世界が廻る音
第一部
*
窓を覗くといつもの光景が確認できる。
村一番の〝モヤシ〟と称されている〝彼〟が、今日は今日とて書物の中に埋もれていた。
白壁の古い家に閉じこもり、年季の入った木の柱に背中を預けて、熱心に文字の列を目で追っている横顔。読み耽るその様は異国情緒に溢れていて、少し近寄りがたい。俯いた目元に掛かる少し長めの前髪は艶やかな漆黒で、軟弱かつ不健康であるという本人の言い分とは異なり、色白の肌はとてもキレイだった。
時折、淡い色をした唇を動かしてぶつぶつと何事かを呟いているが、それが何を意味する言葉なのかは分からない。
多分、誰にも分からない。だから、彼はこうして本に囲まれている。彼の〝かつて〟を取り戻そうとしている。それは、あまり歓迎できることではないのだが、彼に言えようはずもない。
必死で〝かつて〟を模索している彼にやめて欲しい、なんて言えるわけがなかった。
〝かつて〟村の常識を一切持ち合わせていなかった彼。
身一つでこの村に迷い込んできたあの日、彼は今より更にか細い少年だった。大人達に保護されてからも、毎日泣いて過ごしていた。そんな彼の心を慰めたのは〝ワタボウ〟だ。
今も、彼の脇に蹲っている――らしい。
誰にも分からない。誰にも見えない。どんな姿をしているのかも、どんな鳴き声をするのかも。一切合財が不明の不思議な生命〝ワタボウ〟。
ある村では神のように崇められ、また別の村では災害の前触れとして恐れられているという。神の使い、悪魔の手先。色々な説がありすぎて、結局のところどれが本当なのかは知らない。〝ワタボウ〟は村にいるような凡人には、理解することも知覚することも出来ないのだから。
ふと、彼の視線がこちらを向く。訪問者を認めて口元に笑みを載せると、ほっそりとした手首をくねらせて、ひら、と手を振ってくれた。
01
窓の外にいたのは村一番の男前と持て囃される、スラッガーだった。
手を振って見せると、途端、精悍な顔中を満面の笑みで一杯にして筋肉質な腕をぶんぶんと振って応えてくれる。成人して半年経つというのに、いまだ子供の行動が抜けない友人は、いつものように森で狩をしてきたらしい。イノシシか何かだろう。大きな獲物の入った袋を指し示して「大猟だったぜ」と顔に大書する。同調するように、彼の相棒である猟犬のラッシュがワンとひと鳴きした。
人懐こい彼の気性に、サツキはくすりと笑いを零す。同年代の少ない小さな村で、スラッガーは唯一の親友と言っても過言ではなかった。
あぶ?
直後、甲高い赤ん坊に似た声が発する。手にしていた本を畳んで、サツキは腰の辺りを振り返った。
「退屈だった? ほら、こいこい」
言いながらそっと手を伸ばすと、丸まっていたレモンイエローの綿毛がぴょこんと跳ね上がった。腕の中にすぽっと納まってきたやわこい感触にサツキの頬が緩む。見上げてきたまあるい二個の目には一層、笑みが誘われた。
「お前ってホント可愛いやつ、ワタ」
あぶあぶ……。
ほぼ丸い体に申し訳程度の短い手足をくっつけ、目と口のみを配置した簡素な顔。両手で掬い上げることが出来るほど軽くて小さい、一見すると黄色い綿飴のような謎の生き物が、胸に擦り寄るようにじゃれ付く。いつも意味不明の鳴き声を上げていて、時々分かっているのかいないのか定かでは無いなりに返事をくれたりする。
「癒されるなあ。あー、すごい和むぅ……」
あぶえぶぁ~。
ふわふわの産毛に頬ずりすると、喜んでいるらしいワタが小さな口をにまーっとさせて、もそもそと全身を揺する。くすぐったいやら可笑しいやらでサツキも、あはっ、と笑い出した。
初めてワタを見たとき、第一声にサツキは零した。
『……お祭りの出店で並んでた?』
もちろん意味が通じる訳もなくワタはただ、あぶ? と体を傾けていた。二年前の話だ。
同時に、この村に来辿り着いてからも二年経つ。まだ二年と言うべきかもう二年と言うべきか、サツキには分からなかった。
日常だと思っていた世界が、ある日突然その姿を眩ませてしまった。なのに、こうして新たに現れた別世界で淡々と過ごしていたりする自分は少し、感覚が麻痺してしまっているに違いない。
ココに来る前、サツキは山道を歩いていた。何のことは無い田舎の坂道だった――そのハズだった。
あの日は母方の実家の不祝儀だった。サツキは両親と共に母親の故郷に訪れていたのだが、何も無い田舎での逗留は高校生には退屈という名の試練に他ならなかった。暇で暇でしょうがなくって、かと言って娯楽もない。ごろごろするのに飽いて、翌朝ついに少し辺りを散策しようと外に飛び出した。
どんよりとした空を仰ぎながら真っ直ぐ伸びる畦道をてくてくと歩いていた。遠くに鶏の鳴き声が上がり、古い民家が林の隙間に覗くのを見た。隣近所というには物理的な距離が遠すぎだ、と内心で突っ込みつつ、ぼんやりと当てもなく足を動かしていると、牛乳の配達らしい自転車が脇を横切っていった。
