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おぼん

異世界帰りのSさん

異世界帰りのSさん - おぼんの小説 - pixiv
異世界帰りのSさん - おぼんの小説 - pixiv
61,614文字
日本のホラーVSナツキ・スバル
異世界帰りのSさん
異世界帰りってすごい、俺は色んな意味でそう思った。

異世界から日本に帰ってきたものの何故だか色んな怪奇現象に巻き込まれ、しかし異世界で鍛えたメンタルの強さと度胸を武器に、菜月昴が日本のホラーをボコボコにする話です。

・ホラー要素あり 苦手な方はご注意ください
・地雷配慮無し、なんでも許せる方向け
・腐要素はないです
・洒落怖ネタやオカルトスレの怪談話など、一部有名なホラーも登場します
・コメディホラー(??)です

日本のホラーVSメンタルお化けナツキ・スバルがどうしても読みたくて書きました。
コメディタッチのホラー映画にたまに出てくる、お化けとかキラーとかに全然負けないフィジカルつよつよ鋼メンタル人間が大好きなので、異世界で揉まれてくそつよメンタルに成長したナ・スがホラーに巻き込まれるもケロッとした顔をしてるところを何万回と見たいと思います。書いてください。お願いします。
ちなみにユユはこの後、ちゃんとルグニカに無事に着きました。何かブツブツ呟く女の人と同じ空間に閉じ込められてとても気まずかったけれど、彼は元気です。
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2021年9月23日 21:27

異世界帰りのSさん




「いや~。佐々木くんの家、何かイイ感じだな。こう、日本って感じがするな」
「あ。あ……イヤ。どうも」
「フローリングなんだよウチ。でも畳ってやっぱ雰囲気あるぜ。匂い良いし。俺んちも畳にしてえな……」

と言って、男は胡坐をかいて床の畳を手のひらでサスサスしている。
佐々木くんは「はぁ……」とちょっと怪訝な顔をして、腐ったものでも食べたみたいな引き攣った目で男を見つめた。

「俺最近日本に帰ってきたばっかだからさ。懐かしいんだよなぁ。向こうにもワフー建築っつーのはあったけど」
「き……。帰国子女なんすか」
「まあ平たく言えば」

男は軽く頷いて、佐々木くんを見てお茶を飲んだ。
心からリラックスしているという感じだ。
「人んちでよくもこんなに寛げるな」と佐々木くんは思ったが、その心の声は胸の奥にソッとしまっておいた。
口は禍の元というし……。

「ッ、」

そこで突然に、佐々木くんはビクッと肩を大きく跳ねさせた。
バタン! と大きな音が聞こえたからだ。
その音は後ろから聞こえて、彼はおっかなびっくりギギギと振り返ってみる。
すると、戸棚の上に飾ってあった写真立てが倒れて床に落ちているのである。

風も吹いていないし、触ってもいないのに。
ひとりでに動いたのだ。

「おお、」

男はズッとお茶を飲みながら、「……!」と口をパクパクさせて目を開いている佐々木くんを見てパッと頷いた。
そして彼はというと、固まっている佐々木くんに対し。

「よくあることだ。気にすんな」

と、何とも気の抜けた顔で言うのであった。





「俺さ、その『ひとりかくれんぼ』ってのがよく分かんねぇんだけど」

男は首を僅かに斜めに傾けて、自分の腕を擦りながら言う。
佐々木くんは「えッ」と言って、「知らないんすか」とパッチリ驚いた声を上げた。
目つきの悪い男は「おう」と頷いて、自分の耳たぶを手持無沙汰に触っている。

「あんまりオカルトに詳しいワケでもねえしな」
「え。……」

佐々木くんはそれを聞いて、「コイツ本当に大丈夫なのか」みたいな顔をしている。
急に不安になったのである。
男が頼りなく思えてきたというか。

しかし今更引き下がるワケにはいかない。
もう佐々木くんは精神的に随分参ってしまっていて、藁にも縋るような思いで今ここに座っているのである。

どう見てもこの男は怪しいし、何だかやけに図々しいし、それにちょっとどこかボケッとしている。
緊張感がないというか。
がしかし、佐々木くんは彼を紹介してくれた友人を信じることにした。
友人が言うに、彼はどうやら「その道では有名な人」らしいのである。
何ともきな臭い話ではあるが。

「ザックリ説明してくれると助かる」

男は瞬きをして、何やら大きいリュックの中をガサゴソしつつ言った。
普段元気な佐々木くんはいつもの勢いを落として、ちょっとオドオドしながら、ポツポツと少しずつ事の顛末を話し始める。

「ひとりかくれんぼっていうのは、何かこう……降霊術? というか。オカルト的な遊びみたいな」
「おお。ってーと、コックリさん的な?」
「っす」

日曜日、今は真昼である。
窓からキラキラと日の差し込む中、佐々木くんは顔を青くして額から汗を流して、説明を続けている。

「必要なのはぬいぐるみと米と……あと赤い糸と。人の爪と、カッターとかの刃物です。塩水も」
「おう」
「ホントは一人でやるんすけど、オレは友達とやりました」
「え。何人で?」
「オレとAとの二人で。……」

話を聞くと、どうやら佐々木くんは友人Aと二人でその『ひとりかくれんぼ』とやらを行ったらしい。
高校生同士、怖いもの見たさである。
肝試しというか、悪ノリというか。
だから本当に霊を呼び出したかったり怪奇現象に遭遇したかったりというワケではなく、あくまで度胸試しのつもりだったらしい。
「どうせ何も起こらないだろう」という考えの下というワケである。

なのでルール・準備物は一応調べたが、あんまりきっちり手順には沿わなかったらしい。

まずはぬいぐるみに名前を付け、綿を出して米と爪を入れて、赤い糸で縫い合わせる。
余った糸はぬいぐるみに巻き付けて結んだ。

「それで、洗面所に水張って、水ん中でAがぬいぐるみにカッター刺しました」
「ほう。んで?」
「それで……『次は(ぬいぐるみの名前)が鬼だから』って言って、オレらは隠れたんす。そしたらぬいぐるみが追いかけてくるって話で……」

しかし勿論、いつまで待ってもぬいぐるみは追いかけてこなかったという。
洗面所を見に行くと、ぬいぐるみは一寸たりとも動かず、最後に見たときのままカッターが刺さった状態で水に浸かっていたのだった。

「オレもAもあんまり幽霊とか信じるタイプじゃなくて……だから「まあそうだよな」みたいな空気んなって。やっぱデマじゃねえかよって笑ったんです」
「ふむ」
「ぬいぐるみは何か薄気味悪かったから、Aがゴミ袋に入れて捨てました。……」

佐々木くんは雨が降っているみたいなシトシトした声で喋って、顔を青くして更に下を向いた。
男は「大丈夫か?」と言って、そろそろ彼の背中をさする。

「でも、その夜から、何かちょっと……おかしくて」
「おかしい?」
「はい。夜中の……三時くらいです。その時間になると、何か、どっからかカチャカチャ聞こえてくるようになって」

彼は初め「気のせいだ」と思った。
だから布団を大きく被って、耳を塞いで眠ったのである。
しかしどうにも音は段々近づいてくる。

「んで……何の音だろって思って」
「ふんふん」
「気づいたんす。「……あ」って」

それが、カッターの刃を出し入れする音だと。
気付いた佐々木くんはいっきに顔色を青くして、急いで友人Aに電話をかけた。
彼も同じ状況に追われていると思ったのだ。
が、しかし。

「そいつは何にもねえって。「別に普通だけど」って言われたんです」
「……」
「何でオレだけって思ったんですけど。よくよく考えてみると、爪、オレのなんす。中に入れた爪」
「……、」
「オレの使ったんです」

言ったあと、佐々木くんは脅迫状を送られている人みたいな顔をして、背筋をゾッと青くして俯いた。
その後も毎夜、決まった時間帯に決まった音がする。
しかもその音は日が経つ程、段々と近づいてくるのだ。

佐々木くんは参ってしまって、色んな友人にこのことを相談した。
友人は元気のない佐々木くんのことを心配して、「お祓いしてもらったら」とか「神社とか寺とか行ってみたら。オレ調べてみるよ」とかを言ってくれた。
話は広がり、とある友人に「何か知り合いに有名な人いるらしくて。俺声かけてみようか? 心配だし」と持ちかけられたのだ。

佐々木くんはこれに頷き、そしてやってきたのがこの男というワケである。
黒髪・黒目の平凡な男。
年の頃は20辺りだろう。
キュッと引っ張ったみたいな吊り目の、何処にでもいる日本人という感じの男だった。

彼はちょっと古びたママチャリに乗って佐々木くんちまでやってきて、「あー。コンチワ。何くんだっけ。佐々木くん? よろしく。じゃあちょっとお邪魔しまぁす」と言ってガツガツ距離を詰めてきたのである。
だが佐々木くんは、彼が帰国子女と聞いて納得した。
外国人はフレンドリーだというし。
きっとお国柄なのだろう。

「佐々木くん」
「ッ。は、はい」
「一つ気になることがあるんだが」
「? うす」
「この時計はどこで買ったんだ?」
「……。と、時計」
「おう」
「た、確か、イケアっすけど」
「……成程な」
「な、何かあるんですか。時計に」
「いや良いデザインしてるから後で買いに行こうかなって思っただけだけど」

佐々木くんは脱力して、「この人ホントに大丈夫なのか」と思った。
いやしかし、彼はこの話を聞いてもちっとも顔色を変えていない。
汗一つ流していないのだ。
慣れているのか、怖くないのか。

「あ。俺今日佐々木くんち泊まるから」
「えッ」

男は表情を変えずに言った。
佐々木くんは流石に「えっ」と言って、困惑している。
男は何やらメモ帳を眺めて、顔を上げて、「えっ。マズかった?」とビックリした顔で目をパチパチさせた。

「マズかったっていうか……」
「ああ。先に両親さんに許可を取らなきゃいけねえな。そりゃ俺今日会ったばかりの赤の他人だからな」

意外に常識と良識はあるらしい。
男は「じゃあ親御さんに了承を得てくれ。それから出直すよ」とリュックを背負ってケロッとした顔で言った。

「! 待って待って」
「お。どした」
「い。今除霊するのは無理なんすか」
「今?」

男はちょっと怪訝に目を丸くして、それから「無理だろ」と首を傾げる。

「夜じゃないと無理だぜ。塩で祓うワケでもないんだし……」
「え。じゃあ、どうやって」
「? 見てりゃ分かる」

と言って彼はゴソゴソ帰り支度をしている。

佐々木くんはたった一人で今日の夜を乗り切れる気がしなかった。
影が這っているような暗闇の中、一人きりで。
カチャカチャと刃物のきらめきが這い寄る中、一人で。
とてもじゃないが正気を保っていられる気がしなかったし、彼は一刻も早く何にも怯えずに済む生活が欲しい。

「どっ。どうぞ……」

佐々木くんは悩んで、やっぱり「どうぞ」と了承を出した。
今日初めて会った人を泊めるのには抵抗があったが。
がしかし、独りきりでこの家に取り残される方が恐ろしい。

「え。いいの?」
「オレ一人じゃ心細いし……」
「ああ。そりゃ確かに」

男はウンと頷いて、カレンダーや戸棚をゆったりと眺めている。
佐々木くんはこれに「掴み所の無い人だな」と思った。
悪い人ではなさそうだけど。





「そういや何て呼べばいいんですか」
「……。Sさん」
「Sさん」
「何か寺生まれのTさんみたいでカッコイイよな」
「寺生まれ……。寺生まれなんすか?」
「いや一般家庭の生まれだ」

夜中。
暗い部屋の中、男(Sさん)は暇になったのかジャンプを読みながらポテトチップスを食べている。
緊張感のない男である。
話していると気が抜けるというか。

だが佐々木くんにとってはこれがありがたかった。
恐怖がまぎれるのである。
話しているとフッと気が軽くなるので、もう永遠に喋っていてもらいたい気持ちまである。

「前に本名名乗ったら掲示板に載せられて超ビビったんだよな……。ふっつーに菜月昴って書かれた。あれって伏せるもんじゃねえの?」
「ハハ……。ああ。いや、まぁ」

Sさんはちょっと怒っているが、しかしうっかり本名を名乗っているのでイニシャルの意味が全くない。
佐々木くんは何も言わずに目を逸らした。

壁にかけた時計を見ると、現在の時刻は2時30分である。
Sさんは「鬼ごっこをする」と言って、佐々木くんにこの家の見取り図を教えてもらった。
それからドアの数、窓、洗面所、その他使えそうなものを確認し、家中の電気を消して回ったのである。

彼は今大きなリュックを背負って、パラパラと漫画を読んでいた。
佐々木くんは「暗いのに見えるのかな」とか「よくこの状況で読めるな」とかを思ったけれど、口には出さず毛布をかぶってジッとしている。
やはり怖いものは怖いのだ。
寧ろケロッとした顔をしているSさんの方が異常なのである。

「!」

がしかし、Sさんは唐突にパタンとジャンプを閉じた。
佐々木くんはこれにビックリして、「な。どしたんすか……」と言いかけて。

「っ」

Sさんに口を塞がれる。
目を大きくして彼を見つめると、Sさんに「シーッ」と声を出さずに指だけでジェスチャーを送られた。
「喋ってはいけない」という合図である。

佐々木くんはゾッと背筋を硬くして、半端に息を止める。目線だけをゆっくり動かして、部屋の隅に目を向けた。

「……!」

すると。
何処からともなく、「カチャカチャ」と音が聞こえてくるのである。
金属が軋んでいるみたいな、空気が錆びつくみたいな、そんな音だ。
息が凍り付くほど無機質な音である。

佐々木くんは、喉の奥から絞り上げたような悲鳴を上げそうになったが。
しかし「静かにしろ」と目で言われているので、何とか金切り声を引っ込める。

『みぎ』

Sさんは口パクで言った。
恐らく右から来ているということなのだろう。
彼は人差し指を口元に当てたまま、机の下に自分の携帯を置いた。
そして。

「っ、」

彼は早足で右のドアに近づいて、鍵を閉めたのである。
カチャカチャという金属音が段々近づいてくる。
Sさんはチラと佐々木くんのことを見て、『こっち』と口パクで言って手招きした。
二人は鍵を閉めていない扉を開けて、その部屋から音を立てずに抜け出す。

「……、……」

合間、佐々木くんは息すらできない。
少しでも音を立てたら死ぬ、とすら思った。
なので両手で口を塞いで、彼は置いて行かれないように必死にSさんについていく。

「……」

Sさんは佐々木くんに家の見取り図が書かれた紙を渡した。
暗い廊下は驚くほどに明度が低い。
先が見えず、永遠に続くトンネルの中を覗いているみたいだった。

「ッ」

キュッと足音が鳴った。
緊張で足が震え、力んでしまうのである。
佐々木くんはダラダラと心臓から何から汗を流して、バッ! と顔を上げ、彼のことを見た。

『だいじょうぶ』

Sさんはグッと親指を立て、佐々木くんの手を引いて階段を上る。
もうこうくると、何だかジンと泣いてしまいそうな程に彼が頼もしく思えるのだった。
さっきまでTシャツにポテチをこぼして「あ!」と困った顔をしていたのに。
同一人物とは思えないのである。

彼は途中、洗面所へ行ってバケツに水を組み、居間へ置いた。
首を傾げれば、彼は小さな声で「非常用」と言うのである。
もう殆どホラーゲームである。
アイテムを駆使して進むタイプの。

「……」

カチャカチャ鳴る音を避けて、二人は回り道をしつつ二階に上がった。
途中で佐々木くんはうっかり何やらゾゾ……と黒い影が廊下を這いずっているのを見てちょっと泣いてしまったが。

二階の寝室に入り、Sは唐突にバッと佐々木くんの方へ振り向いた。

「よし。入ってくれ」

彼は小さな押入れを指さしながら言った。
佐々木くんは「え」と小さな震えた声で言って、「こ。ここに?」とオロオロ視線を押し入れに向ける。
Sさんは頷いて、「暫く隠れていてほしい」と墨をすったみたいな黒の目を、下に僅かに落とした。

「え。あ……」

佐々木くんはギュウギュウと押し入れに詰め込まれ、真っ暗な闇の中にギチギチに閉じ込められた。
Sさんは彼の手に赤くて可愛いお守りを握らせて、「もし危なくなったら俺のケータイに電話をかけろ」としっかりした声で言う。

もしも佐々木くんのところまでアレがやってきても、Sさんの携帯を鳴らせばそちらの方に気が向くだろうという計らいである。
だから彼は初めに、居間の机の下に自分の携帯を置いたのだ。

「俺はアイツを探してくるから」
「え」

そう言って彼はバタンと押入れの扉を閉めた。
暗闇の中にはポツンと独り、佐々木くんだけが残される。

……探してくるって。
さっきまで必死に逃げてたのに。
見つからないように隠れながら息を潜めてたのに。
探してくるってどういうことだ。
まさか、アレの元に自分から突っ込んでいったのか。
たった一人で。……。

暗闇の中は静かで冷たくて、ゾッとする程生きている心地がしなかった。
自分の息すら反響して聞こえるようである。
Sさんが居なくなった途端、足の先から不安がせり上がってくる心地になるのだ。
爪の先まで冷えていく気分である。

こういう時、行動力のある冷静な人がいるとグッと安堵するものである。
がしかし、そんな中で一人になると途端にパニックになるのだ。

「……、」

ギュウッとお守りを握り締め、もう片方の手でいつでも電話をかけられるように携帯を構えて、佐々木くんは首を絞められているみたいな顔で目を瞑っている。

もしこの戸が急に開いたらどうしよう。
そうしたら逃げ場はない。
……いや。それよりSさんは大丈夫だろうか。
今Sさんは一人でこの家を歩き回っているのだ。
オレなんてちっとも動けないのに。
もう一歩も歩ける気がしないのに。

大丈夫なのだろうか。
探すと言っていたけど、見つけてどうするつもりなのか。
勝てるのだろうか。……いやそもそも勝つつもりなのか。
どう考えても人外VS人である。
勝てる気がしない。

「!」

とそこで、佐々木くんはビクッと顔を上げた。
遠くでバタン! と大きな音がしたからである。
何かが倒れる音だった。

佐々木くんは息を止めて、目を何回も素早く瞬かせながらジッと押入れの中で耳を澄ませた。

「っ」

ガタガタと一階から大きな音がする。
二階まで届くのだから、余程の騒音である。
何かが暴れている音だった。
暴れて、周りのものをバタバタと倒している音である。

佐々木くんは心臓がまるきり凍った心地になって、しかし何をすることもできず、押入れの中で身を硬くするしかなかった。
脳を過るのは最悪の想定である。
Sさんがアレに見つかって、その身体に刃を突き刺される赤色の想像だ。

「……、」

歯が真冬みたいにカタカタ震えて、彼はひたすらSさんの無事を祈る。
……暫くすると、音は急にピタリと止まった。
時間がカッチリ止まってしまったみたいである。

さっきまでずっとバタバタ何かが動いていたのに。
それがピタリと止んでしまった。
それって、つまり。……。

佐々木くんは暫くの間動けずにジッと泣いていたが、しかしこのままずっと押入れの中で過ごすワケにもいかない。
なので外に出たくない気持ちを必死に押し殺して、自分の背中を蹴飛ばして音を立てずに戸を開けた。
そしてソロソロと辺りを伺いながら、涙目になって歩く。

