羊と山羊を分けるキリスト,ラヴェンナの Basilica di Sant'Apollinare Nuovo の モザイク壁画,6 世紀の作品
Fr James Martin の Donald Trump への 公開書簡:もしあなたが天国へ入りたいならば
今月 24日,年間 第 21 主日の ミサ説教で,関根悦雄神父さまは,救いの可能性の問いに関して — つまり,天の国へ入ることの可能性の問いに関して — マタイ福音書 (25,31-46) の「羊と山羊の譬え」(諸民族の裁きの譬え)に言及しています.その同じ譬えを,Fr James Martin SJ も,今月 20日付の 彼の Donald Trump への公開書簡 — そのテーマは,天国へ入る可能性 — において,取りあげていました.以下に,その公開書簡の邦訳を提示します.
Dear President Trump,
わたしは,カトリック司祭として,あなたが最近「天国へ入りたい」と述べたことを,真摯に受け取ります.あなたは,昨日[2025年08月19日]Fox News で,こう言いました:「わたしは,天国に入ることを試みたい」;「わたしは善いことをしていない[と人々が言うのを]わたしは聞いている.わたしは,実際,トーテムポールの底にいる[天国に入るための順番において,最下位にいる].だが,もしわたしが天国に入ることができるなら,それは,理由のひとつとなるだろう.」
Mr. President, あなたは,ウクライナに平和をもたらすために努力してきました.ウクライナにおいては「キリストは,子どもたちを腕に抱えて爆撃から逃れようとしている難民たちにおいて,十字架に架けられている」と,教皇フランシスコは 言いました[2022年04月10日,枝の主日のミサ説教,邦訳].如何に 平和のために努力することが 善を成し続けたいという気持ちを あなたのなかに 目ざめさせたのか,そして,あなたの考えを天国へ向けさせたのかを,わたしは理解することができます.
わたしは,また,あなたが「トーテムポールの底にいる」と感じていることも,理解することができます;わたしたちは 誰しも おりにふれて そう感ずるものです.神の息吹に導かれている著者たちは,しばしば それを「悔恨」(compunctio)
と呼んでいます.それは,わたしたち自身の罪ぶかさの感覚です.わたしたちは 皆 何らかの様態において 罪びとです.イェズス会士は,しばしば こう言います:わたしたちは 皆「愛されている罪びと」である — 神によって愛されている;だが,罪ぶかい.わたしたちは,それらふたつの語のいづれをも見うしなってはなりません.
さらに,天国へ入りたいという気持ちは,神との一致を欲する人間の普遍的な願望の一部です — 勿論,地獄の火を避けたいという同様に人間的な願望と同じく.ついでながら,わたしは地獄の存在を信じています.
では,以上のことから どこへ進むべきでしょうか
? 如何にして わたしたちのうち 誰かは 天国へ行けるのでしょうか?
認めるべき最初のことは,これです:神との一致の願望(その一致は,天国において成就されます — 天国においては,我々は,聖パウロが言うように「顔と顔をつきあわせて」[
1 Co 13,12 ] 神と会うことになります)は,神に由来するものです.ですから,その願望は 真摯に受け取られるべきです — おそらく,あなたの人生のなかで ほかの何よりも より真摯に.「おお,主よ,我々の心は,あなたのうちに安らぐときまで,不安です」と 聖アウグスティヌスは言いました.それ[神との一致の願望]は,彼の言葉に含意されています.言いかえれば,それは,神からの呼びかけです.ですから,それを無視してはなりません.
思いだすべき第二のことは,このことです:イェスは,神の国へ入ることを得るためには何が必要かという問いについて,明瞭な答えを提示しています.おそらく,誰が[天国に]包容され,誰が[天国から]排除されるかに関してイェスが与えている最も直接的な説明は,マタイ福音書の
25 章 (vv.31-46) に見いだされます;その一節は しばしば「諸民族の裁き」(the Judgement of
the Nations) と呼ばれています.
そこにおいて,イェスは「羊と山羊の譬え」を語っています;そして,彼は,自身を,羊(善人)と山羊(悪人)とを右と左に分ける羊飼いに譬えています.わたしの友人
Amy-Jill Levine — ユダヤ人の新約学教授 — は,かつて,冗談でこう言いました:彼女は,彼女のユダヤ人の聴衆に こう言いました:もし あなたたちが 天国に行って,「羊はこちらへ」と「山羊はこちらへ」というふたつの標識を見たら,羊に付いてゆきなさい.
