ロルカナという社会実験──ディズニーとカードゲームの境界線で起きていること。
「ロルカナ」という夢と現実のあいだで
ディズニーが手掛けたトレーディングカードゲーム「ロルカナ」。
世界的IP × カードゲームという、どう考えても「勝ち確案件」。
これで失敗する方が難しいはずなのに――なぜか全国のカードショップでは在庫が山積みである。
一方その頃、大会は抽選制、イベントは即締め切り。
SNSでは「当たらなかった!」「現地は行列!」の悲鳴が飛び交う。
売れているのか、売れていないのか。
人気があるのか、ないのか。
もはや観測するまでは確定しない“量子カード現象”である。
「世界が愛するディズニー」と「日本が誇るタカラトミー」、
この二つの巨頭がタッグを組んでなぜそんな不思議な温度差が生まれるのか。
普通なら“ミッキーが出た時点で勝ち”のはずだ。
だが現実はそう甘くなかった。
原因は単純、しかし根が深い。
カードショップ、オタク、運営――この三大勢力が互いに譲らなかったからである。
カードショップは「数字」を信じ、
オタクは「推し」を信じ、
運営は「理想」を信じた。
そしてそれぞれの信仰がぶつかり合い、ロルカナは三すくみの地獄へと突入した。
今回は、その三つ巴の構造――
“魔法の国のカード”が、なぜ地上でバグったのかを見ていきたい。
※文章上カードショップやTCG民に対するネガキャンのような部分があるかもしれないが、全てがそうではないし、雰囲気がいいカードショップももちろんある。結構な誇張表現もあるがエンタメとして許して欲しい。
◆カードショップ、そこは“勇気試し”のダンジョン
一般人にとって「カードショップ」とは、“香り”が独特な場所である。
入店前から漂うあの空気は、嗅覚テストでもしているのかと思うほど。
「異世界転生したら最初に立ち寄る場所」みたいなテンションで入るには、
少々レベル上げが必要だ。
照明は常に夕暮れ。湿度は梅雨。
奥のテーブルでは常連たちが静かにカードを叩き、
その気配だけで「よそ者感」がビリビリ伝わる。
そこに一人で「ディズニーのカードを買いに来ました♡」と入るのは、
もはや勇者か修行僧のどちらかである。
だが、問題は入店してからだ。
勇者タイプは多少の異世界感を楽しめるが、
修行僧タイプはその場の“無音”にメンタルを持っていかれる。
ドアを閉めた瞬間、外界のBGMが消え、代わりに聞こえるのは――
カードがテーブルに触れる「パタン」という音と、
「……ドローします」という低い声だけ。
視線を感じて顔を上げれば、
ショーケースの向こうから常連の眼光が突き刺さる。
彼らは悪気があるわけではない、
ただ“静寂の支配者”として存在しているだけだ。
しかし初心者から見れば、その沈黙は
「お前、何しに来た?」という圧縮された威圧感に変換される。
その中で『ミッキー』のカードをレジに出す――
それは“最初のバトルチュートリアル”ではなく、
最初の社会的耐久テストだ。
勝敗もなく、ただ己の羞恥心と戦う時間が始まる。
結果、「カードショップでルールを覚える」よりも、
「自分たちで貸会議室を借りて交流会を開く」ほうが主流になってしまった。
もはや自主開催こそがハピネスの最適解である。
ディズニーオタク(以下Dオタ)は、もともと“自給自足”の民だ。
推しの誕生日を祝うケーキを自分で作り、
衣装を自分で縫い、写真を自分で撮り、
イベントを自分で主催する――もはや国家レベルの自治能力を持つ。
そんな人たちに「カードショップに通え」と言っても無理がある。
彼らに必要なのは“カード”ではなく“環境”。
清潔なテーブル、推しのBGM、そしてお菓子。
「カードショップ」という異世界に足を踏み入れるより、
「会議室で友達と紅茶を飲みながらカードを出す」ほうが
圧倒的にディズニーの魔法に近い。
つまり――ロルカナの最大の敵は、
カードでも相手でもなく、カードショップというダンジョンそのものだったのである。
◆「交流会」と「カドショ」、決定的に違うのは空気清浄度
Dオタ主催の交流会は、もはや一種のテーマパーク再現実験である。
BGMはディズニー、テーブルクロスはプリンセス柄、差し入れはリトル・マーメイド仕様のクッキー。
