竹中勝美さんと高見三明長崎大司教様
  
高見三明大司教様と竹中勝美さんとが握手している写真を,毎日新聞で御覧ください.

カトリック聖職者による性的虐待の児童被害者として日本で唯一みづから名のり出た 竹中勝美 さんが実質的に主催した 会合 が,2019年04月07日,都内で行われました.竹中さん御自身に加えて,文藝春秋に記事を書いたジャーナリスト 広野真嗣 さんと,性的虐待の被害者の診療を多数行っている精神科医 白川美也子 さんが,発表を行いました.百人弱の参加者を集めました.カトリック信者も,たくさん来ていました.

驚くべきことに,そのなかには,高見三明長崎大司教様(日本カトリック司教協議会長)の姿がありました.彼は,竹中さんの招きに応えて,この会合に出席しました.

大司教様は,プログラムに予定されていた三人の発表の後に,即席で短いスピーチを行いました.彼は,御自身も参加した 2 月の Vatican sexual abuse summit での見聞について語り,社会中に蔓延する性的虐待の問題にカトリック教会が積極的に取り組んで行く決意を改めて述べるとともに,竹中勝美さんに対して直接,謝罪しました.

竹中勝美さんは,感きわまって,大司教のところに駆け寄り,ふたりは握手しました.

竹中勝美さんの肉声は,改めて,いかに性的虐待が被害者の生に深刻な傷を与えるかを,なまなましく証言してくれました.

日本のサレジオ会の誠意ある対応が待たれます.

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以下,この件に関してわたしが以前にカトリック教会関係者に宛てたメールの文面を再録しておきます:

1) 2019年02月17日付メール:

文藝春秋2019年03月号の記事で,故 Thomas Manhard 神父 SDB (1914-1986) による性的虐待について,被害者,竹中勝美さん(当時9-10歳)による証言が取り上げられています.日本で被害者が名のりでた初のケースだと思います.是非,御一読ください.その記事と,関連記事は,以下のとおりです:

i) 文藝春秋2019年03月号の記事

ii) 2018年04月26日付の朝日新聞「ひと」欄における竹中勝美さんの紹介記事

iii) 竹中勝美さんが「エドワード」名義で公表している2001年06月19日付のサレジオ学園宛の書簡

iv) 同じく「エドワード」名義で公表している竹中勝美さんの「想い出日記」.

彼の証言の真実性については疑う余地はないと思います.

文藝春秋の記事のなかでもうひとつびっくりさせられたのは「A 司教」のことです.カトリック信者なら誰でも,これが谷大二司教様のことであるとすぐにわかります.この疑惑に関しても,日本カトリック司教協議会の迅速な対応が待たれます.

もうひとつ初めて知ったのは,1959年に起きたある殺人事件について,故 Louis-Charles Vermeersch 神父 SDB (1920-2017) がその容疑者とされていたことです.彼は,1959年に離日した後,殺人事件の容疑に関してはまったく取り調べを受けることはなかったようです.

Vermeersch 神父のことはさておき,竹中勝美さんに関しては,加害者は既に死去しているとはいえ,今は,事件が起きた教区の司教または大司教が被害者の声を直接聴く,というのが,世界的には当然の対応になっています.例えば :

Catholic Primate meeting abuse survivors prior to Rome gathering

Only a listening church can address the sex abuse crisis

USA では,十分な根拠を以て加害者と疑われる司祭の名前が,故人も含めて,次々に公表されています.

今週,21日から Vatican sex abuse summit が始まるのに合わせて,聖職者の homosexuality に関する社会学者の調査が出版されます.それに関しては,わたしのブログ記事をお読みください.

2) 2019年02月20日付メール

文藝春秋は,サレジオ学園における児童に対する性的虐待に関して,2019年02月19日付で続報を web に発表しました.そこには,記事を書いたジャーナリスト広野真嗣氏が東京サレジオ学園に2019年01月に送った質問状に対する東京サレジオ学園からの回答書(広野氏は02月15日にそれを受け取った)の内容が紹介されています.それによると,東京サレジオ学園は「事実を確認することはできなかった」と述べるにとどまっています.そして,最後に「司教協議会の指示に従います」と述べて,責任を司教協議会に丸投げするかのような態度を取っています.この件は,日本社会のなかでカトリックに対する印象をとても悪くする危険性をはらんでいます.

Thomas Manhard 神父 SDB は,わたしが Internet で確認することができた 資料 によると,1986年04月15日に享年71歳で死去しています.なお,彼はドイツ人ですので,彼の氏名のカタカナ表記は「トーマス・マンハルト」の方が適当です.記事中の写真(サレジオ学園の書簡)からは,生年は1914年であることが読み取れます.1955年から 6 年間,東京サレジオ学園の校長を務めていました.

被害者,竹中勝美さんが「エドワード」名義で公開している彼の 書簡 や 回想 にもとづいて精神医学的に判断するなら,彼が性的虐待を受けたことが真実であることには疑う余地はありません.サレジオ学園の「事実を確認することはできない」という釈明は,あまりにおそまつです.東京大司教区として,また,司教協議会として,この件に対して対応することが要請されていると思います.

谷大二司教様に関しても,彼の突然の埼玉教区司教辞任の理由について疑問をいまだに抱き続けているカトリック信者は少なくありません.疑問が疑惑としてわだかまることのないよう,この件に関する説明責任と透明性が日本カトリック司教協議会に求められていると思います.

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ルカ小笠原晋也

  1. Cardinal Blase J. Cupich

    カトリック教会の シカゴ大司教 Blase Cupich[ブレィズ スーピッチ]枢機卿は,2025年09月03日付で,シカゴ大司教区の広報紙 Chicago Catholic に Tradition vs. traditionalism と題された論評記事を発表した.以下に,その邦訳を提示する.

    伝統 伝統主義


    Jaroslav Pelikan キリスト教史研究者[Yale University 教授] は,重要な区別を 覚えやすい形で 公式化した:「伝統は,死んだ者たち[信仰に関する我々の先達たち]の 生きている信仰である;伝統主義は,生きている者たちの 死んだ信仰である」(Tradition is the living faith of the dead, traditionalism is the dead faith of the living).

    その引用を思い出したのは,わたしが〈聖 John Henry Newman 枢機卿を教会博士と宣言することの パパ レオーネの最近の決定について〉考えていたときであった.彼[聖 John Henry Newman]が[聖公会から]カトリック教会へ転会することを決心する際に鍵となった要因は,彼の〈教義の発達[の歴史]の〉理解であった.彼は,このことに気がついた:プロテスタントは,時代を経て発達してきた教義 たとえば,三位一体や,キリストの神性と人間性 を喜んで受けいれたが,同様に歴史的に発達してきたほかのカトリック教義 たとえば,煉獄や,おとめマリアにかかわる教義 を拒否することにおいて,首尾一貫していない.

    その〈教義の発達の〉理解は,教会の生のなかで 豊かな歴史を有している.聖 Vincent de Lérins 5 世紀の修道士 は,人体の形態の成熟と教義の発達とを比較した.彼は,このことに注目した:離乳していない子どもの小さな四肢と 若者の成長した四肢は,なおも,同じ四肢である.成人は,子どもと同じ数の四肢を有している.後年 発達してくるものは,いづれも,[幼いときに]既に 萌芽的な形態において 存在している;成年において,子ども時代に既に潜在的に存在していたのではなかった新たなものは,何も無い.同様に,キリスト教の教義は,それらの発達の法則に 正しく従うべきである 年々 よりしっかりしたものとなり,時の経過とともに より豊かになり,年をとるにつれて より高められたものになることによって.

    教義の発達に関する Newman の著作は[第 2 ヴァチカン公会議に参加した]司教たちに大きな影響を与えた 彼らが 神的啓示に関する教義憲章 Dei verbum こう述べているように:彼らは,パラグラフ 8 において こう書いている:「実際,伝えられてきた ことがらも ことばも,それらの理解は,成長する それらを心のなかで省察する (cf. Lc 2,19.51) 信者たちの観想と研究とともにであれ,聖なる息吹によって吹き込まれることがらのより深い経験によって与えられる知的理解とともにであれ,代々の司教たちとともに 確かな〈真理の〉賜を受け取った者たちの宣教によってであれ.」

    わたしは,このことを確信している:[第 2 ヴァチカン公会議に参加した]司教たちは,典礼の改革に〈課題として〉取りくんだ;その課題は このことである:彼らは,教会の教えの正しい発達 それは 我々の礼拝のしかたに現れる に関して,責任を取るべきである.多くの様態において,[第 2 ヴァチカン公会議における典礼の]改革は[元来の]信仰の真理の回復であった;というのも,このゆえに:[元来の]信仰の真理は,時がたつにつれて,教会の〈世俗権力および世俗社会との〉関係の拡大を反映する一連の適応や影響によって,不鮮明にされてきた.

    特に カロリング朝時代(7 – 9 世紀)および バロック時代(17 – 18 世紀)において顕著なことであるが,[神聖ローマ帝国の]皇帝たちや[諸国の]王たちの宮廷に由来する諸要素を取り込む適応が 多数 典礼のなかに挿入された;そして,それらは,典礼の美学や意義を変えてしまった;かくして,典礼は〈洗礼を受けた者たちすべてが《十字架に架けられたキリストの救済作用に》能動的に与ることというよりは〉むしろ ひとつのスペクタクルになってしまった.

    [第 2 ヴァチカン公会議の]聖なる典礼に関する憲章 Sacrosanctum Concilium は,容易に こう読まれ得るだろう:それは,典礼の〈カロリング朝およびバロック時代への〉適応を〈一般信徒の典礼への能動的参与 および 典礼の高貴な簡素さへの 元来の強調の回復によって〉矯正したのである.[第 2 ヴァチカン公会議における]改革は〈ミサを《共同体の行事から》誤って《より聖職者至上主義的な,より複雑な,そして よりドラマティックな スペクタクルへ》変形してしまった幾世紀にもわたる過程に対する〉直接的な答えであった.

    されば,第 2 ヴァチカン公会議の典礼改革を受けいれるときに賭けられているものは,我々の〈「伝統に則る教会である」とは何を意義しているのかの〉理解そのものである.パパ フランチェスコは,202207月のカナダへの使徒的訪問からの帰りの機上記者会見において,こう言っている:「教会的方向へ思考を発達させない教会は,後退する (andare indietro) 教会である.そして,それは,今日的な問題である;自身を「伝統的」と呼ぶ者たちの問題である.否,彼らは 伝統的ではない;彼らは 後退主義 (indietrismo) 的である;彼らは 後退している 根を失って

    ひとことで言えば,こうである:カトリックの伝統の真なる理解は,新たな文脈において福音を証言する能力を 教会に 備えさせる.真なる改革は,教会が〈前進するために〉より深く伝統のなかへ入る道である.

    まことに,「伝統は,死んだ者たちの生きている信仰である;伝統主義は,生きている者たちの死んだ信仰である.」

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    解説

    この Cupich 枢機卿のテクストにおいて「伝統主義」(traditionalism) と呼ばれているものは,USA のカトリック教会の文脈においては,トリエントミサ(司式者が会衆に背を向ける様式のラテン語ミサ)の愛好者一般のことでも,第 2 ヴァチカン公会議の aggiornamento の意義を公然と否定しつつ カトリック教会から分裂した 聖ピオ 10 世会 (Fraternité sacerdotale de saint Pie X, FSSPX) のことでもなく,しかして,Raymond Burke 枢機卿を事実上のリーダーとする USA の保守的なカトリック信者たち 彼らは,第 2 ヴァチカン公会議の精神への回帰によってカトリック教会の改革を進めてゆく Papa Francesco を,嫌悪してきた のことである.勿論,彼らのなかには トリエントミサ(英語圏では Traditional Latin Mass と呼ばれている)の愛好者は 多いはずである.彼らは,聖ピオ 10 世会の司祭たちがおこなうトリエントミサに与っていたカトリック信者たちをカトリック教会に呼び戻すために Benedictus XVI 2007年の自発教令 Summorum Pontificum を以て 司祭たちに認めたトリエントミサをカトリック教会のなかでおこなう自由を濫用して,第 2 ヴァチカン公会議による典礼の改革の意義を 事実上 否定するに至った;そこで,Papa Francesco は,2021年の自発教令 Traditionis custodes を以て,トリエントミサをおこなう条件を厳しく制限した.当然,そのことに対する USA の保守的カトリックたちの反発は,非常に強いものである.そして,彼らは,今年 5 月に着座した Papa Leone 再び トリエントミサをおこなう自由を回復してくれることを,期待している(今のところ,彼らの期待が適えられる可能性は 低いが).Cupich 枢機卿は,この記事において,そのような USA の伝統主義者たちに,第 2 ヴァチカン公会議による典礼改革の意義を,あらためて簡潔に説明している.

    ところで,202411月の合衆国大統領選挙において,Donald Trump に投票したカトリック信者が多かった と言われている.調べたところ,USA の成人人口のうち,カトリック信者の割合は 20 % である;そして,投票したカトリック信者たちのうち Donald Trump に投票したの者の割合は,55 % である.Trump を支持するカトリック信者たちのうち どれほどが トリエントミサの愛好者であるのかについては,統計を見つけることはできなかった.カトリック信者である JD Vance 副大統領については,彼自身は トリエントミサの大の愛好者というわけではないようだが,しかし,彼は カトリック伝統主義者たちの代表者と見なされている.

    翻訳と解説:ルカ小笠原晋也

  2. 羊と山羊を分けるキリスト,ラヴェンナの Basilica di Sant'Apollinare Nuovo の モザイク壁画,6 世紀の作品

    Fr James Martin の Donald Trump への 公開書簡:もしあなたが天国へ入りたいならば


    今月 24日,年間 第 21 主日の ミサ説教で,関根悦雄神父さまは,救いの可能性の問いに関して — つまり,天の国へ入ることの可能性の問いに関して — マタイ福音書 (25,31-46) の「羊と山羊の譬え」(諸民族の裁きの譬え)に言及しています.その同じ譬えを,Fr James Martin SJ も,今月 20日付の 彼の Donald Trump への公開書簡 — そのテーマは,天国へ入る可能性 — において,取りあげていました.以下に,その公開書簡の邦訳を提示します.


    Dear President Trump,

    わたしは,カトリック司祭として,あなたが最近「天国へ入りたい」と述べたことを,真摯に受け取ります.あなたは,昨日[20250819日]Fox News で,こう言いました:「わたしは,天国に入ることを試みたい」;「わたしは善いことをしていない[と人々が言うのを]わたしは聞いている.わたしは,実際,トーテムポールの底にいる[天国に入るための順番において,最下位にいる].だが,もしわたしが天国に入ることができるなら,それは,理由のひとつとなるだろう.」

    Mr. President, あなたは,ウクライナに平和をもたらすために努力してきました.ウクライナにおいては「キリストは,子どもたちを腕に抱えて爆撃から逃れようとしている難民たちにおいて,十字架に架けられている」と,教皇フランシスコは 言いました[20220410日,枝の主日のミサ説教邦訳].如何に 平和のために努力することが 善を成し続けたいという気持ちを あなたのなかに 目ざめさせたのか,そして,あなたの考えを天国へ向けさせたのかを,わたしは理解することができます.

    わたしは,また,あなたが「トーテムポールの底にいる」と感じていることも,理解することができます;わたしたちは 誰しも おりにふれて そう感ずるものです.神の息吹に導かれている著者たちは,しばしば それを「悔恨」(compunctio) と呼んでいます.それは,わたしたち自身の罪ぶかさの感覚です.わたしたちは 何らかの様態において 罪びとです.イェズス会士は,しばしば こう言います:わたしたちは 皆「愛されている罪びと」である 神によって愛されている;だが,罪ぶかい.わたしたちは,それらふたつの語のいづれをも見うしなってはなりません.

    さらに,天国へ入りたいという気持ちは,神との一致を欲する人間の普遍的な願望の一部です 勿論,地獄の火を避けたいという同様に人間的な願望と同じく.ついでながら,わたしは地獄の存在を信じています.

    では,以上のことから どこへ進むべきでしょうか ? 如何にして わたしたちのうち 誰かは 天国へ行けるのでしょうか?

    認めるべき最初のことは,これです:神との一致の願望(その一致は,天国において成就されます 天国においては,我々は,聖パウロが言うように「顔と顔をつきあわせて」[ 1 Co 13,12 ] 神と会うことになります)は,神に由来するものです.ですから,その願望は 真摯に受け取られるべきです おそらく,あなたの人生のなかで ほかの何よりも より真摯に.「おお,主よ,我々の心は,あなたのうちに安らぐときまで,不安です」と 聖アウグスティヌスは言いました.それ[神との一致の願望]は,彼の言葉に含意されています.言いかえれば,それは,神からの呼びかけです.ですから,それを無視してはなりません.

    思いだすべき第二のことは,このことです:イェスは,神の国へ入ることを得るためには何が必要かという問いについて,明瞭な答えを提示しています.おそらく,誰が[天国に]包容され,誰が[天国から]排除されるかに関してイェスが与えている最も直接的な説明は,マタイ福音書の 25 (vv.31-46) に見いだされます;その一節は しばしば「諸民族の裁き」(the Judgement of the Nations) と呼ばれています.

    そこにおいて,イェスは「羊と山羊の譬え」を語っています;そして,彼は,自身を,羊(善人)と山羊(悪人)とを右と左に分ける羊飼いに譬えています.わたしの友人 Amy-Jill Levineユダヤ人の新約学教授 は,かつて,冗談でこう言いました:彼女は,彼女のユダヤ人の聴衆に こう言いました:もし あなたたちが 天国に行って,「羊はこちらへ」と「山羊はこちらへ」というふたつの標識を見たら,羊に付いてゆきなさい.

    しかし,誰が羊であり 誰が山羊であるかを 決めるのは,何でしょうか ? 答えは単純です.イェスは こう言っています:羊は,地上で暮らしていたとき,彼をケアしてくれた.しかし,羊たちは問います:「わたしたちは いつ そのようなことをしたのでしょう?」イェスは こう言います:彼らが「最も小さき者」をケアしたとき,いつでも,彼らは 彼[イェス]を 直接 ケアしたのだ.あなたは,たぶん,この有名な一節を 知っているでしょう (Mt 25,35-36) :

    なぜなら このゆえに:わたしは飢えていた;すると,あなたたちは 食べるものを わたしに 与えた;わたしは渇いていた;すると,あなたたちは わたしに[水を]飲ませた;わたしは異邦人[よそ者]であった;すると,あなたたちは わたしを[自宅に]迎えた;[わたしは]裸であった;すると,あなたたちは わたしに 衣服を着せた;わたしは[病気で]弱っていた;すると,あなたたちは わたしを 見まった;わたしは牢にいた;すると,あなたたちは[面会のために]わたしのところへ来た.

    同様に,山羊たちは,こう告げられます:彼らは,地上で暮らしていたとき,彼[イェス]をケアしなかった.彼らは,同じ問いをイェスに問います:「いつ わたしたちは あなたをケアしなかったでしょうか?」そして,彼らは,同じことを告げられます.あなたたちが 飢えている者を,渇いている者を,異邦人を,裸の者を,弱っている者を,投獄されている者を ケアしなかったとき,あなたたちは イェスをケアしなかったのだ.

    天国に入るにはどうすればよいかという問いは いつでも たくさん 問われますが,その問いに対するイェスのかくも明瞭な答えは すがすがしいものです.

    では,それは,今日,誰をケアすることを意味するのでしょうか?

    飢え渇いている人々は,わたしたちの国に たくさん います.あなたは,どのように 彼らをケアしていますか ? このことを忘れないように:彼らをケアすることは,イェスをケアすることです.わたしたちのうち多くの者が 如何にしてそれを成すかについて,奮闘しています.しかし,あなたは合衆国大統領ですから,まさに飢え渇いている人々に対する援助の予算を削減することも増額することも,あなたの権力しだいです.さらに,イェスは「善きサマリア人」の譬え (Lc 10,29-37) においても,このことについて明瞭です:わたしたちの「隣人」をケアするということは,あり得る最も広い意味において理解されるべきです.今日,それは,外国の貧しい人々や飢えている人々をケアすることをも 含みます.

    イェスの時代,「異邦人」(よそ者)は,今日と同様,移民や難民を意味していたでしょう.「居住外国人」(resident aliens) は,旧約および新約において,定住している「寄留者」( גָּר , πάροικος ) であり,わたしたちは 彼らをケアするよう 常に求められています.

    マタイ福音書 25 章に戻って,異邦人をイェス自身のことと考えてみましょう.投獄されている人々も,イェス自身のことです.婉曲な表現を避けるなら,イェスが Alligator Alcatraz[フロリダ半島の南端部に設置された移民収容所]に入れられているのを 想像してください.イェスが言っているのは,そのようなことです.もしわたしたちが移民や難民や囚人を虐待するならば,わたしたちは イェスを虐待しているのです.

    治療を受けられない病人は,病院にも 通りにも います ガザにも,ウクライナにも,スーダンにも,ミャンマーにも,発展途上の国々にも.わたしたちは,彼らを助けているでしょうか?

    つまるところ,イェスが彼の弟子たちに問うている問いは,これです:如何に あなたたちは それらの人々すべてを ケアしているか?

    マタイ福音書 25 章は,如何にして天国へ入るかに関するイェスの道しるべを網羅しているわけではありません.彼の公的な活動は,根本的に,愛,慈しみ,そして 特に 赦しへ 方向づけられています.そして,赦し[の問題]は,しばしば 人間性の限界を広げるものであるように思われます(神学者たちは「それは人間性を完璧にする」と言うでしょうが).十字架上からでさえ わたしたちが そのとき イェスは 非常に怒っており,復讐心に燃えていただろう と想像するかもしれないときにさえ 彼は,彼を十字架に釘づけした者たちのために祈り,彼らを赦します (cf. Lc 23,34). そのように,キリスト教的世界観においては,わたしたちの敵たちに対してさえ,復讐心や 苦々しい思いや 憎悪は,あり得ません.わたしたちは,敵に復讐するのではなく,敵を愛するよう 教えられています (cf. Mt 5,44).

    もし あなたが イェスの世界観について なおも好奇心を持っているなら,彼の譬えの幾つかを 調べてごらんなさい きっと あなたは それらを知っているでしょうが .放蕩息子の帰還の譬え (cf. Lc 15,11-32) においては,父親は,彼の財産をむだづかいした息子を放り出す権利を完全に有していたのに,戻ってきた息子を歓迎します 息子が悔恨の言葉をひとことも発しないうちに.再度 強調すれば,赦しは,キリスト教のメッセージの中心に位置づけられます.実際,今日[20250820日],教皇 レオ 14 世は,こう言いました:「わたしたちは 皆,赦すことを学びましょう;なぜなら,互いに赦しあうことは,平和の橋を架けることだからです」[Aula Paolo VI での一般接見の終了後,Basilica di San Pietro のなかにいた人々への短い講話において].

    Mr. President, わたしが先ほど言ったように,あなたは,ウクライナに平和をもたらすために努力してきました;そして,ノーベル平和賞をもらいたいという気持ちをさえ表明しました.もし あなたが 平和を欲するなら,あなたは 赦しのために働く必要があります.そして,そのことは,わたしたち皆に関してそうであるように,我々自身の人生のなかで 始まります.さらに,もうひとつのほかの洞察が パウロ 6 教皇から もたらされます 彼は こう言いました:「もし あなたが 平和を欲するなら,正義のために働きなさい」(19720101日,第 5 世界 平和の日 [ Giornata mondiale della pace ] のための メッセージ).

    最後に,この日曜日[20250824日,年間 21 主日]の 福音朗読 有用です.ルカ福音書 (13,24) において,イェスは,天の王国へ入ることを「狭き門」を通って行くことと描いています.そして,彼は こう言います:自分は[天の国に]入れるだろうと思っている者全員が[天の国に]入るわけではない.「わたしは,あなたたちが どこの者であるのかを,知らない」(Lc 13,25) 彼は ある人々に 言います.では,それは誰でしょうか?

    その福音箇所は,神の王国における「逆転」を示すために しばしば 用いられます:[神の国に]入ることを期待する者たちは 退けられ,それに対して,自分は[神の国から]排除されているだろうと考える者たちが 迎え入れられます.「わたしはクリスチャンである」と言いながら,言葉を実行に移さない人々は 退けられる そのようなイェスの感覚があります.ほかのところでイェスが言っているように,「わたしに『主よ,主よ』と言う者が 天の王国へ入ることには ならないだろう;しかして[天の王国へ入るのは]天にいるわが父の意志を成す者である」(Mt 7,21).

    イェスは,「有言不実行」の人々に対しては「わたしは あなたたちを まったく知らない」(Mt 7,23) と言います;つまり,彼らは 天国に 入れません.

    あなたの支持者であるクリスチャンのなかには,「おこない」がわたしたちを天国へ入れるという考えに 反対する人々も いるでしょう 「わたしたちは 信仰のみによって 救われる」(cf. Rm 3,21-31) と論じて.確かに,それは 古くから議論されている神学的問題であり,神の助けと救済の恵みなしに天国に入れる者は 誰もいません.しかし,イェスは こうも言っています:「わたしはクリスチャンである」と言うだけでは,あるいは,「イェスは主である」(cf. Rm 10,09) と言うだけでは,不十分である.あなたは,あなたの言葉を実行しなければならない.それは こういうことです:貧しい人々,病んでいる人々,裸でいる人々,飢えている人々,異邦人たち,あるいは,何らかのしかたで もがいている人々に,寄り添いなさい.わたしは,そうするよう努めています 不完全ながら.

    わたしは 祈ります:あなたが 神の王国への旅に対して 開かれてありますように その旅は,狭き門を通って歩むことのできる人々すべてに対して開かれています.

    Yours in Christ,
    James Martin, S.J.



