黄金の簒奪者たち:その103

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黄金の簒奪者たち:その103

 

 明治新政府の面々や明治天皇が最も信頼したのがアメリカ人宣教師グイド・フルベッキだった。維新を作るサムライたちに英語を教え、その後は開成学校(後の東京大学)や明治学院で教鞭をとり、大学の設立にも貢献した。フルベッキに直接学んだ大隈重信が創設した早稲田大学ではフルベッキを建学の基礎的感化を与えた人物として讃えていることからも分かるように、現在まで日本の教育の礎を作った意味で明治維新を作ったのはフルベッキだったといえる。

 

 フルベッキは日本に骨を埋めた。1898年(明治31年)3月10日、フルベッキは赤坂葵町の自宅で心臓麻痺のために急死、葬儀は、3月13日に芝日本基督教会で行われ、ディビッド・タムソン宣教師が司式し、ジェームス・ハミルトン・バラが説教をした。遺体は青山墓地に埋葬されている。この時、明治天皇は、フルベッキの死に際して500円(現在の価値に換算すると数百万円にあたる)を下賜しており、青山霊園の墓地へ向かうフルベッキの棺は、天皇を護衛する近衛兵によって守られた。遺体は、明治天皇の厚意で、国葬に近いレベルで青山霊園に厚く葬られた。

 

上:致遠館の生徒とフルベッキ
下:明治学院の生徒とフルベッキ

 

 フルベッキが亡くなった時には多くの教え子が集まり、慰霊碑が建てられ異例の政府の弔意を示し、葬儀には近衛師団儀仗兵が派遣された。明治天皇が亡くなった際の大喪にも衛師団儀仗兵が派遣され、明治天皇の御霊を見送ったことを考えれば、外国人だったフルベッキの葬儀がいかに異例の扱いだったことが理解できる。これは明治天皇からの感謝の意である。自分を天皇にしてくれたバカなサムライたちに教育を施し、明治新政府の土台作りに貢献してくれたことへの”感謝のしるし”なのである。だからこそ新政府のバカな者たちも政府として弔意を示したのである。

 

 そして、もう一つ、明治新政府がイギリス一辺倒にならなった理由もまたフルベッキにあるとしたのは、公家や士族の師弟が海外に留学するブームが起き、その多くがフルベッキを通じてアメリカ留学を果たしていたからである。岩倉具視の息子二人、高橋是清を始め大学南校の生徒をアメリカに送り出したことで、明治政府の中にもイギリス派、フランス派、アメリカ派が分かれることになる。さらに外国人でありながら文部省の最高顧問となり、政府の法律顧問でもあったことで、新政府の政策の多くに彼の意見が反映され、さらにアメリカから外国人教師を斡旋するようにもなった。

 

 フルベッキは政府の法律顧問として国際法の重要性と「内政不干渉」の原則を説き、その後の日本政府の条約改正に大きな影響を与えるが、フルベッキが最も伝えたかったのは「自由、平等」という思想である。つまりフリーメーソンである。それもアメリカを作ったフリーメーソンの本流であるイギリス「マン島」にいる「ヤフェト・メーソン」が日本に送った人物である。「ヤフェト・メーソン」はノアの3人の息子の長男ヤフェト直系の白人種系フリーメーソンで、悪の秘密結社とは何も関係はない。なにせマン島にいるヤフェト・メーソンには戸籍がない。裏陰陽道の秘密組織「八咫烏」と同じで名前もない。

 

マン島と旗「三脚巴紋(トリスケリオン」)

 

 ここでは太古から続く本当の秘密結社の話はしない。それは筆者の別ブログに書いてあるので、そちらを参照願いたい。ここで敢えて戸籍も名前もないマン島のヤフェト・メーソンの話をしたのかといえば、意外なことに、フルベッキは無国籍だったからだ!! 一般的にはオランダからアメリカに移民したアメリカ人と認識されているが、フルベッキは無国籍だったのである。それは、近代法の「国籍条項」の隙間が彼を無国籍にしたからだが、逆に無国籍で何も書き残していないことが彼の正体を物語っている。

