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「カトリック」に関わる殺人事件
前回の52年前の「週刊明星」についての記事で、27歳の日本人女性客室乗務員(スチュワーデス)殺人事件の特集が組まれている事を紹介したが、カトリックの神父が疑惑の人物として浮かび上がってきた事で、マスコミが大きく書き立て、センセーショナルな話題になったらしい。この被害者が曽野綾子と同じ年齢で、所属会派は違うが、同じカトリックの信者であることが、小生の下世話な興味を誘った。カトリックといえば、曽野の新聞連載自伝にも書かれているように、聖職に就く人間及び信者は、厳しい戒律の下で、禁欲的な生活を要求されるというのが一般の観念であるが、この事件の経緯はその一般的観念を打ち破るようなものである。

事件は1959年3月10日、「東京都杉並区の善福寺川(大宮八幡宮近くの宮下橋)で、BOAC航空(現ブリティッシュ・エアウェイズ)の日本人女性客室乗務員(当時27歳)が扼殺死体で発見された。被害者の交友関係からベルギー人の神父が捜査線上に浮かんだが、弁護人とバチカン大使館一等書記官の立会いのもとでの5回に渡る事情聴取では進展がなく、6月11日、神父は病気療養のため、正規の出国手続を経てベルギーに帰国した。事件はその後迷宮入りとなり、1974年3月10日公訴時効を迎えた。」(Wikipedia)というものである。

被害者と乳児院
被害者T・T子は、問題のV神父の所属するカトリック系サレジオ会の信者であり、V神父とは愛人関係にあったという。T子はカトリック系の東京聖母女子短大を卒業した後、故郷の神戸へ戻り、地元の病院で看護婦として働いていたが、男性関係でトラブルを起こしたので、逃げるようにして再び上京して、中野区鷺宮の乳児院・オデリア・ホームに勤務することになったが、ここでV神父と出会ったということである。V神父はオデリア・ホームからほど近い下井草にあるドン・ボスコ社(教会)の司祭、会計係として活動していた。乳児院の保母たちの証言に依れば、神父はよく保母たちに抱きついたり、体を触ったりしたそうである。また、交際していたある女性は自殺未遂騒ぎを起こしていた。このように、神父の女性関係は乱脈だったと言われている。
T子は昭和33(1958)年12月、BOACのスチュワーデス試験に合格。34年1月15日、見習講習のためロンドン滞在。2月27日帰国し、事件の三日後の3月13日に初乗務に付く予定であった。神父はT子との肉体関係を否定していたが、ロンドンに行く前の1月10日に、原宿駅前竹下通りの旅館で、二人が数時間休憩した事が、従業員の証言で確認された。神父はこれを渋々認めたが、「休憩しただけだ」と弁解している。
T子の遺体の中からは「O型あるい非分泌型」の精液が検出された。また、下着に付着した「AあるいはA型」の少し古い精液も検出されている。T子も男性関係に関しては節操がなかったということであろう。
V神父もサレジオ会も、この疑惑を強く否定し、捜査への協力も頑なに拒否していた。しかし、事件当時の神父のアリバイに完璧なものはなく、渋々警視庁の事情聴取に応じたが、出された飲み物に口を付けず、トイレに行ってもすぐに水を流して血液型を鑑定させまいと防御していた。だが、警察は何とか神父の血液型を割り出したらしく、遺体内遺留物と同じ「O型あるい非分泌型」と調書に記録されていた。しかし、これも決定的証拠にはならず、神父を逮捕する事はできなかった。
警察が神父に対して、強い捜査の態度を取れなかった理由は、決め手になる物証が得られなかったという事もある。だが、被疑者が日本人だったら、たとえば別件逮捕などでもっと厳しく追及したであろう。しかし、相手はバチカンの下にあるカトリックの聖職者であり、当時の日本の国際的立場から警察、および政府は及び腰だったのである。

ドン・ボスコ教会
また、カトリック教徒の著名作家などは、マスコミの大騒ぎに不快感を持って、神父擁護の弁を発表したが、6月10に神父が出国した後はそれへの不満も述べている。
曽野綾子の旦那・三浦朱門「もし当の神父が事件に無関係なら、なぜ積極的に警察に援助しないのだろう」と述べた。
田中澄江は5月27日に神父を見舞い、被害者の立場にたった現在の心境をのべてもらった。「流暢な日本語である。…事実を曲げた猥雑なペンの暴力にもめげず、澄んできれいな目の色であった」「警察が、調べる義務があると言えば、幾度でも出頭して、殺人者と見ようとする疑問に答えなければならない」と著わした。