その直後、不意に現れた朝靄にじわじわと視界を浸食されていった。サツキは慌てなかった。直ぐ晴れるだろうとか、一本道だし迷うわけないとか、甘い認識で構えていた。それがいけなかったのか、それとも注意していたとしても無駄だったのか。
ほとんどの視界を奪われて、おいおい、とようやく足を止めたときには、もう地面の感触が違っていた。
ギリギリ電気が通っているようなド田舎だったが、道はそれなりに舗装されていた。なのに、あの車には優しくて人間には意地悪な感触がしない。夏はじりじりと焦げ付き、冬はガチガチに凍りつく、コンクリの硬い感覚が感じられない。これはただの地面だ。草木が繁茂し虫が眠る、大地の感触だ。
何度も足を踏み鳴らしているうちに、今度はみるみる視界が開けていった。
白い霧のあとから現れたのは、雲を赤紫に染め上げる黄昏と両脇を固める断崖絶壁の黒い岩山。そして、踏みなれた道路ではない、人の手などほとんど入っていない土を固めただけの道。道の端に傾いて立っている古い木材はどうやら道路標識らしかったが、文字も記号もまるで読めない代物だった。
だが、本当の驚愕は道程の先にあった。遥か向こうに遠く霞んで見える巨体。想像を絶するエネルギーで天空に浮き上がり、その鋭い切っ先を雲にまで突き出していたのは、大きな氷山だった。
唖然とした。目の前に広がってる信じられない光景を脳に受け入れることが出来なくて、ただただ棒立ちになった。あまりの非日常さ加減に訳が分からず涙が溢れた。独りでに溢れかえった涙を拭う余裕さえなくて、そのままぼろぼろと泣き出した。
こんなことになって、どうしよう。そればかり考えて悲嘆に暮れた。力を失ってがくりとしゃがみこむと泣き喚きそうになって、グッと喉を鳴らした。足先をちょいちょいと突っつく感触が加わったのはその時だった。
あぶ?
素っとん狂な声を出し、暢気な笑みを浮かべる黄色いよく分からない物体がいた。サツキを見上げて、あぶあぶ? と連呼していた。
意味不明、極まる。足元でノミのように飛び跳ねたり体をくねらせている生き物。呆然と眺めている内に、ふと、どこかで似たようなのを見たことがあるな、と思いついた。そうだ、神社の夏祭りで食べた棒付き綿飴。一応、本人に飴の関係者かどうか聞いてみたが、返答は、あぶ? だった。
とりあえず、悪意はなさそうだ。無害そうな外見を信じて、そろりそろりと抱き上げてみる。きゃきゃ喜んだ綿毛に、サツキも緊急事態にもかかわらず噴出してしまった。
もしや地球の支配者が人間であるように、この異界を統べている生物は綿飴なのだろうか?
ほわほわ黄色の妙なヤツを、ためつ眇めつしつつ思案した。当人に問うても、もちろん返事は、あぶ……。
なんて、可笑しな供を連れてあてどなく山道を歩いていたサツキが、その仮説を翻したのはすっかり日が暮れてからのことだった。道の向こうから普通の人間と思しき人影が歩いてきたのだ。その正体はロバを連れた老夫婦。彼らはさ迷い歩く一人ぽっちの少年を哀れみ、自分達の村に連れ帰ってくれた。
それが現在サツキの後見人にまでなってくれている、恩人、ミルル夫妻との出会いだった。
連れられた彼らの家は、まるでヨーロッパの田舎みたいだった。玩具っぽいフォルムの屋根、白壁はカラフルなペイントで絵付けされていて、出窓には沢山の花が飾られている。遊び心と気持ちのいい愛嬌に彩られた古い家に、警戒心など湧く余地はなかった。
明るくなってみて、全ての家々がドールハウスであると知った。小さな農村には、長閑で平穏な空気が満ち溢れていた。
曲がりなりにも安住の地に辿り着き、ほっと一息ついたのもつかの間。次には彼らの自分とは異なる言語に大いに悩まされる日々が待ち構えていた。
身振り手振りで意思疎通をはかる、悪戦苦闘の毎日。始めは上手く伝わらない歯痒さに頭を痛めたが、焦らず根気よく粘った結果、老夫婦たちののほほん加減も手伝って、数日で互いの理解を深めることに成功した。
何より、彼らとジェスチャーやアイコンタクトを交わすことで、この世には言葉より通じるものがあることを知ったのだった。
そうやってどうにかこうにか村の一員に加えてもらえ、それなりの平穏を得てからひと月、サツキはとんでもなく衝撃的かつ画期的な出会いをした。
ある旅人の一行が食料を買い求めて村を訪れた。その中の一人だった白髪の老人が、偶然サツキの鼻歌を耳にして、こう言ったのだ。
『おや? お嬢さんは変わった言葉を操られるんですな』
じいちゃん、おれは男だよ……と突っ込んだ直後、サツキはがばっと口元を両手で覆った。うそ、今の日本語だった。血相を変えて詰め寄ったサツキに、のんびりと首を回して老人は続けた。
『そりゃーどんな国の言語だろうが分かるとも。私は魔法を使っているからね』
ま、魔法だって……?