まずはSさんの安否を確認しなければいけない。
それが一番だ。そう思って、彼は極限まで息を殺して階段を下りた。
「お願いだから無事でいてくれ」と思いながら。
もう二度とあんな遊びはしない、と思いながら……。


「ウワアァァァッ」
「うおっ。ああ。何だ、佐々木くんか。ビックリした」
「ワァァッ」

そして佐々木くんは悲鳴を上げた。
あんなに声を潜めていたのに、凄まじく響く悲鳴である。

Sさんはぬいぐるみを素手で掴んで燃やしていた。
赤い糸でグルグル巻きになったぬいぐるみを掴んで、居間で燃やしていたのだ。
何なら彼の手まで燃えている。

「何だ。下りてきたのか。二階に居ても良かったのに」
「えっ。えッ。もっ。燃え、」
「あ。これ? 大丈夫だぜ、手にアレ塗ってるから。ポリアクリル酸ナトリウム」
「ポリ、何っ!?」
「燃えないジェル。火傷しないためのヤツ。これ血盟の儀んときにも欲しかったな……」

確かによく見ると彼の手は何だかツヤツヤべたべたしたもので覆われている。
が、そういう問題ではない。
火傷しないとか熱くないとかそういう話ではないのだ。

佐々木くんはちょっと驚きすぎて、ペタンと床に座り込んでしまった。
Sさんは構わずぬいぐるみを燃やして、それから水の入ったバケツの中に腕ごと突っ込んでいる。
あんなにビビッて下りてきたのに、佐々木くんは寧ろ彼の方が怖くなって「え。えっ」とひっきりなしに短く母音を刻んでいた。

「なッ。何してんのっ」
「除霊?」
「アクティブすぎね!?」
「大抵のもんは燃やせば何とかなんだよ」

と言ってSさんはぬいぐるみが沈んでいる水バケツの中に腕を突っ込んでバシャバシャと手を洗っている。
「ベタベタする……」と困った顔で言いながら。
部屋はちょっと焦げ臭い。
ぬいぐるみの中の米が焦げた匂いだろう。

「どッ……どうやって燃やし、てかどうやって捕まえたのっ」
「カッターくらい避けりゃ済むよ。動きも荒いし。いっぺんユリウスの木刀受けてみろって思う。アレガチでいてぇからな」
「何の話だよっ」
「俺の故郷……いや故郷はこっちだな……何? ホームステイ先の話」

足下にはカッターが転がっている。
Sさんは「カッターか。殺傷能力低すぎるだろ」と呟きながら、チキチキ音を立てて刃をしまっている。

「こッ……」
「?」
「怖くねえの……?」

佐々木くんは震えた小さな声で尋ねた。
対してSさんはバケツの上にラップをかけて、「おう? おう」と頷くのである。

「カッター持ったぬいぐるみとオノ持った人間だったら、百%オノ持った人間の方が怖えだろ」

とよく分からない理論をかまして、彼は「ぬいぐるみの分可愛げがあるよな。いやもう可愛いわ。かわいっ。何コイツ」と赤ちゃんパンダを見るみたいな目をバケツの中に向けている。

佐々木くんはポカンとして、それからフッと身体の力を抜いた。
抜いたというより抜けたという感じだ。
何だかプッツリ糸が切れてしまったみたいに脱力して、身体の芯が緩んでしまった心地になる。

「……」
「これに懲りたら、もう危ねえ遊びとかやらねえ方がいいぞ。好奇心ってのは猫をも殺すっつーくらいだからな」
「……、」
「俺の経験則なんだけど、人って結構死にやすいから。マジで」

今日一番の真面目な顔で言って、彼は窓の外を見つめるのである。
外には薄く日が差しており、Sさんは「オール(徹夜)しちまった……」と何だか疲れた顔をしている。
恐らく眠たいのだろう。

彼はママチャリの前カゴにぬいぐるみ入りのバケツを乗せて、リュックを背負ったままチャリに乗って。

「俺学校行かなきゃなんねえから」

と目を擦りながら言った。

「え」
「……。? 何だ?」
「が。学校?」
「おう。え。今日月曜だろ?」
「えっ。い、いや、」

佐々木くんは驚いて、口を開けたり閉めたりしながら「がッ。学生? 霊媒師とかじゃなくて?」と目を大きくした。

「ただの高校生だ」

そう言って、Sさんは……菜月昴は自転車を漕いで、青くなった青空の下を爽快さすらも感じる程に颯爽と走り抜けていった。
段々と遠くなる背中を見つめて、佐々木くんは。


「いやンな高校生いねえよ!」


と大きな声で叫ぶのだった。





ナツキ・スバルはというと、最近日本に帰ってきたばかりの日本人である。
何処から帰ってきたのかと言えば。
それは勿論、異世界であった。

彼はある日突然に日本から異世界へ召喚された。そして異世界でおおよそ五・六年ほど過ごし、ここ最近になって日本に帰還したのである。
がしかし、彼。帰ろうと思って帰ってきたワケではない。
スバルが日本へと帰還したのには理由がある。


「ぐすっ。ひっく、」
「泣くなってベア子」
「だっ。だって。……」

スバルの身体は限界を迎えていた。
何故かと言えば、彼は魔女因子を溜め込みすぎたからである。
全ての大罪司教を討伐し、彼は文字通り〝英雄〟となった。
世界を救った英雄である。
しかし、いつの時代にも大きな功績には必ずそれ相応の代償がついてまわるものなのである。

彼は魔女因子を集めすぎた。
七つの魔女因子を集めた彼は、文字通り「鍵」となってしまったのだ。
何の鍵か。
嫉妬の魔女の封印を解く鍵である。

要するにスバルは、存在しているだけで嫉妬の魔女の封印を解くかもしれない、危険極まりない核弾頭のようなものに成り果てたというワケである。

「……」

彼は、影が段々と近づいてくることに気が付いていた。
眠りは以前に増して浅くなり、常に耳元では魔女の囁き声が聞こえるのだ。
封印が解かれるのも時間の問題。
あの黒い影が、全てを飲み込むベッタリと蠢く闇が、段々と這い寄ってくるのが分かるのだ。

だから、スバルは決めた。
全てを背負い、大瀑布の彼方へと渡ることを決意したのである。

「す。すばる、」
「うん」
「べ、ベティーは。……」

彼は泣きじゃくる彼女を撫でて、ギュッと強く抱きしめた。

『ベアトリス』
『……。何、かしら』
『俺をアル・シャマクで』

──大瀑布の向こうへ飛ばせるか。
そう尋ねた時、彼女は驚いた顔をして、それからその可愛い顔をグシャッと歪めたのである。

「バカなこと言うんじゃないのよ」「趣味の悪い冗談かしら」「もっと他に方法があるのよ」と彼女はちょっと怒って強く言って。しかし僅かずつ声を小さくしていった。
スバルが本気だと分かったからだろう。
それに彼女は、今この世界で誰よりも因子に詳しいと言っても過言ではない。
スバルにはもう打つ手がないと、彼女も薄く気づいていた。
ずっと声に出さなかっただけで。

「嫌ぁ。嫌かしら……」

彼は兎に角魔女の祠から離れなくてはならない。
魔女の祠は大瀑布の近くにある。
プレアデス監視塔・その地下メローペである。
彼はだから、魔女の影が及ばないような遥か遠くへと逃げなくてはいけないと考えた。
それこそ、ここではない別の世界へでも。

皆これを聞いて、「そんなバカなことを言うな」と言った。
「そうよ。一緒に別の方法を探しましょう。ね?」とか「そんなの嫌です。スバルくんと会えなくなるなんて」とか「一人で背負う必要はない」とか「大体アンタは何でもかんでも一人で思いつめすぎなんですよ。報連相を徹底しろって何回言えば分かるんですか? 分からないんですか? バカなんですか?」とかをさんざん言われた。
最後の方はもうお小言だったけど。

それでも皆、最後には口を閉じた。
他の解決方法が見つからなかったからである。
何年もの時間をかければ打開策の一つや二つは見つかるのかもしれないが。そんな時間も猶予もない。

封印が解ければ、『死に戻り』が使えるのかどうかも分からなくなる。
やり直せなくなるかもしれない。
それどころか、あの魔女の妄執だ。
スバルの意識なんて乗っ取られてしまうかも。
そうすれば、もう取り返しがつかなくなる。『死に戻り』を持った自分が皆の敵に回ると思うと……ゾッとしないではいられなかった。

「ど。どうして、スバルが……」
「……」
「が。頑張ってきたのに。どうして、スバルなのよ。ずっと、ずっと頑張ってきたスバルが、どうして」

ベアトリスはずっとボロボロ泣いていた。
彼女はウンと優しい子だから。
泣かせることしか出来ない自分が悔しかったし、ギュッと抱きしめて「ごめん」ということしかできない自分が腹立たしかった。

「死ぬワケじゃねえよ。大瀑布に身投げするつもりもない。俺は『大瀑布の向こう』へ行くだけだ。きっと、また会えるよ」
「……ぅ、」
「大丈夫だ。だって俺って大瀑布の向こうからやってきたんだぜ? 来れたんだから、帰れない道理はないよ」

ちっちゃな手を握って、優しいぬるま湯のような声で言う。
しかしスバルは「会えたらいいな」と思っていた。
「会えないかもしれない」とも思っていた。

スバルが異世界からやってきたというと、皆「大瀑布の向こうからこちら(ルグ二カ)に来たのね」と言う。
ここではどうも「異世界=大瀑布の向こう」というのが常識らしい。
がしかし彼にはどうにも、あの滝の向こうに自分の故郷があるとは思えなかった。
だから、日本に帰れるとは思ってもいなかったのだ。
寧ろ「大瀑布の向こうってどんな所なんだろう」とさえ思っていた。

異空間が広がっているのか。
真暗闇の宇宙のような世界なのか。
「ウサギと鉢合わせるのだけは嫌だな」とかを考えていたのだ。
スバルはズルい人間だった。


「私、スバルに泣いてほしかったの」
「えッ。エミリアたんってばSだね……」
「茶化さないの」

エミリアは「もう。バカ」と言って、それから雪景色みたいにキラキラと煌めく瞳を少し下へ向ける。
何年経っても彼女の美貌は色褪せないままだった。
きっと、これからもずっとそうなのだろう。

「もし、スバルが泣いてくれたら……」
「くれたら? 膝枕してくれる?」
「……。何を敵に回しても、スバルが泣かずに済む方法を探したのに」
「……」
「スバルを連れて、パトラッシュちゃんに乗って、うんと遠くまで逃げてもよかった。ベアトリスも、レムもラムも、オットーくんもガーフィールもフレデリカもペトラもメィリィもロズワールもクリンドさんもアンネも、皆で一緒に。スバルの大好きな人達と一緒に、逃げても、いいのよ」
「……」
「きっと、竜車の中はすごーく狭くなるけど。でもその分楽しくなるわ。楽しい話をいっぱいしながら、スバルを助ける方法を探すの。膝枕もいっぱいしてあげる。スバルの好きな時に」
「……ご褒美は頑張った人にだけ与えられるからご褒美なんじゃ?」
「スバルはずっと、頑張ったじゃない」

スバルは俯いて、口を開いて、閉じて。
「……でも」と言う。

「それ、多分めっちゃ怒られるよ。ただでさえ俺今すげえ見張られてるのに。歩く災害だよ、俺。皆大罪人になるよ。指名手配とかされるよ」
「言ったじゃない。何を敵に回してもって」
「国民全員の敵だよ。きっと色んな人が追いかけてくるよ」
「私がごめんなさいってしながら迎え撃つわ」
「カッケェ……」
「だめ?」
「……。嫌だよ俺。ラインハルトとかユリウスに追いかけられんの」
「じゃあ初めから皆連れていきましょう。わ。大所帯ね」
「アグレッシブすぎる……!」

男前すぎることを言って、エミリアは彼の手を握って頷いている。
スバルはこれを見て。顔を上げて、眉をギュッと寄せて「……その手には乗らないぜ、エミリアたん」と呟いた。

「俺のこと泣かせる作戦だろ」
「……バレちゃった?」
「エミリアたんってば小悪魔過ぎるぜ。だが俺の性格の悪さを舐めちゃいけねえ。くるっとまるっとお見通しだからな」
「本当にそうだったら、良かったのに」
「……」
「頷いてほしかった。逃げたいって言ってほしかったわ。私」

シンと降り積もる雪のような横顔で、彼女はキラリと瞳を輝かせた。
スバルは困った顔で、ずっと少しだけ笑っている。
優しい向日葵みたいな顔だった。
エミリアは「泣いてくれないのね」と思う。

泣いてほしかったのに。
泣きじゃくって、一言「もう逃げたい」と言ってくれれば、例え世界中を敵に回してでも彼と一緒に逃げたのに。
きっと皆も頷いてくれる。
皆「仕方ないな」みたいな顔をして、一緒に世界中を逃げ回りながら、スバルを助ける方法を探すのだ。

でも泣いてはくれなかった。
きっと最後まで彼は逃げないのだろう。
それがスバルだからだ。
彼女は「バカ。すごーくバカ」と悪態をついて、ちょっとだけ彼の額を弾いた。

「……」

スバルは「……俺が泣いたら」と思う。
ちょっとでも泣けば、きっと彼女は言った通り、自分を助けるために奔走してくれるのだろう。
色んな人を巻き込んで逃げるのだろう。
騒がしい逃避行だ。でもきっと彼女ならそれを実現してみせるし、どんなに困難だろうと立ち向かってみせるのだろう。

それはとても優しくて、しかし現実味の無い話だった。
だから泣かない。

「スバル」
「……? うん」
「絶対、帰ってきてね」

彼女はハッキリした目で、彼を見つめたままに言う。

「……。ああ」

やっぱりスバルは困った顔をして、眉を僅かに下げて頷いた。
目を閉じて、伏せて。
それからシャッキリと背筋を伸ばして。


「いってきます」


と言って、小さく笑った。





そして彼は、「う……」と唸って目を覚ました。
頬には硬くてザラザラした冷たい感触。これにスバルは暫く口の中でモゴモゴ言って、目を開けたり閉じたりを繰り返すのであった。

彼はパートナーのベアトリスの魔法によって、大瀑布の彼方へと転移した。
皆とお別れを済ませて、泣いたり怒ったりしている皆を宥めて謝って、必要なものを持ってから。アル・シャマクによって魔女因子ごと、異空間に飛んだのである。

そして、目を覚ましてみれば。

「……」

スバルは絶句した。
振り返ってみれば、見覚えのあるネオンがチカチカと光っていたからだ。
起き上がって見れば、そこはコンビニの前。
スバルはジャージを着て、コンビニ前の駐車場にスっ転がっているのであった。

それは丁度、スバルが日本にいた頃。異世界召喚される前に、最後に見た光景であった。

「……いや」

彼は頭を抑えて、ちょっと半目になって、ボンヤリした半信半疑の声で呟くのである。

「大瀑布の向こうって、ホントに日本なのかよ」





さて日本へと帰還した彼は、すぐさま警察署に連行された。
何せスバルは、一週間の間〝行方不明〟だったのだ。

深夜。コンビニへ出かけた帰り、彼は突然に消息を絶った。所持物は小銭の入った財布のみで、着用していたのはジャージと黒のTシャツ。
家出の可能性は低く。彼は店での目撃情報を最後に、パッタリと姿を消してしまった。
まるで神隠しにでも遭ったみたいに。

彼は菜月家の長男であり、心配した両親は勿論警察に相談し、捜索届を出した。
しかし彼は見つかるどころか、居なくなった痕跡すらも見つからず。両親は足の先から身体を冷たくして、彼が無事に帰ってくることだけを祈り続けたのだ。
……がしかし、その一週間後。

菜月昴は見つかった。
彼の目撃証言があったコンビニ、その駐車場にて彼は倒れていたのである。
そして起き上がり、何とまさか自分の足で彼は家へと帰宅したのだ。

『覚えてない?』

その後警察は彼に消息を絶っていた間の話を詳しく聞いた。
誰に連れ去られただとか、何かに巻き込まれたのかとか。
しかし彼は首を振って、「いや。サッパリ。分かんねーすわ」と頑として答えたのだった。

勿論異世界であったことはバッチリ覚えている。
だが彼は、その思い出を自分の胸の中だけに仕舞っておくことにした。
話しても到底信じては貰えないだろうからだ。
多分どれだけ真摯に真面目に話したところで、精神を患ってるんだなと思われるか何かの洗脳を受けたのかと思われるのがオチである。

スバルは異世界の思い出を、出会った人を、否定されたくなかった。
妄言であると笑われたくはなかったのだ。
だからこの記憶は自分だけの宝物として、寂寥感を添えて胸の奥へとスッポリ仕舞った。

異世界で過ごした時間は5・6年。
しかし日本ではたった一週間しか経過していないという。
こちらと異世界では時間の流れが違うのか、はたまた何かワケがあるのか。
何にせよ、向こうの世界に未練が無いワケはないが……しかし、同時に「たったの一週間でよかった」とも思う。


「……父さん。母さん」

久方ぶりの再会である。
彼からすれば数年越し。
両親から見れば一週間ぶりの。

両親は息子の不在にいたく心を痛め、そして彼が無事に生きて帰ってきたことに心の底から安堵した。
帰ってきたスバルを抱きしめ、彼の無事を泣いて喜んだ。

もう二度と会えないとすら覚悟していたのちの、再会だった。
きっと会えないのだろうと思っていた。
このまま異世界で年を重ね、帰れないまま、二度と会えないままに人生を終えるのだろうとすら思っていた。その覚悟をしたつもりでいた。
墓所の試練にて踏ん切りをつけたつもりでいた、家族への憧憬。

それを叶え、母の腕の中で。

「……。ただいま」

ずっと言えなかった言葉を口にする。
目を閉じ、口を閉じて開けて、頬に涙の筋を作りながら。

「おかえりなさい」

スバルはやっと、迷子の子供が親に手を引かれたみたいな顔をして、服の袖で目の端を拭った。
何度も強く噛みしめるように「ただいま。ただいま、」と言って、やっとただの子供の顔でほろほろ泣いたのである。

「……。何か、変わったな。お前」

何度も何度も瞼を擦るスバルを見て、父はふと言う。
彼はパッと試練を思い出し、少し照れ臭そうに頬を掻き、右斜めの壁をチラと見つめた。

「面構えがってことか?」
「……。いや。面もそうだが」

顔を薄く赤くして首の後ろを擦る彼を指さし、父はというと。

「……何か、老けた?」

と不思議に首を傾げて言った。

当たり前の話である。
日本ではたったの一週間の出来事として処理されたワケだが、スバルの奇々怪々な旅路はおおよそ五年ほど。
つまり、菜月昴は書類上は17歳の高校生であるが、実年齢は22歳の立派な成人男性なのであった。





彼はこうして無事、五体満足で帰郷した。
が、しかし。
人生とはなかなかどうして、一筋縄ではいかぬものなのである。

日本へ帰ってきてから数週間。
そこから、彼の周りで異変が起こり始めたのだ。

「っ、お、」

彼は頻繁に……所謂〝怪奇現象〟に巻き込まれるようになったのである。
始まりは些細なものだった。
背後でカタンと音がしたり。何かに見つめられている気分になったり。それはしかし、日を追うごとに少しずつエスカレートしていった。

