「犯人」を外国人に押し付け「不要とされる不安」から解放される
グローバル化によって海外から安い労働力が越境し、人口減少と経済的な困難にあえぐ社会の穴埋めとなり、もはや後戻りはできない段階にある。だが、多くの人々は自己の尊厳がままならない中で、濃霧のように立ち込める不確性と、複雑怪奇な市場システムにさらされ、不安な日々を送らざるを得ず、このような状況から少しでも逃れようと、犯人探しに向かう衝動を抑えられない。
いわゆる「排外しぐさ」は、実際に活動の主体としての感覚を取り戻し、不安を呼び起こす対象を排除する姿勢を明確にすることによって、受動性に甘んじなければならない無力感から脱することができ、「必要とされる」「役に立つ」「有用な」人間と思えるようになるのだ。つまり「〈不要とされる〉という不安」から解放されるのである。仲間意識が醸成されることによる社会的孤立の緩和も想像以上に大きい。
2000年代初頭、社会学者の芹沢一也は、「犯罪者を怖がる一方で、犯罪者をコミュニティ活性化のための道具として消費する社会」を「ホラーハウス社会」と評した(『ホラーハウス社会――法を犯した「少年」と「異常者」たち』講談社)。当時は、キレる少年や精神障がい者による犯罪が不安の対象であり、外国人のことではなかったが、芹沢の卓見は、以下の文章に凝縮されている。
「ここにあるのは間違いなく、サークル活動がもたらす快楽だ。気の合う仲間たちが集い交番脇で待ち合わせて、警察から情報を受け取り地域をパトロールする。警察的な眼差しをもって地域を歩く快楽が、地域の役に立っているという充足感と交じり合う。しかも、同じ志をもつものたちの輪が地域のなかで、ときには地域を越えて広がっていくのだ」
「治安管理は子どもから大人まで、全世代を一体化させてくれる、防犯という名のエンターテインメントだ。それは、街の安全というスローガンのもとにかたちづくられる、『新しいコミュニティ』のあり方にほかならない。治安への意志が住民たちを結束させ、しかもそこで行われる活動が日々の『生きがい』という、何にも替え難い快楽を与えているのだ」(同前)……。
「日本人」というカテゴリーでしか固まれないほど尊厳が傷ついている
現在起こっているのは、地域社会すら崩壊した状況下において、浮遊する個人たちが勝手連的に集合し、「日本人」という抽象度の高いカテゴリーを守ろうとする営みである。それほどまでに人々は追い詰められているといえる。
これは見方を変えれば、「よそ者を特定し、それを社会から排除することによって、自らが社会から排除されることを予防する」緊急の措置なのだ。
先の自警団が「3世代前まで日本人」という団員の条件を課しているのは注目すべきことであり、もはやそのようなカテゴリーによる線引きでしか自己を救済できない尊厳の欠乏ぶりを表してしまっている。