石黒 圭

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石黒 圭
@ishigurokei
日本語研究者/国立国語研究所・総合研究大学院大学教授/一橋大学大学院連携教授/専門は日本語学・日本語教育学/読解教育・作文教育を中心に研究/言葉も好きだが言葉を話す人間が何よりも好き! なお、こちらでつぶやく内容は石黒個人の見解であり、国立国語研究所、総合研究大学院大学、一橋大学の意見を代表するものではありません。
ishigurokei.comJoined June 2011

石黒 圭’s posts

そうなんです。LINEで句点(。)をつけると、若い世代は怒っているように受け取ります。 人間は自分が当たり前だと思う基準(デフォルト)を前提に考え、そこから外れていると特別な意味を見出します。 若い世代ではLINEは「句点なし」がデフォルトなので、句点に怒りを読みこんでしまうようです。
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高橋尚幸
@naotaka007
かなり歳下の方にLINEで「怒ってますか?」と聞かれて、理由を聞いたら、「全部に句点がついているか」と言われたことがあります。「全く怒ってないですよ。おっさんなだけです」と答えました。 x.com/ishigurokei/st…
論文を書いていて、かつて引用していたネット上の文献が消えてしまい、真っ青になることがある。 国立国会図書館では、インターネット資料収集保存事業「WARP」で、2002年以降の日本国内のウェブサイトを保存している。困ったときには、訪問すると捜し物に出会えるかも。 warp.ndl.go.jp
大学院生の二つのタイプ。 一つは、細かい作業が好きで、のめりこむ人。ただ、作業の目的をじっくり考えず、先に手を動かしてしまい、無駄が多い。 もう一つは、研究構想を練るのが好きで、哲学する人。半面、細かい作業は苦手で、やる前に考えすぎて疲れている。 足して二で割れればよいのにね。
修士課程の大学院生は、研究テーマが定まらず、迷走する時期がかならずある。指導教員や先輩など、周囲の容赦ないコメントが迷走に拍車をかける。 しかし、自分の研究を守れるのは自分しかいない。自分の研究が面白い、学術世界の進歩に貢献するという強い信念を持ち、周囲と強く対峙してほしい。
「ド」の言語学 「過剰」の「ド」:ド下手、ドケチ、ドすけべ 「極端」の「ド」:ドでかい、ド迫力、ド派手 「差別」の「ド」:ド貧民、ド底辺、ド田舎 上記が典型だが、最近よく見るのが「真性」の「ド」 ⇒ド定番、ド直球、ドストライク あとは「真っ只中」の「ド」 ⇒ド平日、ド深夜、ド繁忙期
論文を書くことは「だろう」を減らすことである。 学問の世界で「だろう」と考えられている仮説にたいし、データに基づく明確な根拠を与え、「だろう」を消していくことが研究の営みなのだと思う。 だから、論文やレポートを書くときに、無意識に「だろう」を連発している人は注意したほうがよい。
研究で問いを立てるとき、初学者は大風呂敷を広げがちです。しかし、大学院で、答えられるサイズの問いに分割する方法を学べます。 一方、ベテランは、小さな問いを集めて大きな地図を作ることが求められます。しかし、その方法を学ぼうとせず、小さな問いの再生産を繰り返す。そこに闇があります。
逆接でない接続助詞「が」の使用を控えるように提唱したのは、社会学者の清水幾太郎。1959年『論文の書き方』岩波新書で述べている。 「が」の濫用への警鐘は鋭いが、代わりに何を使うかが難しい。「けれども」では「が」と同じ。「なのに」「にもかかわらず」「ものの」どれもしっくり来ずに悩む。
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今野良介|編集者
@aikonnor
文章理解を阻害する要因の1つが、順接の「が」。 ・私はaiko好きを公言していますが、おすすめは『カブトムシ』です。 ・音楽玄人にファンの多いaikoですが、理由の一つはブルーノートスケールが染み付いていることです。 「が」で逆説を予想したところに順接が続くと、微かなストレスを生みます。