ある日は家具が触ってもいないのにちょっとずつ動いたり、またある日は誰もいない筈の部屋でパタパタと子供の足音が聞こえたり。
明らかに「何か」がいる感覚である。

が、まあ驚きはしなかった。
なんせ彼はというと、少し前まで魔法・精霊・魔女に人外と何でもアリの異世界で暮らしていたのだ。
スバル自身何度も死んでいるし(誇張抜きで)、まさか物がちょっと勝手に動いたくらいで臆病風に吹かれる筈もない。
「そういうこともあるんだな」と片眉上げるくらい。

昔はそんなことなかったんだけどな。
幽霊なんて見たことなかったんだけどな。
河童ならあるけど。
何だろう。異世界から帰ってきたからだろうか。
もしかして魔女の臭いが原因? ……と。そんなことをツラツラと胡坐をかいて考えるばかりであった。

「……」

だが流石にちょっと困った。
自分一人だけならまだしも、この家には父と母がいる。
二人に迷惑をかけるのは嫌だし、これ以上に心配をかけたくはない。
調べて塩など撒いてみたが、目に見えた効果もなく。

仕方が無いので、スバルは厄払いや除霊で有名な遠くの神社に行くことにした。
彼は別にこういう怪奇現象に詳しいワケじゃない。
困ったときは詳しい人に聞くのが一番なのだ。だからパソコンで「除霊 有名」とか「お祓い 神社」とかを検索して、お祓いをしてもらうことにしたのである。



「あー。もうコリャ駄目だねえ」
「えっ、」

スバルはパックリ口を開けて、突然余命宣告をされた人みたいな呆気にとられた顔で「えっ。だめ?」と顔を傾けながら言った。

彼は除霊の為に神社を訪れていた。
古くからある関東の有名な大社である。
彼はボケーッとした顔で、案内されるがままに神社の奥へ奥へと案内されて、気づけば神職のちっちゃいおじいちゃんたちに囲まれていた。

お座敷にあげられて、畳の上で正座をして、スバルはおじいちゃんたちの話を聞いている。

「えッ。俺ダメなの?」
「駄目だ駄目だ。ウチじゃ手に負えないよ」
「え。え、何。俺どうなってんの」
「なんで生きてるのか不思議なくらいだよ」

どうやらもう手遅れらしい。
スバルは「俺また何かやっちゃいました?」とラノベみたいな顔をして、口を馬鹿の一つ覚えのように開けて困った。
おじいちゃんは話が進むうちに更に偉いおじいちゃんたちを呼んで、口々に「ああ。あんちゃん(兄ちゃん)また凄いの連れてるね」とか「こりゃウチでも無理だね」とかを言う。


話を聞くと、そもそも霊や物の怪の類が集まりやすい場所というのは決まっているらしい。
その一つが水辺であると。

「水回りってのはね、異界に近いって言われてるんだよ。川とか海とかね」
「ふむ」
「三途の川ってあるでしょ? あの世とこの世の境界。昔からね、水ってのは死後の世界とか異界に近いって言われてきたんだよ。だから霊が留まりやすい。あんちゃんも似たようなもんだね」

居心地が良いんだろうね、とおじいちゃんはお茶を飲みながら言った。
成程、確かに。
自分は長い間異世界に居た。
それに何度も死んでいる。
異界に近いと言われても何ら不思議ではない。
つまりは歩く心霊スポットのような状態なのだろう。

まあ向こうでもよく魔獣に追いかけられていたし。
寧ろ噛みついてこないだけ霊の方がマシですらある。

「にしても、不思議なもんだね。何であんちゃんがそんなに好かれてるんだか」
「ハハ……」
「いっぺん死にでもしないと無理だよ。そんなに集めるなんて」

スバルは頭の後ろに手をやって、無理矢理引き延ばしたみたいな引き攣った顔で「アハハハ」と干からびて笑う。

まさか、「一回どころかもう数えきれないほどです」というワケにもいかなかった。





スバルは一人暮らしをすることに決めた。

というのも、あれからもポルターガイスト・心霊現象は収まる素振りすら見せず。寧ろ悪化の一途を辿るばかりであったからだ。
コップや食器は勝手に割れるし、この間風呂に入っている際にガラスの戸に映った人影がこちらに向かって手を振っていた時には、流石に「もう駄目かもしんねーな」と思ったのだ。

スバルは魔獣やら呪いやらですっかり慣れきっているが、両親はそうもいかない。
二人とも随分変わってはいるが、こうも毎日ガタガタバタバタ不可解にモノが動いたり人影が映ったりして、不気味に思わない筈がないのである。

彼はだから、独り立ちしようと決めたのだ。
二人に迷惑はかけたくない。自分一人なら物が動くくらい何とも思わないし、彼は向こうでもっと怖いものを沢山見てきたので、今更である。

そもそも彼はもう22なのだ。
十分一人でもやっていける年齢であるし、ここは日本だ。二人に会おうと思えば、いつでも会いに行ける。

「この辺りで一番安い物件ってドコすか」

なので彼は、大きなスーツケースに荷物と身分証を引っ提げて、実家から離れた東京の不動産をいくつか回った。
緑のチェアに座って、スバルは兎に角〝安い〟家を探す。
不動産の若いお兄さんは頷いて、幾つかの物件の資料と写真を見せてくれた。

「……、お」

パラパラ書類を斜めに読んで、スバルはしっくりくる家を見つけた。
築11年の一軒家。
駅からは少しばかり遠いが、家賃が月4万。
この辺りの賃料相場から考えて、格安である。

というか、安すぎてどう考えても怪しい。
明らかに事故物件である。
誰が見ても「いわくつきだな」と何か黒いものを感じるような物件だった。
が、スバルは軽く顎を引いて。

「ここにします」

と明るい声で言った。
どうせ何処に住んだとしても何やらが憑いてくるのだ。
ならば事故物件だろうが何だろうが関係ない。
「どうせなら安い家に住みたいな」と彼は思って、何の悩み事もなさそうな人間の顔で笑った。





「ダハハハハ」

スバルはフローリングの木の床に寝そべって、天井を見上げて勢いよく噴き出してしまった。
朝には無かった筈の、手形のシミが赤く浮かび上がっていたからだ。
絵具やペンキのノッペリした赤ではない。
血がこびりついて、そのまま何年も放置されて錆びついたみたいな年季と気合の入った赤褐色である。

「ベタすぎるだろ」と彼はちょっと面白くなってしまって、三ツ矢サイダーを飲みながら「あー……」と笑った後の余韻を喉から吐き出した。
アレ、掃除したら落ちるかな。
落ちると良いんだけど。
血ってどうやって落とすっけ。洗剤で落ちるっけ。
あっちじゃ水のマナで綺麗にしてたからな。そう思えば、魔法って便利だったな。
いや、科学も凄いけど。

「……」

彼は落ち着いて脱力して、「日本ってやっぱすげえな」と思う。
だって、もう日本に帰ってきてから一ヶ月ほどになるのに、一度も死んでいないのである。
怪我すらしていない。
最早カルチャーショックであった。
それ程異世界が過酷であったということだが。

まあ、治安が違う。
日本にいて事件に巻き込まれることなんて早々無いし、路地裏に入ったとて刺されることもない。
交通と病気に気を付けていれば、それだけで人生安泰なのだ。
……だというのに。

「……、」

思うのは、「皆は何してるかな」とそればかり。
元気にしているか。
怪我はないか。
皆仲良く暮らせているか。
ベア子は泣いていないか。寂しい思いをしているんじゃないか。
置いてきてしまった。もう彼女は独りぼっちじゃないけれど……それでも、いつでも一番傍に居るのは自分でありたかった。

俺が居なくても、元気にしてるかな。
俺のこと覚えててくれてるかな。
と彼は心残りに眉を寄せて、寂しく思うばかりだった。

父と母に会えて嬉しい。
二人を、二人ぼっちにしなくて良かった。
がしかし、今度はあちら側の大切な人と会えなくなってしまったのだ。

彼の人生はいつでもトロッコ問題みたいだ。
どちらかしか選ばせてもらえない。
どちらも大切で、どちらも選びたいのに。

せめて、手紙だけでも出せたら良かったのだけど。
自分の無事を伝えられたら良かったのに、と彼は思う。
皆が何をしているのかも知りたいし。

「……」

ゴロ、と硬くて冷たい床の上で寝返りを打って、彼は「カーペットでも買おうかな」と思いながら頬を掻いた。
目を閉じていれば、パタパタと子供の足音が聞こえる。
自分以外には誰もいない筈の部屋の中。
反響しているみたいな音である。

「なぁ」

暇になった彼は、友達に声をかけるときの気安さで、何もない壁に向かって「お話ししようや」と話しかけた。
無性に誰かと話したい気分だった。
人恋しかったのかもしれない。
かと言って事故物件に温もりを求めるのもアレだが。

まあ俺も歩く事故物件みたいなもんだし、問題はないだろう。

「事故物件同士、仲良くやろうぜ」

言った瞬間。
コップが凄まじい勢いで飛んできて、彼の額には大きな痣ができた。





「ベアトリスちゃんっ。フランダースの領地区画と住民戸籍の資料は何処にありますかッ」
「えふ(F)23かしら!」
「ありがとうございますっ」

その頃、一方のルグ二カでは。
スバルが壁のシミとかブラブラ揺れる首吊り人間の影とかに話しかけている頃、彼らはミツバチみたいに忙しなく働きまわっていた。

ここは王立図書館である。
王都の中央に位置し、膨大な資料や魔術書・歴史書・その他ありとあらゆる文献が所狭しと本棚に詰め込まれている。

その巨大な図書館の真ん中。ベアトリスは大量の本を抱えてチョコンと座り、「大精霊様」「こちらどうされますか大精霊様」「こちらの資料についてですが大精霊様」と息つく暇もなく呼びかけられるのに、「ハイハイ順番に答えるかしら」と目を回しながらも、しかし正確に一つずつ答えていった。
隣では内政官が人を殴れそうな厚さの紙の束をせっせこ運んでは目を通して、目の下にクマを作ってペンを走らせている。

何たって彼らには〝やるべきこと〟が山ほどあるのだ。
王選が終了し、ルグ二カには新たな王が誕生した。
が、勿論それで終わりではない。

寧ろ王選とは国にとってのステップ1であり、ここからが本番ですらある。
王を新しくするということは、国を新しくするということ。
彼らはより良い国家を作り上げる為、「改革」を行わなければならないのだ。
改革には知識とアイディアが必要である。

なのでナツキ・スバルの契約精霊ベアトリスはというと、新たな行政体制・法律を作るためにその400年の知識を余すところなく役立て、そしてその地獄のようなスケジュールに目を回しているのだった。

「医療……教育機関の設立……社会の保証制度と治安の向上……これ何から手を付けるべきかしら!?」
「うッ……これ帝国に権利上の確認取らなきゃいけない書類だ!」
「やることが……やることが多いのよ……!」

と彼らは果てしなく続くタスクに囲まれて、限界受験生みたいな顔色でバタバタ動き回っているのだ。

この図書館は、旧ロズワール邸の禁書庫と似た仕組みで作られている。
禁書庫と違うのは、彼女以外の大勢の人間が入れ代わり立ち代わり出入りすること。ベアトリスも当たり前の顔でそれを見つめ、皆からも「図書館のかわいくて凄い司書さん」として日々愛されていること。

ここは彼女の唯一のパートナーが、彼女の為だけに作った図書館である。
本好きの彼女の為に、世界中から色んな本を集めて。寂しがり屋の彼女の為に、いつでも誰でも訪れることが出来るように、王都の真ん中に建てた。
本はジャンルごとに分類されていて、分かりやすいように棚には不思議な記号(スバルの故郷では『アルファベット』と言う)が貼られている。

要するにこの図書館は、スバルからベアトリスへの、愛情こもったプレゼントであった。
今は社畜の溜まり場のごとき有様であるが。

そんな彼女の真横で、オットーは古びたノートをバラバラ捲って、「ああクソ、あの人何てもん残していきやがったんだ……」と頭をひたすら抱えている。

彼が持っているのは手書きの、スバルから渡されたノートである。
彼が大瀑布の彼方へ渡る前、「よかったら使ってくれよ」と渡してきた紙の束。

『お前ならきっとうまく使えるぜ!』

と言って、ポンと友達に交換日記を渡すみたいな気安さで渡してきたノートであった。
なのでオットーも真綿みたいな軽い気持ちでペラペラ流し読みをして……勢いよくバタンとノートを閉じた。

そこには「俺の故郷(二ホン)の行政の仕組み」とか「資本主義と社会主義。あと主に俺が知ってる範囲の経済の成り立ち」とか「医療と教育」とか「魔法をもっと有効的に経済や行政に取り入れるには」とか「戦争のない世界を作る方法」だとかが書かれていたのだ。
スバルが日本で学んだ知識をありったけ詰め込んだのだ。

ペラッと読んだだけで、オットーはダラダラ汗を流した。
それが一目見ただけで「莫大な利益を生むモノ」であると理解したからである。
というか、普通に爆弾レベルの情報だ。
下手したらコレ一冊で国が傾くかもしれない。国家予算単位で金が動く代物であった。

オットーは「こんなヤベェものを手渡しするのやめてくれませんかねぇ!?」と思ったが、彼はもう既にここにはいない。なので、文句を垂れることもできず。
有用なのは確実なので、彼の残した知識を国の改革に役立てることにした。

が、しかし読み進めていく内に、彼は机に突っ伏して頭をガシガシ掻いたのである。

『(中略)──で、……あー。ゴメン。この辺りはあんまり覚えてねえや。授業で習った気はするんだけどな。まあ、オットーなら何とかなるだろ。俺よか頭いいし』

彼の残した知識。
これらは革新的で斬新ではあったのだが、如何せんガバガバなのであった。
酷く偏っているというか、大事なところがよくスッポリ抜けているというか。

が、まあ仕方が無い。
スバルも頑張って中学・高校と受けた授業の内容を唸りながら思い出し、出来る限りのことは書き記したのだ。
それでもしかし、どうしても覚えていないところもある。
彼は別に特別記憶力が良いとか地頭がいいとか、そういうワケではないのだ。その上、高校へ入学してからは引きこもってロクに出席していなかったし。

なので、思い出せなかったところは全てオットーに丸投げした。
「アイツなら何とか上手くやってくれるだろう」と、良く言えば彼を信頼して、悪く言えば他力本願な気分で。

オットーはだから、彼の残した知識の穴を埋めるためにありったけの資料を搔き集め、全身の毛穴から血が噴き出るんじゃないかと思うくらいに疲労を溜めて脳みそを掻きむしっているというワケである。

「あああッ! もう! これ絶対ホーシン商会に委託した方がいい案件ですよ! でも利権を丸々取られるのも駄目だし! どうすりゃいいんですかねぇっ」

その上例え分からない単語があったとしても、聞くことすらできない。
『言霊の加護』が使えないのだ。
なのでオットーは全身にストレスがかかった顔をして、唸りながら手にペンだこを作っていた。

「……。う゛……」
「あッ、」
「すばるぅ……!」
「ああもう、ベアトリスちゃん泣いちゃった! 泣いちゃったので一旦休憩です!」

しかも、本のあちらこちらにスバルからの書き置きが挟まっているし。
内容は『ベア子、元気にしてるか?』とか『ご飯はちゃんと食べてるか? 怪我はないか?』とか『ベア子、愛してるぜ』とかである。

恐らく、彼女が寂しくなった時の為に、事前に様々な場所にメッセージを残しておいたのだろう。
本を読んだ時、彼女が書き置きを見つけるように。
如何にも彼がやりそうなことだ。

がしかし、書き置きを見つけるたびにベアトリスがほろほろと泣いてしまうので、その都度休憩が入るのだった。

……と、彼らが内政の改革に努める一方。
エミリアやラインハルト、ユリウスなどの国家戦力組はというと、『嫉妬の魔女』の問題を解決するために尽力していた。

勿論、スバルが帰ってこられるようにする為である。
彼に笑って帰ってきてもらうため。
彼が泣くことのできる居場所を作るため。

「……」

とは言え、彼の消息は分からない。
ベアトリス曰く、「契約は途絶えていない」状態にあるらしい。
つまり、彼は何処かで生きている。
だけどもあまりに遠すぎる・次元が違う故、居場所が掴めないのだ。

「……、」

ベアトリスはグシグシ瞼を擦って、「スバルに会いたい」とただ思う。
本を小さな膝の上に乗せて、沢山の人に囲まれて、けれど想うのは只一人。
自分を連れ出してくれた彼ばかり。

「スバル……」

遠く離れた彼の顔が、酷く恋しく思えるのだった。





洗面所の鏡の前に立って、スバルは苦虫を噛み潰した顔をした。
彼は真っ黒な詰襟の学生服のボタンをキッチリ一番上まで止めて、服と揃いの色をした鞄を指から吊り下げる。

「……。いや、恥ずかし」

鏡の中の〝学生〟菜月昴から身体を逸らして、口元を薄く手で押さえて、彼はこめかみの辺りをポリポリ掻いた。
まさか、この歳になって学ランを着ようとは。
黒鞄を持つことになろうとは。
想定外である。もう自分はいい大人なのに。
成人済みであるのに、と思いながら。

スバルは学校に通うことになった。
何せ彼、戸籍上は未だ17歳である。
花盛りの学生なのである。
異世界では英雄とまで呼ばれ、様々を見て学んできたスバルであるが、こちらの世界では未だ高校の卒業認定も得ていない〝普通の学生〟なのだ。

日本で社会人として生きていくには、まずはせめてもの学歴が欲しいところである。
高校卒業後、就職するにしろ、進学するにしろ。
ここは異世界とは違うのだ。

彼はなので、引きこもりを辞め学校へ通うことにした。
一人暮らしを始め、引っ越しをしたので。彼は借りた家に近い、東京にある高校へと転校したのだ。

あれだけ学校へ行きたくなかったのに、あれだけ教室の扉を開ける音が心臓を圧迫していたのに、スバルは日本へと帰ってきて「……あれ?」と数度瞬きをした。
まったく苦痛でなかったからだ。
朝起きても「ああ今日も学校があるな」と、それだけ。
何の負荷もないのである。
何の苦痛も感じないのである。
彼は「あれ?」という顔をして「こんなもんだっけ?」と思った。

学校って、こんなに長閑な場所だったっけ。
こんなに優しかったっけ。
通学路ってこんなに穏やかだったか。昔はもっと、歩いてるだけでジクジク足の先から圧迫感と閉塞感が込み上げてくるものじゃなかったか。
あんなに毎日「休みになれ」と願っていたのに。たとえ大雨が降ったって、「警報出ないかな」と神経質に天気予報を確認することもなかった。

まあ、当然である。
スバルは異世界で5年も過ごしたのだ。
あの死が常にピットリ背中に張り付いている世界で、5年も。

そりゃあ肝が据わらない筈がない。
彼の心臓には剛毛が生えている。
きっと今すぐ突然強盗に襲われても、乘っている飛行機がハイジャックに遭っても、波の音を聞いている人間の顔で「ハイハイ順番にお願いね」と対応できるだろう。