参加者は笑顔で「今日も楽しかったね〜♡」と手を振って帰る。
その空間は、ほぼ“アナ雪のエルサ城”だ。カードを出すたび「すてき!」と声が上がる。
敵も味方もいない、全員プリンセス戦。
そして彼らの交流会には、ディズニーランド並みの導線設計がある。
初心者にはやさしく、ルール説明も丁寧。
「まずはキャラを出してみようね♡」から始まり、
「このカード、かわいくて強いんだよ〜!」と笑顔でフォローが入る。
ゲームよりも、空気の共有を重視する。
勝敗よりも「今日も楽しかったね」で終われる場所。
そこにはTCG特有の“ギスギス”が一切ない。
むしろ“癒し”が勝っている。もはや心理カウンセリング併設型カード会である。
一方で、カードショップの交流会は沈黙の牢獄である。
無言・無表情・有香料。三拍子そろった“初見殺しのダンジョン”。
店に入った瞬間、「あ、ここは陽の届かない場所なんだな」と悟る。
スタッフの対応は大体“感情を削ぎ落とした接客AI”。
対戦相手は開始の挨拶もなく、カードを置く音だけで生存を主張。
そこへ現れるのが、知識マウント界の勇者――
「そのプレイは非効率ですよ?」と唐突に“教えてくる”人。
ありがたいどころか、もはや職業:指導霊である。
さらに怖いのは、「常連の輪に入れない沈黙」だ。
彼らは悪人ではない。だが、初参加者から見ると、
その沈黙は「知らない言語が飛び交う部族の集会」に見える。
“陽キャ的社交性”では突破できない壁――文化の壁がそこにある。
その結果、初心者の感想はシンプルに「もう行かない」。
カードゲームは本来、静かな集中の世界――
ただし『遊戯王』だけは例外で、なりきって叫んでなんぼの命がけ競技である。
だが、ロルカナに集まるDオタたちは、
“ハピネス・コミュニケーション至上主義”という名の宗教を信仰している。
「勝っても負けても相手を褒める」が彼らの流儀。
無言プレイは“冷遇”とみなされ、挨拶しない対戦相手は、
実質“ディズニーで割り込みした人”扱いだ。
つまり、Dオタ交流会とカードショップ交流会の違いは明確。
前者は“笑顔の魔法が飛び交うサロン”、後者は“沈黙の訓練所”。
同じロルカナでも、空気の粒子レベルで“エンタメ成分”が違うのだ。
どちらが正しいとは言わない。
だが一つ確かなのは――Dオタは魔法を求め、カドショは勝利を求めている。
そして、そのどちらの「空気」も、今のロルカナには必要なのだ。
◆既存TCGプレイヤーとDオタ、絶望的なミスマッチ
ディズニー側:「勝っても負けてもスマイル☆」
TCG側:「宣言しない奴は帰れ」
この価値観の差は、エレクトリカルパレードとデスゲームくらい違う。
同じテーブルに座っているのに、まるで別ジャンルの競技をしている。
この溝を埋めるには、もはやグーフィー並みの包容力と耳の耐久力が必要だ。
Dオタの「楽しい〜!」は、既存TCG勢には「騒音」として聞こえる。
逆に、TCG勢の「無言集中プレイ」は、Dオタには「冷戦状態」に見える。
Dオタは「せっかくだから仲良くやろう!」という社交的スタンスだが、
TCG勢からすれば「こっちは今ターン計算中なんだ、話しかけるな」なのである。
つまり、笑顔と沈黙がぶつかり合う異文化交流。
どちらも悪気はない。
ただ、同じカードで違う目的を叶えようとしているだけだ。
Dオタは「推しのカードで物語を作りたい」。
TCG勢は「勝率を上げて称号を取りたい」。
目的が違えば、出るオーラも違う。
前者は“光属性のパーティー陽キャ”、後者は“闇属性の決闘者”。
本来なら交わらないはずの世界が、
一枚のカードの上で奇跡的に接触している。
ロルカナは「異文化共生の実験場」だ。
うまくいけば感動、失敗すれば炎上。
――つまり、完璧にディズニー的である。
◆ロルカナは人気がないのではなく、「カードショップとそりが合わない」
ネット通販では売れている。イオンやTSUTAYAでは売り切れる。
だがカードショップのショーケース前は、いつ見ても無人という名の展示会。
そこに立つのは客ではなく、ほこりと後悔だけである。
このミスマッチを見て「ロルカナは人気がない」と言い切るのはあまりに短絡的だ。
