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孫子の兵法

戦後のわが国の経済成長期に、企業の経営者に読まれたものに孫子の兵法と、山岡壮八の長編歴史小説徳川家康がありました。平和になってから兵法書が珍重されるのは不思議ですが、孫子からは企業の経営戦略を学び、家康からは隠忍自重の精神を学んだと云われます。

孫子(そんし)は、中国春秋時代孫武の作とされる兵法書です。孫武はその時代までの、戦いの勝敗は天運によると云う考えを改め、戦争には勝った理由、負けた理由があるとしました。

わが国では「彼を知り己を知れば、百戦して殆うからず。」が孫子の兵法だと思われていますが、孫子の説くのは「百戦百勝は善の善なるものに非ず。戦わずして降すは善の善なるものなり。」で、戦わずして勝つことを最上のものとしています。

孫子は、戦争には国家の存亡、国民の生死がかかっていますから、戦いと云う狭い局面だけで勝ち負けを考えるのではなく、もう一段上の大局的観点から、国の政略として戦争とどう向き合うかを考察すべきだとしています。

自国の力が強ければ、相手から戦争を仕掛けられることはなく、自国の立場は守られ戦争の必要はない、つまり、戦わずして勝てると説くのです。やむを得ず戦う場合も、充分な勝算がある場合に限って戦いに臨み、充分な勝算がたたない、敗れるかもしれない戦いは、なんとしても避けるのが孫子の本領です。

孫子の戦略論の特色は、廟算の重視にあります。廟算とは開戦の前に廟堂(祖先祭祀の霊廟)で行われる軍議のことで、算とは敵味方の実情を分析し比較することを指します。廟算にあたっては五事を対象に、七計によって比較検討を加え、情勢の判断を行うとしています。

五事とは、道、天、地、将、法の五つです。道とは民衆が君主と同じ目標を持ち、危険を恐れずに生死を共にするかです。天とは気候が陽気か陰気か、季節は暑いか寒いか、行動に移るべき天の時かどうかです。地とは距離が遠いか近いか、地形が険阻か平易か、地の理が得られるかどうかです。将とは将軍が信頼に値する知性をもつか、兵士に慈悲を持って接しているか、事をなす断固たる勇気があるかです。法とは軍隊の編成、官職の統治、軍需物資の管理に関わる軍法が正しく定められ、かつ、守られているかで、この5つが検討項目です。

この五事は将軍たる者は誰でも知っているはずですし、わが国の経営者としても、これくらいのことを知っていなくては困るのですが、経営者が自らを顧みてチェックするための座右の書として、孫子は有用だったのでしょう。

孫子は5つの要素を七計によって比較し、十分な勝算が見込めるときにのみ兵を起こすべきものとしましたが、この分析には確たる相手の情報が必要で、あらゆる手段を用いた諜報活動の重要性を説いています。孫子の時代の戦争は地続きの漢民族同士の争いでしたから、その気になれば諜報活動はいくらでもできたのでしょう。

孫子は中国の戦国時代後期には、すでに古典として地位が確立されていますが、日本に伝えられたのが分かるのは、続日本紀天平宝字4年(760年)の条だそうです。孫子は学問、教養の書として貴族たちに受け入れられました。大江匡房源義家に孫子の教えを授けましたが、前九年・後三年の役で、鳥の飛び立つところに伏兵がいると云う孫子の教えで、伏兵を察知して敵を破った話が有名です。

近隣との領地争いに過ぎなかったわが国の中世の小規模な合戦では、孫子のような組織的な兵法が生かされることはなかったようですが、戦国時代も終わり頃になると、何万人単位の大軍団同士の戦闘が行われ、孫子が取り入れられるようになってきます。

武田信玄風林火山の旗幟は有名ですが、出典が孫子であることはあまり知られていないようです。「疾きこと風の如く、静かなること林の如く、侵略すること火の如く、動かざること山の如く」までで「風林火山」ですが、孫子ではその後に「隠密たること夜陰の如く、激動すること雷鳴の如し」が続いています。

徳川幕府が天下を取り泰平の世になると、かえって戦国時代の軍事知識の体系化としての兵学が盛んになりました。孫子も兵学の一つとして学ばれていましたが、明治以降のわが国は近代的兵学としてプロイセン兵学を導入し、時代が下るにつれて孫子を学ぶことは少なくなったようです。

孫子を教養として学ぶ時代ではなくなっていましたが、戦争を決断する前に行う彼我の国力の厳密な分析と、負ける戦いはいかにしても避けると云う孫子の教えが、第二次世界大戦前の政府の要人や陸海軍の軍人にもう少し浸透していたら、まったく勝算のない第二次世界大戦に、わが国が突入することはなかったのではないかと悔やまれます。