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    マタイ福音書 25,31-46 : 羊と山羊の譬え(諸民族の裁き)

    そのとき,イェスは 彼の弟子たちに 言った:

    31 Ben Adam[人の子]は,彼の栄光のうちに 到来するだろう 天使たちも すべて 彼とともに;そのとき,彼は,彼の栄光の玉座に座るだろう.
    32 そして,彼のまえには 諸民族すべてが集められるだろう;そして,彼は,彼らを分けるだろう 羊飼いが 羊たちを 山羊たちから 分けるように;
    33 そして,彼は,羊たちを 彼の右手側に置き,山羊たちを彼の左手側に置くだろう;
    34 そのとき,王は,彼の右手側にいる者たちに 言うだろう:

    さあ,わが父に祝福された者たちよ,王国を 相続しなさい 世が据えられたときから あなたたちのために用意されてあった 王国を;
    35 なぜなら このゆえに:わたしは飢えていた そして,あなたたちは わたしに 食べるものを与えた;わたしは渇いていた そして,あなたたちは わたしに飲ませた;わたしは異邦人であった そして,あなたたちは わたしを迎え入れた;
    36 わたしは裸であった そして,あなたたちは わたしに服を着せた;わたしは病んでいた そして,あなたたちは わたしを見まった;わたしは牢のなかにいた そして,あなたたちは わたしのところへ来た.

    37 そこで,義人たちは こう言って 彼に答えるだろう:

    主よ,いつ わたしたちは あなたが飢えているのを見て[あなたに]食べさせたでしょうか;あるいは[あなたは]渇いていて[あなたに]飲ませたでしょうか;
    38 いつ わたしたちは あなたが異邦人であるのを見て[あなたを]迎え入れたでしょうか;あるいは[あなたは]裸で[あなたに]服を着せたでしょうか;
    39 いつ わたしたちは あなたが 病んでいるのを見て あるいは 牢にいるのを見て,あなたのところへ来たでしょうか?

    40 そこで,王は,答えて,彼らに言うだろう:

    Amen, わたしは あなたたちに言う:これらの〈最も小さな〉わが兄弟たちのひとりに対して あなたたちが そうしたときは いつも,あなたたちは わたしに対して そうしたのである.

    41 次いで,王は 彼の左手側にいる者たちにも 言うだろう:

    わたしから 離れなさい,呪われた者たちよ,[そして]悪魔と その使いの者たちのために 用意された 永遠の火のなかへ 入りなさい.
    42 なぜなら このゆえに:わたしは飢えていた そして,あなたたちは わたしに 食べるものを与えなかった;わたしは渇いていた そして,あなたたちは わたしに飲ませなかった;
    43 わたしは異邦人であった そして,あなたたちは わたしを迎え入れなかった;わたしは裸であった そして,あなたたちは わたしに服を着せなかった;わたしは 病んでいた そして 牢にいた そして,あなたたちは わたしを見まわなかった.

    44 すると,彼らも こう言って 答えるだろう:

    主よ,いつ わたしたちは,あなたが 飢え または 渇き または 異邦人であり または 裸であり または 病んでおり または 牢にいるのを 見て,あなたに奉仕しなかったのでしょうか?

    45 そこで,彼は こう言って 彼らに答えるだろう:

    Amen, わたしは あなたたちに言う:これらの最も小さき者たちのひとりに対して あなたたちが そうしなかったときは いつも,あなたたちは わたしに対して そうしなかったのである.

    46 そして,それらの者たちは 永遠の罰のなかへ 立ち去るだろう;だが,義人たちは 永遠のいのちのなかへ 入るだろう.

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    2025年08月24日,年間 第 21 主日の 福音朗読 : Lc 13,22-30

    22 そして,彼[イェス]は,町や村を通りつつ 進んで行った 教えながら かつ イェルサレムへの旅を続けながら

    23 さて,ある者が 彼[イェス]に 言った:

    主よ,救われる者たちは 少ないのですか?

    すると,彼は 彼ら[彼の同行者たち]に向かって 言った:

    24 あなたたちは,狭き門をとおって[神の国へ]入るよう 努めなさい;なぜなら わたしは あなたたちに 言う このゆえに:多数の者たちが 入ろうとするだろう;だが,入れないだろう.
    25 家の主人が 起きあがって,扉を閉めたならば,そのあと あなたたちが 外に立ち,「主よ,わたしたちに[扉を]開けてください」と言って 扉を叩き始めても,彼[家の主人]は 答えて あなたたちに言うだろう:

    わたしは あなたたちが どこの者であるのかを 知らない.

    26 そのとき,あなたたちは こう言い始めるだろう:

    わたしたちは あなたの面前で[あなたとともに]食べ かつ 飲みました;そして,あなたは,わたしたちの[町の]広場で 教えました.

    27 だが,彼[家の主人]は 言うだろう あなたたちに こう言って

    わたしは,あなたたちを あなたたちがどこの者であるかを 知らない;不正義を行う者たちよ,あなたたちは わたしから 離れなさい.

    28 そのとき[あなたたちの]嘆きと歯ぎしりが 起こるだろう あなたたちが このことを見るときに:アブラハムと イサクと ヤコブ および 預言者たち すべてが 神の王国のなかに いる;だが,あなたたちは 外へ投げ出されている;
    29 そして,彼らは,東から 西から また 北から 南から,来るだろう;そして,神の王国で 宴の席に着くだろう.
    30 そして,見よ,最初の者となるであろう最後の者たちが おり,そして,最後の者となるであろう最初の者たちが いる.

    ******
    マタイ福音書 7,21-23 : まことの弟子

    そして,イェスは 山上の説教において さらに言った:

    21 わたしに向かって「主よ,主よ」と言う者が すべて 天の国へ入るわけではない;しかして[天の国へ入るのは]天にいる わが父の 意志を実行する者である.
    22 あの日[終末の日]が到来すると,多くの者たちが わたしに こう言うだろう:

    主よ,主よ,わたしたちは,あなたの名によって 預言したではありませんか? そして,あなたの名によって 悪霊を追い出したではありませんか? そして,あなたの名によって 多くの奇跡を成したではありませんか?

    23 だが,そのとき,わたしは 彼らに こう公言するだろう:

    わたしがあなたたちを識ったことは 一度も ない.わたしから離れなさい,不正を成す者たちよ!

    ******
    ルカ福音書 10,25-37 : 善きサマリア人

    25 そして,見よ,ある律法学者が 立ち上がった 彼[イェス]を試すために こう言いつつ:

    先生,何をすれば,わたしは 永遠のいのちを 受け継ぐでしょうか?

    26 彼は 彼に向かって 言った:

    律法には 何と書かれてあるか? あなたは それを どう読むか?

    27 そこで,彼は 答えて 言った:

    あなたの神 主を 愛しなさい あなたの心すべてを以て,あなたの自身すべてを以て,あなたの力すべてを以て,あなたの思いすべてを以て;そして,あなたの隣人を 愛しなさい あたかも その者が あなた自身であるかのように.

    28 そこで,彼は 彼に 言った:

    あなたは 正しく答えた;それを行いなさい;そうすれば,あなたは生きるだろう.

    29 しかし,彼は,自身を義化しようと欲して,イェスに向かって 言った:

    では,わたしの隣人とは 誰ですか?

    30 そこで,イェスは 応じて 言った:

    ある者が くだっていた イェルサレムから イェリコへ;そして,彼は 強盗たちに 遭遇した;彼らは 彼の服を剥ぎ取り,彼を殴り,立ち去った なかば死んだ彼を残して.
    31 偶然に ある祭司が その道をくだって来た;そして,彼を見ると,道の反対側を通って行った.
    32 同様に,ひとりのレヴィ人が その場所に来たが,彼を見ると,道の反対側を通って行った.
    33 しかし,旅の途中の あるサマリア人が 彼の近くに来た;そして,彼を見て,はらわたに憐れみを覚えた;
    34 そして,彼は,彼のところに来て,彼の傷に 包帯をした それに油と葡萄酒を注ぎつつ;そして,自分の[荷物を担わせる]動物[ロバ]に 彼を乗せ,彼を宿へ連れていった;そして,彼を介抱した.
    35 そして,翌日,彼は,デナリオン銀貨を 2 取り出し,それらを 宿の主人に 与えた;そして,言った:

    彼を介抱してください;もし あなたが[2 デナリオンよりも]多く 出費したなら,その分を わたしは 戻ってきたときに あなたに支払うでしょう.

    36 さて,あなたには,それら三人のうち 誰が 強盗に遭った者の隣人になった 思われるか?

    37 そこで,彼は 言った:

    彼に憐れみを成した者です.

    そこで,イェスは彼に言った:

    行きなさい;そして,あなたも同様にしなさい.

    ******
    ルカ福音書 15,01-03.11-32 : 放蕩息子の帰還

    そのとき,
    1 徴税人たちと罪人たちが すべて 彼[イェス]に 近づいてきていた 彼のことばを聴くために.
    2 すると,ファリサイ人たちと律法学者たちは つぶやいた こう言って:

    彼は,罪人たちを歓迎し,彼らとともに食事をする.

    3 そこで,イェスは,彼らに向かって この譬えを語った こう言って:

    11 ある者が 息子を ふたり 有していた.
    12 彼らのうち 若い方が,父に 言った:

    父よ,財産[οὐσία : 存在,すなわち,いのち]のうち わたしのものになるはずの部分を わたしに ください.

    そこで,父は,財産[βίος : いのち] 彼らに 分け与えた.
    13 幾日もたたないうちに,若い方の息子は,すべてを[金に換えて]集めて,遠い国へ旅立った;そして,そこで,彼の財産 (οὐσία) 撒き散らした 放蕩に生きて (ζῶν ἀσώτως).
    14 そして,彼がすべてを使い果たしたとき,ひどい飢饉が その国に 起きた;そして,彼は こと欠き始めた.
    15 そこで,彼は,行って,その国の市民のひとりのところに 身を寄せた;すると,その者は 彼を 畑へ 送った 豚に餌をやるために.
    16 彼は,豚が食べている イナゴ豆で 満腹することを 欲した;だが,彼に[何かを]与える者は 誰もいなかった.
    17 そこで,彼は,我に返って,言った:

    どれほど多くの〈わが父の〉雇い人たちが,あり余るほどのパンを有していることか! だが,わたしは ここで 飢えで死のうとしている.
    18 立ち上がって[ἀνίστημι : 復活する]わが父のところへ行こう;そして,彼に こう言おう:

    父よ,わたしは罪を犯しました 天に対して そして あなたに対して.
    19 わたしは もはや あなたの息子と呼ばれるに値しません.わたしを あなたの雇い人たちのひとりのようにしてください.

    20 そして,彼は,立ち上がって,自身の父親のところへ行った.ところが,彼がまだ遠く離れていたのに,彼の父は 彼を見た;そして,はらわたに憐れみを覚えた (σπλαγχνίζομαι) ; そして,走っていって,彼の首に抱きつき,彼に接吻した.
    21 息子は 彼に 言った:

    父よ,わたしは罪を犯しました 天に対して そして あなたに対して.わたしは もはや あなたの息子と呼ばれるに値しません.

    22 しかし,父は しもべたちへ 言った:

    急いで,最上等の服を 持ってきなさい;そして,彼に着せなさい;そして,彼の手に指輪をはめなさい;そして,足に履物を履かせなさい.
    23 そして,肥えた子牛を連れて来なさい;そして,屠りなさい;そして,食べて 喜ぼう.
    24 なぜなら このゆえに:この我が息子は,死んでいたが,復活した (ἀναζάω) ; 失われていたが,見つかった.

    そして,彼らは喜び始めた.
    25 さて,年上の方の〈彼の〉息子は,畑にいた;そして,帰ってきて,家に近づくと,音楽と踊り[の 音]を 聞いた.
    26 そこで,しもべたちのうちの ひとりを呼んで,「これは いったい 何か?」と問うた.
    27 そこで,そのしもべは 彼に 言った:

    あなたの弟が帰って来ました;そこで,あなたの父は 肥えた子牛を屠りました;なぜなら,彼[父]は 彼[次男]を 無事に迎えたからです.

    28 すると,彼[長男]は 怒った;そして,なかに入ろうとしなかった.そこで,彼の父は,出てきて,彼を慰めた.
    29 だが,彼[長男]は 答えて 彼の父に 言った:

    見てください;わたしは 幾年も あなたに仕えています;あなたの命令に背いたことは 一度も ありません;しかし,あなたは わたしに 一度も 子ヤギさえも くれたことはありません わたしが わたしの友人たちと 喜ぶために.
    30 ところが,あなたのあの息子 彼は,娼婦たちとともに あなたの財産 (βίος) 食いつぶした 帰って来や,あなたは,彼のために 肥えた子牛を屠りました.

    31 すると,彼[父]は 彼[長男]に 言った:

    子よ,おまえは,いつも わたしとともに いる;そして,わたしのものは すべて おまえのものだ.
    32 だが,喜びに喜ぶことが 必然的であった なぜなら このゆえに:あの〈おまえの〉弟は,死んでいたが,復活した;失われていたが,見つかった.

  3. 飢餓状態にあるガザの子どもたち

    写真は The Guardian の三つの記事 および Vatican News の記事より:

    ‘We faced hunger before, but never like this’: skeletal children fill hospital wards as starvation grips Gaza

    Caritas Internationalis の 2025年07月23日付の 声明:救命支援がガザに入ることを イスラエル政府は 許可せよ


    百以上の人道支援団体が,救命支援がガザに入ることをイスラエル政府が許可するよう求めて,警鐘を鳴らしている.

    イスラエル政府による包囲がガザの人々を飢餓に陥れているなか,今や,支援活動家たち自身が,自分たちの家族を養うために,[ガザの人々と]同じ食料配給の列に並んでいる イスラエル軍により]射殺される危険を冒しつつ.支援物資の供給が完全に枯渇した現在,人道支援団体[複数]は,彼らの面前で同僚たちやパートナーたちが衰弱していくのを,目撃している.

    イスラエル政府によりコントロールされている支援計画 Gaza Humanitarian Foundation[ガザ人道財団,GHF — その活動内容と活動形態は非常に問題が多いと批判されている]が活動を開始してからちょうど 2 ヶ月が経過した現在,百以上の人道支援団体が警鐘を鳴らしている 各国政府に行動を促しつつ :国境を越えるための陸路をすべて開くこと;食料,清潔な水,医薬品,避難所用品,燃料の搬入の十分な流れを,人道支援の原則にのっとった国連主導のメカニズムをとおして,回復すること,ガザ包囲を終了すること,そして,今すぐに停戦に合意すること.

    毎朝,ガザのいたるところで,同じ問いが くりかえされている:わたしは 今日 食べることができるだろうか ? — ある組織の代表者は そう言った.

    ガザでは,食料配給場所で[イスラエル軍の発砲による]殺戮が ほぼ毎日 起きている.713日現在,国連は,食料を求める際に殺されたパレスチナ人が 875 いることを 確認した;彼らのうち 201 人は 支援物資輸送路において 殺されており,残りは 配給場所で 殺されている.さらに数千人が 負傷した.他方,イスラエル軍は,直近では 720日に発令された 新たな大量移住命令により,消耗したパレスチナ人 約二百万人を,強制的に移住させた パレスチナ人たちを ガザ全土の 12 未満の面積の地域に 閉じ込めるために.国連の WFP[世界食糧計画]は,現在の状況は支援活動を実行不可能にしている 警告している.民間人の飢餓を戦争手段として用いることは,戦争犯罪である.

    ガザのすぐ外では,そして,ガザの内部にさえ,倉庫には,何トンもの 食料,清潔な水,医薬品,避難所用品,燃料が,手つかずのまま 置かれてある [イスラエル軍が]人道支援団体が それらの倉庫に行って,物資を配給することを,阻止しているので.ガザの完全な包囲のもとでの イスラエル政府による[支援活動の]制限,遅滞,分断は,混沌,飢餓,死を 惹き起こしている.心理社会的支援を提供する ある支援活動家は,子どもたちへの破壊的な衝撃について こう語った:「子どもたちは,彼らの親に こう言っている:わたしたちは天国へ行きたい;なぜなら,少なくとも天国には食べものがあるから.」

    医師たちの報告によれば,特に子どもと高齢者の間で 急性栄養失調の記録的な増加が 起きている.急性水様下痢などの疾患が 広がっており,市場は 空[から]であり,ゴミが山積みとなっており,おとなたちでさえ 飢えと脱水により 通りで 倒れている.ガザにおける物資の配給は,1 平均 トラック 28台分にすぎない 二百万人以上の人口にとって まったく不十分である;この数週間,多数が 何の支援も受けられないまま 死んでいる.

    国連主導の人道支援システムは,失敗したのではない;[イスラエル政府により]機能することを妨げられているのである.

    人道支援機関は,大規模な必要に応ずるための能力と物資を有している;しかし,[イスラエル政府が]アクセスを拒んでいるので,我々は,我々自身の〈疲労し,飢えている〉チームを含む 困窮している人々に 手を差し延べることを 阻まれている.710日,EU イスラエルは,支援を拡大するためのステップを 発表した.しかし,現場において実際の変化が何も無いとき,それらの「進展」の約束は 空虚に響く.持続的な支援の流れがない毎日は,ますます多くの人々が予防可能な疾患で死ぬことを 意味している.子どもたちは,決して実現しない約束を待ちながら,餓死している.

    パレスチナ人たちは,希望と絶望のサイクルに囚われている 支援と停戦を待ち望みつつ,より悪化する状況のなかで目ざめるだけである.それは,単なる身体的な拷問ではなく,心理学的な拷問である.生き残りは,蜃気楼のように ぶらさがっている.人道支援システムは,偽りの約束のもとでは 実行され得ない.人道支援活動者たちは,変動する時刻表にもとづいて活動することはできず,また,アクセスを提供しえない政治的コミットメントを待つことはできない.

    各国の政府は,[イスラエル政府の]行動許可を待つことをやめねばならない.我々は,現在の協定がうまく行くと希望し続けることは できない.今こそ,断固たる行動を取る時である:即時かつ恒久的な停戦を要求すること;すべての官僚主義的および行政的な制限を撤廃すること;すべての国境越えの陸路を開くこと;ガザ全域のすべての人々へのアクセスを保証すること;イスラエル軍によりコントロールされた配給モデルを拒否すること;人道支援の原則に基づく国連主導の人道対応を回復し,人道支援の原則に基づく公正な人道支援団体に資金を提供し続けること.各国は,武器や弾薬の移送を阻止することを含め,[イスラエルによる]ガザ包囲を終わらせるための具体的な措置を追求せねばならない.

    支援物資の空からの投下や 欠陥の多い援助合意などの 断片的な措置や象徴的な所作は,不作為を隠すための煙幕として役だっているだけである.それらは,各国の法的および道徳的義務 パレスチナの民間人たちを保護し,大規模で有意義なアクセスを保証することの義務 にとってかわることはできない.各国は,事態が〈救われるべき人々がひとりも残っていない状態に〉至るよりもまえに,いのちを救うことができるし,そして,そうせねばならない.



  4. 2025年06月21 土曜日 22:40 GMT(日本時間 22 7:40, イラン時間 22 2:10)から 23:05 GMT(日本時間 22 8:05, イラン時間 22 2:35)の間に,米軍は イランの核施設 三箇所を 爆撃した.そして,Donald Trump は,その作戦の「大成功」を誇る短い演説 21 22:00 EDT22 2:00 GMT, 日本時間 22 11:00)に おこなった.その最後に 彼はこう言った:

    And I want to just thank everybody, and in particular, God. I want to just say, “We love you, God, and we love our great military. Protect them”. God bless the Middle East. God bless Israel, and God bless America.

    そして,わたしは 皆に感謝したい;そして,特に 神に感謝したい.わたしは こう言いたい:「神よ,我々はあなたを愛しています;そして,我々は 我々の偉大な軍を愛しています.彼らを護ってください.」神が中東を祝福してくださるように;神がイスラエルを祝福してくださるように;そして,神がアメリカを祝福してくださるように.

    彼のそのような祈りが如何に欺瞞的であり,冒瀆的なものであるかを,Foucauld Giuliani1990- ; パリ政治学院 [ Institut d'études politiques de Paris ] 卒業生,高校の哲学教師,カフェ-アトリエ Le Dorothy の共同創立者のひとり,キリスト者集団 Anastasis のメンバー;現在は,神学の博士号を取得するため,どの大学でかは不明であるが,神学部の大学院生)が Le Monde オンライン版の 623日付の記事 説明している.以下は,Anastasis website に公開されている 同内容のテクストの邦訳:

    USA のイランに対する戦争 : Donald Trump 偶像崇拝的神学


    「そして,わたしは 皆に感謝したい;そして,特に神に感謝したい.わたしは こう言いたい:『神よ,我々はあなたを愛しています;そして,我々は 我々の偉大な軍を 愛しています.彼らを護ってください.』神が中東を祝福してくださるように;神がイスラエルを祝福してくださるように;そして,神がアメリカを祝福してくださるように.」以上が,Donald Trump — 彼は,USA イランに対する戦争に入ることを 告知し,正当化している の演説を締めくくる言葉である.嘘に満ちた言葉,彼ら[Trump 彼の支持者たち]の神学にもとづいて脱構築さるべき言葉.それ[これから述べること]が無駄であるとしても;言葉は 荒れ狂う力のまえでは まったく無力であり,かなりバカげているとしても;まさしく,時代は〈あらゆる《真理の》欲望を,あらゆる《単純な利害の道に屈しない》意志を〉さげすむがゆえに.

    「わたしは,皆に感謝したい;そして,特に神に感謝したい.」

    Trump は,ここで,皆 神を含めて 彼の戦争の企てに巻き込もうとしている.その企てのゆえに,彼は皆に感謝する;すると,各人が,自分はそれに関わっており,それと妥協していると感じさせられる;戦争行為およびその責任の偽りの一般化,政治的-軍事的な意見一致の見せかけ.権力は,一致を歌う言葉を好む.それは,社会全体の意見表明であるかのような錯覚を与え得る.それは,また,戦争行為の正当性を強化する:彼が「皆」の名において語るとき,彼の力は「皆」の力によって象徴的に豊かになる.

    また,その文(「わたしは,皆に感謝したい;そして,特に神に感謝したい」)は,冒瀆的である.Trump は,神にはまったく異質な政治的行為 戦争を始めること に関して,神に感謝している.福音は 我々に このことを教えている:歴史のなかの神の存在は,力に貪欲な国家によって始められた軍事行動を通じては 作用しない.Trump は,神が欲しても求めてもいない出来事に関して神に感謝することによって,神のものではない行為を神に帰している;そして,神の代わりに,彼自身の「神」を 戦争を呼びかけ,戦争を支持する「神」を 措定している.Trump は,特に狡猾なしかたで 謙虚な〈感謝と謝意の〉ことばを 外見上 借用しつつ 実際には 彼自身を 栄光で 覆っている.最も破壊的な傲慢さが 最も無害な謙虚さの仮面を かぶっており,強情な〈力への〉意志が 恵みに開かれてある者の外見を身にまとっている.Trump は,まことの神とは異なる もうひとりのほかの「神」を 讃えている;彼は,彼自身に都合のよい「神」を おあつらえ向きの「神」を 作り上げている.そのような過程は,聖書のなかで,よく知られた名を有している:偶像崇拝.

    「神」は,ほかの諸々の役者のひとりとなっている;その「神」は,単に「特に」感謝されるだけである.それは,戦争の主役たち全員に,自分たちは正しい道理を有しており,正しい道を 神が望む道を 歩んでいる という感覚を 共有させる 下劣なしかたである;しかも,その「神」は 知らぬまに 定義し直されている.軍人たちと官吏たちは,「神」と同列に,感謝されている.かくして,人間たちと「神」との間の共同作業が,協働が,同盟が 成立する.聖化された戦争,神と人間との間の聖なる同盟.言い換えれば,戦争は神性なもの,異論の余地のないもの,道徳的識別と民主主義的合理性の領域の外に位置するものとなった.

    「神よ,我々はあなたを愛しています;そして,我々は 我々の偉大な軍を愛しています.彼らを護ってください.」

    我々は,我々の善を欲し かつ 成すものを,愛する.戦争は かくして 善であり,戦争を欲する神 および 戦争を遂行する軍隊は,優れて愛しいものとなる.愛は,爆撃および死を撒き散らす行為の正当性の証人なのか ? まさにその類のたわごとを Trump ここで 宣言している.「彼ら[軍隊]を護ってください」:我々は,我々を愛するものを気にかけ,だいじにし,その死を欲しない.それゆえ,愛の表明の次には,それ[軍隊]を害さないように,そして,その必要と要請において それを讃えるように という 命令が来る.

    「神が中東を祝福してくださるように;神がイスラエルを祝福してくださるように;そして,神がアメリカを祝福してくださるように.」

    Trump の言うところによれば,利害の対立はなく,覇権主義的かつ帝国主義的な意志はなく,いのちの価値の格づけはない:イスラエル人のいのちとアメリカ人のいのちは,ガザの人々やイラン人のいのちよりも 無限に より生きられるに 値する 否,神によって欲された普遍的な愛の大計画があるだけである その「神」は Trump を司令官に任命したそれは 明らかに 大嘘である.「神の大計画」は,マニ教的かつ黙示録的なしかたで 提示されている:善の陣営 悪の陣営,自由の陣営 専制の陣営.Trump は,文明戦争のレトリックを軽く曲げている:かかわっているのは,もはや 西洋対東洋ではなく,しかして,国境と文化を超越する より形而上学的なものである.またしても,一致のイメージ,全体性のイメージ その背後には,帝国の論理が前進している.Pax Americana — それは,それを享受する権利を誰もが有するところ普遍的な善として肯定的に提示されている は,力の必然的な行使を 経る それ[力の行使]が解放的なものと判断されるや.

    [神を持ち出すことによって Trump がおこなっているのは,これらのことである:]戦争の正当化,武力の神格化,死の聖化.それは,権力と暴力の神学であり,非キリスト教的かつ反福音的な異端である.