「……」

スバルは家を出て、魔獣が飛び出してくることもない平穏な道を歩いている。
高校へと向かう道のりである。
コンクリートの塀に薄らと苔が生えていて、舗装された道路には真っ直ぐに白線が引かれていた。
ルグニカには無縁の、機械的で懐かしい光景である。

「……。?」

がしかし、暫く歩いて、彼は首を傾けた。
どれだけ歩いても一向に景色が変わらないからだ。
3分ほど歩けば、いつもなら曲がり角と標識が見えてくる筈なのに。歩けども歩けども、全く同じブロック塀と人の居ない小道が続いているだけ。

「おお」

これにスバルは「懐かしいな」と思った。
昔、ベア子を本気で怒らせてしまった時も同じような目に遭ったっけ。
どんなに歩いても同じ廊下が延々と続いて、ロズワール邸を数十分間歩き続ける羽目になったんだっけ、と。
彼は心を緩めて郷愁を感じた。

顔を上に向けると、空は何だか禍々しく青かった。
絵具をコトコト煮詰めたような不自然な色である。

「……」

鞄を胸の前で抱きかかえて、スバルは辺りを見回しながらカツカツ歩いた。
「遅刻したらヤベエな」と彼は思って、ちょっと困った顔で手の甲をカリカリしながらである。
しかし腕時計を見ると、先程から針が動いていない。
彼は「こりゃまた何かに巻き込まれたな」と平然と考えて、肩の辺りを左の手で揉んだ。

「……お、」

暫くポツポツ歩いていると。
やっと変わった景色が目に映った。
しかしそれはいつもの曲がり角ではない。見たことの無い、昨日までは確かに無かった筈の小店がそこにはあった。
急ごしらえで建てたのではない、年季の入った今にもくずおれそうな、古くてちっちゃな店だった。

スバルはこれを見て、看板を注視した。
だけども書かれた文字を読むことができない。
凄く昔の木簡に書かれているような、魔法陣の一部の異界の文字のような、グチャッと殴り書きしたみたいな文字であったからだ。

「……」

小店の前で数分立ち尽くし、スバルは困った顔で……仕方が無いので、木でできた引き戸をええいと開けた。
このまま小店を通り過ぎても、また延々と同じ道を歩き続けることになるんだろうなと思ったからだ。
彼のこういう勘はよく当たる。

古店の外見は駄菓子屋のようだったが、中に入ってみるとゴタゴタ物が雑多に並べられていて、そして不自然に広かった。
どう考えても外身と中の空間の広がりが釣り合わない。
空間が捻じ曲がっているようである。

スバルは戸を後ろ手で閉めて、右と左を満遍なく見た。
棚に床にギッシリ古びた骨董品が置かれていて、壁には狐の面ばかりがかけられている。面のどれもが一様に笑っていて、何だか見つめられているような気分になった。

「……、」

そこで彼はパッと目を大きくした。
店の奥、小さく人影が見えたからである。

「コンチワ」

奥の椅子に、ちっちゃなおばあちゃんが腰かけていた。
天井から吊るされた照明の下、おばあちゃんの顔は照らされて夕焼けみたいに黄色く影を落としている。

おばあちゃんは顔を動かさずに細っこく目だけをキョロリと向けて、「ヤ、」としわがれた声で言った。

「めずらしいね」

膝の上に手を重ねて乗せて、枯れ木みたいな声でおばあちゃんは笑った。
キラキラ光る色の不思議な石とか、針が反対に回っている時計とかに囲まれながら。

スバルは物珍しそうにキョロキョロ辺りを見回して、勝手に傍にあった古い椅子を引いておばあちゃんの前に座る。

「ここってどういう店?」
「……」
「俺、ここ来るの初めてなんだけど、こう……ルールとかある? マナーとか。この店じゃこれだけはやっちゃいけないとか」
「……」

おばあちゃんは何も言わない。
ただずーっと同じ顔でニコニコ笑っているだけだ。

「あ。もしかしてさ、」
「……」
「俺みたいな人間……じゃないな」
「……」
「〝人間〟の俺は、入っちゃいけなかった?」

とスバルは手を口元に添えて、ヒソヒソ話をする声のトーンで低く言うのだった。
これに初めておばあちゃんはピタ! と動きを止めて。顔に寄ったシワはそのままに、スバルのことを見つめて、突然。

「アッハッハ、」

と高く笑うのである。
その声はどう聞いても若い女のものだった。
若くて瑞々しい、魔性の女の声である。声だけで美しいなと分かる程の、艶やかな牡丹色の声だったのだ。

「めずらしいね」

もう一度言った。
今度は見た目通りの、しゃがれたおばあちゃんらしい声である。
おばあちゃんはニコニコご機嫌に笑って、手の爪の先でコンコンと机を叩いた。

「俺、出て行った方がいい? 帰れなくなる?」
「ハハハ、」

おばあちゃんは笑って「ゆっくりしておゆき」と、机の上の猫の置物の背中を撫でている。
スバルは目をパチパチさせて、首を傾げてから「そう?」と言って、時計を見た。
なら言う通りにしようかという顔。
周りは見たことないものだらけだし。
恐らく、ここを出たらもう二度とこの店には会えないだろうし。
色んな偶然が重ならないと見つけられないような場所なのだろう、と思う。

彼は立ち上がって、初めて海外に言った旅行客みたいな顔で店を眺めて、おばあちゃんに「これ何?」とか「これどうやって使うの?」とかをいちいち聞いて回った。
おばあちゃんはニコニコするばかりで、ちっとも答えてくれなかったが。

それを気にするワケでもなく、彼はグルグル店の中を見回して、骨董やら古美術やらを見回している。

「好きなものを持ってお行き」
「……。え」

スバルはビックリしてパッ! とおばあちゃんを見た。
彼女は民族織りの真っ赤なブランケットを膝の上にかけて、やっぱりニコニコ笑っている。
物の怪みたいな笑みである。

「好きなものって、何でも? ここにあるもの?」
「……」
「俺サイフ持ってたかな……。あ。五百円しか入ってない。使える?」
「使えないよ」
「だよなぁ」

ここでは日本硬貨は使えないらしい。
だろうな、と思った。
ここはどう見ても人間が入っていいような店じゃないし。人間の使うお金なんて、大した価値にならないんだろう。

「タダでいいってこと?」
「……」
「え。えー。どうしよ……」

どうやら彼はおばあちゃんに気に入られたらしい。
頭の横を爪で触って、スバルは「んー……」と不安定な声で首を傾けた。
迷っている人間の顔である。
暫くブラブラ歩いて、それからピタ! と立ち止まるのだった。

「……」

彼が立ち止まったのは、大きなアンティークの鏡の前である。
古くて格式高い洋館に飾るのがお似合いだろうなと思うような、黒くてシャラシャラした美しい鏡だった。
酷く高価そうなそれ。
その鏡を指の先で指して、彼は「これは?」とダメ元で聞いてみた。

「……」

おばあちゃんは無言で顎を引いた。
「OK」のサインである。
スバルは「ホントに良いの?」という目で彼女を見て、また鏡を見て、それからおばあちゃんを見た。

「じゃあ貰おうっと」

スバルは図々しく頷いて、大きな鏡を白い布で包んでもらった。
彼に〝遠慮〟とかいう概念はないのだ。
タダで貰えるなら貰おう、という気持ちである。
洗面所以外にも鏡が欲しいと思っていたし。

おばあちゃんはその彼の神経の太い態度が気に入ったみたいで、笑ってかわいい匂い袋までオマケにくれた。
白檀の、上品な香りのお守りである。

「またおいで」

スバルの背中を見て、おばあちゃんはしわがれた手を軽く振って柔らかく言った。
彼も「うん」と気の抜けた顔で、貰い物の大きな鏡を抱えて、戸を引いて店を出る。
……と、そこで後ろを振り向くと。

「……」

小店は何処にもなかった。
目の前には高く積まれたブロック塀が並んでいるばかり。先程まで確かにあった店は消え、無機質な壁ばかりが広がっている。

これを見てスバルは口を半分開けて、閉じて、また中途に開いて。
塀の向こうへと、明るく手を振った。

「また来るねーっ」





スバルは部屋の壁に大きな鏡をかけて、「ヨシ」と満足そうにニコニコ笑った。
綺麗な布で表面をピカピカに拭いて、彼は大きな声で誰もいない部屋に向かって「これスゲエ高えから! 割るなよ!」と(タダで貰ったのに)叫ぶ。

「壊したら怒るからな! 塩まくからな。あと……あと。えーと。あ、漫画。漫画買ってきてやんねえからな!」

スバルは部屋にいる〝何か〟の為に、漫画を買って置いておくようになった。
そうすれば静かになるからだ。
寝ているときに一晩中何かをボソボソ囁かれたり、床が軋むほどにバタバタ足音が聞こえるのは堪える。
眠れないからだ。
ただでさえスバルは眠りが浅く、些細な刺激で意識が浮かび上がってしまうのに。

だから、子供にスマホを与えて大人しくさせるのと同じ気分で、漫画を買って部屋に置くことにした。
すると、シンと静かになる。
だからジャンプとかマガジンとか、分厚い週刊雑誌を部屋の本棚に置くのが彼の習慣になったのだ。
たまに『ちゃおが読みたい』とか『チェンソーマン単行本で買って』とかの書き置きが挟まれてるけど。
推理小説とか置いておくと『コイツが犯人』とかいう落書きがされてたりするけど。
それで静かになってくれるのなら万々歳。
ネタバレされるのだけは勘弁だが、その際は「怒ったから。俺もう電子書籍にするから。これから漫画は全部ピッコマで読むから。覚悟の準備をしておいて下さい! いいですね!」と言うとスッカリ大人しくなるのだった。

「んじゃ。昨日の話の続きな……」

それでもバタバタ騒がしいときは、スバル自身の話を聞かせてやった。
異世界での数年に渡る、エキセントリックな冒険譚である。
事実は小説よりも奇なり。
彼のその数年は信じられないくらいに濃密で、どんな小説や映画よりも面白く、臨場感がある。
死に戻り関連については上手くぼかしつつ(魔女のペナルティは未だ健在である)、彼は自分の数奇な異世界奇譚をペラペラ暇つぶしに語ってみせた。

ある日突然、見知らぬ地に飛ばされたこと。
そこで運命の少女と出会ったこと。
壮絶な死闘。運命に翻弄される人々。
かけがえのない少女たちとの絆。
悪辣な魔女教徒との闘いに、心が取り返しのつかない絶望に屈した瞬間。
それでも愛しい日々を諦めきれず、藻掻き苦しんでやっと掴んだ光明。
魔女の試練。賢者の試験。
帝国での出会い。
大切な友人たち……。

そんな体験談を嘘偽りなく、淡々と語っていった。
普通の人に聞かせたならば「この人妄想癖があるんだな」と思われるか「よくできたフィクションだな」と思われるような、限りなく空想に近いような現実の話である。
到底信じられないような話である。
がしかし、語るのは幽霊相手である。「どうせ信じてもらえないだろ」とかの心配をする必要がなかった。
信じてもらおうとも思っていない。
暇潰しになればいいな、とそれだけ。

しかし、彼の話はいたく物の怪どもに気に入られたようだった。
まあ何せ、面白い。
彼以外の口からは聞けないような、彼にしか話せないような、全くありふれていない冒険譚である。
彼の話は人を脅かすよりも憑りつき首を絞めるよりも、悪夢を見せるよりも歯ごたえがあって面白いのだ。

こうくるとスバルも段々口が早くなってくる。
日本に帰ってきて、初めて打ち明けた過去である。
ここではたったの一週間ということで処理されたけれど、まさかあの濃密な数年を忘れられる筈もない。

だから本当は、ずっと誰かに話したかった。
「こんな良い人達と出会えたんだよ」と言いたかったのだ。
「こんなに頑張ったんだよ」と言いたかった。
皆の話をしたかった。
思い出を聞いてほしかったのだ。……。




「オジサンこんなにベルくれるのっ?」
「おー。もってけもってけ」

スバルはランドセルを背負った小学生男子共に囲まれて、DSのおいでよどうぶつの森で遊んでいた。
子供たちは彼の村に遊びに来て、果物とか服とかを勝手に持って行ったり、釣りをしたり虫を取ったりしている。

スバルは近所の小学生たちと仲良くなった。
というのも、子供たちはひっきりなしにスバルの家を覗きに来るのである。
何故か。
彼の住んでいる家は近所でも有名な幽霊屋敷だからだ。

「オジサンちって、お化け出るってホント?」
「おー。出る出る。親の仇のように出るぞ」
「本当?」
「知ってる。オレの友達が見たって言ってた。オジサンちの二階の窓にさ、女のひとの顔が浮かんでたって」
「それは多分シオリさんだな」

シオリさんはこの家の二階に住んでいて、多分昔にこの家で首を吊ったのだろう。
いつも天井から吊り下がってブラブラ揺れていて、首の辺りに爪を突き立ててガリガリしている。
シオリさんは女の子なので、スバルが着替えるときだけは照れてそそくさと部屋を後にするのだ。

「オジサン怖くないの?」
「生きてる人間の方が怖いだろ」
「ええーっ」
「何? 俺んちってそんな有名なの?」
「有名だよ」
「皆言ってたよ。オジサンちだけは近づいちゃいけないって。近づいたら呪い殺されるからって」
「俺んちヤバすぎるだろ……」
「弟が見たって言ってたんだけど、オジサンちには怖い顔したつり目の男の怨霊がいるんだって」
「それは多分俺だな」

どうやらここは近所でも有名な「ヤバい家」らしい。
呪怨に出てくる家みたいな扱いである。
だが小学生の好奇心と言えば、何にも勝るのである。
恐怖よりも怖いもの見たさの方が勝つらしい。

なのでガキ共は次々と彼の家に肝試しに訪れ、それにいちいち「ハイハイここは人んちだからな」「帰れ帰れ」「お母さんがご飯作って待ってるぞ」と相手をしていた結果、懐かれたというワケである。
彼は子供に好かれる性質なのだ。

「あとオジサン呼びやめろって。俺一応高校生だぞ。まだ」

ベルの出る石をスコップでシバきながら言う。がしかしガキ共はちっとも言うことを聞かず「オジサン」「ねえねえオジサン」と勝手にベラベラ喋るのである。
確かに高校生にしては老けてるけど。
実年齢は二十越えだけど。
けれどまだまだオジサンと呼ばれる歳でもない。
ピチピチの現役である。

「オレかーちゃんに『オジサンちにはもう行っちゃいけない』って言われたんだけど」
「そりゃ母ちゃんが正しいな」
「オジサンちってね。何かね。いわくつき? らしいよ」
「知ってる……」
「あの家に住んだ人って、絶対に数か月以内に死ぬか居なくなるかするらしいよ」
「マジで? 俺もう住み始めて半年くらいになんだけど」
「オジサン大丈夫? 死なない?」
「んー。もう死なないよ。大丈夫」

日本じゃ、余程のことがないと死にはしないので。
というかそれが当たり前なので。
路地裏を一人でブラついても刺されることがないので。
スバルは目の端を爪でかいて、子供が安心するような落ち着いた声で薄く笑った。

「ねえオジサン」
「ん? 何だ」
「オレんちパソコンあるんだけどね」
「おお。良いな」
「こないだ心霊スポット調べてたら、オジサンちが載ってたよ」
「ブッ」

道理で最近、派手な服を着たカップルとかちゃらちゃらピアスをいっぱいつけた高校生とかがウチに来ると思った。
しかも夜なので、迷惑極まりない。
こうなるとやはり生きた人間よりも幽霊の方がかわいく思えてくる。

最近じゃアイツらともうまくやってるし……と思って、スバルは困ったように眉をちょっと下げるのだった。





「キャアアァァッ」

ペトラは可憐な、真っ青な悲鳴を上げた。

ロズワール邸、スバルの部屋にて。
彼女は屋敷のメイドとして、彼の部屋をせっせこ健気に掃除していた。
スバルはもうこの世界には居ないが、彼の私物や家具などは全て動かさず、捨てずに部屋に残されている。
勿論、彼がこちらに帰ってきたときの為である。

なので生活感のある、しかし無人の部屋を彼女はパタパタ掃除して……そして、絹を裂くような悲鳴を上げたのだった。

ペトラは床に座り込んで、口元を真っ白な手で押さえて一点を見つめている。
彼女の悲鳴を聞きつけて、まずは心配したフレデリカが顔を真っ青にして。それからロズワール邸・エミリア陣営の面々がゾロゾロとスバルの部屋へと向かったのだ。

「どっ。どうなさいましたのっ」
「フレデリカ姉様っ」

ペトラの目には涙すらも浮かんでいる。
その緑青の大きな瞳を潤ませて、手を震わせて力なく座り込んでいるのだった。

「何かしらっ」
「どうかしましたか?」
「大丈夫っ?」

バタバタと走って、か細い悲鳴を聞きつけて皆が扉を開けて、彼女の下へと駆け付けた。
見ると、ペトラは信じられないものを見た人間の顔で、震える指先を一点へ向けている。

その爪の先は、部屋の鏡へと向けられていた。
スバルの部屋の壁にかけられた、大きなアンティークの鏡。
皆つられてそちらを見つめて。

「キャアアアァァッ」

と一様に大きな悲鳴を上げたのだった。

何せその鏡の中には、部屋の主である男。
あの日大瀑布の彼方へと渡り、この世界から様々を背負って去った筈の、ナツキ・スバルが映っていたからだ。

「すッ。ス、スバ、」

ベアトリスなんてビックリしすぎて、隣にいたエミリアの腹にヒシ! とコアラみたいに抱きついている。
口を開けたり閉じたりして、大きな蝶々の瞳を擦った。がやはり、零れんばかりの青くてキラキラ輝く彼女の瞳には、しっかりと彼の姿が映っているのだ。

「スバル?」

きらきらしい顔でエミリアは口に手を当てて、鏡を覗き込むように見ている。
新雪のように眩しい声で「スバルよね、」と言って、鏡へ一歩近寄った。

『ふぁ~……』

鏡の中の彼はと言うと、思いきり「気を抜いてます!」という顔をして口を大きく開けて、眠たそうに眉の下を擦っていた。
いつもピシッと上げている前髪は力なく全て下がりきっていて、ボンヤリ子供みたいな顔でグシグシと頬を手の甲で撫でているのだ。

絶対にエミリアやレムの前では見せない顔である。
スバルは彼女たちの前ではずっと恰好つけていたので。
オットーの自室とかでゴロゴロしているときにしかしない、力の抜けきっただらしない顔だった。

「スバルくんっ。レムです。スバルくんのレムですよ」
『……』

どれだけ話しかけても、まるで返事がない。
聞こえていないみたい。
そもそも見えてすらもいない。
スバルはこちらの存在にまるで気が付いておらず、だからまさか見られているとは思ってもいないので、こうしてダラけきった顔を晒しているのだった。

皆目を大きくしたり、キラキラ眩しい朝日みたいな顔をしたり、ビックリしすぎて顔を青くしたり、様々な反応である。
しかし皆、ちょっとの間でも目を逸らしたら、この夢のようで魔法のような光景が搔き消えてしまうのではないかと思って、ちっとも動けずにいるのだ。

