どうやら「馬鹿」とは他人を卑下する言葉らしい
ぼくはしばしば「それは馬鹿でしょ」であったり「馬鹿じゃないのか?」といった表現を使うわけなのだけれど、どうやらこれらは一般的には不適切とされるらしい。
言葉の意味というのはその文脈はもちろんのこと、それを発した当人の考え方であったりに加えて、即時に言語化しにくい文化であったり価値観であったりというものが深く関わってくる。
ぼくが「こいつは品性に欠けるなぁ」と感じることは主に、知り得ない相手の内面性といったものを妄想で決めつけて語ることな訳だが、「馬鹿じゃないのか?(意訳:その考え方は合理的とは思えないし、その返しでは会話が成立していないと感じるのだけれど、それはどういう意味で言っているんだい?なんか飛躍したのかい?)」といった言動に品がないと感じる人もいるわけだ。
だがこれを別の言葉に置き換えようものなら、そこに至るまでの説明やら何やらがそれこそバカほど長くなってしまうではないか。
同時にこの「馬鹿じゃないのか?」というのは「一般的と思われる」社会の認識にぼくが適応していないことの証左でもある。そう、馬鹿なのはぼくなのである。しかしぼくの基準では、やはり「会話が噛み合わない相手」というのは意味のわからん存在なので「馬鹿じゃないのか?」となるのも当然なわけだ。
認知の非対称性とでも言えばいいのか。
そう考えると京言葉は品があるのか?ないのか?ブリカス言葉はどうなんだろう?そういったことが分からないのである。ぼくは京言葉もブリカス言葉も大好きなのだが。パンを両耳に当ててみてください。
相手の意図を汲み取ろうとすればするほど「何の話してんのこれ?」みたいなことにもなりかねない。しかし、相手の論理展開や思考の歩幅といったものを互いに把握して調整し合えないのであれば、知識差の有無に限らず、会話は成立しない。
悪しきインターネッツ社会に生きるミーム汚染されたガイジオタクフレンズ達は理解できてしまうと思うのだが、意味を高圧縮した言葉というものに我々は依存してしまいがちである。陰キャがよくやるやつである。ITオタク界隈エンジニア界隈には本当に多いので、ぼく自身何が普通かわからなくなってしまうのだろう。インターネットは悪い文明。
と、いうような問題が、例えば四半世紀近く一緒にいるような相手とですら発生するのだから困ったものである。
思考の歩幅というのは、本当に合わせるのが大変なのである。結果としてどちらかが我慢するか、関係を断つ方が楽ということになってしまいかねない。結果、どちらかがモラハラクソ野郎になってしまうかもしれない。
人間とは実に不都合な生き物である。



使う文脈にもよるのだとは思いますが、お互いに相手に対して不快感を持っていそうな状況で「馬鹿」を使うと、あんまよくない気がしますね。 論理的な誤りなら「矛盾」だし、認識や知識の誤りなら「誤謬」だし、とにかく意味がわからないなら「意味不明」とかでしょうか。 いずれにせよ、相手そのも…