遠藤周作は「(マスコミは)あたかも彼が真犯人であるかのごとく、その写真を掲載したりその名を発表した。一種の人権蹂躙」「突然の帰国は一般の日本人の根のない疑惑をさらにふかめる原因となった」と述べた。 (Wikipedia)
これに対して、松本清張はこの事件に関し『スチュワーデス殺し論』(ノンフィクション)を婦人公論に著し、事件をモデルに小説『黒い福音』を執筆したが、V神父をクロと推断しての前者のノンフィクションであり、後者の小説(フィクション)である。
清張は、ドン・ボスコ社の性格と題して、V神父の属する教会(布教会社)への論評を述べている。この会社を擁するサレジオ会は、日本において遅れてきたカトリック会派であった為、「戦後かなり強引な布教活動を行なって、急激に勢力を伸ばしたという。」と書いている。「ララ物資や、サレジオ会本部から寄贈されたもの、当時日本国内で不足していた統制物資を、闘プローカーに流した」とも書いている。
司直の手に掛かった事件は「闇砂糖事件」という昭和26年に摘発された事件がある。それらの犯罪的行為は日本国内の闇物資横流しブローカーとの提携で行われた事であるのは言うまでもない。キリストからの聖なる使命を旨とするカトリック教団が、裏社会と組んで物質的利益を得たのである。実に恐ろしい事で、我々常人の観念の範囲外のことではないか。(つづく)
事件は1959年3月10日、「東京都杉並区の善福寺川(大宮八幡宮近くの宮下橋)で、BOAC航空(現ブリティッシュ・エアウェイズ)の日本人女性客室乗務員(当時27歳)が扼殺死体で発見された。被害者の交友関係からベルギー人の神父が捜査線上に浮かんだが、弁護人とバチカン大使館一等書記官の立会いのもとでの5回に渡る事情聴取では進展がなく、6月11日、神父は病気療養のため、正規の出国手続を経てベルギーに帰国した。事件はその後迷宮入りとなり、1974年3月10日公訴時効を迎えた。」(Wikipedia)というものである。
被害者と乳児院
被害者T・T子は、問題のV神父の所属するカトリック系サレジオ会の信者であり、V神父とは愛人関係にあったという。T子はカトリック系の東京聖母女子短大を卒業した後、故郷の神戸へ戻り、地元の病院で看護婦として働いていたが、男性関係でトラブルを起こしたので、逃げるようにして再び上京して、中野区鷺宮の乳児院・オデリア・ホームに勤務することになったが、ここでV神父と出会ったということである。V神父はオデリア・ホームからほど近い下井草にあるドン・ボスコ社(教会)の司祭、会計係として活動していた。乳児院の保母たちの証言に依れば、神父はよく保母たちに抱きついたり、体を触ったりしたそうである。また、交際していたある女性は自殺未遂騒ぎを起こしていた。このように、神父の女性関係は乱脈だったと言われている。
T子は昭和33(1958)年12月、BOACのスチュワーデス試験に合格。34年1月15日、見習講習のためロンドン滞在。2月27日帰国し、事件の三日後の3月13日に初乗務に付く予定であった。神父はT子との肉体関係を否定していたが、ロンドンに行く前の1月10日に、原宿駅前竹下通りの旅館で、二人が数時間休憩した事が、従業員の証言で確認された。神父はこれを渋々認めたが、「休憩しただけだ」と弁解している。
T子の遺体の中からは「O型あるい非分泌型」の精液が検出された。また、下着に付着した「AあるいはA型」の少し古い精液も検出されている。T子も男性関係に関しては節操がなかったということであろう。
V神父もサレジオ会も、この疑惑を強く否定し、捜査への協力も頑なに拒否していた。しかし、事件当時の神父のアリバイに完璧なものはなく、渋々警視庁の事情聴取に応じたが、出された飲み物に口を付けず、トイレに行ってもすぐに水を流して血液型を鑑定させまいと防御していた。だが、警察は何とか神父の血液型を割り出したらしく、遺体内遺留物と同じ「O型あるい非分泌型」と調書に記録されていた。しかし、これも決定的証拠にはならず、神父を逮捕する事はできなかった。
警察が神父に対して、強い捜査の態度を取れなかった理由は、決め手になる物証が得られなかったという事もある。だが、被疑者が日本人だったら、たとえば別件逮捕などでもっと厳しく追及したであろう。しかし、相手はバチカンの下にあるカトリックの聖職者であり、当時の日本の国際的立場から警察、および政府は及び腰だったのである。
ドン・ボスコ教会
