでいなかった。

俺が望むのは、ただ一つ。

目立たず、騒がれず、誰にも干渉されない、穏やかで平穏なスローライフ。

そのために、俺はこの規格外の力を徹底的に隠している。

ギルドでは「ちょっとした切り傷くらいなら治せる、駆け出しの治癒術師」として登録し、受ける依頼ももっぱら薬草採取や荷物運びといった雑用ばかり。

冒険者ランクは万年最底辺のFランク。それでも、俺は今の生活に心から満足していた。


なぜ、これほどの力がありながら、隠遁者のような生活を望むのか。

その理由は、前世の記憶にあった。



蛍光灯が白々しく照らすオフィス。ディスプレイの明かりだけが煌々と光る深夜。俺は、自席で本日何度目か分からないため息をついた。キーボードを叩く指はとっくに限界を迎えているはずなのに、惰性だけで動き続けている。

画面には、明日朝イチの会議で使うという体裁だけ整えたような資料が映し出されていた。中身は無い。いつものことだ。


「まだ終わらないのか、アスカワ」

背後から投げかけられた上司の声は、ねっとりと湿り気を帯びていた。

「すみません。もう少しで…」

「もう少しじゃねえんだよ。俺が帰れないだろうが。使えねえな、本当に」


罵声は聞き慣れたBGMだ。感情を殺し、ただひたすらに謝罪の言葉を繰り返す。

月の残業時間はとっくに二百時間を超えていた。休日出勤は当たり前。有給休暇なんて都市伝説だ。

食事はデスクで食べる栄養補助食品。睡眠時間は平均三時間。プライベートな時間など、存在しなかった。

心をすり減らし、体を酷使し、歯車として消費されるだけの毎日。

そんな地獄のような日々は、ある朝、唐突に終わりを告げた。


寝不足で朦朧とする意識の中、駅のホームで電車を待っていた時だった。ぐらり、と視界が傾いた。

誰かに背中を押されたような気がした。それが故意だったのか、あるいは満員電車に押し出されただけなのか。今となっては分からない。

線路に落ちた俺の目に映ったのは、猛スピードで迫ってくる電車のヘッドライト。

激しい衝撃と痛み。そして、俺の意識はブラックアウトした。


次に目を開けた時、俺は真っ白な空間にいた。

目の前には、後光が差す金髪のイケメンが、なぜかポテチを食べながら浮いていた。


「やあ、地球の若者よ。私、神」

あまりにも軽い自己紹介に、俺はしばらく呆然とした。

神と名乗る男の話を要約すると、こうだ。

俺は過労と栄養失調の末に駅のホームから転落し、死んだ。しかし、その死に様があまりにも不憫だったため、神様が同情してくれたらしい。

そして、お詫びと言ってはなんだが、剣と魔法の異世界に転生させてくれるという。


「何か一つ、特別な力を授けよう。どんな願いでも構わないぞ?」

神様の言葉に、俺は一も二もなく答えた。前世での地獄を思い出しながら、心の底から叫んだ。

「とにかく、穏やかに暮らしたいです!」

静かで、平穏で、誰にも邪魔されない場所で、のんびりと生きたい。

もう、時間に追われることも、理不尽な罵声を浴びることも、心をすり減らすこともない。そんな生活がしたい。

俺の悲痛な叫びに、神様は「なるほど」と頷いた。

「分かった。君の願い、確かに聞き届けた。ならば、これ以上ないほど強力な力を授けよう。それがあれば、どんな困難も乗り越え、安寧な生活を送れるだろう!」

「え、いや、そういうことじゃなくて…目立ちたくないんですが…」

「はっはっは! 面白い! 君の新たな人生に幸あれ!」


俺の抗議は、神様の高笑いにかき消された。

そして気づいた時には、このアウレリアの街の路地裏に立っていた。

手には、神様が授けてくれたという【聖なる癒やしの手】。

試しに、近くで怪我をしていた猫に使ってみた。すると、見るも無残に潰れていた足が、光と共に一瞬で元通りになった。

それを見て、俺は悟った。

これは、絶対に使ってはいけない力だと。

こんな力を持っていることが知られれば、俺が望むスローライフは間違いなく崩壊する。貴族や王族に囲われ、戦争に駆り出されるかもしれない。聖者として祭り上げられ、民衆の期待を一身に背負うことになるかもしれない。

どちらにしても、前世の社畜生活と大差ない。自由のない、他人のための人生だ。

それだけは、絶対に避けたかった。


だから俺は誓ったのだ。

この力は、自分の平穏を守るためだけに使う。決して、人前で派手に使ったりはしない、と。



ギルドからの帰り道、俺は市場に寄って今日の夕食の材料を買い込んだ。

新鮮な野菜に、ぷりぷりとした鶏肉。異世界の食材はどれもこれも美味そうで、見ているだけで楽しくなる。


「お、ユウキじゃないか。今日はいい鶏肉が入ってるぜ」

肉屋の親父さんが、威勢のいい声をかけてくる。

「じゃあ、それを一つお願いします」

「あいよ!」

手際よく肉を包んでくれる親父さん。こういう、何気ない人との繋がりが心地良い。

前世では、コンビニの店員としか会話しない日もざらだった。


アパートに戻り、早速夕食の準備に取り掛かる。

今日買った鶏肉を使い、香草焼きを作ることにした。前世で数少ない趣味だった料理のスキルは、この世界でも大いに役立っている。

手際よく下味をつけ、フライパンでじっくりと焼き上げていく。じゅう、という音と共に、食欲をそそる香りが部屋に満ちていく。

付け合わせの野菜スープも作り、パンを切り分ければ、ささやかなディナーの完成だ。


木のテーブルに料理を並べ、一人で「いただきます」と呟く。

熱々の鶏肉を頬張ると、肉汁がじゅわっと口の中に広がった。うまい。

誰に急かされるでもなく、自分のペースで、美味しいものを食べる。ただそれだけのことが、こんなにも幸せなことなのだと、この世界に来て初めて知った。


前世の俺は、何をしていたんだろうな。

栄養補助食品を胃に流し込み、仮眠室の固いベッドで体を休める。そんな日々を、生きていると言えたのだろうか。

今は違う。

自分の足で立ち、自分の力で稼ぎ、自分のために時間を使う。

冒険者としての稼ぎは少ないが、質素に暮らす分には十分だ。時々、こうして少し贅沢な食材を買う余裕だってある。

これ以上、何を望むというのだろう。


食後には、薬草をブレンドしたハーブティーを淹れて一息つく。

窓の外を見れば、空には地球では見たこともないほど美しい、二つの月が浮かんでいた。

なんて、穏やかな夜だろう。

この静寂。この安らぎ。

これこそが、俺が心の底から求めていたものだ。


「明日も、こんな一日だといいな」


ポツリと呟いた言葉は、静かな夜の空気に溶けていった。

明日は特に依頼も入れていない。久しぶりに街の中心部まで出て、新しい服でも見てみようか。今の服も、少しほつれが目立ってきたしな。


そんなことを考えながら、俺はゆっくりと眠りについた。

この穏やかな日常が、明日、ほんの些細な偶然によって、音を立てて崩れ始めることなど知る由もない。

ただ、今は夢も見ないほど深い、安らかな眠りの中にいた。

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