 
 母国オランダでは「5年以上在住」しないと国籍を失うと規定されていたため、アメリカに移ったフルベッキは5年後オランダ国籍を失っている。一方、米国の国籍条項では「国内に三年間在住」した時点で帰化申請が可能となるが、国籍取得までには5年必要で、計8年米国内に暮らしていないといけない。今でいう「グリーンカード」である。だが、フルベッキは7年目に日本に来たため米国籍も取得できていなかったのである。無国籍のまま「米国籍取得の意思あり」という本国の友人が当時の米国公使ハリスに依頼した書簡のみで来日しているのだ。

 

 その後、フルベッキはこの書簡を元に「パスポート」(アメリカ国籍)を申請するも、アメリカ合衆国は却下している。結局、アメリカ公使が日本政府に対し、米国籍は無いがフルベッキを日本国内で特別扱いして欲しいと「勧告」したことで、明治政府は外務大臣榎本武揚の命によりフルベッキに特別永住権を認めたのである。だからこそフルベッキは日本に骨を埋めたのである。しかし、新たな国ニッポンの礎を築いたものの、フルベッキの思想である「自由、平等」が実現することはなかった。その真逆の国になってしまった。血に飢えた下級武士たちが望んだのは、「カネと権力と女」という己の欲望を満たすことだけだったからだ。

 

フルベッキの墓と墓前に埋め込まれた妻マリアのネームプレート

 

 「英雄色を好む」というが、長州閥は女狂いの話ばかりである。中でも、とりわけ女性関係が派手だったのは伊藤博文だ。伊藤は旦那がいる女性にも遠慮なく手を出してしまう節操のなさで、あまりに愛人が多いため「掃いて捨てるほどいる」という意味から、一時は「箒(ほうき)」というあだ名をつけられてしまったほど。その奔放さゆえに、明治天皇から「いい加減にしろ」と叱られたという逸話まで残っている。伊藤の逸話は色々あるが、かの鹿鳴館での舞踏会の最中、馬車の中で日本初の「カーセックス」を実践しようとしたという伝説の持ち主でもある。

 

 なんとその相手は、岩倉具視の娘で大垣藩主戸田家に嫁いだ社交界の花・戸田極子である。このスキャンダルは、当時の新聞にすっぱ抜かれたが、伊藤博文のユニークなところは、戸田家の当主をウィーンの全権大使に任命してしまい、極子の名誉を巧みに回復させたことだ。そのおかげもあって極子はウィーンの社交界で日本文化を紹介する名物夫人となり、戸田家の子孫の方々は現在もウィーンフィルの楽団員として活躍し、日本でも公演を行っている。

 

 伊藤の女性好きは、当時は誰もが知っていたが、あまりに芸者遊びが激しかったことに明治天皇も呆れたという。その明治天皇の側に70名もの女官を置いたのも伊藤だったが、天皇は毎日のように酒盛りをしていたらしく、それをたしなめたのは西郷隆盛だった。伊藤は地方へ赴いた際、その土地一番の芸者ではなく、二番手・三番手の芸者を指名するのが流儀で、これは、一番の芸者には必ず土地の有力者が付いており、地元でトラブルを起こさないため、あえて指名しないというこだわりだったという。他にも、風邪を引き高熱を出したにもかかわらず、両側に2人の芸者をはべらせて酒を飲んだという豪快な逸話も残っている。

 

伊藤博文と妻・梅子


 長州の女好きは伊藤博文に限らない。このシリーズの「64」でも記したように伊藤の盟友井上馨やその上にいた高杉晋作も同様に女好き講じて藩のカネを散財している。高杉晋作は1862年(文久2年)、幕府の視察船で上海に向かう途中に物資の捕球のため長崎に約100日間足止めをくらった間毎晩のように豪遊し、芸者の身請けまでして藩からもらった渡航費を残らず使ってしまい、船が出航する際には買った芸者を転売、その金を持って上海に向かっているとんでもない御仁だ。

 