また、カトリック教徒の著名作家などは、マスコミの大騒ぎに不快感を持って、神父擁護の弁を発表したが、6月10に神父が出国した後はそれへの不満も述べている。
曽野綾子の旦那・三浦朱門「もし当の神父が事件に無関係なら、なぜ積極的に警察に援助しないのだろう」と述べた。
田中澄江は5月27日に神父を見舞い、被害者の立場にたった現在の心境をのべてもらった。「流暢な日本語である。…事実を曲げた猥雑なペンの暴力にもめげず、澄んできれいな目の色であった」「警察が、調べる義務があると言えば、幾度でも出頭して、殺人者と見ようとする疑問に答えなければならない」と著わした。
遠藤周作は「(マスコミは)あたかも彼が真犯人であるかのごとく、その写真を掲載したりその名を発表した。一種の人権蹂躙」「突然の帰国は一般の日本人の根のない疑惑をさらにふかめる原因となった」と述べた。 (Wikipedia)
これに対して、松本清張はこの事件に関し『スチュワーデス殺し論』(ノンフィクション)を婦人公論に著し、事件をモデルに小説『黒い福音』を執筆したが、V神父をクロと推断しての前者のノンフィクションであり、後者の小説(フィクション)である。
清張は、ドン・ボスコ社の性格と題して、V神父の属する教会(布教会社)への論評を述べている。この会社を擁するサレジオ会は、日本において遅れてきたカトリック会派であった為、「戦後かなり強引な布教活動を行なって、急激に勢力を伸ばしたという。」と書いている。「ララ物資や、サレジオ会本部から寄贈されたもの、当時日本国内で不足していた統制物資を、闘プローカーに流した」とも書いている。
司直の手に掛かった事件は「闇砂糖事件」という昭和26年に摘発された事件がある。それらの犯罪的行為は日本国内の闇物資横流しブローカーとの提携で行われた事であるのは言うまでもない。キリストからの聖なる使命を旨とするカトリック教団が、裏社会と組んで物質的利益を得たのである。実に恐ろしい事で、我々常人の観念の範囲外のことではないか。(つづく)
コメント
ありがとうございます
良心を枉げて易きにつく者は悔いを千載に残す
匿名さん、私の同級生がそこで教授をしています。
彼から具体的な内容は聞いた事が無いのですが、やはり批判出来ないような雰囲気である事は、話しぶりから察していました。
大勢に流されず、信念を貫く人を尊敬しています。
「良心を枉げて易きにつく者は悔いを千載に残す」ですね。
彼から具体的な内容は聞いた事が無いのですが、やはり批判出来ないような雰囲気である事は、話しぶりから察していました。
大勢に流されず、信念を貫く人を尊敬しています。
「良心を枉げて易きにつく者は悔いを千載に残す」ですね。
ぜうす
今年の春まで関連の学校に勤務していたものです。
縁あってサレジオの学校で学び、十数年社会で働いた後、母校で若者たちを指導する機会を頂き5年間、誠意をもって技術者の卵を世に送り出すべく働いてきました。
が、内部に巣くう不正、不埒な行為の数々を目の当たりにし続け、正されるべきと声をあげ続けてきましたが、ついにこの春、学内のネガティブキャンペーンの結果
「指導する力がない」
と一方的に認定され追放されるに至りました。
他の問題も含めた行政の指導に対しても、担当者を脅す様な発言で追い返そうとしたそうです。
過去の過ちから何も学ばず、教育者、聖職者の衣に強欲な本性を隠した者たちに支配された学校を信じさせられている学生たちが不憫でなりません。
ドン・ボスコが泣いています。
縁あってサレジオの学校で学び、十数年社会で働いた後、母校で若者たちを指導する機会を頂き5年間、誠意をもって技術者の卵を世に送り出すべく働いてきました。
が、内部に巣くう不正、不埒な行為の数々を目の当たりにし続け、正されるべきと声をあげ続けてきましたが、ついにこの春、学内のネガティブキャンペーンの結果
「指導する力がない」
と一方的に認定され追放されるに至りました。
他の問題も含めた行政の指導に対しても、担当者を脅す様な発言で追い返そうとしたそうです。
過去の過ちから何も学ばず、教育者、聖職者の衣に強欲な本性を隠した者たちに支配された学校を信じさせられている学生たちが不憫でなりません。
ドン・ボスコが泣いています。
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理研の内情もそうでしょう。小保方晴子氏がインチキであろうとなかろうと、若山氏には真実をかたって貰いたいですね。7406