■Re:Ron×インタビュー
私たちは何を知らないのか――。フェイクニュースや陰謀論など、真実軽視のポストトゥルースが日本においても現実味を帯びつつあるなか、「無知学(アグノトロジー)」という言葉が注目されている。その考え方や社会背景、今できることについて、科学史研究者の鶴田想人さんに聞いた。
――「無知学」は、日本でもここ数年で関連書籍が出たり特集が組まれたりしていますね。
「近年注目を集めているのは米国のトランプ氏の存在も大きいと思います。2016年の大統領選は『ポストトゥルース』という流行語を生みました。事実かどうかより、自分の感情や政治的信念のほうが優先され、真実が二の次になってしまう状況です。根も葉もない陰謀論やフェイクニュースが拡散され、選挙の結果を左右した。うその情報によって、何が真実か分からなくするのは、まさに無知を作り出す技術そのものです」
「7月の参院選で、日本でもそうした状況がいよいよ可視化されてきたと感じています。事実に基づかない排外主義的な主張や、戦争を賛美するかのような歴史修正主義が候補者の口から語られ、SNSで拡散され、それによって一定数の人たちが動いたように見えました」
「さまざまな情報が飛び交うなかで『真実』が分からなくなる状況は、無知学の観点から見ても興味深い。それが政治的な力を持ち始めたいま、取り組むべき喫緊の課題でもあると考えています」
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――そもそも無知学とは、どのような考え方ですか。
「『私たちは何を、なぜ知らないのか』ということを出発点に、社会や歴史的事象を分析していく学問です。08年にスタンフォード大学の科学史家ロバート・プロクター氏とロンダ・シービンガー氏による論文集が米国で発表され、知られるようになりました」
「知らないということは、これまで単なる個々人の知識の欠如とされ、学問的な研究対象になってこなかった。けれど、一つの社会現象として捉えると、じゃあなぜ知らないのかと、その原因や意味を問えるようになるわけです。一見、デフォルト(基本的な状態)のように見える『知らない』という状態を、あえて探究の主題に据えたところに面白さと挑戦があります」
「無知学のもう一つの特徴は、無知が『作られている』と考えることです。無知の原因は、私たちの中だけでなく、私たちの外にもある。私たちが単に知らないだけだと思っていることも、実は知らなくさせられているのかもしれない。これこそが、いまの時代を考えるうえで、無知学に目を向ける意義ではないかと思います」
――無知が作られているとは具体的にどういうことですか。
「無知学では大きく分けて、無知が意図的に作られる場合と、構造的に生み出される場合があると考えます」
「これまでよく研究されてきたのは『意図的な無知』で、特定の誰か、あるいは企業や国家などが、情報を隠したり攪乱(かくらん)したりしたために生じてきた無知です。米国のたばこ業界が喫煙の健康リスクを否認したり、政府が安全保障に関わる科学的知見を機密にしたりしてきたことが代表的です。日本でも、公害研究で無知が作られてきました。最たる例が、長らく『原因不明』とされた水俣病です」
「もう一つは、より複雑な構造的要因が絡まり合い、いつの間にか生まれてしまう無知です。ジェンダーや人種などの不平等があるところでは、知識の偏りが生じやすい。例えば、前立腺がんなど男性特有の病気のほうが女性特有の病気よりも研究されていて、子宮内膜症やつわりなどは最近まで十分に解明されてこなかった。単純化はできませんが、女性の研究者が少なかったり女性の痛みが心理的なものとみなされたり、色々な要因が考えられます。誰かが意図的に隠蔽(いんぺい)したわけではないけれど、そうした小さな無視や後回しの積み重ねで生じてしまうのが『構造的な無知』です」
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――ポストトゥルースが力を持ち始めた現状を、無知学はどう捉えているのでしょうか。
「意図的な無知と構造的な無知のハイブリッドとして分析できると思います。政治的動機からにせよ、お金のためにせよ、デマを流す人は確実にいる。しかし、そうしたデマを増幅させているのは今日の情報環境である部分が大きい。実際、フェイクニュースは事実よりも速く遠くまで拡散することが研究で示されています。今後はAI(人工知能)が、現実とほとんど見分けがつかない『ディープフェイク』を半ば自動で生み出していく可能性もあります」