 井上馨も同じである。イギリスへの密航資金として藩から渡された600両を伊藤博文らとどんちゃん騒ぎをして全部使い切ってしまっている。肝心の留学費用は、江戸屋敷にあった撫育資金を担保に、萩藩出入りの豪商に5000両も借りて工面している。藩の一般会計は切迫しているというのに、100両、200両なんかはした金だといわんばかりに当たり前のように「酒とオンナ」のために無駄遣いしているのである。もちろんそこには長州の「裏金システム=撫育資金」があったからこその話で、現在の高市早苗政権が懲りない裏金議員だらけなのもその名残である。

 

 なんで今さら高杉、伊藤、井上らを筆頭とした長州の志士たちの「異常なまでのSEX好き」を取り上げるのかといえば、それは彼らの素性に関係があるからだ。異常な女好き伊藤博文が語った言葉に「人を切った後は無性に女を抱きたくなる」というものがある。この言葉にこそ伊藤や井上、高杉たちの正体が隠されている。それは、彼らが長州が育てた「忍者」だったからであり、中でも彼らは「暗殺部隊」にいたからである。「えっ、忍者?」と言われるかもしれないが、彼らはれっきとした暗殺部隊員だったのである。


 

 幕末から維新にかけては暗殺の連続である。伊藤博文が暗殺したとされる孝明天皇をはじめ、維新の立役者であった坂本龍馬、維新を成し遂げた大久保利通や伊藤博文も全て暗殺されている。そして、日常的に「殺し」が起きていた時代だ。幕末に、暗殺の実行部隊に忍者が選ぱれるのは自然なことであった。なにせ現在も自衛隊には特殊部隊員という名の「スナイパー(暗殺要員)」がおり、そのスナイパーに「氷結弾」を使って射殺されたのが安倍晋三だからである。それが未だに発見できていない2発目の銃弾の謎の答えだからだ。


 戦国時代は血統を重んじる源平武士団が敗北し、賎民が天下を奪った時代であった。秀吉は「蜂屋(はちや)」部族の出身であったが、長じて「軒猿(のきざる)」といわれる「下忍」(下級忍者で、実戦部隊)となった。本能寺の変を知った秀吉が備中から姫路城まで大急ぎで戻った「大返し」によって明智光秀を討ち、さらに引き上げると見せかけて、柴田勝家を奇襲攻撃で破って、天下を獲るが、この二つの戦の兵法は、ともに忍者戦法であった。
 

 このような忍者によって、長州藩では邪魔になった者はたとえ権力のトップにあっても、毒殺できる技術が、江戸時代にはほぼ完成していた。1836年(天保)、萩藩(長州)では斉煕、斉元、斉広と3人の藩主が相継いで変死しているが、これらは毒殺であったとされている。こんな藩の藩主になったならば、影の実力者にうっかり逆らえばすぐさま毒殺されかねない。だからこそ「そうせい候」と呼ばれた最後の萩藩主・毛利敬親(たかちか)は、何を言っても「そうせい」と返事をするという態度をとるようになったのである。

 

毛利家27代当主「毛利敬親」(萩藩13代藩主)
 

 こうした忍者の伝統は幕末まで連綿として続いていた。薩長の密約によって、将軍家茂と孝明天皇を暗殺する際、実行部隊として長州の忍者部隊が選ばれたのは、むしろ自然な流れというべきであり、中でも孝明天皇を暗殺するために選ばれた者が伊藤博文と後世に名乗る男だった。つまり、長州が乗っ取ったこの国は、明治維新以来、”血”を流し続ける「テロ国家」へと姿を変えたのであり、そのテロリストの筆頭であった伊藤が総理大臣になったことで、公然とテロリストたちが国家の中枢に収まった国なのである!!