正しくはこうだ。「ロルカナは人気がある。ただし、カードショップを避けて通る人たちの間で」である。
市場用語で言えば、これは「自己完結型コンテンツ」。
だが実態はもっと単純で、Dオタが強すぎるのだ。
彼らは「カードショップに行かずにカードを集める」方法を、
ポケモンGOよりも効率的に確立してしまった。
メルカリ、通販、友人間トレード。すべてを駆使して、
もはやカードショップという中間業者を必要としない生態系を築き上げた。
彼らにとってカードショップとは、
“試練の洞窟”でも、“聖地”でもなく、
「行かなくても困らない場所」なのだ。
TCG業界が「来店数」をKPIにしている間に、
Dオタたちは「快適さ」をKPIにしていた。
その結果、戦場はカードショップからリビングに移り、
競技シーンは静かに家庭内エンタメへと変貌していった。
ロルカナは負けていない。
負けているのは、“ロルカナを売る側の想像力”のほうである。
◆PRがヘタすぎる問題
インフルエンサー起用も、CMキャラも、ターゲットが完全に迷子。
宣伝する人を見ても、ディズニー界隈では「えっ、誰?」で終わる。
せめてミッキーの耳を一度でもつけたことがある人を選んでほしい。
どこかのDオタが言っていた——
「風間先生を起用していれば、全部解決してた」
これはもう一種の風間真理教である。
確かに、ディズニー愛も発信力もあり、界隈からも信頼されている。
あの人がロルカナの顔を務めていたら、
全国のDオタが一斉に「買うわ(即答)」となっていた。
それくらい“人選”は重要なのだ。
カードの強さより、誰が持っているかのほうが影響力がある。
ところが現状は「この人、なぜロルカナ?」という配役ばかり。
まるで別作品のキャラがエキストラ出演している状態。
しかも日本のディズニー文化には、絶対に破ってはいけないルールがある。
それは――「誰かが特別扱いされた瞬間、燃える」。
海外のように“招待制イベント”をやると、日本では火葬レベルの炎上が起きる。
インフルエンサーがカードを先行入手した瞬間、
SNSでは「いいな」より先に「燃えたな」の声が上がる。
もはやカードよりも、先に炎上して輝く。
ディズニーの魔法よりも、ネットの火力のほうが強いのだ。
ロルカナのPR戦略は、カードの宣伝ではなく、
人間の感情という地雷原をどう歩くかという壮大な心理ゲームになっている。
◆新規に優しくないのに新規が欲しいという矛盾
初心者が「デッキってどう作るの?」と聞くと、返ってくるのは温かいアドバイスではなく、
冷たく突き刺さる「自分で調べろ」。
その瞬間、ディズニーの魔法が検索エンジンの呪文に変わる。
動画を見ても難しい。専門用語が多すぎて、もはや異世界語。
そして頼みの綱の「ルール講習会」は早い段階で消滅した。新規を獲得したいのであれば適度に続けていてもよかったのでは?と思う。
初心者の旅路は、チュートリアルをスキップされたRPGのようなものである。
唯一の光は、SNS上でたまに流れてくる
“Dオタが独自で開くルール講習会”という都市伝説。
店の片隅で優しいお姉さんが「これがマレドラよ♡」と教えてくれる光景が浮かぶ。
それはほとんど“夢の国の隠しイベント”だ。
せっかく全年齢・全層を狙えるコンテンツなのに、
入口があまりにも細い。
もはや「夢の国」どころか、「修行の国」。
入門するだけで精神が鍛えられる。
ロルカナは、魔法を学ぶ学校というより、TCG界の富士登山だ。
ミッキーと一緒に夢を見るはずが、
気づけばルールブック片手に孤独な山頂を目指している。
――これでは“夢”ではなく“試練”である。
◆価格設定が「夢と現実の間」
ディズニーのカードだからといって、
値段まで夢の国仕様にしなくていい。
確かに、カードは美しい。ホログラムはキラキラ、
キャラクターもみんな幸せそうに笑っている。
だが、値札を見た瞬間、こっちの笑顔は消える。
必要カード4枚で1万円を超える。
しかも「汎用カードだから4枚積み推奨」と来たもんだ。
それを聞いた女子高生の反応はだいたいこうだ:
「え、これ美容院2回分じゃん。」
この価格で「女子高生にも遊んでほしい!」は、
ほぼ都市伝説である。
制服でカフェ巡りする年齢層が、