消息の途絶えていた彼。
居場所の分からなかった彼。
元気でやっているのかも、今何をしているのかも分からなくなってしまった彼が、そこに確かにいるのである。

鏡の中、スバルはゴロゴロ漫画を読んだり、お昼のカレーをコトコト温めたりしていた。

「……。な、」

何で急に、とベアトリスは思う。
昨日までは確かに普通の鏡だったのに。
ミーティアでもなく、魔法がかかっているワケでもなく、何処にでもあるただの景色を映すだけの鏡だったのに。

どうして急に、スバルが。
どうして大瀑布の向こうへいる筈の彼が映るようになったのか。
……というか、これ。
スバルは誰と話しているのか。

『……』

何と言っているのかまでは聞こえず、口が動いていることしか分からないが。彼は確実に誰かと喋っていた。
しかし、鏡にはスバル以外は映っていない。
部屋にはスバルしかいないのだ。
なのに彼は、まるで隣に誰かがいるような素振りで、思い出話に明け暮れるような顔をして、何もない空間に話しかけているのだ。

「……」

初めはキラキラした目で久々のスバルとの再会(一方的ではあるが)を喜び、胸の内を暖めていた彼女・彼らであったが。
鏡を見つめるうち、次第に少しずつ言葉を少なくして、そして皆口を閉じ黙り込んでしまった。

スバルはしまいには、何故か机の上に、カレーを盛り付けた皿と氷の浮かんだ水を数人分置いたのである。
一人しかいないのに。
そして何の疑いもない顔で彼は複数のスプーンを皿の前に置いて、手を合わせてカレーを食べ始めるのであった。

これを見て、ベアトリスは青空の瞳をカッと開いて「マズい!」と思った。
何だかスバルがおかしなことになっている気がする。
ちょっと会わない間に何があったのか。
彼には何が見えているというのか。

「……、」

ベアトリスは、「一刻も……」と思うのである。

一刻も早く、スバルの元へと駆け付けなくては──! と。





スバルは歯磨きをしようと思って、コップに水をタプタプ入れて、歯ブラシを持ってきて鏡の前に立った。
あの不思議な古店で買った、不思議な鏡である。
見ていると吸い込まれそうになる、ともすれば禍々しいような鏡であるが、スバルはこれをいたく気に入っていた。

大きくて綺麗だからだ。
古めかしい装飾はゴテゴテしすぎておらず、木の質感が暖かくて素敵だった。
何か仕掛けとか……例えば得体のしれないものが鏡の中から手を伸ばしてくるとか、そういう不思議なことが起こるかもしれないと身構えていたのだが。
そんなことはなく、これはいたって普通の鏡だった。

「……」

がしかし、異変は突然に起こる。
スバルはピタ! と動きを止めて、唇の隙間から僅かに歯をのぞかせて、鏡をジッとただ見ている。

鏡に映った自分の顔。
見慣れた人相の悪い、ただ表情を無くして立っているだけで「怒ってるの?」と聞かれるような、母親譲りの顔。
それが水面に映っているみたいに、ボヤけて揺れ始めたのだ。水溜まりに雨が一滴落ちたみたいに、美しく波紋を作りながら。

これをスバルはボケッとした顔で見つめて、それからガチャッとコップを落とした。
水が床に広がって、フローリングに小さな水辺が出来る。

「……!」

彼は驚いて、口をパカッと開けた。
海のように揺れて動く鏡の表面から、唐突にニュッと、手が二本伸びてきたのである。

大抵のことでは動じない鋼の彼も流石にこれには驚いて、しかし身を引いたり逃げたりはせず。
カラカラと持っていた歯ブラシも落として、手の甲で口元を抑えた。

伸びてきた手はプクプクしていて、何だか丸かった。
滑らかな子供の手のひらである。
彼はこの手に見覚えがあった。
何年、この手のひらを握っていたと思っている。
何年、この手を繋いで歩いたと思っている。

だって、この手を取って、あの禁書庫から連れ出したのは。

「……ぁ、」

スバルは伸びてきた手を自然と掴んで、一回り大きな手のひらで包んで握り締めた。
彼は真っ黒な目を大きくして、長い長い映画を見終わった後のような声を上げる。

「……ベア子」

鏡の中から〝落ちてきた〟彼女を全身で抱きしめて、そのまま床に転がるように二人揃って倒れ込む。
床に彼女の淡いお日様みたいな髪の毛がキラキラと広がった。
彼は確かめるように、空気を吸うようにもう一度「ベア子、」と口の中で呟くのである。

「……。お前、ベア子か」
「当たり前なのよ。こんなに可愛い大精霊は、ベティーの他にいないのかしら」
「……ああ。ああ、そうだな」
「ちょっと離れた間に、スバルはベティーの顔を忘れたのかしら?」

拗ねたみたいに彼女は頬をスバルの腹へと擦り付ける。
彼は手のひらで顔の上半分を覆って、「まさか」とベアトリスの頭を撫でた。

「忘れるワケ、ないだろ……。お前、俺がどれだけお前らのこと愛してると思ってんだ」
「ふふんかしら」
「夢に出る程だぞ」
「ベティーだってスバルの夢を見たのよ。何回も」
「何に張り合ってんだお前……可愛すぎるだろ。ただでさえ可愛いってのに、何だ? 俺をどうするつもりなんだ……?」

髪の毛を指で梳く。
フワフワした髪は光を纏って淡く煌めいていて、いつまで経っても変わらぬ彼女の可憐な美貌は輝いている。

彼と彼女は暫く床にスっ転がったまま、抱き合ったまま動かず。それから、どちらともなくくすぐられたみたいにアハアハと笑い始めた。
懐かしくて、涙みたいにコロコロと笑い声が零れ落ちていくのである。

「……。ベアトリス」
「何かしら」
「──ただいま」

抱きしめて、彼女の肩に頭を押し付けて言った。

彼は「……こんな、」と思う。
こんな、幸せがあっていいのだろうか。
大好きな両親のいる日本で、ベア子を抱きしめて、抱きしめられている。
二度と会えないとすら思っていたのに。
いいのだろうか。
こんな幸福を噛みしめても。

彼はこれが嬉しくて、少しだけ怖かった。
彼の人生、嬉しいことも素晴らしいことも、様々にあった。
しかし、いつも彼の幸せは長く続かない。

幸せがあれば、それと同等かそれ以上の不幸が、いつも彼の背をしつこく追いかけてくるのだ。
彼の人生はいつもそうだった。
だから、素晴らしく幸せなことが起こると、身体を固くして身構える癖がついてしまったのだ。
悲しい癖だった。
理不尽を知る人間特有の性である。

「……」

ベアトリスもそれを分かっていた。
なんせ、彼女はスバルの契約精霊である。
パートナーである。
彼のことならば何でもお見通しだし、彼の好きなものも嫌いなものも、何だって知っている。
彼が幸せを躊躇っていることも。

彼女はだから、ちっちゃな手のひらでスバルの背中を閑静に撫でた。
仕方ない。ベアトリスはお姉ちゃんなので。
405歳なので。
彼の人生の先輩なので。
だから子供にしてやるみたいに背中を擦って、

「……おかえりなのよ」

とただ一言だけ言った。

「おかえり、スバル」
「……。うん。ただいま」
「ベティーが居なくて平気だったかしら? 寂しくて、泣いてたんじゃないのよ」
「……」

強がって彼女は言った。
自分も寂しくて泣いてたのに。
でもそれがバレるのが気恥ずかしくて、強がって頬を丸くして言うのである。
スバルが「お前こそ」と意地悪で元気な顔で、スバルらしく笑って答えると思って。
けれど、スバルは。

「……。寂しかったよ」

ずっと。
と言って、目の端を擦って起き上がるのだった。
明け透けで、優しい顔だった。
これに心を揺さぶられずにはおれず、ベアトリスは目の隅からほろっと水晶みたいな涙を零して、顔を僅かに背けるのである。

「スバル」
「うん」
「会いたかったのよ」
「俺の方が会いたかったよ」
「それで、質問なのよ」
「おう」
「……この、吐き気を催すほどに嫌な気のする部屋は、一体全体何なのかしら?」

目を閉じて彼女は言う。
汚泥でドレスが汚れたみたいな顔で。
スバルは目をパッチリ大きくして、「そんなに?」と膝の辺りに手を置いた。

「別に、慣れたらそんなに気にならないけ……おッ、」
「ぎにゃーッかしら!?」

突然飛んできた本をしゃがんで片手で受け止めて、スバルは「オッ」と言って困った顔をした。

「コラ! 物は大事にしろって何回も言ってんだろ!」
「な。なん、」
「ゴメンなベア子。何か今日はちょっと機嫌が悪ぃみたいだ。何でだろう。ベア子と相性が悪いのか……?」

日常生活の不便を見つけた顔で、彼は首を捻っていた。
が、どう見ても異常な光景である。
バタバタ勝手にモノが動き、それを頭だけ動かして、ヒョイとスバルは避けている。
「よくあることだ」という顔で。

ベア子は彼にスッポリ抱えられたまま、青くてラメが入っているみたいに煌めく瞳をグリグリ大きくしている。
スバルの顔を見て、部屋の壁を見て、また彼の目を見た。

部屋の中……というよりは家全体が何だかドロドロしていて、座って数十秒部屋の空気を吸うだけで「ウッ」と顔が青くなるような雰囲気である。
魔女の瘴気とも違う。
重くてジメジメ湿っていて、何故だか背中がゾゾと寒くなるような。何かが足爪の先から這い寄ってくるような。

「……」

スバルは笑って頬をかいているが。
その彼の肩には、青白くて柳みたいな手が置かれている。
彼がそれを気にかける様子はない。
恐らく日常茶飯事なのだろう。

ベアトリスは思い出した。
彼はというと、変なモノに好かれやすいのだ。
男に子供に、そして人外。
地竜に精霊に、人以外のモノからやたらと好意を寄せられやすいなとは思っていたが、まさかホロゥまでとは。

全く彼は、真正の誑しであるのだ。
ベアトリスは彼の腕の中で息を吐いて、ちっちゃな唇を開けて、空気を吸って。

「何処の馬の骨とも知れないホロゥの分際でっ。ベティーのスバルに寄るんじゃないのよ!」

と歯を剥き出しにして唸った。
これだからスバルは、目を離すとロクなことにならないのだ。
目を離せないのである。





ベアトリスは暫くの間、スバルの故郷である二ホンに滞在することを決めた。
何たって彼女はスバルの契約精霊である。
彼と一緒に過ごすことが義務と言っても過言ではない。彼と手を繋いでめいいっぱい遊ぶのが、本来の彼女の仕事であり生きがいなのだ。

二ホン(大瀑布の向こう)とルグニカでは、時間の流れが違う。
時空が歪んでいるのだ。
だからあちらで過ごした数年間は二ホンではほんの数日の出来事になるし、こちらで過ごした時間もまたほんのちょっとの出来事になる。
ベアトリスは最近働き詰めであり、その休暇とご褒美という意味も込めて二ホンを満喫しているのであった。

「そういやさ」
「何かしら」
「帰る時ってどうすんの? こっちじゃ魔法なんて使えないだろ?」
「使えないことはないのよ。大気中にマナが存在しないから、結局使えないだけで」
「じゃあ使えないんじゃん」
「解決策はあるのかしら」

ベアトリスは軽く顎を引いて、かわいいポーチとリュックをガサゴソ漁った。
これは彼女が二ホンへ来るとき、ルグ二カから持ってきたものである。
スバルはチマチマと小動物みたいに小さく挙動する彼女をデレッとした顔で眺め、頬杖をついてニコニコした。

するとベアトリスは大量の魔鉱石を取り出して、机の上にゴロゴロと転がすのだった。
無色透明の、水晶みたいな石である。
純度が化け物みたいに高い、魔法使いならば一目見ただけで泡を吹いてブッ倒れるような高価で希少価値が高いシロモノだ。
まあ彼は魔法使いでないので分からなかったが。
「うわ。高そう……」としか思わなかった。

「それどしたの?」
「マナが無いならマナを持ってくればいいのよ」
「脳筋すぎる……」
「帰るときは、魔鉱石を砕いて転移するかしら」

アッサリした顔で魔石を指さすが、化け物並の魔法のスキルと化け物並の財力がなければ出来ない発言である。
こんな可愛い顔をしているが、彼女はルグ二カ有数の陰魔法の術士なのだ。400年の知識の集大成なのだ。
引く手数多の大精霊なのである。

しかし彼女が選んだのはスバルであるので、彼女はロズワールに買わせた魔鉱石(バカみたいに高価である)を持って、スバルに会う為だけにその技術と知識を惜しみなくフル活用しているのだ。
何、正しい魔法の使い方である。
契約者を寂しくさせないのがパートナーの仕事なので。


二ホンに来て、ベアトリスはスバルと色んな場所を見て回ることにした。
何せ、スバルの故郷である。
彼の生まれた里である。
ベアトリスはとにかく〝知らないこと〟を知ることが好きであるし、それがスバルのこととなれば尚更だ。

二ホンの魔法の無い、代わりに科学が著しく発展した文明は目新しく、面白かった。
スバルから彼の故郷の話は聞いていたが、これほどまでとは。
ルグニカじゃ魔法がある生活が当たり前だった。それがないと生きていけないとすら思っていた。
しかしここでは、一切の魔法がない。
マナもない。
魔女教徒もおらず、魔獣に襲われることもないのだ。
著しい不幸が降りかかることなど、滅多にない。

「エミリアたんたち元気にしてる? レムも、俺の話とかしてた?」
「毎日なのよ」
「そっか……」
「皆スバルに会いたがってたかしら。でも一番にスバルに会うのはベティーの権限なのよ」
「可愛いなお前」
「だけど……。……」

ベアトリスはフッと天井を見上げて、下を向く。

「ちょっとだけ、エミリアはホロゥが苦手なのよ」
「……」
「このままコッチに来たら、泡吹いてバタンするかもしれんかしら」
「泡吹いてバタン」
「マズいのよ」
「そりゃマズいな。……ベア子は平気なの?」
「ふふんかしら。ホロゥごとき、ベティーがシュッシュッてして追っ払ってやるのよ。スバルはベティーの後ろに隠れてるがいいかしら」
「うーん。シャドウボクシングじゃあんまり倒せはしないかな」

が、可愛いので良し。
空に向かって拳をシュッシュしているベア子を片手で撫でくり回して、「確かにな」とスバルは思う。

そう言えば昔、ロズワール邸で〝こっくりさん〟を行ったことがあったな、と。
その時もエミリアは顔を真っ青にして、唇の色を無くしていた。今から死ぬ人みたいな顔をしていたのだ。
ラムもレムもである。
女性陣は皆嫌そうに頬を硬くしていたのだ。

スバルは平気だが、確かに。これではエミリア達はこちらに来ることが難しいかもしれない。
怖いのが平気な人なら大丈夫だけど。
何か対策を考えなきゃな、と彼は考えている。

うーん。お祓いも効かないしな。
お札とか買ってみようか。
でも最近じゃ、ちょっとアイツらにも愛着が湧いてきたしな。
今更出て行けというのも可哀想な気がする。
先に住んでたのは向こうなんだし。
賑やかなのも、まあ悪くはないし。




朱夏の夕方。
二人はバスに乗って、カタカタ揺られていた。

スバルとベアトリスは電車に乗ってバスに乗って、東京から離れた彼の実家までブラブラ手を繋いで旅をした。
勿論スバルの両親に会うためである。
二人ははるばる公共機関を乗り継いで、「暑いなぁ」「暑いかしら」とかを言い合って、湿気の漂う日本の夏の下を歩いたのだ。

スバルはベアトリスにかわいい花柄のワンピースを着せて、至極満足そうである。
着飾った彼女を見るのが生きがいなのだ。
菜月家を訪れたベアトリスは、初めヒシ! とスバルの手にくっついて離れようとしなかった。案外人見知りなのだ。

父と母も、息子が突然フランス人形と見紛うような、この辺りじゃ見かけぬ美貌の少女の手を引いて「おひさ。帰省したよん。あ、こっちはベア子。俺の相棒」とかを言いながら平然とリビングに腰かけたので、ビックリしたけど。
がまあ、二人はスバルの両親なので。

『ベア子ちゃん食べれないものとかある? ピーマン平気? カレー食べる?』
『い。いただきます、なのよ』

すぐに慣れた。
元々二人は少々(大分)変わっているのだ。
良く言えば器が広い。
なのですぐに慣れて、寧ろベアトリスを自分たちの娘みたいに可愛がった。彼女はいちいち動作に愛嬌があって、そりゃもうかわいいのだ。

ベアトリスも初めはちょっと緊張していたけれど、何せ両親二人はスバルによく似ているので(スバルが二人に似ていると言った方が正しい)、こちらもすぐに打ち解けて貰ったジュースとかお菓子とかをモグモグ食べた。

二人は一緒にちっちゃなスプーンで夏野菜のカレーを食べて、菜月家で何をするでもなくダラダラ夏を消費した。
スバルが小さな頃に使っていたビニールプールを引っ張り出して、二人でギュウギュウになりながら遊んだりとか。
赤くて小さなウインナーとご飯だけを詰めた弁当を作って、公園へ持って行って食べたりとか。
二人して一晩中ババ抜きをしたりだとか。

そりゃもう楽しかった。
日本での彼は〝英雄ナツキ・スバル〟ではなく、ただの〝菜月昴〟でいられた。
ルグ二カではできなかった当たり前を沢山叶えた。
ボーッと公園のベンチで居眠りしても、誰かに殺されるかもと怯えることがない生活である。

「二ホンはどうしてこうも暑いのよ」
「んー。あと一ヶ月もしたら大分マシになるんだけどな……。ベア子、掻くな。掻かないの」
「い゛ーッかしら」

ベア子は寝てる間に蚊に集られて、眉を寄せてションボリした顔で手を膝の上に置いた。
「精霊って蚊に刺されるんだ……」と彼は思って、家に帰ったらムヒを塗ってあげようとも思う。虫よけスプレーも必要かもしれない。

彼らは東京に帰るために、手を繋いでバスに乗っていた。
遊んで疲れたのかベアトリスは目を擦っている。二人は一番後ろの座席に座って、柔らかい声でダラダラと喋った。

初め車内にはチラホラ人がいたが、数十分も座っているうちにあっという間に二人のみになる。
貸し切り状態だった。
小声で話しても声が通る車内に二人は揃ってソワソワして、何だかちょっと楽しくなって辺りを見回した。

「貸し切りかしら」
「な」
「ちょっとワクワクするのよ」
「な」

もう今の二人にとっては何が起こっても楽しいので、最早無敵である。
クーラーの効いた車内。
窓を開けると、ジットリした風が車内のカーテンを揺らす。田んぼと畦道と夏の匂いをキラキラした顔で見つめて、彼女は不思議そうな顔をしていた。
水田はルグ二カにはない。
なので物珍しく、彼女は日本じゃ何処にでもあるような田舎道をガラスにピタッ! と張り付いて覗いているのだ。

「……」

暫く揺られていると、バス停についた。

「……、」

二人は黙って窓の外を見つめる。
田舎の畦道に立った、古びたバス停の標識。

その隣に、一人女が立っているのだ。
何処にでもあるような伸びた薄いワンピースを着て……しかし透明で薄汚れた傘をさしていた。
雨なんて降っていないのに。

これにベアトリスは明け透けに「ウワッ」という顔をして、スバルは「おっ」と慣れた視線を向ける。
またか、という顔である。
ベアトリスも日本に来て初めの方は流石にゾゾと鳥肌を立てていたものだが、スバルと毎日過ごすうちに慣れたのだ。
なんせ彼、三歩歩けば物の怪に出会い、四歩歩けば憑りつかれ、五歩も歩けば異界に片足つっこむのである。
歩く心霊スポットの名は伊達じゃない。