  5. 聖座の聖年のための シスター Maria Gloria Riva 講話:希望の糸


    20250609 月曜日,ペンテコステの祭日の翌日,教会の母 幸いなるおとめマリアの記念日,聖座の聖年を祝うために 11:30 から Basilica di San Pietro ミサが捧げられるのに先立って,10:00 から パウロ六世ホールにおいて 永続聖体礼拝者会 (Adoratrices Perpetuae Sanctissimi Sacramenti) シスター Maria Gloria Riva 講話をおこなった.彼女は,三枚の絵画 — Giorgio de Chirco (1888-1978) Il figliol prodigo[放蕩息子の帰還](1922), Hans Holbein (ca 1497 – 1543) Der Leichnam Christi im Grabe[墓のなかのキリストの遺体](1522), Salvador Dalí (1904-1989) La Madonna de Port Lligat[ポルト リガトの 聖母](1950) — に言及しつつ,希望のテーマのもとに 省察をおこなった.冒頭の挨拶の部分は省略して,彼女の講話のテクストの邦訳を 以下に提示する.


    わたしは,10年まえから サンマリノ共和国に住んでいる.小さな国々の価値は,今日,世界がグローバル化するなかで,とても貴重である その価値は,消費しつくされてはならず,可能な限りのエネルギーを以て防衛さるべきである.自身の歴史的な根を失う危険に曝されている世界のなかで,それらの小さな国々こそが,それらの特別な古い伝統を以て,生き生きとした希望を保持している.我々は 一般的な言い方において こう言うことができるだろう:それらの小さい国々こそが,希望の糸 [1]  じょうぶなものとして 保持している.その[希望の糸という表現の]引用は,偶然のものではない.実際,わたしは,あなたたちの注意を,聖書において「希望」という語を示す[ヘブライ]語へ 向けさせたい:それは תִּקְוָה (tikva) という語である;その語は,語根として קָו (kav) という語を 有している;そして,その語は,「綱」あるいは まさに「糸」である;それは,このようなイメージを想定している:一本の綱 それは,たるんではおらず,しかして,ふたつの極の間に ピンと張られている.

    根を失うなかれ,未来への希望を失うなかれ


    如何に 今日 我々は 我々の教会のなかで,過去と将来との間の緊張を 生き生きとしたものとして 維持することが できるか ? 過去と将来との間の均衡は,希望の大きな根である.我々は,今日,これらの危険を冒している:一方には,もはや存在しない過去のノスタルジー それは,しばしば現在から切り離された伝統主義へ 行き着く を生きる[危険],他方には,まだ存在していない将来へ向かって[やみくもに]走ってゆく[危険]現在の課題への本当の解決を提供することのできない錯覚的な未来主義へ陥りつつ

    過去 それは,その苦痛と栄光を有している は,まことには,現在を正当な緊張において生きるための大きな跳躍台を 表し得る.

    Giorgio de Chirco (1888-1978) : Il figliol prodigo

    そのことに関して,わたしは,「放蕩息子の帰還」と題された Chirico の作品を 想起する.Giorgio de Chirco は,伝統によってギリシャ人であり [2], イタリア貴族の両親の息子であった;彼は,18歳のとき イタリアに来て [3], 未来派の動きに加わった.1917年,彼は Ferrara [4] の[精神科]病院に 入院した [5] ; そして,未来や希望をもたらし得る戦争は決して無いということを理解した.そこで,彼は,1922年に,彼自身を放蕩息子として描いた : self-made man [6],  肩幅が広く,大腿四頭筋が発達し,足首の細い マネキン息子;そして,彼は,地中海の風景を および,それとともに,ギリシャ語とラテン語において公式化されたキリスト教文化の諸戒律を 彼の背後に 残す モニュメントと前衛性において赤い Ferrara の方へ向かうために.しかし,福音書の譬えにおけるのと同様に,尋常ならざることが 起こる:彼は[彼を喜んで歓迎する父に]当惑を経験する;父は,ギリシャの彫像のように描かれており,彼[父]の台座から降りて,彼[息子]を迎えに来る (cf. Il meccanismo del pensiero, pp.277-278). 然り,過去は,我々を迎えに来る その[過去の]問いかけを以て 我々を屈服させるためにではなく,しかして,我々が現在において再出発するために 希望を以て 未来へまなざしを向けつつ.

    「希望を持つ」とは「永遠のいのちを生きる」ことである


    我々も,Chirico が若かったときよりももっと日進月歩である世界に生きている;そこにおいては,進歩は,おそらく 大きな資源であり得るが,しかし,大きな危険でもあり得る;そこにおいては[Internet 上の]社会的コミュニケーションの手段に由来する好条件が 社会的-文化的な生の新たな形態を形づくりつつある.しかし,要注意 ! 手段は そのものとして見られるべきであり,そして,それゆえ,このことを要請する:手段の享受者が自身の根を放棄しないこと;そして,どこへ行くのかわからない競争へ発進するのではなく,しかして,自身をよく方向づけ得ること;なぜなら このゆえに:聖アウグスティヌスが書いているように,「我々は,もしどこへ向かって走るべきかを知らないならば,しかるべく走ることはできない」(De Perfectione Justitiae HominisLa perfezione della giustizia dell’uomo, 8.19).

    我々は,どこへ向かって走るべきかを 知っている:使徒ヨハネとペトロの〈キリストの空[から]の墓への〉走り (cf. Jn 20,04) こそが,教会と世が恐れなしに走り得る唯一の走りである;それは,このことを知っている者の走りである:希望は 真のいのち 永遠のいのち に存するということ.永遠は,我々の面前に ある;信ずる者の面前にも 信じない者の面前にも ある;人類の面前に ある.もし 我々が 短い地平線 凡庸な地平線 のために 働くならば,我々の仕事は無駄に終わる.我々は,死ぬことのないいのちという大きな地平線のために 働くべきである;常にこう自問しつつ 生きるべきである:我々が成していることは,我々を しっかりと あの真理 すなわち 愛と永遠 に繋いでいるか (cf. ConfessionesConfessioni, Libro 7, 10.16) ? そして,それが「希望を持つ」ということである.「希望を持つ」とは,このことである:この真理を肯定すること:その真理は,いのちを〈その受胎から その終りにいたるまで〉尊重する;あらゆる人間の尊厳を〈その者の性別や信仰や国籍を超えて〉尊重する;そして,あらゆる民族の特別な慣習と文化 世界の大きな富 尊重する.

    ところで,聖年の深い意味は 何か 我々を〈我々が終末のことを考え得るよう〉助けることでなければ ? 我々は 皆,人生の短さを痛感している;そして,我々は 皆,我々の生の意味について自問する義務を 有している.そのような問いは,魂に 乱れを 不十全さ ないし 失敗の 感覚を もたらすかもしれない.しかし,まさに そのような苦境においてこそ,あの小さな少女は 姿を現す;彼女は,取るに足りないもののように見える;だが,彼女は,Charles Péguy (1873-1914) によれば,希望である (cf. Le Porche du Mystère de la deuxième vertu). 然り,我々が神および人間たちとの関係を生き得るためには 我々には信仰と愛が必要であるとすれば,希望は,我々が歴史の道程を理解し得るために,我々に必要である.Péguy の偉大さは,希望と謙虚との間の深い繋がりへ我々を連れ戻したことに存する.謙虚な者たちは,真に強き者たちである;彼らは,慣れたまなざし[慣れにより鈍感になったまなざし]無しに,Victor Hugo が言うように,驚きの目を以て,生をまなざすことができる (cf. Véronique Dialogue de l'histoire et de l'âme charnelle). さらに,謙虚は,人間の大敵 に対して 勝利する;悪が害を成すのは,まさに 聖性が最大である場所においてであり,ヴァチカン市国のように,キリストの力が 彼に自身を委ねる者たちのうちに 最も豊かに顕れている場所においてである.それゆえ,我々は,謙虚さで武装せねばならない 驚きの目を以て 希望の歩み 小さな しかし 確かな歩み に気がつくために.

    聖体 我らの希望の秘跡


    我々の修道会[永続聖体礼拝者会]の創立者である 福者 Maria Maddalena dell’Incarnazione[受肉のマリアマグダレーナ](1770-1824) は,こう書いている:聖なる者の最後の言葉[複数]は,記憶されるべき最も重要なものである;それらの言葉は,あとに残される者の希望を基礎づける.

    キリストの最後の言葉は,最後の晩餐における言葉である.そこにおいて,彼は,父への信仰 および 永遠のいのちの希望を 我々どうしの愛と 結びつけている.それゆえ,希望は,イェスの「すべての者たちが ひとつとなるように」(Jn 17,21) という熱望と 密接に関連している.聖体は,永遠のいのちのための希望の糧であり,そして,過去と現在と未来とを不思議なしかたで結びつける.また,我々は,このことを知っている:聖体において,人間たちすべての一致が 意義されており,そして,生みだされている.しかしながら,そのことを識っているだけでは 十分ではない;そのことを信じ そして 断言せねばならない 平和と一致の人間としての自身の実存全体を以て.

    では,如何にして 我々のうちで 慣れたまなざしを克服し,そして,謙虚なまなざし 驚きのまなざし を成熟させるか?

    ナポレオン帝国下の大きな災難の時代(教皇ピオ VII 世は 捕虜となり,教皇庁は荒れ果てた),イェスは Maria Maddalena dell’Incarnazione まさに ローマを 彼女の仕事を始めるための場所として 指示した.当時 Palazzo del Quirinale に住んでいた教皇ピオ VII 世は,永続聖体礼拝者会の創立の重要性を理解し,そして,その最初の修道院が彼の住まいのすぐそばに設けられることを 欲した.[1808年に ローマがフランス軍によって占領されると]Madre Maria Maddalena は,フィレンツェに避難したので,その地で修道会を創立することもできたであろうが,しかし,イェスは このことを欲した:キリスト教の中心地であるローマから この大いなる招きが出現すること [その招きは こう招く:]礼拝のまなざしを聖体へ固定するように,そして,そこから 力と祈りと啓示を汲みとるように またも聖アウグスティヌスが言ったように,世による迫害と神の慰めとのあいだで 人類と教会を導くために (cf. De Civitate DeiLa Città di DioXVIII, 51,2).

    いと聖なる方へ向けられるまなざしは,青銅のヘビ(民数記 21,04-09 参照)へ向けられたまなざしと同様,我々を 悪(苦しみ,病)から癒し,我々のまなざしを浄め,そして,我々を預言可能な者にし得る.我々は,恐れなくてよい;我々は 神に 偉大な同盟者を有している.彼は,永遠の愛で 我々を愛しており,そして,いつも我々を憐れんでくださるだろう(イェレミア 31,03 参照).我々が成すべきことは,これらのことである:我々が神によって形づけられるがままにされること;そして,聖なる息吹が〈まさに 聖体をとおして,および 確かな希望の徴であるおとめマリアをとおして〉我々に提供する啓示を 時代のなかで 実行すること.

    Hans Holbein (ca 1497 – 1543) : Der Leichnam Christi im Grabe

    しばしば濫用される Dostoevsky の引用がある:「美は 世界を救うだろう」.それは,まちがった引用である;なぜなら このゆえに:『白痴』のなかで,主人公 ムィシュキン公爵は 実際には ひとつの劇的な問いを発している:「如何なる美が世界を救うだろうか ? [7]」そして,実際,公爵は,Holbein の「墓のなかのキリストの遺体 [8]」に対面する [9] ; それは,恐ろしい作品である;そこにおいて,キリストは等身大に描かれており,彼の顔は 目が落ちくぼんでおり,彼の四肢は すでに 壊死の徴候を呈している.したがって,その問いは真剣なものである.如何なる美が 我々を救うだろうか ? 十字架の美は 世界を救うだろうか ? 敗北の美が?

    然り,それでも 十字架は 我々を救い得る 受けいれられた十字架,そして,献げられた十字架.我々は,スキャンダルと論争の間で 困難な歳月を生きてきた;しかし,あの偉大な徴において,我々は なおも 勝利し得る.あの偉大な〈敗北の〉美が 我々を救うだろう.希望が生ずるのは このようなところにおいてである:そこにおいては,苦痛と悔悟の涙が 魂を〈謙虚さと いのちの新しさにおいて〉豊かにする.

    確かな希望の徴


    Salvador Dalí (1904-1989) : La Madonna de Port Lligat

    さらに 我々は もうひとりの偉大な同盟者をも有している:美の女王,おとめマリア.それゆえ,あなたたちに提示する最後の絵は,Salvador Dalí によって[広島と長崎への]原爆の投下のあとに 描かれた Madonna de Port Lligat[ポルトリガトの聖母]である.それは,倫理から切り離された科学とテクノロジーが我々にもたらし得る悲劇の象徴である.聖母の顔は,彼の妻 Gala のそれである 画家にとって 大きな慰めのモチーフ.画面のなかには,いたるところに 廃墟の徴が見うけられる.マリアのうえにある古いアーチは 分離している;我々の組織も,そのように,古いが,しばしば 劣化の徴を有している.キリストの象徴である魚が predella[祭壇画の下の部分]のうえに置かれてあるが,それは 今や すでに 死んでいる;遠景の山々は 水面のうえに 宙づりになっている.だが,同時に,画家は,再生の徴を 作品に ちりばめている:たとえば,分離したアーチの中央の卵 [10], 手を伸ばした天使たち,おとめマリアに似ている妊婦たち.画家は,このことを断言したかった:マリアは 我々を護っている 我々の挫折において および 我々の可能性において 彼女が 膝に載せているおさな子を護っているように.マリアと神のおさな子の慈しみ深い胸と腹は,聖年の希望の扉のように開かれた長方形によって表されている.マリアの胸腹部の中心にイェスがいるとすれば,神のおさな子の胸腹部の中心には 聖体のパンが ある.そのパンを見つめつつ,キリストは 左右の手に ふたつのものを ぶらさげられているように 持っている:世界[地球]および ことば[聖書]すなわち,人間の知恵 および 神の知恵.そのように,イェスは 我々を[こうするよう]教育する まずは,まなざしを 聖体のパンへ固定しつつ,希望の道を見いだしなおすよう;そして,現在を独自のしかたで解釈し かつ 未来に賭けるために,過去から力を汲みとるよう;最後に,マリア — Salus Populi Romani[ローマの民の救済],Janua Coeli[天の門],希望と慰めの扉 の熱心な助けに信頼するよう.

    然り,慰めと希望の母よ,我らのために祈りたまえ.


    ******
    訳注

    [1] Papa Francesco は,20160317日,四旬節 5 週の 木曜日,Casa Santa Marta における朝ミサの説教(原文邦訳)のなかで,「希望の糸」という表現を用いている シスター Riga ここで「希望の糸」と言うとき,彼女は そのことを踏まえてはいないだろうが.また,「希望の糸」という表現は,聖年 2025 招集の教書 Spes non confundit のなかでは 用いられていない.

    [2] Chirico の両親は,ふたりとも,ギリシャ人を先祖に持つイタリア貴族の家系に属していた.

    [3] 父がギリシャに鉄道を敷設する仕事に携わっていたため,Chirico ギリシャで 生まれ育った.

    [4] Ferrara は,Bologna から 北北東へ 50 km のところにある都市.Chirico は,1912年に,イタリアの兵役義務を逃れるため,フランスに移住した.第一次世界大戦が始まると,イタリア政府は,兵役義務の逃れるために国外へ逃亡した者たちに対して,ヴォランティアとして労働奉仕することを引き換えに,帰国を許した.そこで,彼は 帰国し,Ferrara のある病院で事務員として働くよう命ぜられ,それに従った.

    [5] もともと 精神的に非常に敏感であった Chirico は,Ferrara での生活のなかで 精神的に不安定となり,友人の勧めにより,1917年の春から夏のなかばまで,数ヶ月間,Ferrara 近郊の 兵士用の精神科病院に入院し,治療を受けた.

    [6] Self-made man とは,自身の努力によって社会的に成功した者:つまり,Chirico は「放蕩息子」を 聖書におけるように 惨めな零落者としては 描いていない.実際,絵のなかで,息子は 父よりも 堂々と 大きく描かれており,観賞者に背中を向けている父の方が 弱々しく見える.

    [7] 実際には,「美が世界を救うだろう」という命題を述べ,そして「如何なる美が世界を救うだろうか?」という問いを発しているのは,『白痴』の主要な登場人物のひとりであるイポリット 結核のため余命いくばくもない(つまり,死の穴に直面する不安を生きている)17 歳の青年 である.彼は,『白痴』の 3 5 章の始めにおいて,「ムィシュキン公爵は『美が世界を救うだろう』と主張している」と述べ,そして「如何なる美が世界を救うだろうか?」と問うている.

    [8] Hans Holbein (ca 1497 – 1543) Der Leichnam Christi im Grabe[墓のなかのキリストの遺体]は,Basel 大学の 法学教授 Bonifacius Amerbach (1495-1562) の依頼により 1521年に 制作され始め,1522年に 完成した.この 200 cm, 30.5 cm 細長い長方形の作品は,祭壇画の predella を思わせる.実際,画家は,Matthias Grünewald (ca 1470 – 1528) Isenheim 祭壇画を見にいったことがあるその祭壇画の predella には,キリストの埋葬が描かれている.発注者の Amerbach は,Holbein の絵を,彼および彼の家族の墓にしつらえる墓碑に用いるつもりであったが,宗教改革にともなう Bildersturm[聖像破壊]の現象のゆえに,その計画を放棄した,と推定されている.それゆえ,Holbein の作品は Amerbach 家に保管され,17世紀に バーゼル大学に寄贈された.現在は バーゼル美術館に展示されている.

    [9] ムィシュキンが Holbein の『墓のなかのキリストの遺体』の複製を見かけるのは,第 2 4 章において物語られている ロゴージン(『白痴』の主要な登場人物のひとり;ムィシュキンが神学的な愛を表しているのに対して,ロゴージンは 世俗的な愛と欲望を表している)の館を訪れる場面においてである.そこにおいて,彼らが Holbein の絵をしばし眺めたあと,ロゴージンは 不意に ムィシュキンに問う:「あなたは 神を信じているか?」そして,それに続けて 言う:「わたしは,あの絵を見ているのが好きだ.」それに対して,ムィシュキンは 驚いて 言う:「あの絵を!何と!信者でさえ,あの絵を見ることによって,信仰を失うかもしれないのに?」その「信者でさえ,Holbein のあの絵を見ると,信仰を失うかもしれない」という指摘は,イポリットによって再び取りあげられる;彼は,先ほども言及したように,第 3 5 章の始めに「如何なる美が世界を救うだろうか?」と問うたあと,同章の半ばから 7 章の始めまで 自殺を正当化するための「説明」を開陳するとき,第 6 章において,Holbein の絵 それを 彼も ロゴージンのところで 見た に言及しつつ,こう言う:キリストの弟子たちも,あのような彼の死体を見たならば,死の圧倒的な力をまえにして,彼の復活を信ずることはできなかっただろう.そして,イポリットは,自殺を正当化する「説明」を述べ終えると,拳銃で自殺しようとする;だが,彼が銃弾に雷管を取り付けるのを忘れていたため,弾は発射されず,彼は自殺に失敗する.

    [10] Dalí の絵の最上部の中央には,ホタテ貝の貝殻が描かれ,その縁から 紐で 卵が吊り下げられている.それは,Piero della Francesca (ca 1412 – 1492) Pala di Brera[ブレラ祭壇画]からの引用である;その祭壇画においても,おとめマリアの頭上には卵がホタテ貝の貝殻から吊り下げられている.ホタテの貝殻は,キリスト教の文脈においては Santiago de Compostela 巡礼の象徴であるが,ここでは,Aphrodite-Venus との関連性 海の泡から誕生したとき Aphrodite-Venus 舟がわりのホタテの貝殻に 乗る にもとづいて,新たな美の女神 おとめマリアの象徴として 描かれている.卵は,スパルタの王妃 レダの神話 それによると,彼女は,白鳥となったゼウスとの交わりによって妊娠し,彼の子を生むとき,卵を産み,その卵から子どもたちが生まれる にもとづいて,神の聖なる息吹によりマリアが妊娠することを表している.また,卵は,創造 および いのちの 象徴である.

    邦訳および訳注:ルカ 小笠原 晋也

  6. Keith D. Larson : The Lord appears to Abraham

    2016-03-17, 四旬節 5 週の 木曜日,Papa Francesco Casa Santa Marta における 朝ミサの説教:希望の糸


    聖書朗読

    1 朗読:創世記 17,03-09

    アブラム ( אַבְרָם ) 99歳であったとき,YHWH 彼に 現れた.
    3 そこで,アブラムは ひれ伏した;すると,神は 彼に 語りかけて 言った:

    4 さあ,見よ,これが わたしの〈おまえとの〉契約である:おまえは,多くの民族の父となるだろう.
    5 そこで,おまえの名は,もはや アブラムと呼ばれるのではなく,しかして,おまえの名は アブラハム ( אַבְרָהָם ) である;なぜなら このゆえに:わたしは おまえを 多くの民族の父とした.
    6 そして,わたしは おまえを 非常に実り豊かにするだろう;そして,おまえを諸民族にするだろう;そして,王が おまえから 現れるだろう.
    7 そして,わたしは わたしの契約を 立てる わたしと おまえとの 間に および[わたしと]おまえのあとの〈おまえの〉種[たね:子孫]との間に 彼らの諸世代をとおして 永遠の契約として おまえにとって 神であるために および,おまえのあとの〈おまえの〉種にとって[神であるために].
    8 そして,わたしは 与える おまえに および おまえのあとの〈おまえの〉種に おまえの滞在地を カナン全土を 永遠の財産として;そして,わたしは 彼らの神となる.

    9 そして,神は アブラハムに 言った:

    それゆえ,おまえは わたしの契約を守れ おまえ および おまえのあとの〈おまえの〉種たちは 彼らの諸世代をとおして.

    ******
    福音朗読:ヨハネ 8,51-59

    そして,イェスは ユダヤ人たちに 言った:

    51 Amen, amen, わたしは あなたたちに 言う:もし ある者が わたしのロゴスを守るならば,その者は 死を見ないだろう 永遠に.

    52 そこで,ユダヤ人たちは 彼に 言った:

    今や 我々は,あなたが悪霊を有していることを 識った.アブラハムは 死んだ;そして,預言者たちも[死んだ];ところが,あなたは 言う:

    もし ある者が わたしのロゴスを守るならば,その者は 死を味わわないだろう 永遠に.

    53 あなたは,我々の父 アブラハムよりも より偉大なのか? 彼は 死んだ;そして,預言者たちも 死んだ.あなたは あなた自身を 何とするのか?

    54 イェスは 答えた:

    もし わたしが わたし自身を栄光化するのであれば,わたしの栄光は何ものでもない.わたしを栄光化するのは わが父である 彼のことを あなたたちは「彼は 我々の神である」と 言っている.
    55 そして,あなたたちは 彼を識ってはいない;だが,わたしは彼を知っている;そして,もし わたしが「わたしは彼を知らない」と言うならば,わたしは あなたたちと同様に 虚言者となるだろう;しかし,わたしは 彼を知っている;そして,わたしは 彼のロゴスを守る.
    56 あなたたちの父 アブラハムは,わたしの日[主の日,裁きの日,救世主の王国が建てられる日]を見て,喜んだ;彼は,それを見た;そして,喜んだ.

    57 そこで,ユダヤ人たちは 彼へ言った:

    あなたは まだ 50歳にもならない;なのに,あなたは アブラハムを 見たのか?

    58 イェスは 彼らに 言った:

    Amen, amen, わたしは あなたたちに 言う:アブラハムが生まれたときよりもまえに,わたしは存在する [ אֶהְיֶה , ἐγὼ εἰμί ].

    59 そこで,彼らは 石を 手に取った イェスへ投げるために;だが,イェスは 隠れた;そして,神殿から出て行った.

    ******
    Papa Francesco 説教:希望の糸

    今日の典礼は[このことを以て]我々を 復活祭の祝いへ向けて 準備する:希望 あのかくもなおざりにされた徳,かくも謙虚な徳 に関する省察を以て.ヨハネ福音書の一節 (8,51-59) において,イェスは,アブラハムについて語り,そして,律法学者たちへ 言う:「あなたたちの父 アブラハムは,わたしの日を見る希望 [1] のうちに 喜んだ.」

    アブラハムは,このような男である:彼は,彼の[郷里の]土地から 旅だった どこへ行くのかも知らずに;彼は,従順によって,忠実さによって,出発した.さらに,アブラハムは このような男である:彼は 神のことばを信じた;そして,その信仰によって 義とされた.だが,彼は このような男でもある:彼は,あの希望の道の途中で 試みを受けもした 彼も彼の妻も,神が彼らに「おまえたちは息子を得るだろう」と言ったときに,微笑んだ [2]. だが,彼は信じた.

    1 朗読においては,アブラハムは 神の契約のことばを聞く:「わたしは おまえに 地を与えるだろう;おまえは 多くの国々の父となるだろう.」かくして,アブラハムは 信じた;そして,その希望の糸は 救済の歴史にそって流れている.さらには,それは 喜びの源である.

    今日,教会は 我々に 希望の喜びについて 語っている.まさに ミサの最初の祈り[集会祈願]のなかで,我々は 神に この恵みを 願った:神が 教会の希望を 護ってくれること それが欠けることのないように.さらに,聖パウロは,我らの父アブラハムについて語りつつ,我々に こう言っている:「あなたたちは,あらゆる希望に反して,信じなさい [3].」そのように,人間的な希望が無いときに,あの[希望という]徳が ある;それは,あなたを前進させる;それは,謙虚であり,単純である;だが,それは あなたに 喜びを与える ときとして 大きな喜びを,また,ときとして ただ平和だけを.だが,確かさは 決して欠けることがない;なぜなら このゆえに:「希望は あざむかない [4].