講義、とくに大学院の講義では「悩んでいる姿を見せる」のが教師の仕事だと思う。 立て板に水のごとく話す講義は知識の伝達。 悩みながら、つっかえながら話す講義は思考の伝達。 大学院の講義は思考の訓練の場。寺村秀夫先生の口癖は「なんでやろなあ」だったという話を思い出す。
「人は外国語で考えると、3割バカになる」という名言を某先生から聞いたことがある。 私は今、外国語で口頭の発表を準備し、外国語での複雑な思考は至難の業であり、8割バカになることを実感している。 日本語という外国語できわめて高度な思考をする留学生(私のゼミ生たち)を心から尊敬する。
博士課程の経済支援がまとまったページです。博士課程に進学予定の方だけでなく、在学中の方にも参考になりそうです。 academianote.site/scholarship/ 実際に見ると、理科系が中心であり、在籍大学に左右されやすく、文科系博士課程の支援策は道半ばですが、それでも情報があるに越したことはありません。
修士論文を書き上げられた方、お疲れさまでした。 修論を提出した方はみな「自分の研究力のなさ」を痛感すると言うのですが、教員から見て「学生さんの研究力の成長」を実感します。 入学時からの成長は飛躍的です。「自分の研究能力のなさ」を痛感できるほどの成長を、ぜひ誇りにしてください。
大学院のゼミで、せっかく発表の機会を得たのに、準備が遅れているから、研究が行き詰まったからと発表を辞退する人がいる。 それは逆です。 準備が遅れたからできるところまでがんばる。研究が行き詰まったからゼミの場で相談するんです。 準備万端の発表は、ゼミではなく学会ですることです。
学部生のレポートで「……。なので、」と接続詞「なので」はよく目にするが、投稿論文で「……。結果、」も見かけるようになった。「その結果」と「その」がないと気持ち悪く感じるのは古い感覚かなあ。 最近、「都度」「瞬間」「まんま」「あげく」のように「その」のない形が一般化しているし……
留学生の院生に「おばけ」って「お化けがある」ですか「お化けがいる」ですかと聞かれた。 質問の意図を聞くと、「日本語の授業では生物は『いる』、非生物は『ある』だと習ったので」とのこと。 お化けは「自分で動けるので『いる』」と答えると、「じゃあ、ぬいぐるみは?」 難しい質問だ……
この時期、大学院入学者の自己紹介によく聞くフレーズに「○○に興味があります」がある。 ただ、「興味」だと弱い。好きな人に告白するのに「あなたに興味があります」と言うだろうか。 小著『文系研究者になる』で「研究は恋である」と書いた。恋に必要なのは、「興味」ではなく「情熱」である。
確かに最近『段落論』のTweetが増えてきています。嬉しいことです。 デジタル時代に入り、段落は変化しています。 ①改行1字下げから、1字下げない1行空けになりました。 ②1文1段落が当たり前になりました。 ③意味の切れ目のない箇所で段落を区切り、「続きを読む」を押させるものになりました。
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光文社新書
@kobunsha_shin
にわかに注目を集めている石黒圭さんの『段落論』。副題が示すとおり、わかりやすい日本語の決め手となる「段落」のお話です。 読み、書くための段落はもちろん、なんと「話すため」「聞くため」の段落についての記述も(!) 日本語研究の第一人者が、わかりやすさの「コツ」を語り尽くしています。
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「すぎる」は「見すぎる」「太りすぎる」のような動詞、「寒すぎる」「やばすぎる」のような形容詞につく。 最近は「天使すぎる」「クソすぎる」のような名詞、「見たすぎる」「行きたすぎる」のような「たい」、「良かったすぎる」「楽しかったすぎる」のような形容詞の過去形にもつき、広すぎる。
留学生に日本語表現をJ-POPで教えるベスト3! 指示語「あの」を小田和正「ラブストーリーは突然に」で教える。「あの日あの時あの場所で」 命令形をさだまさし「関白宣言」で教える。「飯はうまく作れ」 否定文を槇原敬之「もう恋なんて」で教える。「もう恋なんてしないなんて言わないよ絶対」