しかし,誰が羊であり 誰が山羊であるかを 決めるのは,何でしょうか
? 答えは単純です.イェスは こう言っています:羊は,地上で暮らしていたとき,彼をケアしてくれた.しかし,羊たちは問います:「わたしたちは いつ そのようなことをしたのでしょう?」イェスは こう言います:彼らが「最も小さき者」をケアしたとき,いつでも,彼らは 彼[イェス]を 直接 ケアしたのだ.あなたは,たぶん,この有名な一節を 知っているでしょう (Mt
25,35-36) :
なぜなら このゆえに:わたしは飢えていた;すると,あなたたちは 食べるものを わたしに 与えた;わたしは渇いていた;すると,あなたたちは わたしに[水を]飲ませた;わたしは異邦人[よそ者]であった;すると,あなたたちは わたしを[自宅に]迎えた;[わたしは]裸であった;すると,あなたたちは わたしに 衣服を着せた;わたしは[病気で]弱っていた;すると,あなたたちは わたしを 見まった;わたしは牢にいた;すると,あなたたちは[面会のために]わたしのところへ来た.
同様に,山羊たちは,こう告げられます:彼らは,地上で暮らしていたとき,彼[イェス]をケアしなかった.彼らは,同じ問いをイェスに問います:「いつ わたしたちは あなたをケアしなかったでしょうか?」そして,彼らは,同じことを告げられます.あなたたちが 飢えている者を,渇いている者を,異邦人を,裸の者を,弱っている者を,投獄されている者を ケアしなかったとき,あなたたちは イェスをケアしなかったのだ.
天国に入るにはどうすればよいかという問いは いつでも たくさん 問われますが,その問いに対するイェスのかくも明瞭な答えは すがすがしいものです.
では,それは,今日,誰をケアすることを意味するのでしょうか?
飢え渇いている人々は,わたしたちの国に たくさん います.あなたは,どのように 彼らをケアしていますか ?
このことを忘れないように:彼らをケアすることは,イェスをケアすることです.わたしたちのうち多くの者が 如何にしてそれを成すかについて,奮闘しています.しかし,あなたは合衆国大統領ですから,まさに飢え渇いている人々に対する援助の予算を削減することも増額することも,あなたの権力しだいです.さらに,イェスは「善きサマリア人」の譬え (Lc 10,29-37) においても,このことについて明瞭です:わたしたちの「隣人」をケアするということは,あり得る最も広い意味において理解されるべきです.今日,それは,外国の貧しい人々や飢えている人々をケアすることをも 含みます.
イェスの時代,「異邦人」(よそ者)は,今日と同様,移民や難民を意味していたでしょう.「居住外国人」(resident
aliens) は,旧約および新約において,定住している「寄留者」(
גָּר , πάροικος ) であり,わたしたちは 彼らをケアするよう 常に求められています.
マタイ福音書 25 章に戻って,異邦人をイェス自身のことと考えてみましょう.投獄されている人々も,イェス自身のことです.婉曲な表現を避けるなら,イェスが Alligator Alcatraz[フロリダ半島の南端部に設置された移民収容所]に入れられているのを 想像してください.イェスが言っているのは,そのようなことです.もしわたしたちが移民や難民や囚人を虐待するならば,わたしたちは イェスを虐待しているのです.
治療を受けられない病人は,病院にも 通りにも います — ガザにも,ウクライナにも,スーダンにも,ミャンマーにも,発展途上の国々にも.わたしたちは,彼らを助けているでしょうか?
つまるところ,イェスが彼の弟子たちに問うている問いは,これです:如何に あなたたちは それらの人々すべてを ケアしているか?
マタイ福音書 25 章は,如何にして天国へ入るかに関するイェスの道しるべを網羅しているわけではありません.彼の公的な活動は,根本的に,愛,慈しみ,そして 特に 赦しへ 方向づけられています.そして,赦し[の問題]は,しばしば 人間性の限界を広げるものであるように思われます(神学者たちは「それは人間性を完璧にする」と言うでしょうが).十字架上からでさえ — わたしたちが そのとき イェスは 非常に怒っており,復讐心に燃えていただろう と想像するかもしれないときにさえ — 彼は,彼を十字架に釘づけした者たちのために祈り,彼らを赦します (cf. Lc 23,34). そのように,キリスト教的世界観においては,わたしたちの敵たちに対してさえ,復讐心や 苦々しい思いや 憎悪は,あり得ません.わたしたちは,敵に復讐するのではなく,敵を愛するよう 教えられています (cf. Mt 5,44).