    その〈アブラハムの〉喜びは,歴史のなかで 大きくなってゆく;そして,イェスは こう言う:「あなたたちの父 アブラハムは,わたしの日を見る希望のうちに 喜んだ.」まことに,希望は,ときとして 隠されたままであり,見えないままである;だが,ときとして それ[希望]は 開放的に自身を顕現する.そして,そのように,エリザベトは,彼女の[エリザベトの]家にマリアがやって来たときに,彼女に[マリアに]言う:「見よ,なぜなら このゆえに:あなたの挨拶の声が わが耳へ 成る[届く]や,胎児は わが腹のなかで 喜びに跳ねた」(Lc 1,44). その出会いのうちには,彼[神]の民とともに歩む神の現存の喜びが ある.そして,喜びがあるとき,平和がある.そして,それが 希望の徳である:喜びから 平和へ.希望は 決して あざむかない.

    その理由のゆえに,神の民は,奴隷であったときでさえ,異郷において異邦人であったときでさえ,常に 確かさの感覚を 有していた;その感覚を 預言者たちは 大きくした:主は あなたたちを 救うだろう.そして,その希望の糸は,アブラハムとともに アブラハムに語りかける神とともに 始まり,そして,福音書のこの一節へ 行き着く;そこにおいて,アブラハムに語りかけた神自身が こう言う:「わたしは[アブラハムに]語りかけた者である;わたしは,アブラハム以前に 存在していた;わたしは,アブラハムを呼んだ者である;わたしは,この救済の道を開始した者である.」

    その神は,我々に寄り添う神であり,また,苦しむ神 彼の民が苦しんだように 苦しむ神 である;彼は,十字架上で 苦しむ;だが,彼は 彼のことばに忠実である.

    そこで,三つの対神徳 (le tre virtù teologali) — 信仰と愛と希望 に関して 本質的な意識の審査をしてみよう これらの問いを問いつつ:

    あなたは 信仰を有しているか ?
    はい,神父さま,わたしは信仰を有しています;わたしは信じています 父と 息子と 聖なる息吹を,そして,秘跡を.
    では,あなたは 愛を有しているか ?
    はい,しかし,さほど大したものではありません:わたしは,争わないようにし,困っている人々を助けようとし,人生のなかで何らかの善きことをしようとしています.

    以上は,我々が 容易に 幾度も 返すことのできる答えである.だが,「おまえは,希望を有しているか ? 希望の喜びを有しているか?」と問われるとき,答えは こうである:

    神父さま,わたしには わかりません.説明してください.

    希望とは,あの徳である:それは,謙虚である;それは,いのちの水のしたを流れている;そして,我々を支えている 我々が 多数の困難のなかで 溺れないように,神を見つける欲望を失わないように 神のすばらしい顔を見つける欲望 それを 我々は いつの日か 見るだろう.

    今日は,このことを省察するための よき日である:神は,アブラハムに呼びかけ,彼を彼の郷里から旅だたせた どこへ行くことになるのかを彼が知らないままに ;その同じ神が,十字架にかけられる 彼が成した約束を果たすために.彼は,同一の神である;彼は,時が満ちたとき,あの約束が我々皆にとって現実と成るようにしてくださる.

    そして,あの最初の時と あの最後の時とを 結合するもの,それが 希望の糸である.

    それゆえ,希望とは,キリスト者としてのわたしの生を キリスト者としての我々の生に 結合するものである ひとつの時を ほかの時に 結合する 常に前進するために 我々は罪人である だが,前進する.

    さらに,希望とは,逆境においても,人生の最も暗い時にも,我々に平和を与えてくれるものである.

    実際,希望は あざむかない;それは 常に ある もの静かに,謙虚に,だが 力強く.

    今日のミサの始めの祈りを繰りかえそう:主よ,我らの希望は あなたの手のなかにあります;我らの希望を護ってください.


    ******
    訳注

    [1] Papa Francesco は,v.56 を引用する際に,テクストにはない「希望」という語を挿入している その節と パウロがアブラハムについて語っているローマ書簡 4,18 の「彼は,[常識的な次元の]希望に反して,[神の約束の]希望において 信じた」とを交差させることによって,その語を イェスのことばのなかへ 取りこみつつ.すばらしい解釈で訳注ある.

    [2] 実際には,創世記 18,12 においては,「そして,サラは 自身の[心の]うちで 笑った」と書かれてあり,アブラハムも笑ったのか否かに関しては 何も言われていない.サラとアブラハムが ふたりとも 笑った(ないし 微笑んだ)というのも,Papa Francesco おもしろい解釈である.

    [3] 先ほども部分的に引用したローマ書簡 4,18 にもとづく言葉.その節を含む 319日,おとめマリアの夫 聖ヨセフの 祭日の 2 朗読を 以下に提示する:

    2 朗読:ローマ書簡 4,13.16-18.22

    13 なぜなら このゆえに:それは 律法によってではなかった アブラハム または 彼の子孫に「おまえは 世の相続人になる」という約束が為されたのは しかして,それは 信仰の義によってであった.
    16 それゆえ,それは 信仰によってである このために:恵みによって,約束が[アブラハムの]子孫すべてにとって 確実なものであるために 単に律法によって子孫である者たちにとってだけではなく,しかして,アブラハムの信仰によって子孫である者たちにとっても;実際,アブラハムは 我々すべての父である
    17 こう書かれてあるように:

    わたし[神]は あなたを 多数の民族の父として 措定した

    彼[アブラハム]が信じた方のまえで 神のまえで 神は,死者たちに いのちを与える;そして,存在しないものを 存在するものとして 呼び出す.
    18 彼[アブラハム]は,[常識的な次元の]希望に反して[神の約束の]希望において,信じた 彼が多数の民族の父となるために この[神の]ことばにしたがって:「あなたの種[たね:子孫]は このように[夜空の星々のように多数に]なるだろう」.
    22 そして,それがゆえに,それ[アブラハムの信仰]は 彼の義のなかへ 数え入れられた.

    [4] 周知のように,使徒パウロのローマ書簡 5,05 の「希望は あざむかない」(ἡ ἐλπὶς οὐ καταισχύνει ; spes non confundit) は,Papa Francesco 20240509日付で発表した 聖年 2025 の招集の教書の 表題となっている.

    邦訳と訳注:ルカ 小笠原 晋也

  7. El Greco (1541-1614) : Pentecostés




    Veni Creator Spiritus, Mentes tuorum visita: Imple superna gratia, Quae tu creasti pectora.

    Qui diceris Paraclitus, Altissimi donum Dei, Fons vivus, ignis, caritas, Et spiritalis unctio.

    Tu septiformis munere, Digitus Paternae dexterae, Tu rite promissum Patris, Sermone ditans guttura.

    Accende lumen sensibus, Infunde amorem cordibus, Infirma nostri corporis Virtute firmans perpeti.

    Hostem repellas longius, Pacemque dones protinus: Ductore sic te praevio, Vitemus omne noxium.

    Per te sciamus da Patrem, Noscamus atque Filium, Teque utriusque Spiritum Credamus omni tempore.

    Deo Patri sit gloria, Et Filio qui a mortuis Surrexit, ac Paraclito, In saeculorum saecula. Amen.


    来たまえ,創造主たる息吹よ,あなたの民のこころを訪れたまえ:高きところからの恵みで 満たしたまえ あなたが創造した胸を.

    あなたは こう呼ばれるだろう : Paraclitusπαράκλητος, 弁護者,慰める者,執りなす者],いと高き神の 賜,いのちの源,火,愛,そして,精神的な塗油.

    あなたは,賜として 七つの形[知恵,知性,助言,強さ,知識,敬虔さ,神を恐れること]を とる.父の右手の指,あなたは まさに 父の約束 [我らの]喉を ことばで 豊かにしつつ.

    [我らの]感覚に 光を 灯したまえ,[我らの]心に 愛を 注ぎたまえ 我々の体の弱さを[あなたの]辛抱づよさの力で 強めつつ.

    あなたが敵を遠ざけてくれるように,そして,あなたが 平和を すぐに 与えてくれるように:かくして,あなた 我らの]先を行く導き手 によって,我らが あらゆる害を 避け得るように.

    [これらのことを 我らに]与えたまえ:あなたによって 我らが 父を知るように,そして,我らが 息子をも 識るように,そして,あなた 両者の息吹 をも 我らが いかなるときも 信ずるように.

    栄光があるように 父なる神に,そして,息子に 彼は 死者たちのうちから 復活した ,さらに Paraclitus に,幾世にも幾世にも.Amen.

  8. Gabriel Wüger (1829-1892) : Stabat Mater




    1. Stabat Mater dolorósa
    juxta Crucem lacrimósa,
    dum pendébat Fílius.

    悲しむ母は 立っていた
    十字架のそばに 涙ながらに
    息子が[十字架に]架けられている間

    2. Cuius ánimam geméntem,
    contristátam et doléntem
    pertransívit gládius.

    嘆く〈彼女の〉魂を
    深く悲しみ 苦しむ[彼女の魂を]
    剣が 貫いた

    3. O quam tristis et afflícta
    fuit illa benedícta,
    Mater Unigéniti!

    おお,何と 悲しみ,打ちひしがれていることか
    あの祝福された彼女が!
    [神の]ひとり息子の母が!

    4. Quae mærébat et dolébat,
    pia Mater, dum vidébat
    nati pœnas ínclyti.

    彼女は,歎き,悲しんでいた,
    敬虔な母は 見ている間
    名高き息子の処刑を

    5. Quis est homo qui non fleret,
    Matrem Christi si vidéret
    in tanto supplício?

    泣かぬ者は 誰か いるだろうか ?
    もし 見るならば キリストの母が
    かくも苦しんでいるのを

    6. Quis non posset contristári
    Christi Matrem contemplári
    doléntem cum Fílio?

    深く悲しみ得ない者が 誰か いるだろうか ?
    [このことを]見て キリストの母が
    息子とともに 苦しんでいるのを

    7. Pro peccátis suæ gentis
    vidit Jésum in torméntis,
    et flagéllis súbditum.

    彼の民の罪のゆえに
    彼女は 見た イェスが 苦しむのを
    [彼が]鞭打ちを受けるのを.

    8. Vidit suum dulcem Natum
    moriéndo desolátum,
    dum emísit spíritum.

    彼女は 見た 彼女の愛しい息子が
    見棄てられて 死にゆくのを
    [彼が]息吹を[父へ]返すとき

    9. Eja, Mater, fons amóris
    me sentíre vim dolóris
    fac, ut tecum lúgeam.

    おお,母よ,愛の泉よ,
    わたしに感じさせたまえ 悲しみの力を
    わたしが あなたとともに 喪を嘆くために

    10. Fac, ut árdeat cor meum
    in amándo Christum Deum
    ut sibi compláceam.

    [こうなるように]したまえ わが心が 燃える
    神なるキリストを愛することにおいて
    わたしが彼の意に適うように

    11. Sancta Mater, istud agas,
    crucifíxi fige plagas
    cordi meo válide.

    聖なる母よ,こうしたまえ
    十字架に架けられた者[キリスト]の 傷を 付けたまえ
    わが心に しっかりと

    12. Tui Nati vulneráti,
    tam dignáti pro me pati,
    pœnas mecum dívide.

    あなたの〈傷つけられた〉息子の
    彼は かくも わたしのために苦しんでくださった
    刑[の苦しみ]を わたしと 分かち合いたまえ

    13. Fac me tecum pie flere,
    crucifíxo condolére,
    donec ego víxero.

    わたしを あなたとともに 敬虔に 泣かせたまえ
    [わたしを]十字架に架けられた者[キリスト]とともに 苦しませたまえ
    わたしが生きている限り

    14. Juxta Crucem tecum stare,
    et me tibi sociáre
    in planctu desídero.

    あなたとともに 十字架のそばに 立つこと
    そして,わたしを あなたとともに[こう]させること
    [悲しみや苦しみのゆえに 嘆いて 自身の]胸を叩くこと それを わたしは 欲する

    15. Virgo vírginum præclára,
    mihi iam non sis amára,
    fac me tecum plángere.

    輝かしき〈乙女たちのなかの〉乙女よ
    わたしに対して厳しくなりたまうな
    わたしを あなたとともに[悲しみや苦しみのゆえに 嘆いて 自身の]胸を叩かせたまえ

    16. Fac ut portem Christi mortem,
    passiónis fac consórtem,
    et plagas recólere.

    わたしがキリストの死を担い得るように したまえ
    [わたしを]受難にともに与る者に したまえ
    そして[わたしに キリストの]傷を また味わわせたまえ

    17. Fac me plagis vulnerári,
    fac me Cruce inebriári,
    et cruóre Fílii.

    わたしが[キリストの]傷で 傷つけられるように したまえ
    わたしが酔うように したまえ 十字架で
    および[あなたの,神の]息子の流血で

    18. Flammis ne urar succénsus,
    per te, Virgo, sim defénsus
    in die iudícii.

    わたしは[神の怒りの]炎によって 燃やされ 焼かれることはないだろう
    おとめよ,わたしが あなたによって 護られてありますように
    裁きの日に

    19. Christe, cum sit hinc exire,
    da per Matrem me veníre
    ad palmam victóriæ.

    キリストよ,この世から立ち去ることになるときは
    わたしが あなたの母によって 至り得るようにしたまえ
    勝利の棕櫚へ

    20. Quando corpus moriétur,
    fac, ut ánimæ donétur
    paradísi glória. Amen.

    わが体が 死ぬときは
    [わが]魂に 与えられるようにしたまえ
    天国の栄光が.Amen.

  9. Jan Davidszoon de Heem (1606-1683) : Eucharistie, von Fruchtgirlanden umgeben




    I. Lauda Sion salvatorem,
    lauda ducem et pastorem
    in hymnis et canticis.

    II. Quantum potes tantum aude,
    quia major omni laude,
    nec laudare sufficis.

    III. Laudis thema specialis
    panis vivus et vitalis
    hodie proponitur.

    IV. Quem in sacræ mensa cœnæ
    turbæ fratrum duodenæ
    datum non ambigitur.

    V. Sit laus plena, sit sonora,
    sit jucunda, sit decora
    mentis jubilatio.

    VI. Dies enim solemnis agitur,
    in qua mensæ prima recolitur
    hujus institutio.

    VII. In hac mensa novi Regis,
    novum Pascha novæ legis,
    phase vetus terminat.

    VIII. Vetustatem novitas,
    umbram fugat veritas,
    noctem lux eliminat.

    IX. Quod in cœna Christus gessit,
    faciendum hoc expressit
    in sui memoriam.

    X. Docti sacris institutis,
    panem, vinum in salutis
    consecramus hostiam.

    XI. Dogma datur christianis,
    quod in carnem transit panis,
    et vinum in sanguinem.

    XII. Quod non capis, quod non vides,
    animosa firmat fides,
    præter rerum ordinem.

    XIII. Sub diversis speciebus,
    signis tantum, et non rebus,
    latent res eximiæ.

    XIV. Caro cibis, sanguis potus:
    manet tamen Christus totus
    sub utraque specie.

    XV. A sumente non concisus,
    non confractus, non divisus:
    integer accipitur.

    XVI. Sumit unus, sumunt mille:
    quantum isti, tantum ille:
    nec sumptus consumitur.

    XVII. Sumunt boni, sumunt mali:
    sorte tamen inæquali,
    vitæ vel interitus.

    XVIII. Mors est malis, vita bonis:
    vide paris sumptionis
    quam sit dispar exitus.

    XIX. Fracto demum Sacramento,
    ne vacilles, sed memento,
    tantum esse sub fragmento,
    quantum toto tegitur.

    XX. Nulla rei fit scissura:
    signi tantum fit fractura:
    qua nec status, nec statura
    signati minuitur.

    XXI. Ecce panis angelorum,
    factus cibus viatorum:
    vere panis filiorum,
    non mittendus canibus.

    XXII. In figuris præsignatur,
    cum Isaac immolatur,
    agnus Paschæ deputatur,
    datur manna patribus.

    XXIII. Bone pastor, panis vere,
    Jesu, nostri miserere:
    tu nos pasce, nos tuere,
    tu nos bona fac videre
    in terra viventium.

    XXIV. Tu qui cuncta scis et vales:
    qui nos pascis hic mortales:
    tuos ibi commensales,
    cohæredes et sodales
    fac sanctorum civium. Amen. Alleluia.


    1) 讃えよ,シオンよ,救い主を
    讃えよ,指導者を,牧者を
    讃歌と聖歌のうちに

    2) できる限りのことを せよ
    なぜなら このゆえに:彼は あらゆる讃美よりも より偉大である
    そして,おまえがいくら彼を讃えても 十分ではない

    3) 特別な讃美の主題
    生きているパン,生命的なパンが
    今日,提示される

    4) 聖なる晩餐の食卓において
    兄弟たち[弟子たち]12人のグループに
    与えられたもの[パン]に関しては,疑いがない

    5) 讃美は,十全たれ,よく響け
    ここちよかれ,ふさわしかれ
    心の喜びであれ

    6) なぜなら このゆえに:かかわっているのは,厳かな日である
    そこにおいて,この食卓[感謝の祭儀]の最初の制定が 改めて讃えられる

    7) この〈新たな王の〉食卓において
    新たな律法の新たな過越が
    旧き過越を 終わらせる

    8) 新たなものは 旧きものを[追い払う]
    真理は 陰を 追い払う
    光は 夜を 排除する

    9) キリストが晩餐において成したこと
    彼は 言った:これは 成されるべし
    彼の記念において

    10) 聖なる定めに教えられて
    我らは パンと葡萄酒を 救済のための
    いけにえとして 聖別する

    11) この教義が キリスト者たちに 与えられる:
    パンは 肉に 変わる
    そして,葡萄酒は 血に[変わる]

    12) おまえには わかりも 見えもしないことを
    生き生きとした信仰は 確かなものにする
    [世の]事物の秩序の彼方において

    13) さまざまな形態のしたに
    ただ 徴として そして 実物としてではなく
    すばらしきものが 隠れている

    14) 食べもの[パン]は 肉,飲みもの[葡萄酒]は
    だが[そこには]キリスト全体が とどまっている
    両形態のもとに

    15)[聖体を]拝領する者によって[キリストは]割られることなく
    砕かれることなく 裂かれることなく
    損なわれることなく 受け取られる

    16) ひとりが[聖体を]拝領し,千人が拝領する
    彼ら[拝領する者たち]の数だけ,彼[キリスト]は たくさん ある
    [いくら]拝領されても,彼は尽きない

    17) 善人が拝領し,悪人が拝領する
    だが,運命に関しては,彼らは等しくない
    [一方は]いのちの[運命],[他方は]滅びの[運命]

    18) 悪人たちにとっては 死,善人たちにとっては いのち
    見よ,等しい拝領の
    結果が 何と異なることか!

    19) ついに 秘跡[ホスティア]が割られるときに
    動揺しないように;しかして,このことを思い出せ:
    [ホスティアの]断片のしたにも
    その全体によって覆われているのと同じものが ある.

    20)[キリストの体の]実物が裂かれるのではない
    ただ その徴が 割られるのだ
    そのことは,徴によって表されている方の
    立ち姿をも身の丈をも 減じない

    21) 見よ,天使たちのパン
    旅人たちの食べものとして作られた
    まことに 息子たちのパン
    犬どもに投げ与えるべきではない!

    22) それ[聖体]は,比喩的に あらかじめ表されている:
    イサクが屠られようとするときに
    過越の子羊が見つくろわれるときいに
    マナが父たち[先祖たち]に与えられるときに

    23) 善き羊飼いよ,まことのパンよ
    イェスよ,我らを憐れみたまえ
    我らを養いたまえ,我らを見まもりたまえ
    我らに 善きものを 見せたまえ
    生きている者たちの地において

    24) あなたは,すべてを知っており,すべてを能う
    あなたは,死すべき我らを ここで 養ってくださる
    あそこ[あなたの国]で[我らを]あなたの食卓にともに与る者にしたまえ
    [あなたの国を]ともに相続する者にしたまえ,そして
    [我らを あなたの国の]聖なる市民たちの仲間にしたまえ.Amen. Alleluia.

  10. Jean Restout le jeune (1692-1768) : La Pentecôte




    Veni, Sancte Spiritus, et emitte caelitus Lucis tuae radium.

    Veni, pater pauperum, Veni, dator munerum, Veni, lumen cordium.

    Consolator optime, Dulcis hospes animae, Dulce refrigerium.

    In labore requies, in aestu temperies, In fletu solatium.

    O lux beatissima, Reple cordis intima Tuorum fidelium.

    Sine tuo numine, Nihil est in homine, Nihil est innoxium.

    Lava quod est sordidum, Riga quod est aridum, Sana quod est saucium.

    Flecte quod est rigidum, Fove quod est frigidum, Rege quod est devium.

    Da tuis fidelibus, In te confidentibus, Sacrum septenarium.

    Da virtutis meritum, Da salutis exitum, Da perenne gaudium. Amen. Alleluia.


    来たまえ,聖なる息吹よ,そして,天から 送りたまえ — あなたの光線を.

    来たまえ,貧しき者たちの父よ,来たまえ,賜を与える方よ,来たまえ,心の光よ.

    いと大いなる慰める方よ,甘き〈魂の〉客よ,甘き清涼よ.

    労苦における 休息,暑きときの 温和,涙における 慰め.

    おお,いと幸いなる光よ,あなたを信ずる者たちの 心の内奥を 満たしたまえ.

    あなたのうなづきなしには,人間のなかには 何も無い,無害なものは 何も無い.

    汚れたものを 洗いたまえ,乾いたものに 水をやりたまえ,傷ついたものを 癒したまえ.

    かたくななものを 曲げたまえ,冷たいものを 温めたまえ,逸れたものを 正したまえ.

    与えたまえ — あなたに信頼するあなたの信者たちに,七重の聖なるものを.

    与えたまえ — 徳の利を;与えたまえ — 救済という終りを;与えたまえ — 永遠の喜びを.Amen. Alleluia.

  11. Hubert van Eyck (circa 1366–1426) et Jan van Eyck (circa 1390–1441) : Adoratio Agni




    Victimae paschali laudes immolent Christiani.

    Agnus redemit oves: Christus innocens Patri reconciliavit peccatores.

    Mors et vita duello conflixere mirando: dux vitae mortuus, regnat vivus.

    Dic nobis Maria, quid vidisti in via? 

    Sepulcrum Christi viventis, et gloriam vidi resurgentis

    Angelicos testes, sudarium, et vestes.

    Surrexit Christus spes mea: praecedet suos in Galilaeam.

    Scimus Christum surrexisse a mortuis vere: tu nobis, victor Rex, miserere. Amen. Alleluia.


    過越のいけにえに 称讃を キリスト者たちが 献げるように

    仔羊が 羊たちを 贖った:罪なきキリストが 罪人たちを 父と 和解させた

    死といのちとが 驚くべき戦いを 戦った:いのちを導く者が 死んで[復活して]生きて 君臨する

    我らに言いたまえ,マリアよ,何を あなたは 途中で 見たのか?

    生きているキリストの墓 および 復活する彼の栄光を,わたしは見た

    [彼の復活の]証人である天使たち,スダリウム[sudarium : 遺体を包んでいた布]および 衣を[わたしは見た]

    キリスト — わが希望 — は 復活した:彼は 彼の者たち[彼の弟子たち]よりも先に ガリラヤへ 行く

    我々は[このことを]知る:キリストは まことに 死者たちのうちから 復活した.あなたは 勝利者 王;我らを あわれみたまえ.Amen. Alleluia.
  12. 2013年08月28日,Basilica di Sant'Agostino in Campo Marzio において,アウグスティノ会 総長(当時)Padre Robert Francis Prevost(現 Papa Leone XIV)と Papa Francesco

    パパ フランチェスコ:聖アウグスティヌスの不安について


    Antonio Spadaro 神父 SJ は,2025年05月13日付の La Repubblica 紙に発表した論評「教皇と時代の直観」において,聖アウグスティヌスの不安に言及し,そして,パパ フランチェスコがその不安を幾度も引用し,また,その不安は 聖アウグスティノ会士である パパ レオーネにとっても 本質的に重要なものであろう と 指摘した.そして,実際,パパ レオーネは,5月18日の彼の教皇着座のミサの説教の冒頭において,聖アウグスティヌスの文 :「あなたは,あなた自身のために,我々を造った;そして,我々の心は,あなたのうちに安らぐときまで,不安である」を 引用した.パパ フランチェスコが聖アウグスティヌスの不安に言及しているテクストを探したところ,20130828日に Basilica di Sant’Agostino in Campo Marzio において行われた 聖アウグスティノ会 [1] の総会を開始するミサにおける パパ フランチェスコのことば が 見つかった.それは未邦訳であったので,以下にその翻訳を提示する.

    「あなたは,あなた自身のために,我々を造った;そして,我々の心は,あなたのうちに安らぐときまで,不安である」[ fecisti nos ad te et inquietum est cor nostrum donec requiescat in te ](『告白』I, 1, 1)[2]. その〈有名となった〉言葉を以て,聖アウグスティヌスは,『告白』において,神へ向き直る;そして,その言葉のなかには,彼の全人生の総合が含まれている.

    不安 その言葉は,わたしの心を打つ;そして,わたしに省察させる.わたしは,ひとつの問いから出発したい:如何なる根本的な不安を アウグスティヌスは 彼の生において 生きていたのか ? あるいは,おそらく,わたしは むしろ こう言うべきであろう:我々が 我々の生のなかで 如何なる不安を 喚起し そして 生き生きとしたものとして 維持するよう,あの偉大な聖人は 我々を招いているのだろうか ? わたしは 三つの答えを提起する:精神的な探し求めの不安,神との出会いの不安,愛の不安.