一枚2500円のラプンツェルを“気軽に”買えるわけがない。
かといって、“夢の国カード”を安売りするとブランド価値が下がる。
結果、ターゲットは「ディズニー好きの一般層」と言いつつ、
実際は「経済的に余裕のある社会人か、姫プされる女子」に限定される。
姫プ。
つまり“王子(スポンサー)”に支えられて成立するプレイスタイル。
実質、ロルカナは恋愛経済シミュレーションの領域に突入している。
カードを集める前に、まずスポンサーを集めないといけない。
ディズニーが理想とする“誰でも遊べる夢の世界”は、
ここでは“課金でしか入れない限定エリア”になってしまった。
夢を売るのはいい。だが、夢を見るにも予算がいる。
ロルカナよ、カードは魔法でも、値段は現実だ。
◆タカラトミーの唯一の神判断:シャカパチ禁止
音の暴力「シャカパチ」を禁止したのは本当に英断だった。
あれはカードゲーム界の“マウント・ノイズ”である。
静寂の中で延々と鳴り続ける、プラスチックの自己主張。
聞いている側は「今、怒ってる?」「勝負を挑まれてる?」と不安になる。
Dオタたちが一番怖がっていたのが、実はルールでも相手でもなくあの音だった。
ロルカナは「夢の国のTCG」なのに、対戦中に「ガシャガシャッ」と鳴った瞬間、
脳内のシンデレラ城が崩壊する。
一枚引くたびに雷鳴のようなシャカパチが鳴り響く空間では、
どんな魔法の国も“地獄の工場”に見える。
その点、ロルカナはあえて「音の静けさ」をルール化した最初のTCGである。
ディズニーが守りたかったのはフェアプレーよりも“雰囲気”だったのだ。
おかげでロルカナの大会は、他TCGと違って上品に見える。
カードを置く音が「ポトッ」と優しい。
「ガチ勢」より「貴族勢」が多い。
結果として、プレイヤー全員が貴族の午後ティー感覚で戦えるようになった。
「あなたのアクション、どうぞ」
「ありがとう、素敵なドローね」
――ここはもう戦場ではなく、午後のサロンである。
このルール一つで、ロルカナは
“紳士的なゲーム”というブランドを手に入れた。
正直、他TCGも真似してほしい。
あれを禁止できた時点で、ロルカナはすでに革命を起こしている。
カードの強さじゃなく、空気の綺麗さで勝負してるのだ。
◆ロルカナGPで見えた希望と課題
初の大型大会は1000人規模。
「外国人が多い」「巻き戻しルールがゆるすぎる」など、
大会前はネットがちょっとした国際問題みたいになっていたが、
いざ始まってみれば、配信を見た限り、
プレイも解説も驚くほど上品だった。
荒れるかと思いきや、ディズニー映画のように平和。
カードを叩きつける音もなく、罵声もなく、
まるで“気品のある戦争”を見ている気分だった。
そして何より話題をさらったのが、原根健太氏の解説である。
あの人は解説というより、戦場のカウンセラーだ。
ルールを噛み砕きながら、ディズニーの文脈を添え、
時折ユーモアで空気を中和する。
視聴者の不安をひとつずつ癒やしていく姿は、
「アナ雪のエルサにメンタルケアされている」ようだった。
その結果、SNSでは
「原根さんがいない大会は見られない」
「もうあの人を公式キャストにして」
という声が飛び交った。
解説が神がかっていた、というより、
他が人間すぎるだけだ。
一方で、ルール面では賛否が出た。
「巻き戻しOK」――この優しすぎるルール。
プレイヤーが「間違えた」と言えば、
ゲームを時間ごと戻して許される、という慈愛システム。
確かにディズニー的ではある。
だが、“スポーツマンシップ”で生きてきたTCG民からすれば、
「この世界は甘すぎて虫歯になる」と感じるのも無理はない。
ロルカナの世界では、
プレイヤーが間違えたら相手が「いいよ」と笑って許す。
現実世界では、
上司に報告ミスしたら「いいよ」はまず出ない。
つまり、ロルカナは現実より優しい。
だからこそ違和感があるのだ。
紳士的すぎる空間に、現実の我々の心がまだ追いついていない。
もしかするとこの大会は、
「カードゲームとはどうあるべきか」を超えて、
「人間とは何か」を問う宗教儀式だったのかもしれない。
カードを介して善意を試される。
それがロルカナの“魔法”なのだろう。