バスは停まり、扉が軋んだ音を立てて開く。
がしかし、女は一向に乗車しない。
ただ立って、扉を見つめているだけ。
傘に隠れて女の顔はハッキリ見えなかった。

「……」

そのうち扉は閉まり、何事もなかったかのようにバス停は遠ざかっていく。
しかし、どうにもおかしい。
先程からダラダラ同じ道を走っている気がする。

「ベア子」
「……。かしら」

難しい顔をして彼女は頷いた。
窓の外を手を繋いで見ていると、やはりというか。
先程と全く同じバス停についた。

標識の隣には傘を差した女がやはり立っていて、そこだけ雨が降っているみたいに影が落ちている。
つまりこのバスは、運動場のトラックをグルグル回っているみたいに、同じ道ばかりを繰り返し走っているのだ。

「おねーさーんっ」

窓をちょっと開けて、隙間からスバルは「乗らないんすかーっ」と叫ぶ。
返事は無かった。
やはりバスは女を無視して、またバス停を過ぎ去っていく。
ベアトリスは「マジかしら」という顔で彼の横顔を見て、「話しかけても大丈夫なのよ?」と心配そうに尋ねるのだった。

「うーん。分かんない。怪談とか怖い話とかじゃ、こういうのって大抵、話しかけるとマズいことになるんだけど」
「!?」
「でも話しかけなくてもどうせ憑いてくるしな。どうせなら意思疎通が出来るか確かめたい。仲良くなれるかもしれないだろ」

バカの顔で言った。
別に彼は怖いもの知らずというワケではない。
怖いものを知りすぎたというだけで。

「こりゃダメそうだな」
「どうするのよ?」
「一回降りてみる?」

三度ほど同じバス停と同じ女を見送った頃、スバルは困って眉をちょっと下げて、ベアトリスに提案した。
彼女も頷いて、彼の手を握り締める。

「怖い? 大丈夫?」
「……」

ベアトリスは無言で空に向かってジャブを打った。
平気だという合図である。
スバルはほっこり笑って、停車ボタンを押して(ベアトリスが押したがっていたので、彼女に押させてやった)バスから降りた。

夕焼け空と田舎道。
先程までいた筈の女の姿は何処にもなく、平凡で欠伸のでる草木が雑多に生えた畦道が広がっているばかりである。

二人は互いに「何かあっても俺がベア子を守るから大丈夫だろ」「何かあってもベティーがスバルを守るからへっちゃらなのよ」と似たようなことを思いながら、手をヒシ! と硬く繋いで、蛙の鳴く道をトボトボ歩いた。





「あちぃ~」
「あちぃのよ」
「アイスとか買ってくりゃ良かったな。この辺駄菓子屋とかないのか?」
「人っ子一人いないかしら」
「あ。お地蔵さん」
「オジゾー?」
「道祖神……守り神? みたいなの」
「このちいこいのがそうなのよ?」
「うん」

スバルはしゃがんで、赤い前掛けをかけた道端の小さなお地蔵さんに手を合わせた。お地蔵さんはチマッと二つ仲良く並んでいて、あまり手入れがされておらず、ちょっと苔が生えて汚れている。

「こんなチンケなもんがスバルを守れるとは思えんのよ」
「罰当たりすぎる……」
「……。スバルにはベティーがついてるかしら」

と言いつつも一緒に手を合わせている辺り、彼女は素直でないのである。誰に似たのだか。
二人は暫く目を閉じてお地蔵さんに手を合わせて、また手を繋いでダラダラ田舎の畦道を歩き始めた。
蛙と蝉がひっきりなしに鳴いている。
多分ヒグラシの声だろう。

「このセミ……? はどうしてこんなに煩いのよ」
「もうすぐ死ぬからかなぁ」

日本の風物詩である。
説明すると、ベアトリスはしんみりした顔で「儚いのよ……」と切ない声で言った。
スバルも「儚いな」と頷く。

二人は汗みずくになって、薄暗い田舎道を散策した。
山と田んぼと、膝丈ほどの草が生えた道しかないような場所である。変に蒸し暑く、常に何かの視線が付きまとう。
この辺りには街灯もないので、日が沈むとあっという間に辺りはドップリ闇に沈むのだ。

「暗いなあ」
「のよ」
「俺懐中電灯もってるよ」
「! ちょべりぐなのよ」
「それ何処で覚えたの?」
「スバルのパパに教えてもらったかしら」

スバルは懐中電灯を取り出して、スイッチを入れて灯りをつけた。
光に虫が寄せられ、暗闇の中に羽音と砂利を踏む音が響く。
彼らは首をキョロキョロ揺らしながら、田んぼの端をボチボチと歩いた。
「ここはどこだろう」という、勝手知らぬ顔で。

遠くで踏切が鳴っている。

「家……はあるけど。ありゃ空き家かなぁ」
「かしら」

老朽化しているし、人の気がない。
どうやらここは廃村らしい。
手を繋いで仰ぎ見て、数十年前には人が住んでいたであろう景色を見渡した。
彼らが歩いているのは一本道である。薄暗いせいもあり、先はよく見えない。
何処まで続いているのかは分からない。

「……。お」

雨が降ってきた。
山岳地帯は天気が変わりやすいのだ。
夜道を雨が濡らしていく。

スバルとベアトリスは「ひゃー」と言って、鞄からお揃いのレインコートを出していそいそ身に着けた。
用意周到である。
彼らはこれまで様々に巻き込まれてきたので、何事も事前に、石橋を叩いて備える癖がついてしまったのだ。
だから彼の鞄には電灯から携帯食料から鞭まで、多面的にモノが入っている。
何が身を助けるか分からないので。

夜に目立つピカピカした黄色の合羽を着て、肌が濡れるようなジメジメした空気を吸った。

「……」

無言で彼女の手を引く。
蝉の声、蛙の喉が膨らむような音。雨粒が地面に叩きつけられる音。草木が揺れる香り。
それから、誰かの足音。

ピチャ、ピチャ、と水溜まりを踏みつけているみたいな音がする。
ベアトリスのでも、自分のものでもない足音である。
さっきまで人なんていなかったのに。
木々の葉に雨の滴がぶつかって、ガサガサと水音が耳元で蹲っているような心地だ。
靴の中に雨水が染みた。

静かに振り返ってみると、やはり遠くに人が立っている。
あの女だ。
バス停に立っていたあの女。
真っ白な、不気味な女である。
女が雨降り注ぐ空の下、古びた傘をさして霧のように立っている。長い黒髪は首から垂れさがっているようだった。

スバル達は手を繋いで立ち止まって、ジッと女を見つめた。
女は動かない。
生きているのかも分からない。
いや、多分これは……。

「ベア子」
「かしら」
「逃げるぞ」

頷いて、彼はベアトリスを抱き上げた。
彼女も慣れたふうにヨイショと抱きかかえられる。スバルにピタ! とひっついて、彼女は女が立っていた夜の暗闇を見た。

女は消えていた。
暗闇に溶けるみたいに、初めからまるで居なかったかのように、何処にも姿は見当たらない。
が、しかし瞬きをした途端。

「ぎにゃッ」
「おお、」

先程まで遠くにいた筈の女が、すぐ眼前に立っているのだ。
傘の隙間から女の顔が見えた。
これを見て、流石にベアトリスも潰れた悲鳴を上げるのだった。

女の顔は高いところから落ちたみたいにひしゃげていて、顔面がグズグズで、崩れた肉塊みたいだった。
顔だけが〝そう〟だった。
雨に濡れた長い黒髪の下、顔の部分だけが潰れて砕けているのだ。目が元は何処についていたのか分からず、鼻が何処にあったのかも分からない。

そんな女が傘をさして、顔をこちらに向けている。

「スバ、」
「んしょっ」

ベアトリスが振り返るよりも早く、スバルは彼女を抱えて走り始めた。
雨の下、ザブザブと濡れた泥を蹴り走る音が響くのである。
二人はイエローのコートをバサバサ靡かせて、田舎道をひた走った。
「スバルっ」「後ろ後ろっ」「来てるの……きて、ん゛きゃァァかしらっ」とバシバシ背中をちっちゃな手で叩かれながら。

スバルは彼女を米俵を担ぐように抱えているので、彼女は見たくないものをバッチリ見てしまっていた。
スバルは女に背を向けて走っているので見えないが、彼女の絶叫実況のお陰で「ああ追いかけてきてんだなあ」ということだけは分かる。

どうやら追いかけられているらしい。
鍛えていて良かったなと思う。追いかけられるのは慣れているので、体力を残しながら逃げるのもお手の物である。

「む、ム。ムラクする(身体を軽くする)かしら!?」
「だいじょぶだいじょぶ。イケるイケる」
「あッ。来てるのよ! ヤベエのよ! やば……んキャアアァッ。アアァッ」
「え? 何? 何が起こってんの?」
「イヤアァァッ」
「何!? なに?」
「すばッ。はしっ。もっと走ってっ」
「え。あ! ムラク使ったな!」

身体にかかる負荷が軽くなる。
ベアトリスが魔鉱石を砕いたのだった。
ヒビ割れた透明な魔の水晶がキラキラ煌めいて、夜に儚く散っていった。ベアトリスの陰魔法は非常に強力であるが、如何せんコスパが悪いのだ。
たった一回の魔法の行使で、魔石は星空みたく輝いて夜の空気に溶けていった。

こうくるともう、走るよりも〝跳んだ〟方が早い。
スバルは僅かに重心を落とし、「ベア子!」とよく通る声で叫んだ。

「掴まってろ!」
「なのよ!」

立ち幅跳びの要領で足に力を込め、地面を蹴り飛ばすみたいにして二人は跳ぶ。
ムラクは重力を軽減する魔法である。
普段の何分の一にも軽くなった二人は大きく跳ねあがって、雨に頬を強く打たれて、人外の動きで空を跳んだ。

コートのフードの内側からベアトリスの淡い髪がもれて、風にはためいている。
それは月と全く同じ色である。
彼女の幼い美貌は、夜の黒の中で眩しい程に輝いていた。

「っ、」

遠くの木の幹に鞭を巻き付け、スピードを上げた。風が目の中に突き当たり、眼球が酷く乾く。

ゼェゼェハァハァ言いながら二人は一心不乱になって逃げた。
膝をついて、落ち着いて頬の水滴とダバダバ流れる汗を拭う頃には。二人は既に山のふもとに迷い込んでいるのだった。





「あ! 川ある!」
「カワ!」
「へぇーっ。んなとこに川あるんだ。やっぱ田舎ってスゲーっ」

丈の高い草とか木とかを片手で掻き分けて、二人は山を散策している。
その道中、浅い川を見つけたのだ。
スッカリ日が落ちて暗くなった山道の中、サラサラそよそよ流れる水の音を頼りに川を見つけて、子供みたいな顔をして二人ははしゃいだ。

「ベア子、魚。魚いる!」
「! 何処かしら!?」
「そこっ。足元!」
「あっ。いたのよ!」
「捕まえる? どうする?」
「つかまえるかしら!」

ほんの十数分前まで何やら怪しげなモノに追われていたというのに、驚くほどの変わり身の早さである。
彼らは切り替えが早いのだ。
トラブルに慣れているのである。

スバルは雨と汗でビシャビシャになったTシャツを脱いで、先端が二股に分かれたY字型の枝を探した。
これにTシャツをひっかけて、即席のタモを作る。

「ベア子、挟み撃ちしよ。挟み撃ち」
「合点承知の助かしら」
「追い込め追い込め」
「そっち行ったかしら!」
「とっ。……取った! 入った!」

キャッキャと笑いながら、小さな魚を何匹か捕まえた。
この辺りは夜も蒸し暑いので、頭から水を被ると涼しくて気持ちが良い。水も綺麗で、暗くてよく見えないが、チラホラ魚の影が蠢いているのが見えた。

「これ何だろ。アユ? アユっていつ獲れるんだっけ。夏?」
「ピチピチしとるのよ……」
「自然だねぇ」
「自然なのよ」
「まだ稚魚だし川に返すか。あ! ザリガニとか獲れるかな。あれ。ザリガニって汚え水でしか住めないんだっけ?」
「のよ」
「サワガニとかなら居るかな。よく見えねえな」
「あ! カニさんいたのよ!」
「え! どこどこ」
「そこかしら」
「あーっ。いた! アッハハ、威嚇された! 食うぞテメェ。唐揚げにすんぞ」

スバルは腰から懐中電灯を吊り下げて、手でカニを掴んだり水を足にサラサラかけたりした。
「バケツとか持ってくれば良かったな」「持ってきてどうするのよ」「カニとか魚とか捕まえて帰る」とダラダラ夏の空気を吸って、二人は仲良く喋っている。

「星見えねえなぁ。もっと天気がいい日に来れば良かった」
「かしら。スバルの星も見えるのよ?」
「そりゃ五月辺りかな」
「……。そういえば」
「ん?」
「〝アレ〟は何だったのかしら」
「んー、」

彼は下の唇を少し噛んで、ベアトリスの頭をグリグリ撫でた。
Tシャツのタモでバシャバシャ川の中をさらって、「分かんねーな」と顔についた砂を拭う。

「妖怪? でもないみたいだし。普通に怨霊じゃね? 恨み残して死んだとか」
「ヨ―カイ」
「まだ逃げ切れてもないしな」
「……。えっ」

ベアトリスは「えっ」と小さい声を出して、スバルの横顔を見てもう一度「えっ」と口を開けた。
彼は変わらず川の底を、キラキラ子供みたいな顔でひっくり返している。

「えっ。逃げ、」
「あ。何か見つけた!」

と大きくてきらきらしい声を出して、スバルは川からタモを引き上げた。
タモの中には細かくてザラザラした砂と、黒緑の水草と、それから何かキラキラと砂の中で光るものがある。

彼は目を狐みたいに細くして、タモの中身を半分だけ川の水につけて、砂を払って何か眩く光るものを取り出すのだった。

「何だこれ。んー」
「何かしら?」
「キラキラしてる。ピアス……あっ違う。指輪だ」
「指輪……」

砂をちょっとずつ取り除いて綺麗に綺麗に川の水で洗うと、それは華奢な指輪であった。
プラチナピンクの桜の飾りがついた、小さくて綺麗な指輪である。
電灯で照らして見ると、夜の蒸し暑い空気の中。指輪に小さく嵌められた宝石が、古めかしく輝いていた。

彼はこれを白いハンカチでピカピカと拭いて、満足そうな瞳で頷いた。
水面を覗くと、二人の間にボンヤリと白い人影が映っていた。真っ白で人形みたいな人影は、川の流れに沿うように歪んだり蠢いたりして見える。

「これ、お姉さんの?」
「……、」

スバルは水でチャプチャプ手を洗って、顔を動かさないままに話しかけた。
彼の隣に座って、ベアトリスは彼のズボンの裾をちっちゃく握っている。

「お姉さんのなら、渡したいんだけど……」

スバルは振り向いた。
女の姿はなく、やはりそこには沈黙のような暗闇があるばかりである。
これに二人は困った顔をして眉毛の端を下げて、やがて顔を突き合わせていそいそ帰り支度を始めるのだった。
服の水気を絞り落として、手を繋いではぐれないように山道を下っていく。

「……お、」

遠くに地蔵が見えた。
赤い布を首からかけた、古びた地蔵である。

二人は暫く考えて、地蔵の前にしゃがんで指輪を置いた。
パン、パン! と手を合わせて、重い沈黙を流して彼らは目を閉じる。
暗い夜の中、目を閉じていたのでハッキリとは分からなかったが……しかし確かに、背後に〝何か〟が立ち込めている気配がした。

「……」

数十秒経って。
目を開けると、そこに指輪は無かった。
指輪どころか地蔵すらなく、二人はあのバス停の標識の隣にしゃがんでいたのだった。
空はまだ薄赤く、燃えるような夕焼け空が広がっている。

車のタイヤが地面を擦る音が聞こえた。
遠くからバスがやってくる音である。

「……。帰るか」
「なのよ」

スバルは角ばった手の甲で、額から流れる汗を拭った。
彼はベアトリスの頭をちっちゃく撫でて、手を引いてバスに乗る。

彼女の肩に一枚だけ、桜の花びらがヒラヒラと舞い落ちた。
桜など何処にも咲いていなかったのに。

スバルはこれを彼女のポケットの中にソッと優しく仕舞って、また手で顔を仰いで「あちー」と目を閉じるのだった。





「なーんでテメェと同じ電車に乗らなきゃなんねえのかね」
「君が私を呼んだのだろう?」
「そうだけど?」
「やれやれ。屁理屈を捏ねるのも程々にしたまえ。君はもう子供ではないのだよ」
「へーへー」

悪態をついて、スバルは右を向いて頬杖をついて、右足をかすかに揺らすのである。
彼はユリウスと同じ車両の同じ電車に乗っていた。
間を僅かに空けて座って、騙されて病院に連れてこられた猫みたいな不貞腐れた目で、スバルは足を組んで景色を見つめている。

確かに彼を日本へ呼んだのはスバルであった。
スバルは日本で少し試したいことがあって、その為に協力者が必要だったのだ。
けれどまさか愛しのエミリアたんやレムやベア子を、スバルの試みに付き合わせるワケにもいかず。彼は考えて考えて、仕方が無いので顔をシワクチャにしてユリウスを呼んだのである。

「しかし二ホンとは興味深い国だな。このミーティア……確か〝デンシャ〟と言ったか。竜車よりも格段に速い。これは何を原動力に動いているんだ?」
「電気じゃね。昔は石炭だったけど」
「電気。こちらではしかし、魔法の一切が使えないのだろう」
「ん」
「マナを介さずに熱量を生み出すのか。その手段を安定して確立していると。成程。やはり君の古里は面白いね」
「そりゃ良かったね。……」

ウキウキしながらユリウスは窓の外を覗いて、逐一「あれは何かな」とか「今見えた建物は何だ?」とかを尋ねてくるのだ。
ユリウスは日本に来て騎士服を脱いで(目立つからである)、ユニクロとかジーユーとかで適当に買った黒いスウェットと細身のジーンズを着ている。

着心地が気に入ったようで、何着も様々な種類のシャツやらコートやらを買って、紙袋に詰めて彼はご満悦である。
持って帰って、多分あちら(ルグニカ)で非番の日に着るのだろう。それか、ラインハルトへのお土産なのかもしれない。

「イケメンは何着ても様んなるから癪に障るよな……」
「む。スバル。急に暗くなったが。これは何だ?」
「電車が地下に入ったんだろ」
「地下……」
「おう」
「……。地面を、掘削したということか? 魔法もないのに?」
「まあラインハルトも魔法使わずに素手で地面掘ってたしな」
「成程……!」
「納得すんなよ。化学の力だよ。あ、いやシャベルとかはテコの原理使ってるから物理学か? 俺文系だったからあんまり詳しくねえんだよ……」
「文系。文……文? 文学か?」
「おう。文学とかまあ、色々」
「ふっ」
「何笑ってんだテメェ」
「君に高尚な文学は似合わないなと」
「ハァ!? 馬鹿にしてんのか!? 俺だって詩くらい詠めるが!?」
「ふむ。ならば聞こうか」