    1. 第一に,精神的な探し求めの不安.アウグスティヌスは,現在 かなり一般的である経験 今日の若者たちのあいだで かなり一般的である経験 を生きた.彼は,彼の母 モニカから キリスト教信仰の教育を受けた 洗礼は授からなかったとはいえ ;しかし,成長すると,信仰から離れた;彼は,彼が抱えるさまざまな問い 彼の心の欲望 に対する答えを,信仰のなかに見いださなかった;そして,彼は,キリスト教信仰以外の提案に惹かれた.そして,彼は,マニ教のグループに入った;彼は,熱心に勉強した;軽薄な娯楽,当時の見せもの,固い友情を 彼は 放棄しなかった;彼は,強い愛情を識った;そして,レトリックの教師としての輝かしいキャリアを歩み,ついには ミラノの皇帝宮殿へ招かれるに至った.アウグスティヌスは,出世することに成功した男だった;彼は,すべてを有していた;しかし,彼の心のなかには,生の深い意味の探し求めの不安が 存続していた.彼の心は 眠っていなかった;こう言ってもよいだろう:彼は,成功によって,財産によって,権力によって 感覚麻痺に陥りはしなかった.アウグスティヌスは,彼自身のうちに閉じこもらなかった;彼は,休息しなかった;彼は,真理を 生の意味を 探し求め続けた;彼は,神の顔を探し求め続けた.いかにも,彼は 過ちを犯した;彼は,間違った道をたどりもした;彼は,罪を犯した;彼は罪人であった;しかし,彼は,精神的な探し求めの不安を 失わなかった.そして,かくして,彼は このことを発見した:神は 彼を待っていた;それどころか,神は,神の方が先に 彼を探すことを 決して やめなかった.

    わたしは,このような人々に 言いたい このような人々:彼らは,自分は神にも信仰にも無関心であると感じており,神から遠ざかっており,あるいは,神を見棄てている ,そして,そのような人々にだけでなく,我々にも 言いたい 我々も 神から遠ざかり,神を見棄てている ;おそらく,我々の「遠ざかる」や「見棄てる」は 小さなものかもしれないが,しかし,日常生活のなかでは かくも数多い :おまえの心の奥底へ まなざしを向けよ;おまえ自身の内奥へ まなざしを向けよ;そして,自問せよ:おまえは,何か偉大なものを欲する心を 有しているか,あるいは,事物によって眠らされてしまっている心を 有しているか ? おまえの心は,探し求めの不安を保持しているか,あるいは,おまえは それ[探し求めの不安]を 事物によって窒息させてしまっているか 事物は 心を萎縮させるに至るのに — ? 神は おまえを待っている;神は おまえを 探している おまえは 何と応えるか ? おまえは,おまえの魂のそのような現状を わかっているのか ? あるいは,おまえは 眠っているのか ? おまえは〈神は おまえを待っている と〉思うか,あるいは,おまえにとっては,その真理は 単なる「言葉」にすぎないのか?

    2. アウグスティヌスにおいては,まさに あの心の不安こそが,彼を キリストとの個人的な出会いへ 至らしめた;彼を〈このことを理解することへ〉至らしめた:彼が〈彼自身から遠く離れたところに〉探し求めていた 神は,あらゆる人間の近くにいる神 我々の心の近くにいる神,我々自身よりも より我々の奥深いところにいる神 である(『告白』III, 6, 11 参照).だが,アウグスティヌスは,神を見いだしても,神と出会っても,立ちどまらなかった;休まなかった;彼自身のうちに閉じこもらなかった 既に[終点に]到着した者のように ;しかして,彼は 道を 歩み続けた.真理の探し求め 神の探し求め の不安は,常により神を識ることの不安になる;そして,他者たちに神を識らせるために自分自身の内から外へ出ることの不安になる.それは,まさに 神との出会いの不安 [3] である.アウグスティヌスは,勉強と祈りの静かな生活を欲していたかもしれない;だが,神は,彼が Hippo の牧者となるよう,彼を呼んだ 困難な時に:そのとき,共同体は分裂しており,そして,戦争が迫っていた.そして,アウグスティヌスは,神が彼を不安にするがままにした;倦むことなく 神と福音を告げ知らせ続けた 恐れることなく,勇敢に ;そして,善き羊飼いイェスの似姿であろうとした:善き羊飼いは,彼の羊たちを識っている(ヨハネ 10,14 参照);さらに,わたしが好んで繰りかえし言っているように,彼には 彼が牧する羊の群の臭いが 染みついている;そして,彼は,迷った羊たちを探しに出かける.アウグスティヌスは,聖パウロ(2 Tm 4,02 参照)が ティモテオへ および 我々各人へ 指示したとおりに 生きている:ロゴスを宣べ伝えなさい;続けなさい 時宜を得ていようと いなかろうと ;福音を告げ知らせなさい 辛抱づよい心を以て 羊の群のために不安になる[心配する]牧者の 大きな心を以て.アウグスティヌスの宝は,まさに この態度である:常に 神へ向けて[自分の内から]出ること;常に 羊の群へ向けて[自分の内から]出ること.彼は,それら二つの「外へ出る」のあいだで 緊張状態にある男だった;愛を私的なものにしないこと;常に歩み続けなさい ! ; 常に歩み続けなさい 父 [4] よ,あなたは そう言っていた;常に不安でありなさい ! つまり,それは,不安の平和 (la pace dell’inquietudine) である.

    我々は こう自問することができる:わたしは 不安であるか 神のゆえに,神を告げ知らせるがゆえに,神を識らせるがゆえに — ? あるいは,わたしは,あの精神的な世俗性 それは〈あらゆることを 自己愛のゆえに 成すよう〉しむける によって魅せられるがままとなっていないか ? 我々は,奉献生活者であるにもかかわらず,個人的な利害のことを考え,おこないが機能的であったかを考え,出世のことを考える.まあ,何と多くのことを 我々は 考えることか言うなれば,わたしは 順応しているのだろうか わたしのクリスチャンとしての生活に,わたしの司祭としての生活に,わたしの修道士としての生活に,さらには,わたしの共同体生活に ? あるいは,わたしは,神のゆえの 神のロゴスのゆえの 不安の力 それは わたしを「外へ行く」ことへ 他者たちのところへ行くことへ 至らしめる を保持しているのだろうか?

    3. そして,我々は,三つめに,愛の不安を 取りあげよう.ここで,わたしは,母 モニカへ まなざしを向けないわけにはゆかない ! どれほど多くの涙を この聖なる婦人は 流したことか 彼女の息子の回心のために ! そして,今も なお,どれほど多くの母たちが〈彼女たちの子どもが キリストへ向きなおるよう〉涙を流していることか ! 神の恵みのうちに希望を失わないように!『告白』のなかに 我々は,ある司教が聖モニカに言った言葉を 読むことができる;彼女は,彼に〈彼女の息子が信仰の道を再び見いだせるよう 助けてほしい と〉求めた;すると,彼は彼女にこう答えた : “fieri non potest, ut filius istarum lacrimarum pereat”[そのような涙の息子(そのように涙を流すあなたの息子)が滅びるという事態が生ずることは あり得ない](III, 12, 21). アウグスティヌス自身,回心のあとで,神へ向かって,こう書いている : “pro me fleret ad te mater mea, fidelis tua, amplius quam flent matres corporea funera”[あなたに信頼する我が母は,わたしのために あなたに向かって 泣いていた (ほかの)母たちが(彼女たちの子どもの)身体的な死を嘆いて泣くよりも もっと激しく](III, 11,19). しかし,この不安がる婦人は,最後に,このすばらしい言葉を言う : “Cumulatius hoc mihi Deus meus praestitit”[わが神は わたしに それ(息子がクリスチャンとなるのを見ること)を(わたしが望んでいたよりも)もっとたくさん 与えてくださった](IX, 10, 26). それがゆえに彼女が泣いていたところのものを,神は 彼女に たくさん 与えた ! そして,アウグスティヌスは,モニカの相続人である;彼は,彼女から,不安の種[たね]を受け取った.それが,愛の不安である:他者の善を 愛の対象である者の善を 常に 絶えず 探し求めること 涙を流すほどに激しく.

    わたしは これらのことを 思い出す:イェスは,彼の友ラザロの墓のまえで 泣く (Jn 11,35) ; ペトロは,イェスを否んだあとで,彼[イェス]の〈慈しみと愛に富む〉まなざしに出会い,そして,苦い涙を流す (Lc 22,61-62) ; 息子が帰ってくるのをテラスで待つ父は,彼[息子]がまだ遠くにいるのに,走って 彼を出迎えにゆく (Lc 15,20). わたしは 思い出す:おとめマリアは,愛を以て 息子イェスに付き従う 十字架に至るまで.

    愛の不安に関して,われわれは どうであるか ? 我々は,神への愛と隣人愛を 信じているか ? あるいは,我々は そのことに関して 唯名論者であるか?[隣人を愛すると言うとき]それは,抽象的なしかたでではない;言葉においてだけではない;しかして[かかわっているのは]我々が出会う具体的な兄弟[姉妹たち]である;我々のそばにいる兄弟[姉妹たち]である ! 我々は,彼ら[兄弟姉妹たち]が何を必要としているかを気にかけて,不安になっているか,あるいは,我々は,我々自身のなかに 我々の共同体のなかに 閉じこもったままでいるか その場合,それ[共同体]は,我々にとって,しばしば comunità-comodità”[共同体-快適さ]となっている ? 我々は,ときとして,共同住宅に住んでいながら,隣に住んでいる人を識らないままでいることがある;あるいは,我々は,共同体において生きていながら,ともに暮らす兄弟をまことには識らないままでいることがある:わたしは,苦痛を以て,このような奉献生活者たちのことを 考える 彼らは,実り豊かではなく,単なる zitelloni[独身高齢者たち]である.愛の不安は,常に〈他者と出会いに行くよう〉我々を促す 他者が〈彼[その他者]が何を必要としているのかを〉表明するのを待つことなく.愛の不安は,司牧の実り豊かさの賜を 我々に 贈ってくれる.それゆえ,我々は 各人 こう自問せねばならない:わたしの精神的な実り豊かさ わたしの司牧的な実り豊かさ どうであるか?

    親愛なるアウグスティノ会士たちよ,あなたたちの修道会の総会を始めようとしているあなたたちのために および 我々すべてのために 主に求めよう:主が 我々の心のなかに これらの不安を 保ってくれるように:いつも主を探し求めることの精神的な不安,勇気を以て主を告げ知らせることの不安,あらゆる兄弟姉妹たちへの愛の不安.かくあれかし.


    ******
    [1] Robert Francis Prevost 神父 教皇 レオ 14 世)は,200109月に 聖アウグスティノ会の総長に選出され,201309月始めまで その職にあった.つまり,このミサのとき 彼は 聖アウグスティノ会総長としての最後の一ヶ月を務めていた.

    [2] 聖アウグスティヌス『告白』の ラテン語テクストフランス語訳イタリア語訳英訳 

    [3] テクストにおいては,パパ フランチェスコは「愛の不安」と言ったことになっている;しかし,それは,三つめの不安として取りあげられるものである;それゆえ,それは,おそらく,パパ フランチェスコ自身の言いまちがいか,あるいは,彼の発言の録音の書き起こしの過誤であろう.

    [4] この Padre は,聖アウグスティヌスのことを指しているのだろう.


  13. 2023年09月30日,Robert Francis Prevost 司教省長官を 枢機卿に叙任する Papa Francesco

    以下は,2025年05月13日付の La Repubblica 紙に発表された Padre Antonio Spadaro SJ による論評記事 Il Papa et l'intuito del tempo の邦訳である.

    教皇と時代の直観


    我々の時代の〈めまいを生じさせる〉加速化に直面して,Papa Francesco は,神学が現実と生きた接触を持つように し直した 神学に〈公共の神学の用語において〉価値を与えつつ 神学的な省察を〈その全体における複数的な社会への奉仕へ〉方向づけつつ.彼がそうしたのは,語彙を今日的なものにすることによってだけではなく,しかして,本能的な思考 変化のただなかにおける息吹の動きをすばやく捉えることのできる思考 の必要性を再発見することによってである 聖アウグスティヌスの不安 [1](それは,アウグスティノ会士である Papa Leone にとっても 本質的なものであろう) その不安を Francesco は幾度も引用している を価値づけつつ.

    その意味において,Francesco は〈直観に〉その尊厳を 回復させた 直観が〈知恵と本能との間の媒介として〉理解される限りにおいて.神学本能は,衝動的な反応ではなく,しかして,内的な動き[movimenti : 複数] それは 歴史のなかの神の現在を知らせる へ向けられた繊細にして洗練された注意 それらの動きを解釈するために である.Ignacio de Loyola は,それらの動きを mozioni[スペイン語では mociones]と定義した;そして,彼は「考える」と「感ずる」とを決して分離しなかった それらふたつの動詞は,彼のテクストのなかで 不可分である.既に 2004年に,Buenos Aires 大司教 Bergoglio 枢機卿は,Buenos Aires の信徒たちに こう言っていた:「神はどこにおり,どこへ目を向ければ神を探すことができるのかを知るための本能は〈神の声にまったく耳を傾けようとしない人間にさえ〉欠けていない.」そして,彼は,「福音本能」と「信仰本能」[2] について 語った.

    我々の「識る」の能力が[メカニカルな,形式的な]技術的な思考と[オカルト的な]ネオシャーマニズム (neo-shamanism) との間に分裂しているように見える時代において,Francesco にとって 神学は,技術的な思考に還元されてはならなかった.その直観の根元性を理解するためには,彼の思考に栄養を与える最前線へ遡行する必要がある.聖 Ignacio de Loyola の精神的な息子として,Bergoglio (Papa Francesco) は,識別は 内奥の性向[複数] それらは,よく認識されるなら,人間を神へ導き得る に耳を傾けること (ascolto delle inclinazioni intime) に存するという見解を,彼自身のものとしていた.旧石器時代の狩人たち 彼らは,既に敷かれた道の安楽さなしに,本能と機敏さに導かれて,移動していた のように,信者は,現実の生き生きとした鼓動に同調された 動的な 柔軟な 注意を[時代の徴へ]向けるよう,呼ばれている.そのように Francesco は,この我々の世界という 不測の事態が多発する道を 歩んだ 神を追い求めつつ ;だが,そのとき,神も 人間を追い求めている まことの「天の猟犬(The Hound of Heaven) のように 詩人 Francis Thompson (1859-1907) は,神をそう定義した;そして,G. K. Chesterton (1874-1936) J. R. R. Tolkien (1892-1973) は,その表現を取りあげなおした.

    それは,フランチェスコが現代の神学に手渡した最もラディカルな教えである.神学は,単に「農業的」であること 種まきと収穫にもとづいて調整され,そして,諸概念の辛抱づよい沈澱に基礎づけられて を自身に許すことは もはや できない.狩りの敏捷さを司牧実践の領域へ追いやっておくこと 神学には安楽椅子を残しつつ できない.急速な〈人間学的,気候的,社会的〉変化の時代には,このような神学が必要である:それは〈我々の先祖が有していた《狩猟に関する》imprinting [3] から〉[狩猟に必要な]敏捷さ,直観,運動能力,時間感覚を 手に入れてこなければならない.聖イグナチオは 言った:「すべての事象のなかに 神を 探し求め,そして 見つけること」.それがゆえに,Francesco は,彼の使徒憲章 Praedicate evangelium を以て,福音宣教省に優位を与えなおした 教理省にさえ優る優位を .教義は 宣教の関数である;そして,その逆[宣教が教義の関数であるという事態]ではない.Papa Leone XIV 彼の教皇名を 司牧的緊急事態 たとえば,神学的直観を以て[人類に対する]新たな挑戦として 特定された AI [4] にもとづいて 選んだ ということは,あのラディカルな宣教的転換の勇気ある証明である.

    このことが必要である:変化に住まうこと このような神学を作りあげつつ:それは,神秘の跡を追う狩人のように 軽い足どりで 移動する.神学を栽培するにはゆっくりとしたテンポが必要である ということを 否定しはしない;だが,それは,神学本能と統合される 我々が生きている時代の急速な発展との接触を失うことなく.Papa Leone XIV の[20250512日の]ジャーナリストたちに対する講話のなかに,根本的な一節が ある:

    我々は,進み行くことも物語ることも難しい時代を 生きている;それは,我々全員にとって ひとつの挑戦を表しており,我々は そこから逃げてはならない.逆に,時代は 我々各人に このことを要請している:我々の相異なる役割と奉仕において,決して凡庸さに譲歩しないこと.教会は,時代の挑戦を受けて立たねばならない.

    ここに,[Papa Francesco [5] に続いて]もうひとりの教皇 彼にとっては 時間の重要性が 空間の重要性に まさる いる.そして,彼は,聖アウグスティヌスとともに こう結論する:

    聖アウグスティヌス [6]  我々に思い起こさせている こう言って:「我々は 良い生き方で生きよう;そうすれば,時代は良くなるだろう」(説教 311 参照).我々が 時代である.

    ベルゴリオ的な省察のアプローチのラディカルな点のひとつは,これであった:[Papa Francesco にとって]それ[省察]は 経験から生ずるべきである:概念は,接触から生ずる.息吹の本能は,これである:動物の現存を それを見るまえに 感ずる者の 本能.信者は および 神学者も ともに こうするよう 呼ばれている:内的な方向づけの感覚を発達させること,吹きたいところに吹く息吹の声を知覚すること.それがゆえに,Francesco は,幾度か,カーストの神学に対する警告を発している;そのような神学は,神について語るが,しかし,世の十字路において神を認めることはしない.「実在は イデアよりも 上位にある」 それは,Bergoglio の思考を導く原理のひとつである;そして,そこにおいて,あの動的な神学が 反映されている;それは,すべてを説明してしまうまえに 行動することができる なぜなら このゆえに:それは,抽象の論理のなかにではなく,受肉の論理のなかに生きている.

    現今の世界 そこにおいては,意志決定は swipe によって成され,そして,ゆっくりとした思考は 社会の力動から排除されたままとなる危険がある において,息吹の本能の再発見は,天才の成果でもある それが両極的な論争を引き起こす可能性をともなって.Bergoglio は,その天才を発揮した Javier Cercas [7] のように高く評価されている作家が 彼の El loco de Dios en el fin del mundo [8][世の終わりにおける神の狂人]において 気づき得たように.そして,それは,Papa Leone が要請したことである:「決して凡庸さに譲歩しないこと」.

    Francesco 我々に このことを教えた:神は,囲いのなかや学術書のなかに住んでいるだけではない;しかして,神は 移動する;そして,驚かす.それがゆえに,今日,「洗練された」神学は 役に立たない なぜなら このゆえに:そのような神学は,軟弱であり,昔年のものである.今,役に立つのは,このような神学である:それは,矛盾の森のなかで神を追うことができる 現場で鍛えられおり,そして,知性のスポーツジムのステロイドによって膨れあがってはおらず .そして,狩猟と農耕との間に,あの二重の息吹に,教会の将来の大きな部分が賭けられている.


    訳注

     [1] “fecisti nos ad te et inquietum est cor nostrum donec requiescat in te”[あなたは,あなたのために 我々を造った;そして,我らのこころは,あなたのうちに安らぐときまで,不安である](聖アウグスティヌス,『告白』第 1 1 節).Papa Leone XIV は,20250518日の教皇着座ミサの説教の冒頭において,さっそく その聖アウグスティヌスの言葉を引用している.

    [2] 2 ヴァチカン公会議の教義憲章 Lumen gentium 12 パラグラフを引用しつつ,「カトリック教会のカテキズム」の 92 パラグラフは こう述べている:

    信者たちの全体は,聖なる方から来た塗油を受けているので,信仰において 誤り得ない;そして,その性質を 超自然的な信仰感覚 (le sens surnaturel de la foi) を介して 顕す.その超自然的な信仰感覚は,民全体のものである 司教たちから 一般信徒たちの最後の者に至るまで,民全体が 信仰と道徳にかかわる真理へ 普遍的な同意をもたらすときに.

    この「信仰感覚」(sensus fidei) は,しばしば「信仰本能」(l’instinct de la foi) とも呼ばれる.たとえば,2014年の国際神学委員会の文書「教会の生における信仰感覚」の 49パラグラフにおいて,こう言われている:

    Sensus fidei fidelis[信者たちの信仰感覚]は,一種の精神的な本能 (instinct spirituel) であり,それは,信者たちに,ある教えや ある特定の実践が 福音および使徒的信仰に適っているか否かを 自発的に判断することを可能にする.

    [3] Imprinting : 動物行動学的な意味における「刷りこみ」


    今日,最も重要な挑戦[複数]のうちの ひとつは,我々を〈バベルの塔 そのなかに 我々は ときとして いる から,愛のない しばしばイデオロギー的な あるいは 党派的な 言語の混乱から〉脱出させることのできるコミュニケーションを促進することである.それゆえ,あなたたちの語彙と文体を以てのあなたたちのサービスは,重要である.実際,コミュニケーションは,単なる情報伝達ではなく,しかして,文化の創造であり,対話と対決の空間となる人間環境とデジタル環境の創造である.そして,テクノロジーの進歩を考えるならば,その使命は さらに より必要となる.わたしは,特に,AI のことを考えている ; AI は,巨大な潜在能力を有しており,それがゆえに,責任と識別を要請する その道具を すべての者たちの善へ 方向づけるために 誰もが 人類にとっての利益を作り出し得るために.そして,その責任は,すべての者にかかわっている 年齢と社会的役割に応じて.

    [5] Papa Francesco, Evangelii gaudium[福音の喜び]:

    222. 充満性[la plenitude, la pienezza, la plénitude, 満ちること満ち満ちていること 限界との間には,両極的な緊張がある.充満性は すべてを所有したいという意志を 惹起する;そして,限界は,我々のまえに立ちはだかる壁である.時間は,広義ににおいて考えるならば,充満性に 我々のまえに開ける地平線の表現としての充満性に かかわる;そして,瞬間は,限りある空間のなかで生きられる限界の表現である.市民たちは,瞬間の状況と時間の光との間の緊張において 生きている;時間 それは,より大きな地平線であり,我々を惹きよせる目的因としての将来へと我々を開くユートピアである.そこから,ひとつの民の形成のなかを進んでゆくための ひとつの最初の原理が 立ち現れてくる:時間は 空間よりも 上位にある (el tiempo es superior al espacio ; il tempo è superiore allo spazio ; le temps est supérieur à l’espace).

    223. その原理は,長期的な展望において 即座に結果を出すことに強迫的に捕らわれることなく 働くことを 可能にする.それは,困難な状況や逆境 あるいは 現実の力動が課してくる計画の変更に 辛抱づよく耐えることを 助ける.それは,時間に優位を与えつつ,充満性と限界との間の緊張を引き受けることへの招きである.社会的政治的活動のなかにときおり見うけられる罪のひとつは,過程の時間よりも 権力の空間を特権化することに 存する.空間に優位を与えることは,発狂へ導く すべてを現在において解決しようとするがゆえに,権力と自己肯定の空間をすべて所有しようとするがゆえに.それは,[時間的な]過程[複数]を結晶化して,それらを止めようとすることである.時間に優位を与えることは,空間を所有することよりは,過程を開始することに携わることである.時間は,空間を 治め,照らし,連鎖の環に変える;その連鎖は,常に成長してゆく 逆戻りの道なしに.かかわっているのは,このことである:社会のなかに新たな力動[複数]を生ぜしめ,そして,それら[力動]を展開する他者たちと諸々のグループを巻きこむ 諸々の活動を 特権化すること 彼ら(それらグループ)が 重要な歴史的できごとにおいて実を結ぶまで.心配せずに,しかして,然り,明瞭な確信 および 根気づよさを以て.

    [6] 聖アウグスティヌス,説教 (Sermo) 311, 8 :

    Et dicitis: Molesta tempora, gravia tempora, misera tempora sunt. Vivite bene, et mutatis tempora vivendo bene: tempora mutatis, et non habetis unde murmuretis. Quid sunt enim tempora, fratres mei? Spatia et volumina saeculorum. Ortus est sol, peractis horis duodecim ex alia mundi parte occidit; alia die mane ortus iterum occidit; numera quoties: ipsa sunt tempora. Quem laesit solis ortus? quem laesit occasus solis? Ergo neminem laesit tempus. Qui laeduntur, homines sunt; a quibus laeduntur, homines sunt. O magnus dolor! homines laeduntur, homines spoliantur, homines opprimuntur. A quibus? non a leonibus, non a colubris, non a scorpionibus; sed ab hominibus. Dolent qui laeduntur. Si possint, non faciunt ipsi quod reprehendunt? Tunc invenimus hominem qui murmurabat, quando potuerit facere unde murmurabat. Laudo, laudo, si non fecerit quod accusabat.

    また,あなたたちは 言う:「苦労の多い時代だ,困難な時代だ,悲惨な時代だ」.あなたたちは,良い生き方で生きなさい;そして,良い生き方で生きることによって,時代を変えなさい.時代を変えなさい;そうすれば,あなたたちは,不平を言う理由がなくなる.なぜなら,わが兄弟たちよ,このゆえに:時代[時間]とは 何か ? 世々の広がりと継起である.[今朝,]太陽が 昇った;そして,12時間後,それは 反対側の地平線に 没した.明朝,それは また昇り,同様に 没する.幾度 太陽が そうするかを 数えたまえ;それが 時間だ.日の出は 誰を 害するか ? 日没は 誰を 害するか ? それゆえ,時間[時代]は 誰をも 害さない.害を被るのは 人間たちである;誰によって彼らは害を被るのかといえば,それも人間たちである.おお,何と大きな苦痛 ! 人間たちは 害を被る;人間たちは 盗難にあう;人間たちは 抑圧を被る.誰によってか ? ライオンたちによってでも,ヘビたちによってでも,サソリたちによってでもなく,しかして,人間たちによって.害を被る者たちは,苦痛を感ずる.そうであり得るとしても,人間たちが非難することを成すのは,人間たち自身ではないか ? そこで,我々は,不平を言う男を見いだす 彼の不平の理由となっていることを成したのは彼自身であるかもしれないのに.わたしは讃える,わたしは讃える もし 彼が〈彼が非難していることを〉成したのでなければ.