高校で世界史を学んでいる次女が叫んでいる。「千年が1ヶ月で終わる中国史の授業なんてありえない。隋は、秒で滅ぶし!」 1400年以上経った日本で「秒で滅ぶ」なんて言われている、かわいそうな隋に同情を禁じえない。
米国では、博士論文の審査会はディフェンスと呼ばれ、審査員の厳しい学術的批判から自分の研究を守り抜き、研究の価値を証明する高い技術が求められる。 ディフェンスは、修士課程からすでに始まっている。そのことを自覚し、周囲と戦って自己の信念を貫くのが、大学院生活である。がんばれ、修士。
大学院の研究室のコミュニケーションで要注意なのは、所属する研究室に局所最適化してしまうこと。結果、他の研究室で通用しない研究者になるおそれがある。 学会等で積極的に他流試合を挑み、学外の研究者とのネットワークを積極的に作らないと、研究者コミュニティで通用しなくなりかねない。
ただ、本書『スマホは辞書になりうるか』明治書院で追求しきれなかった問題があります。広告です。 スマホで何か調べようとすると、広告が出てきて学習の邪魔をします。それを消せなくて調べるのをあきらめたり、それが嫌で調べることをあきらめる学生が後を絶ちません。これは大きな社会問題です。
お昼ご飯をふだん何と言いますか。 コーパスを見ると、日本語を学ぶ外国人は「昼ご飯」をよく使いますが、日本人は「昼ご飯」「昼飯」「昼食」のいずれもあまり使いません。 外に食べに行くときは「ランチ」、家から持参したものは「弁当」、家で作るときは単に「お昼」と使い分けているようです。
国立国語研究所が発信する動画教材に「言語学レクチャーシリーズ」があります。 日本語をはじめとする言語学の基礎が学べる動画教材で、今日で17本目(柏野和佳子さんご担当)が発信されました。 国立国語研究所YouTubeチャンネルで公開中です。よかったらご覧ください。 ninjal.ac.jp/education/vide
研究は、学術的な「問い」を立てて「答え」を出すことだ。そう教わる。 ところが、「答え」なんてそう簡単には出ない。行き詰まることも多い。 でも、「答え」は出ないのが普通で、安易に求めないほうが健全。わからない「答え」の可能性をいくつも抱えて悩み続けられるのが、優れた研究者である。
『文系研究者になる―「研究する人生」を歩むためのガイドブック―』ようやく発売です。 books.kenkyusha.co.jp/book/978-4-327 本書は「研究者すごろく」の構成になっていて 大学院入試⇒修士課程⇒博士課程⇒任期付/非常勤教員⇒テニュア教員⇒名誉教授⇒ご臨終 という階段を上る仕掛けになっています。
大学院修士課程に入りたての今気をつけたいのは、どんな分析方法を選ぶのか、方法論への先走りです。この時期、先輩たちの派手な技術論争に目を奪われがちですが、自分が何をやりたいのかを固めるほうが先決です。 基礎体力もないのに技術を身につけようと練習しても、故障の原因にしかなりません。
論文で使うのに注意が必要な表現①「考察」 論文を読んでいて気になる「考察する」という表現。「考察」と書いてあっても、内容を読むと「観察」「調査」「分析」に留まるものが少なくない。 「考察する」と書くなら、分析の結果だけでなく、「なぜそうなるのか」という理由まで書きたい。
【新刊紹介】 石黒圭『言語学者も知らない謎な日本語』 hanmoto.com/bd/isbn/978486 「わかりみが深い」 「あの発言、メタい」 「ちょっと待った! 例文を頼む!」 言語学者の父が娘たちと繰り広げる“謎な日本語の世界” めくるめく言葉の海に父と娘が飛び込む! ! ! 大学生の長女との共著、登場です。
学会誌の投稿論文を査読していると、採否に迷い、その結果、査読者は厳しい判断を下しがちです。かくして、学会誌は採択率を下げていきます。 そこで参考になるのがこちら。 ipsj.or.jp/journal/manual 「石を拾うことはあっても玉を捨てることなかれ」という査読ポリシーは、投稿者には涙ものです。
大学で教わるのは知識だけではない。大事なのは考え方(思考法)とやり方(方法論)です。 社会に出て新しい課題にぶつかっても、学校で学んだ考え方とやり方を応用すればかなり解決できます。 大学で学んだ知識が社会で役に立つ錯覚に囚われていると、大学の価値に気づかない残念な人になります。