もし あなたが イェスの世界観について なおも好奇心を持っているなら,彼の譬えの幾つかを 調べてごらんなさい — きっと あなたは それらを知っているでしょうが —.放蕩息子の帰還の譬え (cf. Lc 15,11-32) においては,父親は,彼の財産をむだづかいした息子を放り出す権利を完全に有していたのに,戻ってきた息子を歓迎します — 息子が悔恨の言葉をひとことも発しないうちに.再度 強調すれば,赦しは,キリスト教のメッセージの中心に位置づけられます.実際,今日[2025年08月20日],教皇 レオ 14 世は,こう言いました:「わたしたちは 皆,赦すことを学びましょう;なぜなら,互いに赦しあうことは,平和の橋を架けることだからです」[Aula
Paolo VI での一般接見の終了後,Basilica
di San Pietro のなかにいた人々への短い講話において].
Mr. President, わたしが先ほど言ったように,あなたは,ウクライナに平和をもたらすために努力してきました;そして,ノーベル平和賞をもらいたいという気持ちをさえ表明しました.もし あなたが 平和を欲するなら,あなたは 赦しのために働く必要があります.そして,そのことは,わたしたち皆に関してそうであるように,我々自身の人生のなかで 始まります.さらに,もうひとつのほかの洞察が 聖 パウロ 6 世 教皇から もたらされます — 彼は こう言いました:「もし あなたが 平和を欲するなら,正義のために働きなさい」(1972年01月01日,第 5 回 世界 平和の日 [ Giornata mondiale della
pace ] のための メッセージ).
最後に,この日曜日[2025年08月24日,年間 第 21 主日]の 福音朗読も 有用です.ルカ福音書 (13,24) において,イェスは,天の王国へ入ることを「狭き門」を通って行くことと描いています.そして,彼は こう言います:自分は[天の国に]入れるだろうと思っている者全員が[天の国に]入るわけではない.「わたしは,あなたたちが どこの者であるのかを,知らない」(Lc
13,25) と 彼は ある人々に 言います.では,それは誰でしょうか?
その福音箇所は,神の王国における「逆転」を示すために しばしば 用いられます:[神の国に]入ることを期待する者たちは 退けられ,それに対して,自分は[神の国から]排除されているだろうと考える者たちが 迎え入れられます.「わたしはクリスチャンである」と言いながら,言葉を実行に移さない人々は 退けられる — そのようなイェスの感覚があります.ほかのところでイェスが言っているように,「わたしに『主よ,主よ』と言う者が 皆 天の王国へ入ることには ならないだろう;しかして[天の王国へ入るのは]天にいるわが父の意志を成す者である」(Mt
7,21).
イェスは,「有言不実行」の人々に対しては「わたしは あなたたちを まったく知らない」(Mt
7,23) と言います;つまり,彼らは 天国に 入れません.
あなたの支持者であるクリスチャンのなかには,「おこない」がわたしたちを天国へ入れるという考えに 反対する人々も いるでしょう —「わたしたちは 信仰のみによって 救われる」(cf. Rm 3,21-31) と論じて.確かに,それは
古くから議論されている神学的問題であり,神の助けと救済の恵みなしに天国に入れる者は 誰もいません.しかし,イェスは こうも言っています:「わたしはクリスチャンである」と言うだけでは,あるいは,「イェスは主である」(cf.
Rm 10,09) と言うだけでは,不十分である.あなたは,あなたの言葉を実行しなければならない.それは こういうことです:貧しい人々,病んでいる人々,裸でいる人々,飢えている人々,異邦人たち,あるいは,何らかのしかたで もがいている人々に,寄り添いなさい.わたしは,そうするよう努めています — 不完全ながら.
わたしは 祈ります:あなたが 神の王国への旅に対して 開かれてありますように — その旅は,狭き門を通って歩むことのできる人々すべてに対して開かれています.
Yours in Christ,
James Martin, S.J.