    [7] Javier Cercas (1962- ) : スペイン生まれの国際的に評価されている作家.スペイン内戦を舞台にした歴史と虚構の境界に位置する作品 Soldados de Salamina (2001)[邦訳:サラミスの兵士たち]で有名になった.

    [8] El loco de Dios en el fin del mundo世の終わりにおける神の狂人教皇庁の依頼により Cercas が執筆した小説であり,202504月に出版された(つまり,彼が教皇庁から執筆を依頼されたのは,Papa Francesco の生前である).教皇庁は,彼の取材のために,Papa Francesco を含む教皇庁内のさまざまな者にインタヴューすること および 必要な資料を閲覧することを 彼に許した.彼の従来の諸作品と同様,それは,現実と虚構の境界に位置する作品となっている.

    邦訳と注:ルカ小笠原晋也

  14. 天の猟犬


    By Francis Thompson [1]

    英語原文,Jean-René Lassalle [2] による仏訳


    たしは [3] から 逃げた — 夜も昼も ずっと —
    わたしは から 逃げた — 幾年にもわたって ずっと —
    わたしは から 逃げた — 迷路をとおって ずっと —
    わたし自身の意志で,そして,涙のもやのなかを
    わたしは から 隠れた;そして,流れでる笑いのもとで.
    よく見とおせる希望に沿って わたしは 疾走した
    そして,飛びだした;墜落した
    裂けめの開く不安の巨大な暗闇へ


    あの力づよい[複数]から[逃れて]— それら[]は,あとを追いに追ってくる.
    だが,あわてない追跡で
    そして,乱れなき足どりで
    悠々たる速度で,堂々たる急迫で
    それら[]は[地を]打った (beat) — そして,ひとつのが 鳴りひびいた (beat)
    よりも より差しせまって —  

    わたしをうらぎった (betray) おまえを,すべてのものが あばきたてる (betray).


    わたしは 懇願した — 律法の外にある者のように
    心のなかにある 多くの窓のきわで — それらには 赤いカーテンが掛けられており
    それらの格子には 愛が絡まりあっている
    (なぜなら このゆえに:わたしは,追ってくるの愛を知っていた
    だが,わたしは ひどく恐れていた —
    を所有すると,わたしは傍らに何も所有できない[無を有する]ことになるのではないかと.)
    しかし,もし仮にひとつの小さな窓が広く開いても
    の接近の突風は それをバタンと閉めるだろう
    恐怖は逃げることを知らない — 愛は追うことを知っているが.


    世の縁[ふち]を越えて わたしは逃げた
    そして,星々の黄金の門[複数]を騒がせた
    避難所を求めて[それらの門を]叩き,それらの閂をガタガタ鳴らした
    甘美な不協和音と銀鈴の騒音を立てて
    月の青白い港を苛だたせた.


    わたしは 暁に言った:ただちに来てくれ;晩に[言った:]すぐに来てくれ
    あなたの若々しい空色の花で わたしを覆い隠してくれ —
    あの恐ろしい愛の人 (Lover) から —
    あなたの朧なヴェールを わたしのまわりに 漂わせてくれ — に見えないように!

    に仕える者たちすべてを わたしは 試した;だが[これらのことを]見いだしただけであった:
    彼らの忠誠のうちに わたし自身の裏切りを
    [彼らの]彼への信仰のうちに 彼らのわたしに対する心がわりを
    彼らの裏切る誠実さを,そして,彼らの忠実な欺瞞を.
    すばやいものたちすべてへ わたしは すばやさを 請うた
    あらゆる風のヒューヒュー鳴るたてがみに しがみついた.
    しかし,如何に それら[すばやいものたち]が なめらかに すばやく
    長い青空のサヴァンナを掃いても
    あるいは,如何に それらが 雷に駆られて
    天を横ぎるの戦車 [4] をガンと鳴らしても —
    それらの足の蹴りのまわりに 飛翔する雷光をほとばしらせて —


    恐怖は逃げることを知らない — 愛は追うことを知っているが. 

    なおも あわてない追跡で
    そして,乱れなき足どりで
    悠々たる速度で,堂々たる急迫で
    追う[複数]は やってきた
    そして,それらが[地を]打つ音のうえには ひとつのが — 

    わたしを匿おう (shelter) としないおまえには 避難所 (shelter) は無い.

    たしは もはや 何を求めてわたしはさまよっているのかを
    男や女の顔のなかに 探し求めようとはしなかった
    しかし,なおも,小さな子どもたちの目のなかには
    何かが見える — 答えとなる何かが
    少なくとも 彼ら は 存在している — わたしのために,確かに わたしのために!
    わたしは 彼らの方へ 向いた — とても ものかなしげに —
    しかし,彼らの幼い目が 不意に
    そこに応答の兆しを浮かべて 答えてくれそうになったとき
    彼らの天使が 彼らの髪をつかんで 彼らを わたしから ひったくった.


    あ,来てくれたまえ,きみたちよ
    自然の子どもたちよ — 分かちあってくれたまえ
    わたしと(と わたしは言った)きみたちの繊細な友情を
    きみたちに挨拶させてくれたまえ — 唇に唇をつけて
    愛撫を絡みあわさせてくれたまえ — きみたちと
    たわむれつつ
    我らの聖母の気まぐれな巻き毛と
    宴会しつつ
    彼女と — 彼女の〈風の壁に囲まれた〉宮殿で
    彼女の紺碧の天蓋[蒼穹]のしたで
    存分に酒を飲みつつ — きみたちの汚れなきありさまのように —
    杯から
    輝きつつ-泣きつつ (lucent-weeping) — 日の泉[dayspring : 夜明け]から.
    そのようになった
    わたし は 彼らの繊細な友情の一員であった;
    自然の秘密の閂を引き抜いた.


    わたし は 知っていた — すばやい運び入れを すべて —
    空[そら]の頑固な顔のうえに;


    わたしは知っていた — 如何に雲が立ちのぼるのかを —
    激しい海の鼻息から泡だって;
    生まれるもの あるいは 死ぬものは すべて
    [雲と]ともに 立ちあがり そして うなだれる;わたしは それらを
    わたし自身の気分を 形づけるものにした — ものがなしくあれ 神々しくあれ —
    それらとともに わたしは 喜び そして 悲しんだ.
    わたし[の 心]は,晩で 重くなった —
    彼女が 微かに光る小さな蝋燭を灯したとき —
    昼の死せる聖性のまわりに.


    わたしは,朝の目のなかで 笑った
    わたしは あらゆる天候とともに 勝ち誇り,そして悲しんだ
    天とわたしは ともに泣いた
    そして,天の甘い涙は 死すべきわたしの涙で 塩からくなった;
    天の夕陽-心臓の赤い鼓動に対して
    わたしは わたし自身の心臓を 置いた — それが拍動するために
    そして,混ざりあう熱を 分かちあうために;
    しかし,ちがう — それによっては,それによっては,わたしの人間的な悲痛は和らげられない.
    むなしく わたしの涙は 天の灰色の頬を濡らして,渇くことがなかった.
    なぜなら このゆえに:ああ!我々は〈ほかの者たちが それぞれ 何を言っているのかを〉知らない
    これらのものと わたし — わたし は 音を発して 語る;
    それらのもの の 音は,しかし,動きである;それらは 沈黙によって 語る.
    自然 — あわれな義母 — は,わたしの渇きを癒し得ない;
    もし彼女がわたしを所有したいならば,彼女が
    あの彼女の胸を覆う青いヴェール — 空[そら]— を落とし,そして わたしに
    彼女の優しさの乳房を見せてくれるように:
    彼女の母乳は かつて 一度たりとも
    わたしの渇いた口を祝福したことはない.

    追跡は ますます近づいてくる —
    乱れなき足どりで
    悠々たる速度で,堂々たる急迫で
    そして,それらの音をたてるを超えて
    さらに ひとつのが よりすばやく やってくる — 

    見よ!わたしを満足させないおまえを満足させるものは 何もない.


    たしは 裸で あなたの愛の高揚した一撃を 待つ!
    わたしの馬具を,あなたは,ひとつひとつ わたしから 切り取った
    そして,わたしを 打って ひざまづかせた;
    わたしは まったく 無防備だ.
    わたしは 眠った — と 思う — そして,目ざめた
    そして,ゆっくり まなざすと,眠っている間に[身につけていたものを]剥ぎ取られていたことに,気づく.


    わたしの若い力の 向こう見ずな 活気において
    わたしは,柱のようにそびえる時間を 揺さぶった [5] ;
    そして,わたしの人生を わたしのうえへ 引き倒した;汚れにまみれて
    わたしは,積みあげられた歳月の塵のなかに 立った —
    わたしのズタズタになった若者時代は[瓦礫の]堆積のしたに 死んで 横たわっている.
    わたしの日々は,砕けて,煙となって昇っていった
    パッと吹き出て,飛び散った — 小川に映る太陽の急な動きのように.


    いかにも,今や,夢さえも 失望させる
    夢想者を;そして,リュートは リュート奏者を[失望させる]
    絡みあわされた幻想さえも — その花咲く撚り紐のなかで
    わたしは 地球 – わたしの手首につけた無価値な飾り – を ぶらぶらさせる —
    切れる;紐の強度は まったく弱すぎる —
    重い悲嘆をかくも過剰に負わされた地球にとっては.
    ああ!あなたの愛は まったく
    雑草なのか ? — 決してしおれない雑草とはいえ —
    それが戴く花としては それ自身のもの以外の花を 決して許容しない 雑草なのか?
    ああ!そうせねばならないのか?
    無限なる設計者よ!
    ああ!あなたは,木を黒焦げに焼かねばならないのか — 木炭で絵を描くまえに?
    わたしのみずみずしさは,その揺れ動くシャワーを 塵のなかで 浪費した


    そして,今や,わたしの心は 壊れた泉のようだ
    そこでは,涙の滴は いつまでも よどむ — こぼれおちて —
    びしょぬれの考えから — それ[びしょぬれの考え]は ふるえている —
    わたしのこころの ため息をつく枝のうえで.
    今は そんなふうだ;これから どうなる?
    果肉がかくも苦いなら,果皮は どのような味なのか?
    わたしは ぼんやりと推定する — 何を (Time) は もやのなかで 混同させているのかを
    だが,ときおり トランペットが 鳴る —
    隠された〈永遠 (Eternity) の〉城壁から —:
    [トランペットの音によって]揺り動かされたもやは,空間を 不安定にする;次いで
    半ば垣間見られた小塔のまわりに ゆっくりと ふたたび おしよせる;


    だが,[わたしを]呼び出すのまえでは そうではない
    わたしは[を]初めて見た —[は]
    暗い深紅の衣をまとい,糸杉 [6] の冠をかぶっていた
    の名を わたしは 知っている;そして,のトランペットが言っていることも.
    実りを刈り入れるのが 人間の心であれ いのちであれ
    あなたは 収穫する;あなたが収穫する畑は
    腐敗した死の肥やしを施されていなければならないのか?


    まや,あの長い追跡の
    音が すぐ近くに 来る
    あのは わたしのそばに いる — 破裂する海のように:


    では,おまえの地は それほどにも 損なわれているのか —
    こなごなに砕かれて —?
    見よ,すべてのものが おまえから 逃げる — なぜなら おまえは わたしから 逃げるから!
    おかしな あわれな 無益なものよ
    何がゆえに おまえのために愛を取り分けておいてくれる誰かが いるはずなのか?
    このことを見るならば:無価値なものをだいじにするのは わたし以外に 誰も いない(と は言った)
    そして,あらゆる人間的な愛は 人間的な報いに値することを 必要とする;
    されば,如何に おまえは 報いに値するのか —
    おまえは〈あらゆる《人間という》固まった粘土のうちで〉最も汚い塊であるのに?
    ああ,おまえは このことを 知らない:
    どれほど おまえは 如何なる愛にも値しないものであるか!
    おまえは,卑しいおまえを愛するような者を 誰か 見いだすだろうか —
    わたし以外に,唯一わたし以外に?
    わたしがおまえから取り去ったものは 何であれ,わたしは,それを
    おまえを害するために取り去ったのではなく
    しかして,おまえがそれをわたしの腕のなかに探し求めるために,取り去ったのだ.
    おまえの子ども時代の過ちが
    「あれは失われた」と思っているものを すべて,わたしは おまえのために 家に 保管してある:
    立ちあがれ;わたしの手を握れ;そして,来い.

    あの足音は わたしのそばで とまる:
    つまるところ,わたしの闇は
    愛撫のために差しのべられたの手の陰なのか?

    ああ,最も愚かな 最も盲目な 最も弱き者よ,
    わたしは,おまえが探し求めているだ!
    わたしを追い払ったおまえは,おまえから愛を追い払ったのだ.


    ******
    訳注

    [1] Francis Thompson (1859-1907) : イギリスの詩人.父親は医師;母親は 彼の少年時代に 死去.両親とも カトリックであった.彼は,中等教育をカトリックの小神学校で受けた.父の指示により,マンチェスター大学で 8 年間 医学を学んだ;しかし,医師になる気になれず,26歳のときに ロンドンへ 逃亡した;無一文のまま,ホームレスの生活を送り,ちょっとした仕事で小銭を稼ぎつつ,雑誌に 詩作品を投稿していた.その間,彼は,アヘン中毒者となった.29歳のとき,編集者に詩人としての才能を認められ,そのおかげで,ホームレスの生活から脱出し,アヘン中毒の治療を受けることができた.そして,詩集を 三冊 発表した.結核のため,満 47 歳で 死去.The Hound of Heaven[天の猟犬](1890) は,彼の最も有名な作品.

    The Hound of Heaven の挿絵 (1922) を描いている Stella Langdale (1880-1976) は,イギリス生まれの画家,版画家,彫刻家.1940年に カナダの Victoria に移住し,次いで,1950年に カリフォルニアの Santa Barbara に移住し,その地で亡くなった.

    [2] Jean-René Lassalle (1961- ) : フランスの詩人,翻訳家,ドイツのフライブルク大学のフランス語教授.彼の詩作品には,彼が長らくフランス以外の国で暮らしてきたことの影響が 現れている.

    [3] 原文において ある単語(名詞 または 代名詞)の 最初の文字が大文字で記されているとき,それは,その語が 神 — つまり,イェス キリスト — を指していることを,表している.この邦訳においては,そのような語は 太字で表記される.

    [4] 戦車 (chariot) : 古代に戦場で使われた二輪馬車.

    [5] 旧約聖書 士師記 13-16章の サムソンの物語におけるサムソンの最期への 暗示.

    [6] 糸杉 (cypress) は,古典古代以来,喪と死の象徴.冥界の支配者 Pluton の像は,しばしば,糸杉で作られた冠で飾られた.

    邦訳と注:ルカ小笠原晋也
  15. パパ フランチェスコとともに Andrea Tornielli(左)と Austen Ivereigh(右)

    パパ フランチェスコ 追悼文 二篇 — Andrea Tornielli と Austen Ivereigh


    2025年04月21日 — パパ フランチェスコが帰天した日 — に発表された ふたりのカトリックジャーナリストによる追悼文を 邦訳にて 紹介する.ひとつめは,Vatican News に掲載された Andrea Tornielli による記事.彼は,イタリアの日刊紙 La Stampa のヴァチカン担当記者であった ; 2018年12月,パパ フランチェスコにより 教皇庁コミュニケーション省の編集部門の長に 任命された.ふたつめは,オンライン版 Time 誌に掲載された Austen Ivereigh による記事.彼は,イギリスのカトリック誌 The Tablet の副編集長であった;パパ フランチェスコに関する本を いくつか 出版している.

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    慈しみの教皇 (Il Papa della misericordia)

    Andrea Tornielli

    「神の慈しみは,我々の解放であり,我々の幸福である.我々は,慈しみで生きており,慈しみなしには存在することができない.慈しみは,我々が呼吸せねばならない空気である.我々は,[慈しみを 無条件的に必要としており,]無条件的でないためには あまりに貧しすぎる.我々は 赦す必要がある — なぜなら,我々は 赦される必要があるからだ」(2020年03月18日の一般接見におけるカテケーシスより).もし,教皇フランチェスコが発したメッセージのなかで,ほかのあらゆるものにもまして彼を特徴づけるもの — そして,存続するよう定められたもの — があるとすれば,それは,慈しみのメッセージである.

    教皇は,今朝 突然 我々のところから 去った復活の主日に サンピエトロ大聖堂の中央バルコニーから 彼の最後の Urbi et Orbi の祝福を与えたあと — 祝福と挨拶のために[サンピエトロ広場に集まった]群衆のなかで 彼の最後の一周をしたあと.

    教会の歴史上初のアルゼンチン出身の教皇が取り組んだテーマは,多岐に渡った — 特に:貧しい人々へ目を向けること,友愛,我々の共通の家[地球]のケア,戦争への 決然たる かつ 無条件的な「否」.だが,彼のメッセージの中心 — いかにも 最も大きな反響を引き起こしたもの — は,慈しみを福音的に思い起こさせたことである:神の助けを必要としているとみづから認める人々に対する 神の近しさと優しさ;呼吸すべき空気としての慈しみ,すなわち,我々が最も必要としているもの,それ無しには生きてゆくのが不可能なもの.

    Jorge Mario Bergoglio の教皇位全体は,その慈しみのメッセージ — それは キリスト教の核心を成す — の徴のもとに,生きられた.使徒宮殿内の教皇の住まい — 彼は そこには 一度も住まなかった — の窓から 2013年03月17日に 唱えられた 最初の Angelus のときにも,フランチェスコは,慈しみの中心性について 語った — 彼が Buenos Aires の補佐司教になって間もないころに告解に来た ある老婦人の言葉を想起しつつ:「主は,あらゆることを赦してくださいます.もし仮に主がそうなさらないならば,世界は存在していないでしょう」.

    世界の果て」からやって来た教皇は,二千年に渡るキリスト教の伝統の教えに変化をもたらさなかった;しかして,彼の教導の中心に新たなしかたで慈しみを据えなおすことによって,彼は,多くの人々が教会について有する知覚を 変えた.彼は,教会が有する母親の顔について 証しした;そのような教会は,傷ついた人々 — 特に,罪によって傷ついた人々 — に向かって[彼らをケアするために]身をかがめる.そのような教会は,教会の方が先に 罪人へ向かって 第一歩を踏み出す — まさにイェスがイェリコにおいてそうしたように (cf. Lc 19,01-10) — 人前に出ることのできない嫌われ者である Zacchaeus の家に みづから泊まると言って — 彼 (Zacchaeus) には何も求めず,如何なる事前の条件もなしに.そして,Zacchaeus は「わたしは 初めて あのように まなざされ,そして,愛された」と感じたがゆえに,自身が罪人であることを認めた — あのナザレ人[イェス]のまなざしのなかに 彼を回心させる推力を見いだして.

    二千年まえ,多くの人々が,主がイェリコの徴税人の家に入るのを見て,憤慨した.この幾年間か,多くの人々が アルゼンチン出身の教皇が あらゆるカテゴリーの人々 — 特に,人前に出ることのできない人々や罪人たち — に向かって 歓迎と近しさの所作を示すのを見て,憤慨した.ヴァチカン内の chiesa di Sant’Anna での一般信徒とのミサにおける彼の最初の説教*で,フランチェスコは こう言っている:

    我々のうち 幾人もが 多分 断罪に値するだろう ! そして,その断罪は正しいものである.しかし,彼[イェス]は 赦す ! 如何にして ? 慈しみによって.慈しみは 罪を消し去りはしない;罪を消し去るのは,神による赦しのみである.しかるに,慈しみは もっと先へ進む.それは,空[そら]のようである:我々は[夜]空を眺める;たくさんの星が見える;しかし,朝,太陽が昇ると,その豊かな光によって,星はもはや見えなくなる.神の慈しみは そのようである:おおいなる〈愛と優しさの〉光 — なぜなら このゆえに:神が赦すのは,布告を以てではなく,しかして,愛撫によってである.神が赦すのは,我々の罪の傷を愛撫することによってである — なぜなら このゆえに:彼は 赦しのなかに まきこまれている;彼は 我々の救済のなかに まきこまれている.

    彼の教皇位の全期間中,266人めのペトロの後継者は,このような教会の顔を示し続けた:近しく,優しさと憐れみを証しすることができ,皆を歓迎し,皆を抱擁する教会 — 保守派の人々から反発を受ける危険をおかしつつ,かつ,そのような反発を気にせずに.フランチェスコは,2013年11月24日付の使徒的勧告 Evangilii gaudium[福音の喜び]— 彼の教皇位のロードマップ — において,こう書いている:

    わたしは,閉鎖性に病んだ教会 および 自分自身の安全にしがみつく気楽さに病んだ教会よりも,通りへ出たがゆえに,事故に会い,傷つき,きたなくなった教会の方を 好む.

    [その方向へと パパ フランチェスコが我々を導いたところの 教会は]人間の能力 — 自分自身や 宗教マーケッティングの戦略にのみ 準拠する インフルエンサーたちの活躍 — に信頼するのではなく,しかして,教会を基礎づけ,そして,あらゆることにもかかわらず 二千年来 教会にいのちを与え続けている方[イェス キリスト]の慈しみぶかい顔を人々に識らせるために,自身は透明となる教会である.

    その顔[イェスの顔]と その抱擁を,多くの人々が,アルゼンチン出身の年老いたローマ司教のなかに 認めたの;彼[パパ フランチェスコ]は,海で溺れ死んだ移民たちのために祈るために Lampedusa におもむくことを以て 彼の教皇位を開始し,そして,車椅子のなかで自由に動けなくなって それ[彼の教皇位]を締めくくった — 被造界全体に対する愛において 近しく かつ 誠実である 神の 慈しみふかい抱擁を 世に 証しするために 最後の瞬間に至るまで 自身を献げつつ.


    *) 確かに,パパ フランチェスコは,教皇着座直後,2013年03月17日,四旬節 第 5 主日に,ヴァチカン内の Chiesa di Sant'Anna dei Palafrenieri において ミサを献げている;しかし,引用されている言葉を パパ フランチェスコが発したのは,2014年04月07日 月曜日の Casa Santa Marta のチャペルにおけるミサの際の説教においてである.Andrea Tornielli の勘違いであろう.ただし,いづれの日にも,福音朗読は ヨハネ 8,01-11 の 姦通女のエピソードである.そして,Chiesa di Sant’Anna におけるミサの説教のなかでも,パパ フランチェスコは 神の慈しみを強調している.


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    Austen Ivereigh

    世界中の枢機卿たちは,パパ フランチェスコの後継者を考えるために ローマに集まるとき,パパ フランチェスコの遺産を精査するだろう こう問いつつ:彼の教皇位の主要な優先項目のうち 擁護され,そのうえに[今後の教会を]築いてゆくべきものは どれか ? あるいは,新たな強調が必要であろうか ? メディアの報道の多くは,[新たな教皇の選出の]決定を 競合する見かたのあいだの対立として 描く:一方は「リベラル」であり,改革的であり,近代化し,compassionate である;他方は「保守的」であり,伝統を保存しようとし,明瞭に教え,律法と道徳性を擁護する.だが,枢機卿たちの大多数は,そのようなレンズをとおしては見ない;そして,フランチェスコも そうはしなかった.彼らは,真理と mercy とを 相対立するものとは見ない;もし仮にそれらが相対立するものであるならば,一方がより多くなれば,他方はより少なくなる ということになるだろう;しかし,そうではない;真理と mercy とは いっしょにされなければならない 福音の命令として .フランチェスコは,そのことを強調した;そして,如何に教会は mercy にラディカルな強調を置くことができるかを 彼は示した それらのことに フランチェスコの遺産は存する.

    彼は,教会の福音宣教における神の mercy の座を回復しようと努めた最初の教皇ではない.過去の三人の教皇たち 聖ヨハネパウロ 2 世,ベネディクト 16 世,フランチェスコ 皆,こう確信していた:教会は あまりに しばしば 真理と教義を告げ知らせることを強調した 同時に mercy 神が我々と交流するしかたとして示すことなく .ベネディクト 16 世は このことを強調した : mercy を回復することは,彼の教皇位と 彼の前任者の教皇位と フランチェスコの教皇位との間の連続性を描く太い線である.

    フランチェスコを まことに彼の前任者たちとは異なる教皇にしたのは,これらのことである:彼が mercy それを彼は「神のスタイル」と呼んだ 教会の教え[複数]すべての heart[心,中心]に 置こうとした そして 実際に そうした 大胆でラディカルなしかた,および,彼が 彼の教皇職の執行において その転換を形づけた しかた.その改革には 緊急性があった.教皇になるずっとまえから,フランチェスコは このことを理解していた:我々は 彼が「時代の変化」と呼んだもののなかを 生きている;そこにおいては,信仰は もはや 第一次的に〈律法や 文化や 部族的同一性を通じて〉受けつがれてゆくものではなく,しかして,mercy との出会いの実りである : mercy こそが 信仰への扉を開く.それは,そこにおいて教会が福音宣教するところの「新たな」しかたである;だが,それが「新しい」のは,過去の幾世紀かとの比較においてである.使徒の時代 キリスト教の最初の千年紀 そのころ,教会は まだ〈律法や文化や強力な制度の後援を〉有していなかった において,キリスト教は 旧世界の端から端までに すばやく広がっていった.フランチェスコは,彼と同時代のカトリック思想家たちの多くと同様に,こう考えた:我々は そのような時代へ 戻りつつある.1960年代に出版され,彼に影響を与えた本のひとつ Pour une Eglise servante et pauvre (1963)[英訳 Power and Poverty in the Church (1964)]において,著者 Yves Congar OP は,「異教的な世界における コンスタンティヌス以前の状況」への回帰を 予見していた;そして,こう言った:教会は こうするよう要請されている:「新たな世界 神は 我々がそこにおいて神に仕えるよう 我々を呼んでいる において権威を行使する全的に福音的なしかた」を受けいれること.フランチェスコは〈彼の謙虚さと直接さと近しさにおいて〉その種の権威を〈ほかの誰よりもよりよく〉教えた.そして,彼は,mercy を最前線に置くことによって,そうした.

