【11/18】goo blogサービス終了のお知らせ
goo blog サービス終了のお知らせ 

シンクロニシティ

シンクロニシティという言葉が一人歩きを始めて久しい。

この言葉は、心理学者のユングが提唱した理論で、一般には偶然の一致を表すものと解釈されている。特に、精神世界系の人々が好んで使うので、何かうさんくさいと感じている人も多いだろうと思う。

ユングという人は、精神分析家であり、特に精神分裂病、今で言うところの統合失調症の患者を扱っていた。分裂病患者は、大まかに言って、自分がおかしくなっていることに気づかず、幻聴や幻視を実体験として語ったり、自分の思考が外に漏れたり、他人に操られていると感じたりする。とにかく、語ることが普通ではない。

そういう人たちを看るうちに、ユングは不思議な体験をするようになる。それが、いわゆる偶然の一致というやつである。彼の身の回りでは、患者の語る不思議な話と、現実世界で起こることが、なぜか一致するという体験が何度も起こったという。そのうちに、そこに法則性があることに彼は気づいた。

それは、「意味」を介して、二つの出来事が同時に起こる、という法則であった。

日本でも昔から、下駄の鼻緒が切れると良くないことが起きるという言い伝えがあるように、「鼻緒が切れる」という現象が象徴すること、つまり、「不吉」という意味と、実際に起こったことが「良くないこと」という点で、両者が一致を見せている訳である。

しかし、よく考えてみれば、両者には何の因果関係もない。下駄の鼻緒が切れたから、それが原因で良くないことが起こったという訳ではない。それはそれで、何か別の原因があって起こっている訳である。交通事故なら、脇見運転とか、道路の凍結とか、信号無視とか、色々な原因があるだろうが、それと鼻緒が切れたことには何の関係もない。

しかし、「不吉」という意味では一致を見せている。しかも、両者は同時に起こっている。これは偶然であるとは思えない。

そこから、ユングは、この世界には、因果律の他に、もうひとつの原理が存在していると主張した訳だ。因果律と同等のもの、それが、シンクロニシティと呼ばれるものの本質なのだ。故に、ある意味、これは科学に対する挑戦とも受け取られたはずだ。

科学の世界を司っているのは、原因と結果の関係、つまり、全ての事象は原因があって生じると考える因果律である。科学は、全てはこの原理の支配のもとにあるという前提で成り立っている。そこに、いや、それだけではないんだとユングが言い出したものだから、結局、誰にも相手にされてこなかったというのが実状だろうと思う。

しかも、これは、実験によって確かめることも出来ないし、何らかの証拠によって証明することも出来ない。実際にそういう出来事が起こったとしても、因果関係が存在しないのだから、科学的にはただの偶然と言う他はない。

しかし、実体験としてそのような話は数多く語り継がれている。古今東西、様々な不思議な体験として、そういう話には枚挙がないほどだ。この事実をどう考えれば良いのか。

しかし、何をどう言おうと、科学的にはただの偶然でしかない。それ以上でも、それ以下でもない。何かを象徴することを起こしたら、例えば、何か幸せを象徴するようなものを手にしたら、必ず幸せになるかというと、そんなことはないだろう。

そういう発想は、呪術的なものによく見られる。ちょっと前にはやった風水(実際には風水もどき)なんかもその良い例である。それで、宝くじが当たるとなったらみんなこぞって大金持ちになれてしまうが、そんな話も聞いたことはない。

精神世界の住人は、それをシンクロニシティと呼んで説明しようとするが、それは、シンクロニシティ本来の意味から考えても無理があるだろう。シンクロニシティには因果関係は関係ないのだから、それを応用して何かを起こそうという考え方自体が矛盾している。

あえて言うなら、易のような、筮竹を分けることによって出てくる卦が象徴するところのものと、現状とに一致を見ようとするような占いに、その応用を見出すというような考え方はある。

また、ユング派のカウンセリングでも、シンクロニシティを応用して分析をするようなこともあるようだ。

しかし、それにはあくまで科学的根拠はない。科学的根拠がないからそういう現象は存在しないのかと言うと、現象としては確認できることもある。だが、そこには因果関係がないからただの偶然というしかない、ということの堂々巡りが生じるだけである。

それをどう判断するのかは、個人の自由である。と言うしかないのだ。
この広告を非表示にする


サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了しました。

最近の「『スピリチュアル』について考える」カテゴリー

バックナンバー