******
マタイ福音書 25,31-46 : 羊と山羊の譬え(諸民族の裁き)
そのとき,イェスは 彼の弟子たちに 言った:
31 Ben Adam[人の子]は,彼の栄光のうちに 到来するだろう — 天使たちも すべて 彼とともに;そのとき,彼は,彼の栄光の玉座に座るだろう.
32 そして,彼のまえには 諸民族すべてが集められるだろう;そして,彼は,彼らを分けるだろう — 羊飼いが 羊たちを 山羊たちから 分けるように;
33 そして,彼は,羊たちを 彼の右手側に置き,山羊たちを彼の左手側に置くだろう;
34 そのとき,王は,彼の右手側にいる者たちに 言うだろう:
さあ,わが父に祝福された者たちよ,王国を 相続しなさい — 世が据えられたときから あなたたちのために用意されてあった
王国を;
35 なぜなら このゆえに:わたしは飢えていた – そして,あなたたちは わたしに 食べるものを与えた;わたしは渇いていた – そして,あなたたちは わたしに飲ませた;わたしは異邦人であった – そして,あなたたちは わたしを迎え入れた;
36 わたしは裸であった – そして,あなたたちは わたしに服を着せた;わたしは病んでいた – そして,あなたたちは わたしを見まった;わたしは牢のなかにいた – そして,あなたたちは わたしのところへ来た.
37 そこで,義人たちは こう言って 彼に答えるだろう:
主よ,いつ わたしたちは あなたが飢えているのを見て[あなたに]食べさせたでしょうか;あるいは[あなたは]渇いていて[あなたに]飲ませたでしょうか;
38 いつ わたしたちは あなたが異邦人であるのを見て[あなたを]迎え入れたでしょうか;あるいは[あなたは]裸で[あなたに]服を着せたでしょうか;
39 いつ わたしたちは あなたが 病んでいるのを見て あるいは 牢にいるのを見て,あなたのところへ来たでしょうか?
40 そこで,王は,答えて,彼らに言うだろう:
Amen, わたしは あなたたちに言う:これらの〈最も小さな〉わが兄弟たちのひとりに対して あなたたちが そうしたときは いつも,あなたたちは わたしに対して そうしたのである.
41 次いで,王は 彼の左手側にいる者たちにも 言うだろう:
わたしから 離れなさい,呪われた者たちよ,[そして]悪魔と その使いの者たちのために 用意された 永遠の火のなかへ 入りなさい.
42 なぜなら このゆえに:わたしは飢えていた – そして,あなたたちは わたしに 食べるものを与えなかった;わたしは渇いていた – そして,あなたたちは わたしに飲ませなかった;
43 わたしは異邦人であった – そして,あなたたちは わたしを迎え入れなかった;わたしは裸であった – そして,あなたたちは わたしに服を着せなかった;わたしは
病んでいた そして 牢にいた – そして,あなたたちは わたしを見まわなかった.
44 すると,彼らも こう言って 答えるだろう:
主よ,いつ わたしたちは,あなたが 飢え または 渇き または 異邦人であり または 裸であり または 病んでおり または 牢にいるのを 見て,あなたに奉仕しなかったのでしょうか?
45 そこで,彼は こう言って 彼らに答えるだろう:
Amen, わたしは あなたたちに言う:これらの最も小さき者たちのひとりに対して あなたたちが そうしなかったときは いつも,あなたたちは わたしに対して そうしなかったのである.
46 そして,それらの者たちは 永遠の罰のなかへ 立ち去るだろう;だが,義人たちは 永遠のいのちのなかへ 入るだろう.
******
2025年08月24日,年間 第 21 主日の 福音朗読 : Lc 13,22-30
22 そして,彼[イェス]は,町や村を通りつつ 進んで行った — 教えながら かつ イェルサレムへの旅を続けながら —.
23 さて,ある者が 彼[イェス]に 言った:
主よ,救われる者たちは 少ないのですか?
すると,彼は 彼ら[彼の同行者たち]に向かって 言った:
24 あなたたちは,狭き門をとおって[神の国へ]入るよう 努めなさい;なぜなら — わたしは あなたたちに 言う — このゆえに:多数の者たちが 入ろうとするだろう;だが,入れないだろう.
25 家の主人が 起きあがって,扉を閉めたならば,そのあと あなたたちが 外に立ち,「主よ,わたしたちに[扉を]開けてください」と言って 扉を叩き始めても,彼[家の主人]は 答えて あなたたちに言うだろう:
わたしは あなたたちが どこの者であるのかを 知らない.