    アメリカ人たちが mercy という語を聞くとき,彼らは しばしば「律法の適用の免除」 compassion の行為 のことを 考える.彼らは mercy “being soft”[優しい,寛大な,甘い,軟弱な]と見なしてさえいるだろう そして,そのような免除が多すぎれば,それは 律法を損なうことになる と疑っているだろう.しかし,教会にとっては,mercy ラテン語の misericordia より近い;それ (misericordia) は,苦しむ人々のための心を有することである.フランチェスコが 201308月の Antonio Spadaro によるインタヴューのなかで 教会について「野戦病院」として語ったとき,彼が意味しているのは このことである:救いと癒しの場所:それは,個人への思いやりを以て 始まる;それは,我々各人の尊厳を尊重する配慮である;我々は,我々自身のおこないによって そのような配慮に ふさわしい または 値するものとなるのではなく,しかして,その配慮は 神の〈神の被造物への〉愛に由来するものである.真の mercy は,道徳性や律法を軽視することではない.真の mercy このことを意味している:道徳性と律法は それらだけでは 十分ではない.イェスは,新たな〈正義の〉規則を告げ知らせるために来たのではない;しかして,彼は,新たな存在様態 神の〈我々との〉ふるまい方を反映する存在様態 を示すために来たのである.

    今日,教会の課題は もはや 正義と善を規定する立法者のそれではない.今日の課題は,人々が 実り豊かに かつ 幸せに 生きるのを 助けることである 道徳の規則と同様に 神の恵みに依拠することによって .フランチェスコは,彼の 2016年の 家族に関する使徒的勧告 Amoris laetitia[愛の喜び]において,こう記している:「我々は 長いあいだ こう考えてきた:我々は,十分なサポートを家族へ提供し,結婚の絆を強め,結婚生活に意味を与えている 単純に〈教義の,生命倫理の,道徳の 諸問題を〉強調することによって [神の]恵みへ開かれてあるよう励ますことなく.」彼は こう考える:一時的な関係や離婚が当たりまえである文化においては,結婚は終生のものであると言うだけでは 不十分となった;むしろ,教会は,人々が結婚を 終生 継続することを 助けねばならない.使徒的勧告 Amoris laetitia は,教会がまさにそうすることができるようにするための準備に関する文書である.フランチェスコは こう言っている:教会は「良心を養成する」よう呼ばれているのであって,「良心に取って代わる」よう呼ばれているのではない.

    フランチェスコは,2013年に教皇に選出されて以来,このことに努めてきた:教会が〈貧しい人々を思いやる心,傾聴して寄りそうことの能力,必要を感じて応ずることの能力を〉持つことができるようになるよう助けることによって,教会を改革すること.それは,ラテンアメリカでは「司牧的および宣教的 転換」と呼ばれた.その心がまえを教えるために,フランチェスコは 特別聖年を 当てた:彼は,2016年を Giubileo straordinario della misericordiaMercy の特別聖年]とした;そして,同年,Amoris laetitia は,結婚と離婚を扱う際に 如何に mercy を実行するかを 示した.フランチェスコは,こう説いた:カトリック教会が教える律法を堅持すること および 人々に成長の余地を与えること 彼らが 彼らの〈教会の教えを生きるための〉能力において 成長することを 可能にする余地を 彼らに与えること 両者は 両立可能である.だが,彼が 転換への最良の洞察を ひとつの文書において 我々に与えたのは,彼の教皇位の終り近くに,202410月に,イェスの聖なる心(心臓,ハート)への信心に関する回勅 Dilexit nos[彼は我々を愛した]を発表したときにである.

    その文書において,フランチェスコは このことを示した:心(心臓,ハート)は,聖書の伝統 および キリスト教の伝統においては,単に 感情や情動の座であるだけでなく,しかして,我々自身の 最も真なる かつ 最も深い 中心 役割や企ての彼方において である.フランチェスコによれば,心(心臓,ハート)は,そこから発して 我々が 神および他者および 創造界と繋がるために開かれてゆくところの中心である.心(心臓,ハート)は,そこにおいて 我々が 世の騒音の彼方に神の声を聞くことを学びつつ 思考し 識別するところである.Dilexit nos は,我々に「心(心臓,ハート)へ回帰する」ことを求めている;そして,それは,それが実際そうであるように,フランチェスコの教皇位の良き要約となっている.

    Dilexit nos においてだけでなく,しかして,彼の説教においても,フランチェスコは,常に,イェス自身の〈他者との〉交流のしかたを,神のスタイルのモデルとして 提示している;神のスタイルとは:人々を探し出す;何を彼は彼らのために成し得るのかを問う;彼らに近しくある;決して威張らず,しかして,彼らが成長し,変化するのを 助ける.そのようなスタイルを,彼は,ローマにおいて,ヴァチカンの官僚主義を改革するために[教会に]浸透させようと努めた.それは,構造改革や人員の刷新よりも よりずっと深いところにおいて しかし,それは 構造改革や人員の刷新をも含むが [教会の]文化と心がまえを 辛抱づよく ラディカルに 改革してゆくことであった.

    フランチェスコは,2022年に,教皇庁のために,新たな使徒憲章 Praedicate evangelium[あなたたちは福音を宣べ伝えなさい]を 承認した;それは,教皇庁の文化と構造と実務を明確に規定する文書である;それは,このことを明らかにしている:教会に与えられた権力は,奉仕を強要するために与えられたのではなく,しかして,奉仕するために与えられたのである.それは,聖ヨセフの祭日(319日)— 2013年のその祭日のミサにおいて彼のローマ司教着座は正式に祝われた 発表された;そして,その憲章において,フランチェスコは,真の権力は 創造界と被造物とを保護する権力である と語っている.そのような権力を教会が擁することを フランチェスコは 欲した 優しい 聖なる 権力;神の権力と協力し,そして,それがゆえに,この世における本当の権力であり,唯一 新たな未来を創造することができる権力.

    あなたたちには このことがわかるだろう:フランチェスコによる教皇庁の改革の成果は,ベネディクト 16 世のもとで珍しくなかった行政と財政のスキャンダルが減ったということのみに見られるのではなく,しかして,以前はヴァチカンを訪れるのがどのようなことであったかを思い出す司教たちの喜ばしい驚きにも見られる.かつては,彼ら[司教たち]は,尊大な教皇庁の役人によって 行軍軍命令を与えられ,あるいは 叱責された;それに反して,今日では,彼らは,各省庁と兄弟的な対話を持つことができる.新たな使徒憲章は,明瞭に こう述べている:教皇庁は「それ自身を 教皇と司教たちとの間に置くのではなく,しかして,両者に十分に奉仕する立場にある.」それは,まさに権力と権威の理念そのものの改革である.教皇庁の諸文書の数は おおいに減った;今日,それらの文書は,苦労が多く時間のかかる協議の成果である.フランチェスコ以前には,苦痛なことに,匿名の告発と異端審問が珍しくなかった.しかし,この新たな使徒憲章は,このことを保証するよう努めている:神学者たちは もはや検閲を受けない;そして,ヴァチカンの役人たちは,司教たちを正面から見て,彼らの言葉を聞き,どう助ければよいかを尋ねる.

    フランチェスコによる改革は司教たちや枢機卿たちにとって人気のあるものとなったが,こう主張する者たちも いる:道徳の問題に関して,フランチェスコは,mercy あまりに多くの強調を置きすぎ,個別条件に あまりに多くの焦点を当てすぎ,そして,それによって,教会の教義を希釈する危険を冒した.202312月に発表された布告 Fiducia supplicans[祝福を懇願する信頼]に対して批判的であったのは,アフリカの枢機卿たちだけではなかった.その文書は,フランチェスコの緊密な協働者である教理省長官 Víctor Manuel Fernández 枢機卿によって作成されたものであり,こう宣言している:教会は,同性カップルの関係性を祝福することはできないが,もし同性カップルを形成するふたりの人間が祝福を求めるならば,彼ら/彼女らは祝福されてよいAmoris laetitia — その執筆を Víctor Manuel Fernández 手伝った と同様に,布告 Fiducia supplicans 性と結婚に関する教会の教義を堅持している.しかし,多くの司教たちが こう言った:[同性カップルの関係性を祝福することと カップルを成すふたりの人間を祝福することとの]区別は あまりに微妙であり,あまりに容易に誤解釈され得,教会の門で待ち構えるリベラル勢力によって利用される可能性が あまりに高い.だが,そのような批判は,律法と命令に捕らわれた者たちが有する永続的な[処罰の]恐怖を反映しているだけである.彼らは,たとえば 民族主義的-ポピュリスト的な動きとの同盟において,律法によって道徳的規範を課するという考えによって 魅了されている.彼らが想定しているのは このことである:教会は,ただ 信仰を説明しつつ 信仰の真理を証しすべきであるだけでなく,しかして,信仰を押しつけるために 政治的ないし権力的な同盟を探し求めるべきである.たとえば,USA の司教たちの多くは,しばしば そうすることを試みる 選挙において,人為的な妊娠中絶を非合法化することはカトリック信者にとって最優先の問題である と主張しつつ.しかし,フランチェスコは,このことを示した:そのようなアプローチは,福音を歪曲し,福音の倫理的な幅を減じている;そして,それは,恵みの力によりは,律法と立法者たちに より信頼を置いている.

    フランチェスコは,教会に伝わるより長い伝統 それは 聖トマスアクィナスによって よく表現されている を回復することを 助けた;それは このことである:律法は 必要であるが,十分ではない;そして,律法を適用するときには,我々は,イェスのような〈個人に対する〉思いやりを 必要とする.フランチェスコは,201709月のコロンビア訪問の際に Medellín で祝われたミサにおけるすばらしい説教のなかで このことを述べている:如何に イェスは 彼に従う者たちを レプラ患者や罪人や麻痺患者のところへ 連れ出したか 彼ら[イェスに従う者たち]が 命令と禁止の安全性のなかに とどまらずに,しかして,この居心地の悪い問いを問わざるを得なくなるために:「神は,我々が何を成すことに,喜ぶのか?」使徒的勧告 Amoris laetitia, 布告 Fiducia supplicans, そして フランチェスコの〈道徳的および倫理的な諸問題への〉全アプローチの 真髄は,教会の一致の本当の基礎を明らかにしたことである:それは,すべての者が同意するということや すべての者が善人である ということではない;しかして,それは むしろ このことである:我々は 罪人である;だが,我々は 神の恵みによって変えられることができる.であれば,教会の教えはそのままにしておきなさい;しかし,それを 他者を断罪したり軽蔑したりするために用いてはならない.そのかわりに,教会のなかに すべての者たちのために 居場所を用意しなさい;そして,各人が自分自身が進む道を見いだせるようにしなさい 野戦病院のケアチームの助けを借りて

    202308月,World Youth Day のためのリスボン訪問からの帰りの機上記者会見において,フランチェスコは ジャーナリストたちに こう言った:「各人が神と出会う それぞれのしかたにおいて 教会のなかで ;そして,教会は,母であり,各人を それぞれの途上で 導く.」フランチェスコは,あるトランスジェンダーの男性 (Diego Neria Lejarraga) にヴァチカンで接見を与えた最初の教皇となった[接見は 201501月に行われた]彼にこう告げつつ:「あなたは,神に愛されている〈教会の〉息子である」.そして,フランチェスコ自身,ローマ郊外のトランスジェンダーの女性たちのグループを 個人的にサポートした.だが,彼は,くりかえし “gender ideology” 批判した それは,性別と男女の両極性を否認することにおいて,人間の尊厳に対する脅威となっている と述べつつ.トランスジェンダーの男性 Diego Neria Lejarraga への彼の答えに関して問われて,フランチェスコは,gender dysphoria の現実を認め,そして,治療が必要なことがあるということを受けいれたように思われる.彼は 言った:「ホルモンのバランスが取れていないことは,多くの問題を生み出す.我々は,ケースを ひとつひとつ 取りあげねばならない;そして,その人を歓迎し,その人とともに歩み,その人の問題を検討し,識別し,その人を[教会共同体のなかへ]統合せねばならない.今日,イェスは そうするだろう.」

    フランチェスコは,mercy というレンズを ラディカルに教会のなかへ統合することによって,このことを明らかにした:抽象的な次元に 理想と一般論の水準に とどまっていることは,もはや十分ではない.彼は 我々に こうするよう 求める:現実を識別すること 具体的な個人の生活史および経験との実り豊かな緊張関係のなかで 教会の知恵を保持しつつ ;そして,その緊張関係のなかで,我々自身を開くこと 祈りつつ 何を神は我々に求めているのかを問うために.そのためには,我々は これを必要とする:識別する心 その心は,苦しみを見ることができねばならない そこから尻ごみせずに ;そして,単に嘆いたり 断罪したりするのではなく,しかして,識別し 改めさせることができねばならない.それは,彼が コロナウィルスのパンデミックのさなかのロックダウンにおいて 我々に与えた 特別なメッセージであった;そのとき,彼は,夕暮れ(20200327 18:00)の 人気[ひとけ]のない Piazza San Pietro から,恐怖に怯える世界に向かって 語りかけた 神は 我々とともにいる」と保証しつつ,そして,我々に〈単に壊れるのではなく,しかして,壊れることによって 開かれ,そして,かくして 変えられるよう〉呼びかけつつ.常に このような誘惑が ある:我々自身のなかに巻き戻ること;我々自身の資源に頼ること;それを失うことを我々が恐れるところのものに しがみつくこと 神が我々に与えようとしているものへ我々自身を開くのではなく

    だが,そのように我々自身を開くよう 今や 如何に 教会は その使命を請けおうために 変わる必要があるか を問うよう フランチェスコは,パンデミックのあと,我々 世界中の信者たちを 招いた.三年にわたった「皆がともに歩む教会」(synodality) に関するシノドス それは 202410月に結論を見た は,フランチェスコの最も有意義な改革である と言ってよい.それは,かつて企てられたのものうちで最も世界的な傾聴の実践であった;そして,ローカルな次元から全世界的な次元に至る多数の段階をとおして,教会の文化を大幅に変えるための青写真を作りあげた.Synodality[皆がともに歩む教会]とは このことを 言う:信者たちすべてを教会の生と使命[宣教]のなかに巻き込む〈集会,傾聴,識別,意志決定の〉習慣 および〈行動の〉しかた.それは,このことを 当然のことと 見なしている:洗礼を授かった者たちは すべて 教皇も 枢機卿も 司教も 司祭も 修道士も 一般信徒も 尊厳において 平等である.それは,こう考えている:聖なる息吹[聖霊]は,我々 皆へ 注がれた;そして,我々は,互いの言葉を深く聞き合うために集まることによって,息吹が教会に何と言っているのかを 見いだすことができる.

    フランチェスコによる改革すべてと同様に,synodality[皆がともに歩む教会]は,このことを含んでいる:ひとつの失われた〈教会の〉次元を 救出すること,そして,それを 我々の時代のために 再活性化すること.このことは 彼の偉大な遺産となるだろう:神の〈関係を持ち,仕え,心を発達させる〉スタイルへの回心を学ぶ場所としての教会.フランチェスコの後継者を選ぶ枢機卿たちの多くは,そのシノドスの過程にかかわってきた;そして,変化を見てきた.彼らは このことを見てきた:如何に 教会は〈過去 12 年間にわたり〉まったく新しいしかたで おおいにより福音的に見えるしかたで 人類とかかわり始めたか.彼らが 次期教皇が成すべきこととして ほかに何を考えようと,彼らは こう思うだろう:次期教皇が履行を怠り得ない課題は synodality を履行すること[教会を 皆がともに歩む教会にすること]である.それは,単に,新たな時代に入る教会のためだけではなく,しかして,ますます 分極化し 分裂してゆく 世界に このことを示すためである:相互関係を築くもうひとつのほかのしかたが可能である.


    *) Mercy compassion は,英語においても 類義語であり,どちらも「慈しみ」とも「憐れみ」とも訳され得る.両語の差異は このことに存する : compassion 他者の苦しみへの共感であるのに対して,mercy 他者の苦しみに対する応答である.

    邦訳と注:ルカ小笠原晋也

  16. 20180128日,修復された Salus Populi Romani イコンが Basilica di Santa Maria Maggiore に戻ってきたことを祝うために Papa Francesco が献げた ミサ


    Salus Populi Romani[ローマの民の救い]と呼ばれている 聖母子イコンは,201707月から ヴァチカン美術館において修復作業を受けていた;そして,201801月,Basilica di Santa Maria Maggiore[聖マリア教皇大聖堂]に戻ってきた.それを祝うために,Papa Francesco[教皇フランチェスコ]は,Basilica di Santa Maria Maggiore において 20180128年間 4 主日B 9:00, ミサを捧げた.


    Papa Francesco の 説教

    我々は,[地上を]歩む〈神の〉民として,ここに いる — 母 (la Madre) の神殿のなかに しばし足をとどめて.母の現在は,この神殿を 我々 — 彼女の子どもたち — にとって 家族の家にする.ローマ人たちの幾世代にも幾世代にもわたって,我々は,この母の家に,我々の家を認める;その家において,我々は,休息,慰め,保護,避難所を見いだす.キリスト者の民は,始めから,このことを わかっていた:困難のときには,試練のときには,母に助けを求める必要がある — 最も古いマリア交唱 Sub tuum praesidium が示しているように:

    Sub tuum praesidium confugimus, sancta Dei Genetrix;
    nostras deprecationes ne despicias in necessitatibus;
    sed a periculis cunctis libera nos semper,
    Virgo gloriosa et benedícta.

    あなたの保護のもとへ 我々は避難する神の聖母 (Santa Madre di Dio)
    困難にある我らの祈りを 無視したまうな
    しかして あらゆる危険から いつも我らを救いたまえ
    栄光ある 祝福された おとめよ

    「あなたの保護のもとへ 我々は避難する」.信仰における我らの父たち[教父たち]は,こう教えた:困難なときには,神の聖母Υπεραγία Θεοτόκος, Santa Madre di Dio : 至聖なる〈神の〉母]のマントのしたに身を寄せる必要がある.かつて,迫害されている者たちや 困窮している者たちは,身分の高い高貴な女性たちのもとに 避難所を求めた:彼女たちのマント それは 不可侵なものと見なされていた 迎え入れの徴として広げられると,保護が容認された.我々にとって,おとめマリア 人類のうちで最も高きところにいる彼女 についても,同様である.彼女のマントは,我々を 迎え入れ そして 庇護するために,常に開かれている.そのことを,東方の正教会は,我々に よく思い出させてくれる;そこにおいては,多くの者たちが 神の母の保護 (Patrocinium Dei Genetricis, Σκέπη τῆς Ὑπεραγίας Θεοτόκου) 祭日を[ユリウス暦 1014日,グレゴリオ暦 1001日に]祝う;神の母 (Θεοτόκος) は,美しいイコンに描かれており,彼女のマント[あるいは ヴェール]によって 彼女の子どもたちを庇護しており,そして,全世界を覆っている.古代の修道士たちも,こう勧めている:試練のときには,神の聖母のマントのしたへ避難すること.神の聖母としての彼女に祈ること ひたすら「神の聖母神の聖母」と繰りかえし祈ること は,それだけで,保護と助けの保証であった.

    「至聖なる〈神の〉母の保護」のイコン(オリジナルの制作年代および制作者は 不明).聖母は,彼女の子どもたちすべてを保護するために,ヴェールを広げている.

    その知恵
    それは いにしえに由来する は,我々を助けてくれる:は,信仰を護ってくれる;関係[人間と神との関係,人間どうしの関係]を保ってくれる;逆境において救ってくれる;そして,悪から保護してくれる.Madonna[聖母マリア]が家にいてくれれば,悪魔は入ってこない.がいるところでは,不安が優勢とはならない;恐れが勝つことはない.我々のなかで,それを必要としない者が 誰かいるだろうか ? 我々のなかで 誰が ときとして 不安になったり 心配したりしないだろうか ? 何と しばしば 心は 嵐の海のようであることか ! そこにおいては,幾つもの問題の波が重なりあい,そして,懸念の風が吹きやむことがない ! マリアは,大洪水のさなかの 安心できる箱船である.我々に支えと希望を与えてくれるのは,理念やテクノロジーではなく,しかして,これらのものである:母の顔,いのちを愛撫する彼女の手,我々を庇護する彼女のマント.毎日 母のところへ行きつつ,避難所を見いだすことを学ぼう.

    「我らの祈りを 無視したまうな」と 交唱は続ける.我々が彼女に嘆願するとき,マリアは 我々のために[我々の代わりに]嘆願してくれる.ギリシャ語には[マリアのための]美しい名称がある : Γρηγοροῦσα* (Gregorousa), すなわち,すぐに執りなしてくれる方.その「すぐに」は,ルカが福音書 (Lc 1,39) のなかで用いている言葉である 如何にマリアはエリザベトのところへ行ったかを言うために:ガブリエルから知らせを受けると,彼女は「すぐに,急いで」(μετὰ σπουδῆς) エリザベトのところへ行く.マリアは,すぐに執りなしてくれる ぐずぐずすることなく 我々が福音書のなかで聞くように そこ (Jn 2,03) において,彼女は,人々の具体的な必要を イェスに 即座に 伝える:「彼らは 葡萄酒を有していません」ずばりと ! 彼女は,我々が彼女に祈るとき,いつも そうしてくれる.我々に希望が欠けているときも,喜びが減ずるときも,力が尽きようとするときも,人生の星が暗くなるときも, 介入してくれる.そして,我々が彼女に祈るならば,彼女は よりいっそう 介入してくれる.彼女は,我々の苦労に注意を払っており,我々が抱える人生の困難に敏感であり,我々の心に近いところにいる.そして,彼女は,決して,決して,我々の祈りを無視しない;彼女は,我々の祈りをひとつも聞き落とさない.彼女は である;彼女は,決して 我々のことを恥ずかしくは思わない;それどころか,彼女は,彼女の子どもたちを助けることができるよう,いつも待機している.

    ひとつのエピソードが,我々が[母であるとは如何なることなのかを]理解することを助けてくれる.病院のベッドのかたわらで,ひとりの母親が,事故で負った傷に苦しむ彼女の息子の世話をしていた.その母親は,昼も夜もそこにいた.あるとき,彼女は,司祭に嘆いた こう言って:「でも,主がわたしたち母親に許さないことが ひとつあります!」「何ですか?」と司祭はたずねた.「子どもの苦痛を引き受けることです」と その女性は 答えた.それが,母の心である.母は,子どもの傷を,子どもの弱さを,恥ずかしいとは思わない;しかして,それを身を以て引き受けたいと思う.そして,神のであり 我らのである方は,[彼女の子どもたちである我々の苦しみを]身を以て引き受け,[我々を]慰め,見まもり,癒すことができる.

    交唱は,続けて,「あらゆる危険から我らを救いたまえ」と唱える.主は,彼自身,我々が かくも多くの危険のただなかで 避難所と保護を必要としていることを,知っている.それゆえ,彼は,[受難の]頂点を成す瞬間に,十字架のうえで,[彼ののそばに立つ]彼が愛した弟子に あらゆる弟子に こう言った:「見よ,あなたのだ」(Jn 19,27). は,オプショナルなものではない;彼女は,キリストの遺言である.そして,我々は 彼女を必要としている [徒歩で旅する]巡礼者が休息を必要としているように,赤ん坊が[母の]腕に抱かれることを必要としているように.このことは 信仰にとって 大きな危険である:なしに 保護なしに 生きること 木の葉が風によって翻弄されるように,人生によって翻弄されるがままとなりつつ.主は,そのことを知っている;そして,我々に を迎え入れるよう 勧める.そのこと[を迎え入れるということ]は,精神的な礼儀正しさではなく,しかして,生に必要なことである.彼女を愛することは,詩ではなく,生きるすべを得ることである.なぜなら このゆえに:なしには,我々は 子どもであることができない.そして,我々は,なかんづく,子ども 愛されている子ども である;我々は,神を父としており,Madonna としている.

    第二ヴァチカン公会議は,こう教えている:マリアは,地上を旅する〈神の〉民にとって「確かな希望と慰めの徴」(Lumen gentium n.68) である.彼女は,徴である;神が我々のために置いた徴である.もし我々がその徴を追わなければ,我々は 誤った道を歩むことになる.なぜなら このゆえに:遵守さるべき〈精神的生の〉信号がある.その信号は,我々に 「なおも地上を旅しており,危険と苦悩のただなかに置かれている」我々に (ibid. n.62) — 示してくれる 既に目的地に到達している彼女を.誰が,彼女よりも よりよく,途上の我々に寄り添い得るか ? 何を我々は待っているのか ? 十字架の足元で「 彼自身のところへ 受けいれた」弟子 (Jn 19,27) のように,我々も,このの家 (Basilica di Santa Maria Maggiore) において,マリアを 招きいれよう 我々の家へ,我々の心のなかへ,我々の生のなかへ.我々は,中立でいることも,から距離を取ったままでいることも できない;さもなくば,我々は,我々の〈子としての〉同一性も 我々の〈民としての〉同一性も 失い,そして,このようなキリスト教を生きることになる 理念とプログラムでできており,信頼できるものもなく,優しさもなく,心もない キリスト教.だが,心なしには,愛はない;そして,信仰は かつての時代の美しい作り話になる危険がある.それに対して,は,子どもたちを護り,準備させてくれる.彼女は,子どもたちを愛し,護ってくれる 彼らが 世界を 愛し,護ることができるように.我々は,母を,我々の日常生活の女主人に 我々の家に常にいてくれる人に,我々の確かな避難所に しよう.毎日,彼女に信頼しよう.あらゆる困難において,彼女に祈ろう.そして,彼女に感謝するために 彼女のところに戻ってくることを 忘れないでおこう.