そんな便利グッズがあるなんて聞いてない。掴みかかる勢いで返したサツキにしわがれた声が重ねる。
『皆が使えるわけではない。使える存在は稀だ。こんな辺境の地にいては尚更、その奇跡の力を目にすることはあるまいよ。だがしかし……』
言葉を切った老人はすうっと瞳を眇めた。
『おまえさん、その肩に乗せているのは〝ワタボウ〟ではないかい』
じいちゃん、この子見えるの。目を見開いたサツキに老人は、何事かを思案した風に黙り込んだ後、何度か頷いて『そうか』と呟いた。
『やはり見えているんだね。どうやらおまえさんには魔法の才覚があるようだ。〝ワタボウ〟を知覚出来るのがその証』
それは俄かには信じられない事実だった。以前の世界には魔法などお伽噺の産物だったし、サツキ自身、魔法どころかスプーン曲げさえ出来なかった。
この世界に来てしまった所為で、目覚めた才なのだろうか。
色々考えている間に、老人は羽織ったマントを捲り、担いでいた大きなデイパック風の入れ物を覗かせた。痩せた肩から窮屈そうに下ろすのを見かねて手伝うと、中から取り出した古い数冊の書籍をサツキに差し出した。
『魔法を勉強してごらん。これを飽くほど読むんだ。そうしてみて、もっともっと多くを知りたいと思えたならば連絡しなさい。力になってあげるから』
分厚い書籍の上に住所のようなものを書いた紙切れを載せて、老人は更に言った。
『会話も出来ないおまえさんは文字も読めないだろう。だから魔法を掛けて理解できるようにしてあげよう。一年だけ効力を保つことが出来る期限付きの魔法だ』
たった一年? 何年も勉強している英語でさえ、まだ全然完璧ではないのに……。
不安げな面持ちで見返したサツキに、老人は人好きのする笑みで応えた。
『大丈夫さ。一年も経つころにはおまえさん自身の魔法で、言葉も文字も理解できるようになっている筈だから』
自信を持ちなさい、と励ます様に肩を叩かれたものの、そのときのサツキには到底信じられるものではなかった。
ところが、老人の言葉は当たっていたことを後々身を持って知った。二月と経たない間にぺらぺら会話ができる様になり、更に二月後にはすらすら読み書きができる様になっていた。
上達の旨を手紙で知らせるごとに、老人からは宿題とばかりに新たな書籍が追加された。そうやってやりとりすること二年。彼から送られた本は、もはや一部屋を独占するほどまで溢れ返っていた。
最近覚え始めた作物の生長を促す魔法と、軽微な負傷を治す魔法は日常生活にとても役立ちそうだ。もっともっと深く掘り下げた勉強をして発展させれば、老夫婦の生活を楽にしてあげられる。
だが今以上の勉強をしようと思ったら多分独学では無理なんだと思う。そんな風に考えて、サツキはこの頃ある一つの感慨に浸ってしまうことが多々あった。
空想ではない魔法は無条件に面白い。人助けできるし自分の助けにもなる。便利な代物だ。
だからこそ、それ以上の奇跡を望んでしまう。
もし、と考えてしまう。
もっと凄い魔法を使えるようになったらば、あるいは使えるヒトに出会えたならば、もしかして帰ることが出来るのでは無いのか?
サツキが元いた、あの世界に……。
そんな風に考えて、のらりくらりと平穏無事に暮らしつつも、完全にこの異常事態を甘受しているワケではない自分を発見してしまった。
この村のことは好きだ。友達も家族も出来たし、恩もある。けれど、あの世界にだって大切な人たちがいた。きっと両親は心配してる。悲しんでいる。生き別れてしまったとき、サツキはまだ高校生だったのだ。
会いたい、と思う。帰りたいと。せめて無事であることを伝えたい。そういうことが出来ないだろうか、魔法を極めることで。
取りとめもなく考えていたところに「サツキー」という声を聞く。浮遊させていた意識を引き戻して窓辺に寄ると、家を囲む柵のところからスラッガーが手招きしているのが見えた。
「昼飯、肉焼けたからウチに来いよ。野良仕事してるじーさんばーさんも呼んでさー」
「ありがとう。すぐ行くね」
今日のランチはスラッガーん家の庭先でバーベキューか。網の上で焼ける肉の串を想像すると、急に空腹がやって来てサツキはさっと立ち上がった。
「おいでワタ。お前も食えなくたって匂いくらい楽しみたいだろ?」
あぶぶー。
サツキの言葉に、黄色い綿毛が諸手を挙げてはしゃいだ。この不可思議な生き物は食事をしない。植物のように水は飲むのだが、口から摂取する訳ではない。風呂の要領で小振りな水桶の中に身を浸すだけ。それで食事になるらしいのだが。
じゃあ何のための口なんだろ……。
もう何度目になるか分からない突込みを入れつつ、肩に乗せた綿毛と一緒にサツキは部屋を出た。