26 そのとき,あなたたちは こう言い始めるだろう:
わたしたちは あなたの面前で[あなたとともに]食べ かつ 飲みました;そして,あなたは,わたしたちの[町の]広場で 教えました.
27 だが,彼[家の主人]は 言うだろう — あなたたちに こう言って —:
わたしは,あなたたちを — あなたたちがどこの者であるかを — 知らない;不正義を行う者たちよ,あなたたちは 皆 わたしから 離れなさい.
28 そのとき[あなたたちの]嘆きと歯ぎしりが 起こるだろう — あなたたちが このことを見るときに:アブラハムと
イサクと ヤコブ および 預言者たち すべてが 神の王国のなかに いる;だが,あなたたちは 外へ投げ出されている;
29 そして,彼らは,東から 西から また 北から 南から,来るだろう;そして,神の王国で 宴の席に着くだろう.
30 そして,見よ,最初の者となるであろう最後の者たちが おり,そして,最後の者となるであろう最初の者たちが いる.
******
マタイ福音書 7,21-23 : まことの弟子
そして,イェスは 山上の説教において さらに言った:
21 わたしに向かって「主よ,主よ」と言う者が すべて 天の国へ入るわけではない;しかして[天の国へ入るのは]天にいる わが父の 意志を実行する者である.
22 あの日[終末の日]が到来すると,多くの者たちが わたしに こう言うだろう:
主よ,主よ,わたしたちは,あなたの名によって 預言したではありませんか? そして,あなたの名によって 悪霊を追い出したではありませんか? そして,あなたの名によって 多くの奇跡を成したではありませんか?
23 だが,そのとき,わたしは 彼らに こう公言するだろう:
わたしがあなたたちを識ったことは 一度も ない.わたしから離れなさい,不正を成す者たちよ!
******
ルカ福音書 10,25-37 : 善きサマリア人
25 そして,見よ,ある律法学者が 立ち上がった — 彼[イェス]を試すために — こう言いつつ:
先生,何をすれば,わたしは 永遠のいのちを 受け継ぐでしょうか?
26 彼は 彼に向かって 言った:
律法には 何と書かれてあるか? あなたは それを どう読むか?
27 そこで,彼は 答えて 言った:
あなたの神 主を 愛しなさい — あなたの心すべてを以て,あなたの自身すべてを以て,あなたの力すべてを以て,あなたの思いすべてを以て;そして,あなたの隣人を 愛しなさい — あたかも その者が あなた自身であるかのように.
28 そこで,彼は 彼に 言った:
あなたは 正しく答えた;それを行いなさい;そうすれば,あなたは生きるだろう.
29 しかし,彼は,自身を義化しようと欲して,イェスに向かって 言った:
では,わたしの隣人とは 誰ですか?
30 そこで,イェスは 応じて 言った:
ある者が くだっていた — イェルサレムから イェリコへ;そして,彼は 強盗たちに 遭遇した;彼らは 彼の服を剥ぎ取り,彼を殴り,立ち去った — なかば死んだ彼を残して.
31 偶然に ある祭司が その道をくだって来た;そして,彼を見ると,道の反対側を通って行った.
32 同様に,ひとりのレヴィ人が その場所に来たが,彼を見ると,道の反対側を通って行った.
33 しかし,旅の途中の あるサマリア人が 彼の近くに来た;そして,彼を見て,はらわたに憐れみを覚えた;
34 そして,彼は,彼のところに来て,彼の傷に 包帯をした — それに油と葡萄酒を注ぎつつ;そして,自分の[荷物を担わせる]動物[ロバ]に 彼を乗せ,彼を宿へ連れていった;そして,彼を介抱した.
35 そして,翌日,彼は,デナリオン銀貨を 2 枚 取り出し,それらを 宿の主人に 与えた;そして,言った:
彼を介抱してください;もし あなたが[2 デナリオンよりも]多く 出費したなら,その分を わたしは 戻ってきたときに あなたに支払うでしょう.
36 さて,あなたには,それら三人のうち
誰が 強盗に遭った者の隣人になった と 思われるか?
37 そこで,彼は 言った:
彼に憐れみを成した者です.
そこで,イェスは彼に言った:
行きなさい;そして,あなたも同様にしなさい.
******
ルカ福音書 15,01-03.11-32 : 放蕩息子の帰還
そのとき,
1 徴税人たちと罪人たちが すべて 彼[イェス]に 近づいてきていた — 彼のことばを聴くために.