◆結論:「場所」と「文化」の相性が悪すぎる
ロルカナは良いゲームだ。
カードも世界観も、ディズニーの魔法も完璧。
問題はそこじゃない。問題は「売る場所が地獄」という一点だ。
“カドショ文化”との化学反応が悪い。というより、もはや化学兵器レベルで爆発している。
Dオタは光属性。
推しのためなら世界の果てまで行くが、店内が臭かったらその場で引き返す。
会話と香りと照明にうるさい。
写真映えとハピネスのない場所では、心拍数が下がる。
カドショは闇属性。
照明は常に曇り空、常連は半ば亡霊。
店員が「いらっしゃいませ」と言わないのは、もはや呪文の一種である。
Dオタが入店した瞬間、「敵フィールドに出たカードはすべて効果無効」状態になる。
だから、どちらも悪くない。
ただ別のルールブックで戦っているだけなのだ。
カドショは「勝敗」と「在庫回転」を信仰している。
Dオタは「思い出」と「共有」を信仰している。
この二つの宗教が同じ祭壇で祈るのは、どう考えても無理がある。
ロルカナは、“愛と競争が混ざったらバグる”ことを証明した実験だ。
解決策は簡単。
ロルカナは「ディズニー側」で売るべきだ。
カードショップで魔法を唱えるのではなく、
ディズニーストアで「いらっしゃいませ」を聞いた瞬間に魔法を発動させるべき。
イクスピアリのショップの一角、
壁にはラプンツェルのランタン、BGMは“Let It Go”。
その空間で「対戦します」と宣言する――それが本来の姿だ。
誰もが気軽に足を踏み入れられる、“夢の国発のTCG空間”。
そこでは、カードを開封する音すらパレードの一部として許される。
シャカパチもジャッジ呼びもない。代わりにキャストが微笑んで言うのだ。
「すばらしいプレイでした、エルサ様。」
ロルカナは競技より“体験”が主役のゲームだ。
なのに今は、夢の国の住人たちが「勇気を出して闇の洞窟に挑む」構図になっている。
そのミスマッチがすべての原因である。
そう。ロルカナは失敗していない。
むしろ、これほどまでに“人間”を映し出したカードゲームは珍しい。
光と闇の共存。笑顔と沈黙の共演。
ディズニーの「夢」と、TCG文化の「現実」が正面衝突して、
そこから火花ではなく――考察が生まれている。
ロルカナが見せてくれたのは、
カードゲームが単なる勝負ではなく、文化の交差点だということだ。
カードの性能や勝率の話ではなく、
「どういう空気で、どういう言葉で、どういう気持ちで遊ぶか」。
そこにこそ、ロルカナの本質がある。
Dオタたちは、カードに“体験”を求める。
カドショ勢は、カードに“勝利”を求める。
そして運営は、カードに“理想”を求める。
三者三様の魔法が重なり、時に干渉し、時に爆発し、
今のロルカナが形作られている。
だからこそ、これはまだ途中なのだ。
「在庫がある」「イベントが満員」――その矛盾こそが、
ロルカナが“成長痛”を感じている証拠である。
ディズニーはいつだって、“完成”ではなく“成長”の物語を描いてきた。
ならばロルカナも同じだ。
いまはまだ、魔法の仕組みを学んでいる途中。
やがて「夢の国」と「カードの国」の両方を歩ける世界ができたとき、
それはきっと、TCG史上もっとも優しい革命になるだろう。
ロルカナは良いゲームだ。
ただし――まだ、人間界に慣れていないだけだ。



知り合いのDオタとロルカナ始めようと大手カドショ行きましたが、店内が常に混雑しておじさんが密になっているのと匂いでカードゲームは無理だと言われました... 本当に記事の通りで、とても納得しました。
夜中に死ぬほど笑わせて頂きました!! スポンサーを集めるところから始まるカードゲームw
チュートリアル無しで地獄に叩き落されるとかフロムゲーじゃん そりゃオタクはカードショップに集うわけだ オタクは歪んだ人種だから笑顔で、愛を込めて全力で(ゲームで)殺しにかかる人種だから…
相性が悪い!という結論は同意なんですが、そこまでに出てきた主張の内容がずっと気がかりでした。 通底した主張は「カード界隈は根本から洗浄したうえで、徹底的なホスピタリティをもって我々を出迎えられていない!我々の界隈はこのようにできている!」という要求ですが、TCGはそういう部分に…