 

 文久2年(1862年)、伊藤は公武合体論を主張する長井雅楽の暗殺を画策、8月には自害した萩藩士・来原良蔵の葬式に参加、12月に品川御殿山の英国公使館焼き討ちに参加している。文久3年(1863年)2月には山尾庸三と共に塙忠宝・加藤甲次郎を九段坂の塙宅近辺で夜間待伏せて闇討ちにて暗殺。また、3月には長州藩江戸上屋敷に呼び寄せた宇野東櫻(宇野八郎)を高杉晋作の指示のもと騙討ちにするなど、尊王攘夷の志士として多くのテロ活動をした。

 

 にも関わらず、だ。文久3年(1863年)には井上馨の薦めで海外渡航を決意、5月12日に井上馨・遠藤謹助・山尾庸三・野村弥吉(後に井上勝)らとともに長州ファイブの一人としてイギリスに渡航しているのである。つい1年前に「攘夷だ」などと叫びながら英国公使館焼き討ちにしているような人間たちが、どうして”敵国”であるはずのイギリスに留学し、その5人が今もって「長州ファイブ」などと持ち上げられているのかということに、誰も疑問を持たない、持たせないのがこの国がテロリストたちに乗っ取られた証なのである。



テロリスト伊藤博文と長州ファイブ

 

 伊藤博文とは、いったい何者なのか。諱(いみな)は、「博文」(ひろぶみ:「はくぶん」と読むこともある)だが、幼名は利助(りすけ)、後に吉田松陰から俊英の俊を与えられ、俊輔(しゅんすけ)とし、さらに春輔(しゅんすけ)と改名した。明治初期に政府公文書で本姓やカバネを使うことが義務づけられていた時期には河野氏の末裔であることから越智宿禰(おちのすくね)博文と署名している。まず、テロリストが「宿禰」を名乗っている時点で大ウソだということが分かる。宿禰を名乗れるのは継体天皇直系の天皇家のみである。偽の宿禰も歴史上には存在するが、それでも天皇家を補佐する神官系の家柄のみである。

 

 名前を変え続けたのは呪詛を恐れたこと、そして自分を偉く見せるためである。幼名「竹千代」だった徳川家康が、最終的に「東照大権現」という神に祭り上げられたのと同じく、伊藤も「伊藤神社」が建立されてしょぼいが神に祭り上げられている。明治のテロリストたちの首領「吉田松陰」を祀る「松陰神社」が全国に建立されたのも同じ理屈で、日本を長州が仕切るテロリスト国家にできたのも吉田松陰の教えのおかげという論法で、神仏を破壊し続けた連中を「神」として祀り、その一人「大村益次郎」が入口に立ちはだかっている神社こそが「靖国神社=長州神社」である。

 

 伊藤博文は 天保12年(1841年)9月2日、周防国熊毛郡束荷村字野尻(現:山口県光市束荷)の百姓・林十蔵(後に重蔵)の長男として生まれたことになっている。母は秋山長左衛門の長女、琴子だという。弘化5年(1846年)に破産した父が萩へ単身赴任したため母とともに母の実家へ預けられたが、嘉永2年(1849年)に父に呼び出され萩に移住。萩では久保五郎左衛門の塾に通い、家が貧しかったため、12歳ごろから父が萩藩の蔵元付中間・水井武兵衛の養子となり、武兵衛が安政元年(1854年)に周防佐波郡相畑村の足軽・伊藤弥右衛門の養子となって伊藤直右衛門と改名したため、十蔵・博文父子も足軽になったことになっている。怪しい⋯・

 

 

 怪しい。極めて怪しい。なにせ伊藤の父・林十蔵は百姓である。にも関わらず、伊藤博文は一人っ子であり兄弟姉妹はいないのだ!! 明治も昭和も同じで、百姓は子沢山である。そうでないと農業などできないからで、昭和3年に栃木県の農家で生まれた筆者の父親も男3人、女6人の9人兄弟で、跡取りは父の兄である。いくら貧しいとは言え、明治の百姓が一人っ子であるはずがない。こうした事実をさらっと流してはいけない。だから明治以降の日本人は「ゆでガエル」としてずっと騙され続けるのだ。

 