2 すると,ファリサイ人たちと律法学者たちは つぶやいた — こう言って:
彼は,罪人たちを歓迎し,彼らとともに食事をする.
3 そこで,イェスは,彼らに向かって この譬えを語った — こう言って:
11 ある者が 息子を ふたり 有していた.
12 彼らのうち 若い方が,父に 言った:
父よ,財産[οὐσία : 存在,すなわち,いのち]のうち わたしのものになるはずの部分を わたしに ください.
そこで,父は,財産[βίος : いのち]を 彼らに 分け与えた.
13 幾日もたたないうちに,若い方の息子は,すべてを[金に換えて]集めて,遠い国へ旅立った;そして,そこで,彼の財産
(οὐσία) を 撒き散らした — 放蕩に生きて (ζῶν
ἀσώτως).
14 そして,彼がすべてを使い果たしたとき,ひどい飢饉が その国に 起きた;そして,彼は こと欠き始めた.
15 そこで,彼は,行って,その国の市民のひとりのところに 身を寄せた;すると,その者は 彼を 畑へ 送った — 豚に餌をやるために.
16 彼は,豚が食べている イナゴ豆で 満腹することを 欲した;だが,彼に[何かを]与える者は 誰もいなかった.
17 そこで,彼は,我に返って,言った:
どれほど多くの〈わが父の〉雇い人たちが,あり余るほどのパンを有していることか! だが,わたしは ここで 飢えで死のうとしている.
18 立ち上がって[ἀνίστημι
: 復活する]わが父のところへ行こう;そして,彼に こう言おう:
父よ,わたしは罪を犯しました — 天に対して そして あなたに対して.
19 わたしは もはや あなたの息子と呼ばれるに値しません.わたしを あなたの雇い人たちのひとりのようにしてください.
20 そして,彼は,立ち上がって,自身の父親のところへ行った.ところが,彼がまだ遠く離れていたのに,彼の父は 彼を見た;そして,はらわたに憐れみを覚えた (σπλαγχνίζομαι) ; そして,走っていって,彼の首に抱きつき,彼に接吻した.
21 息子は 彼に 言った:
父よ,わたしは罪を犯しました — 天に対して そして あなたに対して.わたしは もはや あなたの息子と呼ばれるに値しません.
22 しかし,父は しもべたちへ 言った:
急いで,最上等の服を 持ってきなさい;そして,彼に着せなさい;そして,彼の手に指輪をはめなさい;そして,足に履物を履かせなさい.
23 そして,肥えた子牛を連れて来なさい;そして,屠りなさい;そして,食べて 喜ぼう.
24 なぜなら このゆえに:この我が息子は,死んでいたが,復活した (ἀναζάω) ; 失われていたが,見つかった.
そして,彼らは喜び始めた.
25 さて,年上の方の〈彼の〉息子は,畑にいた;そして,帰ってきて,家に近づくと,音楽と踊り[の 音]を 聞いた.
26 そこで,しもべたちのうちの ひとりを呼んで,「これは いったい 何か?」と問うた.
27 そこで,そのしもべは 彼に 言った:
あなたの弟が帰って来ました;そこで,あなたの父は 肥えた子牛を屠りました;なぜなら,彼[父]は 彼[次男]を 無事に迎えたからです.
28 すると,彼[長男]は 怒った;そして,なかに入ろうとしなかった.そこで,彼の父は,出てきて,彼を慰めた.
29 だが,彼[長男]は 答えて 彼の父に 言った:
見てください;わたしは 幾年も あなたに仕えています;あなたの命令に背いたことは 一度も ありません;しかし,あなたは わたしに 一度も 子ヤギさえも くれたことはありません — わたしが わたしの友人たちと 喜ぶために.
30 ところが,あなたのあの息子 — 彼は,娼婦たちとともに あなたの財産 (βίος) を 食いつぶした — が 帰って来や,あなたは,彼のために 肥えた子牛を屠りました.
31 すると,彼[父]は 彼[長男]に 言った:
子よ,おまえは,いつも わたしとともに いる;そして,わたしのものは すべて おまえのものだ.
32 だが,喜びに喜ぶことが 必然的であった — なぜなら このゆえに:あの〈おまえの〉弟は,死んでいたが,復活した;失われていたが,見つかった.