スバルは怒ってノートの紙を一枚破って、ボールペンで雑に『俺は人間。ラインハルトも人間。遠くから見れば、腰の位置くらいしか差がないんだね』と書いてユリウスに渡した。
ユリウスは満足気に頷いて、紙を折りたたんで仕舞う。
意外に気に入って、「部屋にでも飾ろうか」と思いながら。

「つーか一々聞いてくんなよ」
「疑問に感じたことは何でも確かめないと気が落ち着かない性分なのでね」
「広辞苑買え」
「……。コウジエン?」
「日本の言葉なら何でも載ってる百科事典様だよ。……。何だその目は」
「それは、何処に行けば手に入るのだろうか?」
「変なスイッチ押しちゃったよ……」
「何処へ行けば?」
「本屋!」

知識欲のスイッチを押してしまったみたいだった。
キラキラした蛇の目みたいな金色に見られて、ゲッソリした顔でスバルは本屋へ立ち寄った。
都会の本屋は広く大きく、純文学からミステリから漫画から辞典に実用書まで、多種多様な書籍が揃っている。

ユリウスはこれを、今日一番の生き生きした、水をザバザバ浴びた魚みたいな目をして見て回った。
彼は本の虫なのだ。
ルグニカにある書冊はほとんど読み尽くした程である。
なので彼にとってこの本の群生地みたいな場所はあまりにも煌びやかであり、宝の山であった。
殆ど全てが二ホン語で書かれているが、彼にとってはそれも些細な障害に過ぎない。寧ろ翻訳する過程すら、ユリウスにとっては苦痛どころか喜びであるのだ。

彼はホクホクした顔で何十冊も本を買って、ニコニコしながら店を出た。危うく「ここからここまで全て下さい」と彼が言いかけたのをスバルが必死に止めた程である。
スバルもベア子に頼まれていた漫画を数冊買って、二人は紙袋をいっぱい両手にぶら下げてコミケの帰り道みたいになって、再度電車に乗るのだった。

「疲れた……テメェのせいで道草食ったろうが」
「道草など。とんでもない。素晴らしい収穫だった」
「ハッ」

スバルは鼻だけで笑って、すっかりガラガラに空いてしまった電車の席にドッカリ腰かけた。
紙袋を膝の上と足下に置いて、彼は「お前と居るとロクな目に遭わねー……」と機嫌を損ねた子供みたいに目を険しくするのだ。
ユリウスはそれを気にするでもなく、涼しくて綺麗な顔をして、買ったばかりの梶井基次郎の本をペラペラ捲って呼んでいる。

窓から差し込む明かりは薄暗い。
腕に付けた時計を見ると、既に夕方である。
すっかり遅くなってしまった。
何処かのブッキッシュのせいで。

「……」

カタカタ揺れる車内の中、彼は大きく口を開けて眠たそうに息を吐いた。
隣で閑静に本を読む美丈夫を一瞥もしないまま、スバルはパチパチ黒い眼を瞬かせる。
車内は静かであった。
自分と彼の呼吸音だけの中、カタコト些細に動く車内の中。

「……、」

スバルはおもむろに窓を見つめた。
腕を冷たい窓枠について外を眺めると、丁度電車がトンネルの中を通り抜けたところであったのだ。
これを見て彼は「あれ?」と首を不思議に傾けた。

こんなところにトンネルなんてあったっけ、と思ったのである。
彼はいつも高校へと通学する際にこの道を通る。この時間帯にこの電車に乗るのだ。
がしかし、普段はトンネルなど通らない。
この道に見覚えは無い。……。

「何処だここ」

首を僅かに斜めに曲げて、彼は目を細くした。
ユリウスは本を閉じて、透明な息を吐いて「……君が分からなければ私には為す術がないのだが?」と厳しくて冷たい目を彼に向ける。

「いや。イヤイヤ。さっきまでは分かってたっつーの」
「スバル。私は今日初めて二ホンへ訪れた。故にここらの地理には疎いのだよ。君を頼りにしている。していたとも」
「過去形にすんなバカ」
「……。道に迷ったのか?」
「いやー。どうだろうこれ」

迷ったというよりは、迷い込んだって方が正しいかも。
スバルは右手の爪で頭の端をカリカリ掻いて、赤くなった空を見て、「うーん」と困った声を出した。

空は血をぶちまけたようにドス黒く、赤い。
首を搔き切ったみたいな色彩である。
肺がズッシリと重くなるような空気の中、雪の日みたいにガラスに張り付いて。彼は「また何か面倒事に巻き込まれたな」と口の端っこをヘニャッと曲げた。
よりによってコイツがいる時に。
ああ、最悪だという顔である。

「マジで何処だここ。何処に向かってんの?」
「デンシャに操縦者は居ないのか?」
「いるぜ。前の車両に」
「ふむ。尋ねてみては?」
「恥を忍んで?」
「恥を忍んで」

二人はフラフラと不安定に揺れる車内を歩く(ユリウスは体幹がしっかりしているので一切ブレずに爽やかな顔で歩いていたが)。がしかし、運転席には遮光幕が下りており、扉には鍵がかかっていて開かなかった。

「駅員さーん」と大きな声で呼びかけてみたが、返事もない。
こりゃダメそうだなと思って、彼は手すりを持ったままブラブラ揺られている。
と、その時。


『次はきさらぎ駅。きさらぎ駅』


アナウンスが流れた。
男とも女とも言い難い、判別のつかない平淡な声である。
二人はこれを聞いて「ん?」と腕を組んで首を傾げるのだった。

「きさらぎ駅……?」
「キサラギ……」
「んな駅あったっけ?」
「駅というのはこのデンシャの停車場……のようなものだったか?」
「おう」

アナウンス後。暫くして、電車は音を立てて揺れて停まった。
そこは無人駅である。
電車の扉がガスが抜けたみたいな音を立てて開くのをボケッとした顔で眺めて、スバルはその後にユリウスの陶器のような横顔を見る。

「んー……」
「どうする? 他に乗客は居ないが」
「これ発車したら何処行くんだろ。このまま乗り続けていいのか……? 変なとこ連れていかれたりしねえ?」
「降りるのか?」

スバルは頷いて、扉をくぐって無人駅に降りた。
まあ最悪何かあっても走って逃げれば大丈夫だろ、という気持ちで。
ユリウスもいるし、魔法が使えなくてもその身体能力は健在である。

古びた駅看板には『きさらぎ駅』と書かれていた。
それ以外には何もない。
人どころか、時刻表や遮断機すらもなかった。
雲一つない赤い空は絵画のようでもある。
カラスの声だけが聞こえた。

「次の駅も書かれてねえし……。変なとこに来ちゃったな」
「ふむ。二ホンではよくこのようなことが起こるのか?」
「俺の周りでは結構?」
「危険だな。騎士は巡回などをしないのか?」
「騎士いないし……」
「何」
「昔は武士がいたけど。今はもう……やめろ。目をキラつかせるな」
「ブシ……?」
「目をキラつかせるな」
「ブシドウ……?」
「何処で覚えたんだよそれ」
「先程イナゾウ・ニトベのブシドウという本を買ったばかりでね。ルグニカに帰って読み進めようと思っていたところだ」
「まあ好きそうだよなお前は」

手に持った紙袋をブラブラさせながらきさらぎ駅を歩く。
古く赤く錆びた駅は簡素である。
重たくてぬるい風を浴びて、ユリウスは湿った空気を吸い込んで目を細くした。

「自販機もねえ。何もないのか? ここ……」
「ふむ。何やら嫌な空気の場所だね」
「お。携帯圏外で使えねえ」

数十分も居れば肺がドッシリ重たくなって歩けなくなるような、通夜のごとき濁った空だった。
ただ歩いているだけで、何かに何処かへ引き込まれそうというか。後ろから真っ暗な手が幾つも伸びてきそうというか。
パカッと携帯を開いて、『圏外』の文字を確認した彼は困った顔で口を半分だけ開けている。

駅にはベンチも、ゴミ箱もない。
見晴らしのよい空間である。
何もない未開の土地をキョロキョロ物珍しそうに見回して、彼らは「ホントに何もない」「何もないな」「何もなさすぎて寧ろテンション上がってきたな」とダラダラと残暑の声で喋った。

「ここは異空間なのか?」
「分かんね。あの世とかじゃねえよな?」
「だとすれば長く滞在するのは好ましくないのでは?」
「わぁーってるって。つーか腹減ったな。さけるチーズとか持ってない?」
「君のその肝の太さには呆れを通り越して最早尊敬の念すら覚えるよ」
「図太くならなきゃ生きていけねえだろうが」

ユリウスからもぎとった非常食を食べながら、彼は線路の端を歩いている。
丈の短い草を靴の底で踏み潰して、モッチャモッチャと口を動かして、スバルは図太くて無神経な顔で辺りを見回した。

さてどうやったら帰れるかな、と彼は思う。
電波も届かないし、電話もできないし。
外部と通信するのは無理みたい。
腕に付けた時計の針も先程から進んでいないし、やはりこの駅は何処かおかしいみたいだ。
家にいるベア子を待たせたくはない。
ここでコイツとウロウロいつまでも彷徨うのも御免である。

「スバル、異空間へと飛ばされた・もしくは通過した経験は?」
「ルグ二カでは数度。こっちに帰ってきてからは割と」
「君の人生は波乱万丈だな」
「今更?」

彼は顔をゆっくり上に向けた。
空が少しずつ明るくなってきた気がする。
彩度が高くなっているというか。
原色のような赤がのっぺりと広がっている。

スバルはふと、後ろに振り向いて顔を傾けた。
遠くから〝何か〟の音が聞こえてくるのだ。

「……。何の音? これ」
「ふむ。カララギの膜鳴楽器の音に類似しているね」
「ああ。太鼓か」

それは太鼓の音色だった。
ドォッ、ドオッ、と、耳の底を揺するような低い音が、線路の遥か向こうから響いてくるのだ。
一定の間隔で鳴るそれは物凄く低くて、夜の祭りでしか聞かないような音だった。
その合間には鈴が鳴っている。

「何? 祭りでもやってんの?」
「祭り……」
「お祭りかあ。いっぺんベア子を連れてってやりたいな。ベア子絶対屋台とか好きだもんな。今度浴衣でも買いに行くか……」
「君の故郷の祭りか。どのようなものなのかな?」
「一般的な夏祭りっつーと、屋台を楽しんだり花火を見たりがメインだな。踊ったりもする」
「ほう」
「……。そういや自分の名前は言えるか?」
「ユリウス・ユークリウスだ。ルグニカでは『最優の騎士』と呼ばれることもあり、我が主アナスタシア様に一の騎士として仕えている。趣味は魔法についての見識を深めることだ。しかし最近は蔵書が書斎に収まりきらなくなってね。新しく別荘を買ったんだ」
「自己紹介ありがとう。お前のトピックスには興味ねえけど」
「ふ。どうも私は人に忘れられやすい性質でね。少しでも覚えていてもらえると助かるよ」
「暴食ギャグやめろ」

とんだ自虐ネタである。
「そういうのは俺の持ちネタなんだよ……」とよく分からないところでキレて、彼は真っ黒な髪をゲシゲシ軽く掻いた。

こういう場所に迷い込んだ場合、スバルは真っ先に「自分の名前を憶えているか」を確認するようにしている。
忘れた場合ロクなことにならないからだ。
大抵は帰れなくなる。
名前とは自分の人生そのものなのだ。それを嫌という程スバルは知っている。多分ユリウスも知っている。

「……」

ザクザク足音が立ち込める中。
二人はピタ! と揃って足を止めて、長い睫毛を上に下に動かすのである。
背後から声をかけられたのだ。

「線路の上を歩いちゃ駄目だぞ」

と、古びたおじいさんの声で。
それは何処にでもあるようなシワがれた声であり、普遍的な音質であった。
ユリウスとスバルはビックリした顔で振り返り、目を丸くした。

そこには片足だけのおじいさんがいた。
彼は木でできた杖をついて、フラフラ舟を漕ぐみたいにして不安定に立っている。
その顔は有り触れた老人のものである。
ユリウスはこれを見つめて、それからスバルの横顔を見た。
彼は眉を少しだけ寄せて、紙袋を抱えたままボケッとした目をして線路の端に立っている。

「……、」

再び顔を片足の老人に向けた時、既にそこには誰もいなかった。煙がフッと空気に霧散するみたいに、スッカリとおじいさんは消えていたのだ。
ユリウスはちょっと頬を硬くして、「……今のは何だ?」と傾いた太陽の下で不思議っぽく言う。

「線路の上の妖精さんだろ」
「邪精霊か……」
「納得すんな」

暫く線路に沿って歩いていると、トンネルが見えた。
トンネルの中は底なしに暗く、先が見えない。
不透明な暗闇は泥沼のようである。
スバルは「あーあー」と間抜けに声を出しながら(反響するのが楽しいので彼はトンネルに入るとこれを毎度やる)ユリウスのちょっと前を歩いた。

トンネルには『伊佐貫』と書かれていた。
これもまた聞き覚えの無い地名である。
ユリウスは勿論漢字が読めないので、彼らは「これは何と書いてあるんだ?」「イサカン……? イサヌキ、イサツラ?」とかを首を傾げながら喋った。「カンジとは複雑なものだな」とユリウスも頷いて、綺麗な顔をトンネル内へと向ける。

「……ぞ」
「何か太鼓の音デカくなってね?」
「ああ。……?」
「ん? 何」
「今、何か声を上げたか?」
「いや」

スバルは首を振って、「何?」ともう一度言った。
ユリウスは苔の生えた暗いトンネル内を見渡して、そして更に整った浅紫の眉をキュッと寄せるのだった。

「危ないぞ」

先程よりもハッキリと声が聞こえる。
それはしゃがれた老人の声だった。
今度はスバルも聞き取れたようで、彼は頭の後ろを擦りながら天井とか壁とかをジロジロ見回している。

「線路の上を歩いたら危ないぞ!」
「っ。お、」

大きく耳元で叫ばれた瞬間、スバルは後ろからグッと何かに首を掴まれて、強い力で引き倒された。
が、横にいたユリウスが倒れる寸前で何とか支える。

「大丈夫か?」
「……ハイハイ別に? お前に引っ張ってもらわなくても自分で受け身くらい取れましたけど?」
「素直に礼も言えないのか。君は」

彼は掴まれた首の辺りをさすって、振り返ったり足元を見たりしながら不機嫌にザカザカ地面の砂利を踏みしめている。
やはり背後には誰もいなかった。
何に首を引かれたのか分からず、しかし彼にとってはよくあることなので「またか……」みたいな顔をしている。

「このトンネルいつまで続くんだろ」
「もう随分な時間歩いているが」
「な」
「何処もこのようなものなのか?」
「いやぁ。普通は数分歩いたら抜けるんだけど」
「……あ」
「お」

太鼓が強くドンッ! と鳴った。
ピカッと目の前が光って、スバルは手の甲を目の辺りにかざして目を眩し気に細めるのである。
出口が見えたのだ。
目を焼くような強い光がトンネルの先から差し込んでいる。
今まで数十分も海の深いところみたいな暗闇に閉じ込められていた彼らにとっては、目を焼くような眩さであった。

祭囃子の鈴の音はトンネルを抜けた途端にパッタリと止み、火が付いたみたいな空の下には暗闇のような静寂が広がっている。
トンネルの外にはアッサリとした空気があった。湿り気がなく、サッパリしていて、田舎道の空みたいに澄んでいて綺麗だ。
嫌な気がサッパリ落ちたみたいで、それだけで幾分か肩が軽くなる。

「うーん。どうなんだろう。これ。抜けたのか?」
「……あ」
「何」
「何か今音がしたなと」
「え。なに」
「竜車のような……」
「あ! 道路あるじゃん!」

見ると、線路の向こうに無機質な道路がある。
数台車が音を立てて通過するのも見えて、二人は紙袋を抱いたまま道路へ向かってテクテク歩くのだった。

「電波届くか? あー。圏外」
「……。結局君は何処へと向かいたかったんだ?」
「この近くの廃ビル」
「廃ビル?」

ユリウスは首を傾けた。
「そこで何をするんだろう」という目である。
スバルは彼を見ないまま、「俺ここらの道とか分かんねえぞ」「大体俺方向音痴だし」と眉の間に薄らとシワを作っていた。

「えぇー……。この山道歩くの?」
「仕方がないだろう」
「お前俺にムラクかけろ」
「私はベアトリス様ではないのだが?」
「ヒッチハイクとかできねえかな……」
「? それは何かな」
「通りすがりの車にタダで乗せてもらうこと」
「……。些か不用心ではないのか?」
「ここルグニカじゃねえんだし……」

そもそも、スバルの周囲が捻じ曲がっているからこそこうして頻繁に怪奇現象に巻き込まれているだけであって、日本は世界でもトップクラスに治安のよい土地である。
次々に通りすぎていく自動車・トラックをチラチラ見つめて、二人は道路の端を疲れた顔で歩いている。

「おーい!」

その時。
声をかけられた。

少し低い男の声だった。
声の主を見ると、それは中年の男性である。
白くて所々塗装の剥がれた、年季の入ったトラックに彼は乗っている。運転席の窓を大きく開けて、身をちょっと乗り出して大きな声で「看板見なかったのかっ?」と叫んでいた。

これにスバルとユリウスは顔を合わせて、「看板?」「そんなのあったっけ?」「いや……」と視線だけでコソコソ喋るのであった。

「ここは歩行者通行禁止だぞっ」
「え」

二人は再度顔を合わせた。
トラックに乗ったおじさんはちょっと眉を上げて、「看板。あったろう?」と首を不思議に傾げて言う。

「看板っつっても……俺たちトンネルから来たしな」
「トンネル?」

おじさんはハンドルに手をついて後ろを向いて、また二人を見る。
彼は暫し目を瞬かせて、「アンタら何処から来たんだ?」とちょっと不気味なものを見る目で言った。
振り返って見ると、成程確かに先程まであった筈のトンネルは何処にも無い。
さっきまで確かに歩いた筈なのに。
そこを通ってきた筈なのに。
そこには線路もトンネルもなく、ただ曲がりくねった道路が延々と続いているだけである。

流石にユリウスも虫を奥歯で磨り潰したような顔をして、スバルはこめかみをカリカリ爪で掻いて、「あー。えと。すんません」と頭を下げてペコッと謝った。

「……。乗っていくか?」
「え!」
「ここらじゃあんまり車も通らないしなぁ」
「いんすか?」

おじさんは快活に笑った。
人の好さそうな笑顔である。
このまま二人を放っておくのも忍びないらしい。
おじさんは道路の脇にトラックを止めて、車のドアを開けてくれた。

が、まあトラックは二人乗りである。
スバルはおじさんを見て、ユリウスを見て、目をパチパチさせて。ユリウスに顎をクイッと向けて「お前前乗れよ」と言った。

ユリウスは「え」という顔をして、しかし無理矢理に前の座席に詰め込まれる。
彼の持っていた紙袋(本入り)を取り上げて、スバルはトラックの荷台に「んしょ」と乗り込んだ。
「歩かずに済んで良かった」という目で額の汗を拭って。