 伊藤は翌安政5年(1858年)7月から10月まで吉田松陰の推薦で藩の京都派遣に随行、帰藩後は来原に従い長崎へ行き、安政6年(1859年)6月まで長崎海軍伝習所で勉学に努め、10月からは来原の紹介で来原の義兄の桂小五郎(のちの木戸孝允)の従者となり、萩藩の江戸屋敷に移り住んだ。ここで志道聞多(のちの井上馨)と出会い、親交を結ぶ。井上馨も木戸孝允もみな名前を変えている。江戸時代からの習わしだなどという妄説を信じてはいけない。いくら名前を変えようが、人間の本性というものは変わることはないからだ。「伊藤姓」は本姓を藤原氏と称するが、早川隆氏の『日本の上流社会と閨閥』には、伊藤博文の怪しい正体が記されている。

 

 「もともと伊藤の家は水呑み百姓で父親十蔵は馬車ひきなどをしていたが食い詰めて長州藩(※萩藩)の伊藤という中間の家に下僕として住み込んでいるうちに子供のない同家の養子になり伊藤を名乗った。博文は幼名を利助といい捨て子だったという説もある。それが武士のはしくれから明治の指導者に出世すると家系が気になりだしたのか孝霊天皇の息子伊予皇子の三男小千王子が祖先とか、河野通有の子孫とか言い出した。系図屋に、りっぱな系図を作らせるのは今も昔もよくある話で、とがめ立てするほどのこともあるまいが、偉くなってからの彼は故郷へはほとんど帰らなかった。昔の素性を知るものには頭が上がらないからである。だが、身分が低かろうが実力さえあれば偉くなれるという混乱期の日本を象徴するように首相、政党総裁、枢密院議長、公爵と位人臣(くらいじんしん)を極めた伊藤の生涯は、いわば明治版太閤記である」

 

 

 伊藤博文とは父母が不明の捨て子だったのである。だからこそ百姓なのに「一人っ子」なのである。どういう経緯で拾われたのかは分からないが、熊毛郡に戻らなかったのは、自分の素性であるその生い立ちと秘密の職業を知る者たちがいる場所へは戻れなかったのである。だが、それは明治天皇になった大室寅之祐も同じである。明治天皇は終生・田布施には訪れていない。生まれ故郷に一度も戻らないということは「隠したい場所」だからだ。そして、その明治天皇のおもり役だったのが伊藤博文なのである。

 

 弱々しく雷が鳴っただけで女官の影に隠れたとされる睦仁親王と、大きな躰で臣下の者たちと相撲を取るのが好きだった明治天皇とは見た目からして全く異なっていた。バレてはいけない素性を画すためには、東京に来てしまうのが良かったのである。そして、南朝の末裔・明治天皇を睦仁親王とすり替えるには、関係者の口を封じるか、黙らせないといけない。だからなのか、孝明天皇には子どもが6人いたが、成人したのは明治天皇のみであった。

 

 孝明天皇は、1831年(天保2年)に仁孝天皇の第4皇子として誕生、熙宮(ひろのみや)と命名された。1846年に仁孝天皇が崩御したことにより、践祚した。その後、孝明天皇には、女御と呼称される正妻が1人、典侍と呼称される側室が5人できる。そして、それぞれの妻たちとの間に子どもは全部で6人(男児2人、女児4人)生まれた。江戸時代の天皇の妻には階級が有り、皇后、准三后、女御といった順番で決められていた。女御は英照皇太后(九条夙子)で、典侍は坊城伸子、中山慶子、堀河紀子、今城重子、今城尚子であった。

 


孝明天皇と正妻・英照皇太后(九条夙子)

 英照皇太后は正妻だったため、孝明天皇は結婚する際に女御から皇后に昇格させようと考えていた。しかし、幕府の反対に遭って、まずは准三后になることになる。その後、皇后に昇格する予定であったが、皇后に昇格する前に孝明天皇が崩御してしまったのである。その為、英照皇太后は皇后にならぬまま、明治天皇の即位によって
皇太后の立場になった。そして、孝明天皇の子どもは全部で6人いたが、その中で生き残ったのは、大室寅之祐が入れ替わる睦仁親王だけだったのである。

 

<つづく>

 

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