「一方、なぜ人々がデマや陰謀論を信じてしまうのかも分析が必要です。大事なのは、単に人々のリテラシーや知識不足のせいにはしないこと。デマを信じる人を『無知』だと非難しても、問題は解決しない。それどころか、それにより生じる心理的分断こそ、陰謀論が広まる格好の土壌となります」
「無知学は、『知らない』ことを、個人の問題ではなく社会や集団の問題として見ていく。個人の努力によって正しい情報に到達することが困難な時代だからこそ、構造的な視点で問題を捉え、解決策を探すことが重要だと考えます」
――私たちにできることは。
「自分たちの認知のクセを知っておくことは大事だと思います。心理学で言われるように、人間には様々な認知バイアスがあり、私たちは見たいものを見て、信じたいものを信じてしまいやすい。個人が群衆化して集団に埋没することで、冷静な判断力を失ってしまうことも知られています。私たちの認知や心理のあり方にも、『無知』を生み出すメカニズムがある」
「また無知の研究では、社会的に優位にある人たちが、自分たちの特権性を十分に認識できない構造があることも指摘されています。彼らにとって都合よく作られた社会や文化が、特権を自然なものだと錯覚させるのです。これは『白人の無知』という概念で議論されてきたものですが、『白人』を『男性』に変えても同じだと思います」
「参院選でも、ジェンダー平等やDEI(多様性・公平性・包摂性)に逆らうような言説が一部の支持を集めました。社会が平等化することを『逆差別』だと感じてしまうのは、そもそもの不平等への『無知』があったためではないでしょうか」
「意図的な無知の作られ方にも、様々なパターンがあります。過去の歴史からそうしたパターンを知っておくことによって、いま作られつつある無知への感度を高めることができるかもしれない。それも、無知学を学ぶ効用の一つだと思います」
――具体的には、どのようなパターンがあるのですか。
「不都合な科学論文に疑念を呈したり、独自のメディアで紛らわしい情報を発信したり。本当に知られたくないことから、あの手この手で注意をそらすことは、無知を作り出す際の典型的な手法の一つです。陰謀論も『注意そらし』の一種だと言えます。主流メディアを攻撃し、生きづらさや不安の原因を特定の集団に向けることによって、真の原因から人々の目をそらせようとする。そこから恩恵を受けるのは、問題の根本的な解決を先延ばしにしたい人たちにほかなりません」
「個々の情報が正しいか正しくないかを一つ一つ判断するのは現実的ではないからこそ、相手の手のうちを知り、警戒しておくことは重要だと思います。しかし、それも万能薬にはなりえません。やはり、基本的なことですが、自分を含めた人間がいかに誤りやすい生き物であるかを自覚しておくことが大事ではないでしょうか」
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――厳しい状況は続きそうですが、希望はありますか。
「ポストトゥルースが進み、歴史修正主義によって過去の『記憶』があいまいになることで、いつの間にか戦争が美化され、つまりその残酷さを忘れ、再び歴史を繰り返すのではないかと危惧しています。『真実』があやふやになると、私たちは権力に対して脆弱(ぜいじゃく)になります。いまや抵抗したくても、その足場となるような、確固たる事実や共通了解のようなものが溶けてしまっている。このぬかるみの中で、時代の大きな流れに逆らって自らの足で立つことは、簡単ではないと思います」
「それでも、各自が『これだけは確実』と思えるものの上に、とりあえずの足場を見つけていくしかないのではないでしょうか。この不確実性の沼のなかで、どうすればよりよく判断し、生きていけるのか。私自身、まだ処方箋(せん)は見つかっていませんが、無知学の知見を踏まえながら考えていきたいと思っています」(聞き手・佐藤美鈴)
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つるたそうと 1989年生まれ。東北大学DEI推進センター特任助教。専門は科学史・科学論。共編著に「無知学への招待 〈知らないこと〉を問い直す」など。
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