昭和15年(1940年)小学4年の時に私は北京に引っ越し、翌年、大東亜戦争(第二次世界大戦)が始まりました。昭和12年(1937年)に始まった支那事変(日中戦争)が収拾できていないのに、東南アジアのとてつもなく広い範囲に戦線を広大して、一体どうするのだろうと、日本が連戦連勝していた時にも思ったものでした。

満鉄社員健闘録を読んで、点(都市)と線(鉄道)を守るだけでもどんなに大変かは知っていました。小学生であったとは云え、中国へ移って大陸の広さをさらに実感させられていた私には、面で支配していない占領の維持の困難さは、想像がついたのです。大陸が広いという実感は、日本にいては分からない感覚でしょう。

中学2年の昭和19年(1944年)には天津で勤労動員が始まり、兵器廠で雑役をさせられました。兵器廠には携行食糧が備蓄されていましたが、製造年が大正時代になっている金平糖が混じった乾パンで、その古さと保存のよさには吃驚しました。

さすがに缶詰はあったようですが、ご飯と、鰹節と、梅干しを、それぞれ干し固めたものを飯盒に入れ、コールタルを浸した包み紙を燃やしておかゆにするのが、最新の携行食だと聞かされました。

兵器廠の兵隊が生徒からせがまれてする討伐作戦の話では、食糧は現地調達です。通用しない軍票を置いてくるのですから、調達と云っても事実上は略奪です。親戚に海軍が多かった関係で、軍艦が寄港地で水と食糧を補給するのが、いかに大切かを聞かされていました。軍艦は兵員とともに食糧もいっしょに運べますから、戦闘中の食糧は兵員についてくるのです。

陸軍の歩兵は40-60キロの装備を持ち、1時間に5キロの速さで歩かなければなりません。米7日分、乾パン、缶詰、醤油、味噌を合わせて8キロの食糧を携行しますが、輜重による補給がなければ長期の戦いはできないのです。

日支事変が始まった頃の「父よ、あなたは強かった」と云う軍国歌謡に、「泥水すすり、草をはみ」と云う歌詞が出てきます。戦闘中に食糧調達は無理です。大和魂だけで戦えないのは、自明の理です。食糧の補給をないがしろにすることは、兵員や武器の補充も行われないことに通ずるのです。両者の補給を合わせて兵站と云います。

1977年に厚生省が明らかにした第二次世界大戦の日本人の戦没者数は310万人で、軍人軍属は230万人とされています。この戦争で特徴的なことは、日本軍の戦没者の過半数が戦闘行為による戦死ではなく、餓死であったと云う事実です。

この戦争では、日本軍は熱帯のジャングルで食糧の現地調達ができず、補給がされないことから、膨大な数の飢餓者を出しました。死に至る飢餓だけでなく、飢餓状態による栄養失調のために体力を消耗し、マラリア、アメーバ赤痢、デング熱などによる多数の病死者が出ました。

この栄養失調に基づく病死者数が、戦死者や戦傷死者の数を上回ったのです。餓島と云われたガダルカナルなどの局地的な状況だけでなく、戦場の広域にわたって飢餓が発生したことに、日本陸軍の兵站を軽視した特質をみることができます。

日露戦争開戦前のわが国に孫子の説く意味での、ロシア帝国に対する勝算があったとはとても思えませんが、戦争継続が困難なことを見通していた明治政府は、奉天大会戦の勝利の後、戦争の終結を図りました。日本海大海戦の完勝と、帝政ロシアを脅かしていた革命運動を背景に講和を急ぎます。

開戦当時わが国は、ロシア帝国の極東進出を意識する大英帝国と日英同盟を結んでいました。日露戦争の戦費の調達もまったくイギリス頼みでしたが、バルチック艦隊がはるばる大航海をしてくる間の艦隊の位置を知ることや、艦隊が希望する港への寄港を阻止することも、イギリスが支援してくれていました。ロシア国内では、明石元二郎大佐の革命支援工作が大きな効果を上げるなど、諜報活動も驚くほど行われていたのです。

講和後に帰国した日本全権の小村寿太郎は、戦勝に沸く日本国民から国賊扱いされました。戦勝国でありながら賠償金が取れず、樺太の南半分を得たに過ぎない条件でも、明治政府は戦いを終わらせる思慮があったのです。ちなみに日露戦争の戦費に使われたポンド建て日本国債の償還は、実に、第二次世界大戦に敗けたさらに40年後の、1986年(昭和61年)にやっと完済されたのです。

第二次世界大戦の前に彼我の実力を素直に分析すれば、開戦の前年までに600トンの金塊を送って、仮想敵国の米国から石油や鉄の軍需物資を輸入していたわが国に、勝算があるはずはないのです。日露戦争での奇跡的な陸海軍の勝利がわが国に錯覚をもたらし、第二次世界大戦に突入する不幸を呼び込んだとしか云いようがありません。


戦わずに勝つことを最上のものとし、負ける戦いは何としても避ける孫子の兵法は、永遠の真理です。

 

 

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