「……」
「……」

さて車内、地獄絵図である。
知らない会ったばかりのおじさんと二人きりで閉じ込められた彼は、流石に気まずげにサイドミラーやガラスを見て、手の甲を揉むばかりであった。
トラックは山道をゆっくりと下っている。
窓からは山々の緑がクッキリと見えた。

ユリウスはしっかりとシートベルトを閉めて、おじさんと「あんちゃんは外人さんかい? 綺麗な顔してんねえ」「ありがとうございます」「どっから来たんだい?」「ルグニカという国から」と言って生真面目な雑談を続けている。

「ルグニカ? 聞いたことない国だね」
「二ホンからとても遠い所にあるので」
「そりゃはるばる大変だったろ」
「……。ええ。まあ」

本当はベアトリスの陰魔法で転移して来たので一瞬のことだったのだが、魔法やら転移やらと言っても伝わらないだろう。
彼はなので、静かに頷いた。

「にしては日本語が上手だね。昔こっちに住んでたのかい?」
「いえ……」

ガタガタと車内が揺れる。
少し道が険しくなってきたのだ。
その間スバルは荷台に寝っ転がって、時折空を眺めながら今週のジャンプを読んでいた。
家のリビングみたいな感じで、仰向けになって彼はリラックスしている。

「……」

ユリウスはフッと真っ白な顔を窓の外へと向けた。
……何だか、段々と山の緑が深くなってきた。
山の奥へと進んでいるのだ。
コンクリートの黒が僅かになり、代わりに地面が剥きだしになった獣道が辺りを占めるのである。
空はもう暗く、星が砕けたみたいに小さくキラキラと輝いている。

「……。あの」

暫くして。
閑静で狭い車内で、彼は流石におじさんの横顔に話しかけた。
辺りに街灯は無く、どう見ても辺境である。
何処へ向かっているのか分からない。
元居た駅から遠ざかっている気がする。

「あの、」

返事がない。
呼吸音だけが車内に響いている。
おじさんは握り締めたハンドルに額がくっつく程に俯いて、何やら小さくてぼやけた声で何かを喋っていた。

「……、…、……」

その声は音質の悪いマイクのように途切れて聞こえ、モールス信号の如きである。
薄暗くてよくは見えないが……その顔色は炙られて焦げたみたいに赤黒く、血が目に溜まっているみたいな顔つきであった。
どう見ても〝普通〟でない人間の顔。

「!」

ユリウスはビク、と目を大きくする。
おじさんはいきなりハンドルの真ん中に頭をぶつけたのだ。
それも凄まじい勢いで。
ガン! ガンガン! と何度も額をぶつけ、その度にけたたましくクラクションが鳴る。
その耳を裂く音は、暗闇によく響いた。

「…ぁ~~……、ぁ、ぁ…」

あまりに強く打ち付けた為か。額から血がブクブクと流れている。
それは暗い夜の中でも一等ドス黒く、油のようにギラギラと光って見え、車内には豚の肉が腐ったみたいな匂いが強く漂うのだ。

「ぁ、~……、…」
「っ、スバ、」

ユリウスは後ろに乗っている友人の安否を確認しようとして、大きくてよく通る声を出した。
しかし窓が閉まっているために、聞こえているのか分からない。
開けようにも、何処のボタンを押せば開くのか分からなかった。彼は車の仕組みをよく知らないのだ。

車の扉にはいつの間にか鍵がかかっている。
仕方が無いのでユリウスは長くて鋭い脚を振りかぶって、車のドアを蹴り飛ばした。
凄まじい音を立ててひしゃげた扉は転がっていく。

「えっ」

突然扉がなくなった前方の車体を見つめて、スバルはちょっと困った顔で「えっ」と再度言った。
彼は先程からクラクションがブーブー鳴るので、「故障でもしたのか?」と漫画を膝の横に置いて、ソワソワと前を見つめていたのだ。

すると突然に横の扉が吹き飛んで、そこからユリウスが上体だけ乗り出して、

「クルマは如何すれば止まるんだっ」

と切羽詰まった声を上げるのである。
スバルは「え、」と言って、「ブレーキ踏めば止まるけど」と膝を抱えたまま荷台の上で言う。

「ブレーキっ?」
「え。何だ?」
「何処だ? それはっ」
「ま、真ん中!」
「真ん中っ?」
「足下! 運転席の……右は踏んだら駄目だ!」

ユリウスは右を向いた。
おじさんの足元を見て、何かペダルのようなものがあるのを見つける。
がしかし、彼が居るので容易に踏むことなど出来ない。

おじさんは油の足りない機械みたいな動きで、ユリウスの方へとゆっくり、ゆっくり顔を向けた。
彼の顔には眼球がなかった。
目の部分が窪んでおり、地獄の底みたいに暗く沈んでいる。
目玉のない空洞でユリウスを見つめ、彼は黄ばんだ歯を露にしていた。

「っ、」

ガガガと車体が削れる音がする。
多分木などにぶつかっているのだろう。
障害物を避けることもせず、ガツ、ガン、と軋んだ音を立てて車はスピードを上げていく。

ユリウスは「マズい」と思った。
近くで波の音が微かに聞こえる。
これは恐らく……崖へと向かっているのだ。

「……、」

このままこの速さで崖から落ちればどうなるか。
彼は仕方が無いので、運転席のメーターの部分を拳で叩いた。ガショ、と嫌な音を立てて、トラックの前方部分が潰れる。

魔法が使えないので、もう力技である。
そもそも異世界では「力こそパワー」みたいな人たちばかりだったので、皆困ったときは筋力に頼る節があるのだ。

コテンパンに壊されたトラックは流石に変な音を立てて停まり、男は呻きながら、涎をダラダラ血のように垂らしながら、ユリウスへと手を伸ばす。
これを頭を下げてヒョイと躱し、彼は扉の無くなったトラックから颯爽と降りるのだった。

「おま、壊したの!?」
「やむを得ず!」
「え。え……おじ、おじさん怒ってないの!?」
「おこ……? 怒ってたかもしれない……」
「マズいだろそれは!」

慌ててスバルも荷台から飛び降りて、壊れて停止した車とユリウスの横顔をチラチラ交互に見るのである。
器物損害ではないか。
壊しちゃったのか。
マジか。
怒ってたんじゃないのか。
訴えられたら負けるんじゃねえか。

……いや、訴えられないか。
どう考えても人間じゃなかったし。
人は見かけによらないんだなあと思う。
普通の人間に見えたのに。

「あ!」
「何だっ」

クルマを背に逃げながら、スバルは大きな声を出した。

「本!」
「本?」
「お前が買ったやつ荷台の上に置いてきた!」
「えっ」

ユリウスはガラスの如き目玉をギョッと丸くして、首を回して後ろを振り返った。
折角買った本である。
帰って大事に大事にニコニコしながら読もうと思っていた本。
ショックを受けた顔で彼は後ろを見て。

「……あ」

とポカンとした声で言った。
スバルは「何!」と眉を吊り上げて口を曲げて、彼につられるみたいにして同じように振り返る。
そしてスバルは、同じような顔で「あ」と母音だけを発するのだった。

何故か。
トラックが燃えていたからだ。

「もっ。燃えてる!」とスバルは今日一番のビックリした声を出して、ユリウスの横顔に「燃えてる! 燃えてるぞ!」と野次馬みたいに叫んでいる。
が、まあ当たり前である。
ユリウスは全力で車体をブッ叩いた。
これは最早、鉄の壁に衝突したも同義の衝撃なのだ。
お陰で損傷が激しく、漏れたガソリンやら何やらにアッサリ火がつき燃え盛っているというワケである。

「あーっ! ヤバいヤバい! 山火事! これ山火事になる! どうしよう! しょっ。消火! 消火しねえと!」
「み、水魔法……」
「使えない!」
「あ、あの男性はっ?」
「あッ」

そうだ。
車の中にはおじさんが乗っている。
どう考えても怪異の類だったけど、彼はしかしぬいぐるみやら大蛇やらなどとは違って人型だったので、抵抗感が強い。
人間を燃やしてしまった気分になる。

スバルは「マズい!」という顔をして、助けに行こうと踵を返した。

「おッ? お、あ、えっ?」
「何だッ?」
「は。走ってきてる! コッチ来てる!」
「えっ」
「お、おじさん! 来てる! ウワッ! すげえ燃えてる!」

おじさんは全身に火をつけたまま、火だるまになったまま二人を追いかけて走ってきていた。
火葬された死体が走っているみたいな有様である。
暗闇の中で赤く光りながら、彼は喉の奥から「ゴウゥ」と獣のような呻き声を上げている。
その目は二人を奈落へ引きずり込もうとしているみたいに真っ暗だった。

「あっ。熱くねえのかなっ」
「気にしている場合ではないだろう!」

ほとんど転がるみたいな感じで、彼らは山道の急斜面を走って逃げていく。
耳がキンと煩く鳴る。
背後で爆発音が聞こえたのだ。
バッテリーに溜まった水素ガスに火が付いたのである。

カッと辺りが光るのに彼らは目を瞑り、無我夢中で走り抜けた。

「……」


膝をついて、肩で息をする。
彼らの服は薄く焦げており、顔は汗やら何やらでビッチャリ汚れていた。
折角買った服にも煤がついている。
しかし彼の美しい顔はちょっとも輝きを失わず、憎たらしいばかりである。

「……あ」

ユリウスは小さく口を開けた。
目を擦り、辺りを見回すと。
カンカンと遠くで音が聞こえたのだ。
踏切の無機質な音だった。

顔やら首やらをタオルで拭いつつ、彼らは音を頼りに道を歩く。
後ろを振り返っても、ちっとも山は燃えていない。至極静かであり、あれだけ凄まじい爆発音がしたというのに、空気は揺らぎもしていなかった。

二人はやっと〝きさらぎ駅〟から抜けたのだ。

「……、」

ユリウスは人差し指と親指でクッと眉の間を揉んで、酷く疲れた人間の顔をしてちょっと俯くのであった。

「本……」
「諦めろ」





「着いたぜ」

スバルは顎でビルを指した。
二人はあの異界の駅から生還後、面倒事に巻き込まれて死ぬほど疲れた人間の顔をして、当初の目的地であった廃ビルへと向かったのだ。

「ここは……」

ユリウスは眉の間に薄くシワを作って、廃ビルを見上げる。
そこは使われなくなってからまださほど年月の経過していない、未だ取り壊されていない廃ビルである。
彼はこのような高層の建築物を見たことがなかったので、「ほう……」と言って目を狐みたいに細くした。

「中々見つかんなかったんだぜ。俺の探してる条件に合うとこ。勝手に入ったら怒られるところがほとんどだし……」
「君は廃ビルと言ったね」
「おう」
「もう使われてはいないのか?」
「ああ。そうだよ」

彼はウンと頷いた。
人の気のないビルの廊下を歩き、スバルは靴をキュッと鳴らして立ち止まるのである。

ユリウスは「何をするつもりだ」という顔で彼を見つめた。
彼は何も聞かされないまま、ここまで連れてこられたのだ。
ま、スバルが言葉足らずで説明不足なのはいつものことである。それで彼が何度内政官に「報連相を徹底しろ」と怒られていたことか。
彼の学習能力は乏しいのだ。

「ちょっと〝試したいこと〟があってな」
「? ふむ」

スバルは黒くて細い猫みたいな目を彼へと向けた。

「異世界エレベーターを使ってみたい」

と、頬の辺りを掻きながら言って。
ユリウスは数秒彼を見たのち、僅かに右に首を傾けた。サラサラと絹糸のような髪が流れ、彼は「……?」と謎めいたものを眺める顔をしている。

「異世界とは……。ああ。そうか。君にとっての〝異世界〟とは確かルグニカのことだったね」
「ああ」
「ふむ。ならばそのエレベーターとは?」
「これだ」

彼は親指でグイッと何やら扉のようなものを指した。
古びた銀色の扉であり、金属でできている。
その隣にはボタンのようなものが幾つかあった。
無機質であり、扉は沈黙のように閉ざされている。

「これが、エレベーター?」
「おう。ここのボタンを押すと開いて、移動するときに使う。まあ便利なミーティアみたいなもんだよ」
「ふむ。君の故郷にはそのようなものが……」

彼は顎に手を当てジロジロとエレベーターを眺める。
未知と出会った者の顔つきで。
「仕組みを知りたいな」という目だ。
どうなっているんだろう。何故魔法もないのに勝手に動くのだろう、と彼は思っている。

これがベアトリス相手ならばニコニコしながら「ここはこうなってアレがこうで……」と一々細かに説明するのもやぶさかではないのだが。
ユリウスにそんな面倒なことをする義理もなければ好感度もないので、スバルは後ろ髪を触りつつ、サクッと説明を始めるのだった。

「日本にゃマナがねえだろ。だから帰るときには魔鉱石を使って、ベアトリスの陰魔法で転移するしかねえじゃん」
「ああ。そうだね」
「でもそれってすげえコスパ悪ぃだろ? ロズワールの懐が寂しくなるのは別に痛くも痒くもねえんだけど……。だからって、魔鉱石をむやみに使うのも良くない。アレ貴重だし。無限に湧き出てくるワケでもねえんだし」
「ふむ」

ユリウスは生真面目に頷く。
スバルは人差し指を立てて、「でさ」と言った。

「俺って自慢じゃねえけど、日本に帰ってきてから色んな怪奇現象に巻き込まれてきたんだ」
「本当に自慢にならないな」
「それを解決してる内、色んな怪異の噂やら都市伝説やらが舞い込んでくるようになった。そのうちの一つが〝異世界エレベーター〟だ」
「……」
「何でもとある手順を踏んでエレベーターに乗ると。あらま仰天、あっという間に異世界へつくらしい」
「……」
「それがホントならこれ程便利なモンもねえ。何たって一々魔石を砕く必要がなくなるワケだからな。まあ眉唾モンの都市伝説だが」
「……、」
「ホントは俺が乗って試そうとしたんだが、万が一無事にルグニカについちゃったら大問題だろ? 俺は嫉妬の魔女から逃げる為にここに来たってのに」

話を聞くうち、ユリウスは段々と頭を抱え、目の辺りをアイマスクみたいに手のひらで覆った。

「でさ! ここで一つ提案なんだが」
「……。待て。スバル」
「? 何だよ」
「まさかとは思うが。……私にその異世界エレベーターとやらを試せと言うのではあるまいな?」
「おお。物分かりが良いな」

何の悪意もない顔で彼は笑った。
ユリウスはちょっと頬を強張らせて、「それは……」と難色を示す声を上げるのだった。
だってそれ、本当に帰れるかどうか分からないではないか。
安全の保障はない。
帰れる保障もない。

彼は今先程きさらぎ駅へと迷い込んだばかりだ。
なので、怪異が現実に存在するということを身に沁みて感じている。
彼のいう方法を試せば、本当に異界に辿り着くのかもしれない。
が、その異界が「ルグニカ」であるという確信は何処にも無いのだ。五体満足で帰れるとは限らない。……。

「これがその手順のメモなんだけど。……」

スバルはポケットからガサゴソと紙を取り出した。
そこには何やらツラツラと書きこまれている。

『①まずはエレベーターに乗る』
『②次に4階・2階・6階・10階と順に移動する』
『③10階についたら、降りずに5階を押す』……。

これらがビッシリと、ご丁寧にイ文字で書かれていたのだ。
項目ごとに注意書きや但し書きも添えられている。
聞けば聞くほど怪しい。

「俺の可愛いベア子を乗せるワケにも、まさかエミリアたんやレムにお願いするワケにもいかねえだろ?」
「……」
「ラインハルトに頼むってのも考えたけど……。アイツってそういうのに対する耐性がEXってカンジあるじゃん。歩いてるだけで弾きそうっつーか。歩く結界みたいな。傍に寄るだけで浄化しそう」
「確かに……」
「消去法的に残ったのがお前ってこと」

オットーはどうにも不幸体質なので戻ってこられなさそうだし、我らが可愛い弟分を放り込むのもアレだし。
考えて考えて、仕方が無いのでユリウスに頼むことにしたのだ。

「この方法を試し、実際に生還したという実例や証言は?」
「あ? ないけど」

あっけらかんと言われた。
寧ろ清々しさすら感じる声である。

「ま、お前なら何かあってもどうにかできるだろ」
「……」

ユリウスは眉の間にシワを作って、親指の腹でグッと押した。
信頼に頭を殴られた感じだ。
サラッと軽く重い期待を投げつけられて、彼は得も言われぬ顔で下を見て横を見て、シリアスなため息を吐いた。

「……。仕方ない」

友人の頼みだ、とユリウスは苦く言った。
手書きのメモと扉とを交互に見つめて、彼は「無事に帰れるといいのだが」と苦労した人間の顔で思うのである。

「大丈夫だろ。あの監視塔からも無事に帰れたんだぜ? もう怖いものナシだろ」
「ふ。君は帰れなかったがね」
「俺のヴォラキアネタを弄るんじゃねえよ。あそこスッゲェ怖かったんだぞ。笑い話にするにはあと数年かかるぞ」

エレベーターの扉が機械的に開いた。
スバルは四角い空洞の中にグイグイと彼を押し込んで、それからパッと思い出した目で「あッ」と言う。


「多分途中で女の人が乗ってくると思うけど、絶対話しかけたらダメだからな!」


ユリウスは「えっ」と口を丸くした。
何か言いかけて、しかし彼の言葉を聞き終わるよりも先に扉がカシャンと閉まる。

フゥとスバルは汗を拭って、エレベーターの扉の表面を暫く見つめた。
これで行き来が楽になるな、という顔で。
まあ彼ならば何かに襲われても解決できるだろうという顔で。

……もしも皆が日本へと来たのなら。
その時は、日本の沢山の美しいものを、彼女・彼らに見せたいと思うのだ。
家族を、人を、四季を、風情を、沢山知ってほしい。
それが出来たらどんなに良いか、とスバルは思う。

その為にも、この厄介な体質をどうにかしなければな、と。
彼は俯き扉を眺め、こめかみを爪の先で引っ掻いて考えるのであった。








(続?)





満足したので一旦終わります
気が向いたら続きを書くかもしれない





異世界帰りのSさん
異世界帰りってすごい、俺は色んな意味でそう思った。

異世界から日本に帰ってきたものの何故だか色んな怪奇現象に巻き込まれ、しかし異世界で鍛えたメンタルの強さと度胸を武器に、菜月昴が日本のホラーをボコボコにする話です。

・ホラー要素あり 苦手な方はご注意ください
・地雷配慮無し、なんでも許せる方向け
・腐要素はないです
・洒落怖ネタやオカルトスレの怪談話など、一部有名なホラーも登場します
・コメディホラー(??)です

日本のホラーVSメンタルお化けナツキ・スバルがどうしても読みたくて書きました。
コメディタッチのホラー映画にたまに出てくる、お化けとかキラーとかに全然負けないフィジカルつよつよ鋼メンタル人間が大好きなので、異世界で揉まれてくそつよメンタルに成長したナ・スがホラーに巻き込まれるもケロッとした顔をしてるところを何万回と見たいと思います。書いてください。お願いします。
ちなみにユユはこの後、ちゃんとルグニカに無事に着きました。何かブツブツ呟く女の人と同じ空間に閉じ込められてとても気まずかったけれど、彼は元気です。
続きを読む
2,4653,29545,507
2021年9月23日 21:27
おぼん
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