大学院に進学希望の学生の相談を受ける。「自分の研究テーマを先生の専門に近づけますから、先生のもとで学ばせていただけませんか」と言われ、戸惑う。 それは逆。学生の研究テーマに歩み寄るのが指導教員の役割。貴重な時間とお金をかけて進学する以上、自分が真にやりたいことをやってほしい。
「本を読むと語彙力がつく」 誰もが信じているこの因果関係、じつは証明は難しい。 せいぜい、証明できるのは「本を読む人は語彙が豊かである」という相関関係くらい。 それすら証明は難しい。 jstage.jst.go.jp/article/sor/59 ──それでも、私は本を読む。語彙力よりも大切なものを手に入れたいから。
大学院で悩む学生を見るたびに「あなたの興味は何? 自分の興味がわかれば研究テーマが見つかるよ」と声をかけてきた。 しかし、言うべきは「あなたはどんな人? 自分という人間がわかれば自身に合った研究テーマが見つかるよ」であった。自己を冷静に分析し、適切に評価できる人だけが成長する。
副詞には「意味だけ方言」があり、紛らわしい。 有名なのが関西弁の「また」。関西では初対面の人に「また遊ぼうね」と言われる。「また」は「もう一度」でなく「今度」の意味。 北関東の「あとで」も難しい。栃木や群馬で「あとでやっとくね」と言われてもその日にやらない。「翌日以降」になる。
最近、面談した大学院生に「今の自分は、研究テーマが決まらず中途半端。何をしてよいかわからず不安だ」と訴えられた。 でも、私は「研究には必要な、大事な時期だよ」と答えた。 不安な時期は、次の大きな飛躍に備えているとき。大きくジャンプするまえは、小さくかがむもの。心配は要らない。
副詞について受けた取材が記事になりました。 副詞の研究は近年厚みを増し、専門家でもない私が口を挟めるような世界ではないのですが、記述が進むわりには、どんな副詞をどう使えばよいか、適切な指針が少ない点は寂しいです。そこならば、私でも少しは発言できそうです。
「~した。結果、感染が拡大した」のような「結果」が広がっている。 二字漢語名詞が副詞化する現象は「事実」「正直」「是非」「結構」「原則」などがあり、これらは文法化が完了し、自然である。 一方、「結果」や、「基本、無料」の「基本」、「究極眠い」の「究極」などは過渡期の気がする。
私が、本年度の文化庁長官表彰の被表彰者に選ばれました。 これは、私個人の力ではなく、国立国語研究所が主導する日本語教育研究に協力してくださった世界各地の学習者のみなさま、および、お支えくださった世界各地の先生方のお力添えの賜物です。ありがとうございます。 ninjal.ac.jp/info/researche
対義語は難しい。意味の数だけ対義語がある。 ドアでは「引く」の反対は「押す」 計算では「引く」の反対は「足す」 進退では「引く」の反対は「進む」 波では「引く」の反対は「寄せる」 潮では「引く」の反対は「満ちる」 将棋では「引く」の反対は「上がる」。「5三銀引く/上がる」となる。
大学院生でも、博士課程に入ったら、研究テーマの賞味期限を考えたい。 自分が今取り組んでいるテーマについて、後に続く研究者がどう発展させられるか、未来を想像してほしい。 発展の可能性が低い、賞味期限の短いテーマは、今空いている研究のスロットを埋めるだけの、つまらない研究になる。
研究が、今まで誰もやっていないことを見つけ、それを埋める作業なら、研究のタコツボ化が進むだけ。 研究が、今まで誰かがやったことの問題を見つけ、それを直す作業なら、他人のあら探しが進むだけ。 真の研究は、みんなが夢中になれる新領域を出現させる。力ある若きGame Changerの登場を求む。
言葉の研究者は多い。「新しい言葉」も「古い言葉」も「難しい言葉」も「易しい言葉」も研究が進んでいる。 しかし、言葉の温度の研究者は少ない。「温かい言葉」と「冷たい言葉」があるのに。 言葉の重さの研究者も少ない。「重い言葉」と「軽い言葉」があるのに。 そんな言語学があればなあ。
私自身は日本語学習者、平たく言えば外国人の日本語を研究しているが、そこに大きな可能性を感じている。 出現頻度の高い組み合わせばかりが優先される生成AI全盛の時代、外国人の日本語には自分の頭で考えた独創的な使い方が見られ、生成AIにない、新たな日本語の可能性を示してくれるからである。