    今,彼女を見つめつつ 彼女は退院してきたところである 優しさを以て 彼女を見つめよう;そして,エフェソのクリスチャンたちが彼女に挨拶した**ように,彼女に挨拶しよう.さあ,皆 いっしょに 三回「神の聖母」と言おう.皆 一緒に「神の聖母神の聖母神の聖母」.


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    訳注:

    *) Γρηγοροῦσα 動詞 γρηγορέω[目覚めている,気をつけている]の 現在分詞の女性形である,その動詞は,聖書のなかでは「復活させる」という意味でも用いられている動詞 ἐγείρω[目覚めさせる,起こす,起きあがらせる]の受動的意味における完了形 ἐγρήγορα[目覚めている]に由来する.Γρηγοροῦσα は,本来は,「目覚めている女性,気をつけている女性」である;おそらく,そこから,彼女は「彼女が見まもっている者たちに常に気をつけており,彼らの必要にすぐに対応する女性」となり,さらにそこから「すぐに執りなしてくれる女性」となったのだろう.

    **) エフェソの遺跡(現在のトルコの都市 Selçuk の近く)には,マリアの家と言い伝えられてきた建物(現在は小さなチャペル)および 使徒ヨハネの墓と言い伝えられてきたところに建てられた聖堂(現在は廃墟)がある.伝説によれば,おとめマリアと使徒ヨハネは,イェルサレムにおける迫害を逃れて,エフェソで暮らし,そこで亡くなった.

  17. AP によって 2023年01月におこなわれたインタヴューの際の 記念写真.パパ フランチェスコの左手側(向かって右側)の隣に立っているのが,Nicole Winfield 記者.

    パパ フランチェスコは,しばしば厳しい質問をする AP 通信の ヴァチカン担当記者に,特別な渾名 「優等生」 を付けていた




    彼は わたしを la prima della classe クラスで一番よくできる女の子,優等生 と呼んでいた.それは,必ずしも讃辞ではなかった.

    わたしは,2018年に,パパ フランチェスコから その渾名を 頂戴した.その年は,彼の教皇位の最悪の年であった;そして,子どもへの性的虐待をおこなった司祭たちのケースをどう扱うかに関する転換点であった.

    教皇は,チリのカトリック教会内で起きた性的虐待の大事件*の処理をしくじったところであった.そして,わたしは,ヴァチカン担当の記者たちの多くと同様,フランチェスコの[201801月の]問題多きチリ訪問の間,そのスキャンダルを報じた.フランチェスコは,性的虐待の被害者たちの言うことを信用せず,事件の隠蔽に関与した Juan Barros 司教を 擁護し,そして,彼自身が被害者たちの外傷に鈍感であることを 露呈した.

    20180121日,チリとペルーへの使徒的旅行から]ローマへの帰途,フランチェスコは,恒例の機上記者会見の間,チリにおけるスキャンダルに関する質問の氾濫に 見まわれた.乱気流が 会見を 一時的に中断させた;しかし,それが再開されたとき,わたしは,ほかの記者たちが中断したところから 再開した 問題を執拗に追及し,そして,教皇が犠牲者たちの苦痛にあれほどに気づかなかったように見えることは信じられない と指摘しつつ.

    フランチェスコは こう主張した:「性的虐待の加害者 Fernando Karadima 神父をかばったかどで Juan Barros 司教を告発するために進み出てきた被害者は,誰もいなかった」.そうではないことを わたしは知っていた;そして,そのことを フランチェスコに 言った 今もなおわたし自身を驚かせる声の調子で.

    「そう言っているのは,被害者たち自身です」と わたしは 彼に 言った.

    「わたしは,誰からも聞いていない」と フランチェスコは 答えた.

    Barros 司教を告発している人々が います」と わたしは強く言った.教皇は[わたしを]さえぎろうとした;しかし,わたしが 彼を さえぎった;わたしの声は かん高くなった.「いいえ,Karadima 神父の被害者たちのなかには,Barros その場に[Karadima による子どもたちへの性的虐待の現場に]いた と言っている人々が います!」

    「しかし,彼らは 進み出てこなかった」と フランチェスコは 答えた.「彼らは,判断のための証拠を 示さなかった.あなたは,善意を以て,被害者たち[Karadima による性的虐待の被害者であり,かつ,Barros Karadima が何をしていたかを知っていながら 隠蔽した,と言っている人々]がいる わたしに言う;しかし,わたしは彼らに会わなかった なぜなら 彼らは姿を現さなかったからだ」.

    ヴァチカンにおいて慣例的である儀礼のスタンダードによれば,それは 驚くほどに鋭いやりとりだった.フランチェスコは,わたし および ほかのジャーナリストたち わたしたちは かくも公に 彼に対して異議を申したてた に対して,塹壕に立てこもるか または 報復することも できただろう.

    しかし,彼は そうしなかった.しかして,彼は,その問題について 調査を依頼し,そして,それが終了するや,被害者たちに〈彼らを信用しなかったことについて〉謝罪した.そのようなフランチェスコの反応は〈彼の友も敵も同様に《彼の特記すべき特性として》認めること 過ちを認め,軌道修正しようとすること を〉強調した.

    AP との 2023年01月のインタヴュー[インタヴューしたのは Nicole Winfield 自身;動画 1, 動画 2, 動画 3]において,フランチェスコは このことを認めた : 2018年の機上記者会見は 転換点 彼が 性的虐待のスキャンダルの深さを 理解した 瞬間 であった.

    そのインタヴューにおいて,フランチェスコは わたしに こう言った:「わたしは[当時]そのこと[Barros Karadima による性的虐待を隠蔽している という 指摘]を信ずることができないでいた.あなたは,あの機上記者会見において『教皇さま,そんなことでは いけません』とわたしに言った人だった」.「そのとき,爆弾が爆発した;そのとき,わたしは その件における多数の司教たちの腐敗を 理解した」と 彼は 言った 彼の頭が爆発したことを示す所作をしつつ.

    その 2023年のインタヴューよりまえに フランチェスコは わたしに 既に 渾名を付けていた;彼は,201808月のダブリン訪問の際に,それを思いついたようだった.当時,チリのスキャンダルはなおも生々しかった.わたしは,AP の同僚 Eva Vergara とともに,フランチェスコが あるチリ人被害者 (Juan Carlos Cruz) から 彼が被った虐待と隠蔽を詳細に記した書簡(20150303日付,スペイン語原文英訳)を 事実 受けとっていた という問題を,追っていた.

    アイルランドに向かう教皇専用機に乗ると,フランチェスコは,ジャーナリストたちに挨拶するために やってきた;そして,わたしの列のところまで来ると,彼は,微笑み,わたしと握手しながら,言った : “Ah, la prima della classe, la prima della classe”[あー,クラスで一番の優等生,クラスで一番の優等生].

    いったい彼が何を言いたいのか,わたしはいぶかしがった.それは,文字どおりには「クラスで一番よくできる女の子」であるが,ネガティヴな意味あいを持つこともできる:知ったかぶり,良い子ぶりっこ,教師にえこひいきされている者**.

    わたしは,その渾名を,このことの徴として見た:フランチェスコは,しぶしぶ このことを認めたのだ : AP わたしが 彼を批判し,彼を正したことは,正当なことであった.

    リポーターとして,わたしたちは,職業的な距離を保たねばならない 我々のスタンダードに適う〈タフな かつ 公正な〉しかたで 彼を取材しつつ ;そして,そのことが,たぶん,わたしたちの仕事に対する彼の敬意の背後にあっただろう.

    その la prima della classe という渾名は,わたしに付いたままとなった.そして,フランチェスコは,わたしたちが会うときは いつも それを用いた.多くのしかたで,それは,如何に彼の報道との関係が 時とともに 進展していったかを 示していた.

    教皇選出時,フランチェスコは,ジャーナリストたちに対する不快感を あらわにした.彼は,アルゼンチンで ジャーナリズムに関して ネガティヴな経験を有していた:軍事独裁政権 (1976-1983) の期間中の 彼のイェズス会管区長 (1973-1979) としての記録 および 彼の Buenos Aires 大司教の地位[1992年に補佐司教,1997年に補助大司教,1998年に大司教]は,彼を,メディアの照準のなかにおいた.

    201307月[Rio de Janeiro でおこなわれた World Youth Day に参加するための]彼の教皇としての最初の国外旅行の際,往路の機上記者会見において,彼は 記者団の代表の挨拶に応えて こう言った:「まことに,わたしは インタヴューを受けません;何故かは わたしも知りません;できないのです;そういうふうなのです;わたしにとっては,インタヴューに答えるのは ちょっと疲れることです」.

    時がたつにつれて,フランチェスコは リラックスしていった;そして,彼の機上記者会見は,教皇のコミュニケーションの新たな章となった.彼のコメント[複数]は ときとして 公式な説明を必要とした;しかし,それら[彼のコメント]は,LGBTQ+ へ手を差しのべることや 教会のなかの女性の役割などの問題について,彼が講話や文書においては成し得ないしかたで,従来の殻を押し破った.

    フランチェスコは,彼の前任のふたりの教皇を合わせたよりも,より多くのインタヴューに応じた 彼の教皇位を特徴づける 形式ばらない 個人的なスタイルにおいて,彼の羊の群へ語りかけるために,メディアを使いつつ.

    わたしたちの最後の実質的な出会いは,202401月のことであった;そのとき,記者たちは 彼と 使徒宮殿で 会った.当時,わたしは,迫りつつある〈仕事と生活との〉葛藤に 懸念を抱いていた:わたしの娘は,8月下旬に大学生になろうとしていた;そして,わたしたち家族は New England へ行くことを計画していた オリエンテーションに出席し,次いで,彼女を学生寮に入れるために.そして,このようなうわさが流れていた:同じころに,フランチェスコは,彼の最長の,最も野心的な旅に出る:アジアの四ヵ国を巡る旅行 それは,八月下旬に行われる可能性がとても高かった.わたしは,どちらも外すわけには行かなかった.

    会見の最後に,フランチェスコは,記者たちひとりひとりに 挨拶した.今日に至るまで,わたしは〈そのとき わたしが何と言ったのかを〉信じられない;だが,わたしは,わたしのジレンマを 彼に 話した 母親としての必死さと[仕事に関して]何も失うまいとする厚かましさとの両方を 呼び覚まして.あいかわらず礼儀正しく,フランチェスコは,注意ぶかく聞いてくれた 彼は,幾度も,わたしの子どもたちのことについて 質問した そのとき,わたしは,若干ずうずうしく,アジア訪問を遅らせてくれるなら,わたしは それを取材することができる,と彼に示唆した.

    フランチェスコは,それを即座に却下しはしなかった.そして,わたしは こう思った:わたしは 少なくとも わたしの娘に「わたしは 教皇に 旅行の日程を遅らせてくれるよう 頼んでみた」と言うことはできるだろう わたしにとってはアジア旅行取材の方が優先されるということを娘に言わざるを得ないということを知りつつ.

    数カ月後,驚いたことに,教皇の旅行の日程が 次のように 発表された : 902日から 13日まで.わたしは,家族のことも仕事のことも どちらもできる.

    わたしは,敢えて こうは思わなかった:フランチェスコが大勢のジャーナリストたちと会っている場でわたしが彼に即席に言ったことが 彼の旅行の計画を組むための複雑な計算において 考慮に入れてもらえたのかもしれない.

    しかし,わたしは,後日,フランチェスコと近しく かつ ちょうど彼と会ったばかりの ある人から,興奮したヴォイスメールを受け取った.彼は 言った:「あなたは,彼がわたしに何といったか,信じられないだろう:あなたが確実に来れるように 旅行の日程を変えた 教皇は言ったのだ」.ほかの要因が〈フランチェスコの人生の最後の大がかりな外国旅行となったものに〉影響を与えたのかどうか,わたしは いまだに 知らない.

    ともあれ,わたしは,その旅行の取材に行くことができたことについて,感謝している.フランチェスコは,足をひきずり,あるいは,車椅子に乗って,彼の羊の群を 司牧した インドネシアにおいて,シンガポールにおいて,パプアニューギニアのジャングルにおいて,そして 蒸し暑い東ティモールにおいて;そこでは,人口の半分が Dili における 彼の最後のミサに 与った.

    帰途の長時間の飛行中,わたしは,彼の立ち直りの力について こう書いた

    しかし,そこには[Dili でのミサの会場には]フランチェスコが いた 疑う者たちをものともせずに 疑う者たちは こう問うていた:教皇は そのような難儀なアジア旅行をすることができるのか,したがっているのか,すべきなのか あらゆることがうまく行かない可能性を有しているのに ? (…) その瞬間[教皇が会衆に語りかけているとき]は,このことの証明となっていると思われた:彼の年齢,病気,七時間の時差にもかかわらず,パパ フランチェスコは,なおも,教皇であり得,なおも教皇であることを好み,そして,彼の教皇位の開始のときにそうであったのと同様に教皇である能力を有している.

    わたしは こう思いたい:彼は,その記事を読んだかもしれない それを書いたのは「クラスで一番の優等生」だと知りつつ.

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    *) チリにおいて未成年者たちに性的虐待をおこなったカトリック司祭は複数いるが,彼らのうちで最大のスキャンダルとなったのは,Fernando Karadima (1930-2021) である.彼は,チリの首都サンチアゴの近郊の 富裕層の居住地 Providencia 地区の出身であり,1958年に サンチアゴ大司教区において 司祭叙階の秘跡を受け,Providencia 地区の小教区の司牧 および 若者たちの指導に 長年にわたり たずさわった.彼によって育成された多数の司祭たちのうち 幾人かは 司教にも叙階された(彼らのうちのひとりが Juan Barros である).Karadima の「不適切な行い」は 既に 1980年代に告発されたことがあったが,当時のサンチアゴ大司教は それを無視した.2003年に成された告発 および それにともなって成された調査の結果も,当時のサンチアゴ大司教によって 否認された.やっと 2010年に,複数の被害者が共同で Karadima に対する刑事告発を行ったことをきっかけに,問題を教皇庁教理省が取り上げることになった.そして,2011年に 教理省は Karadima を有罪と認定し,彼が公の場で司祭としてふるまうことを 禁止した.最終的に,201809月,パパ フランチェスコは 彼から司祭の身分を剥奪した.201801月の パパ フランチェスコのチリ訪問の際に 非難の対象となったのは,Karadima 事件の隠蔽を疑われていた Juan Barros 司教(1995年に ヨハネパウロ 2 世により 司教叙階)を パパ フランチェスコが 201501月に Osorno 教区の司教に任命したことである.

    **) "La prima della classe" という表現が喚起するもうひとつのイメージを付け加えるなら:男子同級生がしている悪いことを担任の教師に告げ口する嫌な女の子.

    邦訳と注:ルカ小笠原晋也

  18. 映画 Conclave を見て



    3月30日 日曜日,映画 Conclave を見てきた.必見とは言わないものの,結構 楽しめる作品であった.

    印象的だったのは,物語の進行役,枢機卿団の長 Thomas Lawrence (Ralph Fiennes) が Conclave の開始のミサの説教において言う この言葉である(ここから引用):


    Let me speak from the heart for a moment. St Paul said, ‘Be subject to one another out of reverence for Christ.’ To work together, and to, er… to grow together, we must be tolerant. No one person or… or faction seeking to dominate another. And speaking to the Ephesians, who were of course a mixture of Jews and gentiles, Paul reminds us that God’s gift to the church… is its variety. It is this variety, this diversity of people and views which gives our church its strength. And over the course of many years in the service of our Mother the Church, let me tell you, there is one sin, which I have come to fear above all others. Certainty. Certainty is the great enemy of unity. Certainty is the deadly enemy of tolerance. Even Christ was not certain at the end. My God, My God, why are you forsaken me? He cried out in his agony at the ninth hour on the cross. Our faith is a living thing, precisely because it walks hand-in-hand with doubt. If there was only certainty… and no doubt… there would be no mystery… and therefore no need… for faith. Let us pray that God will grant us a Pope who doubts. And let him grant us a Pope who sins and asks for forgiveness, and who carries on.

    しばし,心から言わせてもらおう.聖パウロは 言った:「あなたたちは,キリストへの畏れおいて,互いに服しあいなさい」(Eph 5,21). ともに働くためには,そして,ともに成長するためには,我々は寛容であらねばならない.誰も,如何なる派閥も,ほかの者を支配しようとしてはならない.そして,パウロは,当然 ユダヤ人と非ユダヤ人との混合であるエフェソの教会のメンバーたちへ語りつつ,このことを我々に思い起こさせている:神の〈教会への〉賜は さまざまであること.人々および視点がさまざまであること — 多様性 — こそが,我々の教会に力を与える.そして,我らの母なる教会への奉仕の幾多の年々の経過にもとづいて,あなたたちにこう言わせてもらおう:ひとつの罪がある;その罪を,わたしは,ほかのすべての罪よりも よりいっそう 恐れるようになった;それは 確信(思いこみ)である.確信(思いこみ)は,一致に対する大いなる敵である.確信(思いこみ)は,寛容に対する致死的な敵である.キリストでさえ,最期に,確信(思いこみ)を有してはいなかった.「わが神,わが神,なぜあなたはわたしを見棄てたのですか?」と 彼は 第九時(午後三時)に十字架上で死を迎えるときに 叫んだ.我々の信仰は 生きているものである — まさに,それが 疑問と手を取り合って歩んでゆくがゆえに.もし 確信(思いこみ)しかないのであれば — そして,疑問がないのであれば — 神秘はないだろう;そして,それゆえ,信仰の必要もないだろう.祈ろう:疑問を有することのできる教皇を 神が 我々に 与えてくださるように.そして,神が このような教皇を 我々に与えてくださるように:罪を犯しても,赦しを請い,そして,進み続けてゆく教皇を.

    この「確信」(思いこみ)に対する批判は,まさに Papa Francesco が 2013年の Padre Antonio Spadaro SJ によるインタヴューのなかで 述べていることである:

    Spadaro : もし すべてのことにおける神との出会いは 経験的な eureka[わたしは見つけた]ではないとすれば,そして,それゆえ,かかわっているのは 歴史を読む道程であるならば,誤りを犯すこともあり得ますね…

    Francesco : そうだ.すべてのもののなかに神を探し求め,見いだそうとすることにおいては,常に 不確実さの領域がある;そして,そのような不確実さの領域があらねばならない.もし ある者が「わたしは 全的な確実さを以て 神と出会った;如何なる不確実さの余地も よぎることはなかった」と言うならば,それは 事態がうまく行っていない ということだ.それは,わたしにとっては,重要な鍵である.もし ある者が すべての問いに対して答えを有しているならば,それは,神はその者とともにはいない ということの 証拠である.それは,こういうことだ:その者は,偽予言者であり,宗教を彼自身のために用いている.神の民の偉大な指導者たち — たとえば モーゼ — は,ものごとに 疑いの余地を 残していた.我々は,主のために 場所を残しておかなければならない;我々の確実さのための場所だけがあるということであってはならない.謙虚でなければならない.不確実さは,精神的な慰めの確認へ開かれている あらゆる真なる識別のなかに,ある.

    それゆえ,すべてのもののなかに神を探し求め,見いだそうとするとき,危険は,説明しすぎようとする意志である;人間の水準の傲慢な確実さを以て「神は ここに存在する」と言おうとする意志である.我々は,我々の分際に応じた神を見いだすだけである.正しい態度は,聖アウグスティヌスの態度である:神を見いだすために,神を探し求める;そして,神を探し求めるために,神を見いだす.そして,我々は しばしば 手探りで 探し求める. (…)

    今日,このような者たち — 彼らは,常に 規律的な解決を探し求め,過剰な〈教義上の確かさへの〉傾向を有しており,頑なに〈失われた過去を〉見いだそうとする — は,静的な 退行的な ものの見方を 有している.かくして,信仰は もろもろのイデオロギーのうちのひとつのイデオロギーになる.(…)

    Robert Harris による〈映画 Conclave の〉原作は 2016年に出版されている.Robert Harris は Papa Francesco の考えを よく研究している と思われる.
  19. Carl Bloch (1834–1890) : Samaritan woman at the well


    聖年 2025 連続講話.イェスキリストは 我らの希望.イェスの生.出会い 2. サマリア女.「わたしに飲みものを与えよ」


    親愛なる兄弟姉妹たちよ,

    イェスのニコデモとの出会い 彼は イェスに会いに出かけた について考察したあとで,今日 我々は あれらの時について省察しよう:それらの時,彼[イェス]は 我々を待っている 我々の生の道が交わるところにおいて.イェスとの出会いは,我々を不意うちする;そして,始めのうち,我々に 若干 不信感を与えることもある.そこで,出来事を理解するために 慎重であることを 我々自身に課そう.

    それは,おそらく,ヨハネ福音書の 4 (cf. Jn 4,05-26) において物語られている サマリア女の経験でもあるだろう.彼女は,正午に井戸のところで ひとりの男を見いだすことを 予期していなかった.彼女は,誰とも会いたくないとすら思っていた.実際,彼女は,普通そうはしない時間に,井戸に水を汲みに行った とても暑い時間に .多分,その女は,自身の人性を恥じている;多分,彼女は「わたしは,裁かれ,断罪されており,わかってもらえていない」と感じている.それゆえ,彼女は 孤立している;彼女は 共同体全員との関係を 断っている.

    ガリラヤ地方からユダヤ地方へ行くためには,イェスは ほかの道を選ぶこともできただろう;サマリアを横切らないこともできただろう.それは,より安全な道であっただろう ユダヤ人たちとサマリア人たちとの緊張した関係に鑑みれば.しかし,彼は,逆に,サマリアを通ることを欲する;そして,あの時間に あの井戸で 立ちどまる.イェスは 我々を待っている;そして,我々に彼を見いださせる まさに 我々が〈我々自身にとって もはや 希望はない と〉思っているときに.古代の中東地域において,井戸は,出会いの場所である.そこにおいて,ときとして,結婚の約束が成された;それは 婚約の場所であった.イェスは,あのサマリア女を助けることを欲する 彼女の〈愛されたいという〉欲望に対する真の答えをどこで探し求めるべきかを 彼女が理解し得るように.

    欲望という主題は,あの出会いを理解するために 基本的である.まず,イェスが,彼の欲望を表現する:「わたしに飲みものを与えよ!」(v.10). 対話を開始するために,イェスは 自身を 弱い者として提示する;そのようにして,彼は,相手を気楽にさせる;彼は,彼が怖がってはいないということを 相手に見せる.渇きは,聖書においても,しばしば,欲望のイメージである.だが,ここで,イェスは,なかんづく,その女が救済されることに 渇いている[その女が救済されることを 欲している].聖アウグスティヌスは こう言っている:「飲みものを求めた彼[イェス]は,あの女の信仰に 渇いていた(彼女が神を信ずることを 欲していた)」(聖アウグスティヌス説教集 15,11).

    ニコデモがイェスのところへ行ったのが夜のことであったのに対して,ここでは,イェスがサマリア女と出会うのは 真昼において 最も多くの光があるときに である.それは,実際,啓示の時である.イェスは,彼女に,自身をメシアとして知らせ,彼女に 彼女自身の生について 解き明かす.彼は,彼女が 自身の生 それは 複雑であり 苦痛に満ちている を読み直すことを 助ける:彼女は,五人の夫を有していた;そして 彼女は 六人めの男を有しているが,その男は彼女の夫ではない.六という数は,偶然のものではない;一般的に言って,六は 不完全と同義である.多分,それは,七人めの夫への暗示である;七人めの夫 彼は,彼女の〈まことに愛されたいという〉欲望を ついに 満たすだろう.そして,その夫とは,イェス以外ではありえない.

    彼女は,イェスが彼女の生を識っているということを 理解すると,会話を 宗教的な問題へ 移す ユダヤ人たちとサマリア人たちとを分裂させている問題へ.そのことは,我々にも 起こる 我々が祈っているときに 神が さまざまな問題を以て 我々の生に触れるときに,我々は,ときとして,祈りが成功したという錯覚を我々に与える省察のなかで,自身を見失う(道に迷う).実際には,我々は,防護壁を建てている.しかしながら,主は,つねに より大きい.そして,彼は,あのサマリア女に 文化的な図式によれば,彼は 彼女に話しかけるべきではなかっただろうが 最も高次の啓示を 提供する.彼は,彼女に,父について 語る 息吹と真理において崇拝されるべき父について (vv.23-24). そして,彼女が,さらに驚いて,それらの問いについてメシアを待望するほうがよいと気づくとき,彼は 彼女に 言う:「あなたに語っているわたしこそが それ[メシア]である」(v.26). それは,愛の宣言のようなものである:あなたが待望している者,それは わたしである;わたしこそが,あなたの〈愛されたという〉欲望に ついに 答えることができる者である.

    その瞬間,女は 村の者たちを呼びに 走ってゆく;なぜなら このゆえに:福音宣教の使命が生ずるのは,まさに,愛の感覚の経験からである.そして,如何なる告げ知らせを 彼女は もたらし得たか ? それは,まさしく,この経験である:わたしは,わかってもらえた;受けいれてもらえた;赦された.それは,我々に,福音宣教のための新たな形を探し求めることに関して 省察させるはずの イメージである.

    サマリア女は,夢中になった人のように,彼女の壺を イェスの足元に 放置する.普段,彼女が その壺を頭にのせて 自宅に戻るたびに,その重みは 彼女の状況を 彼女の困難に満ちた生を 彼女に思い出させていた.しかし,今や,その壺は,イェスの足元に置かれている.過去は,もはや 重荷ではない;彼女は 和解させてもらったのだ.我々にとっても 同様である.福音を告げ知らせにゆくためには,我々は,まず,我々の歴史(生活史)の重荷を 我々の過去という重荷を 主の足元に置くことが 必要である.和解させてもたった者たちだけが,福音を運ぶことができる.

    親愛なる兄弟姉妹たちよ,希望を失わないように!我々の歴史(生活史)が 我々にとっって 重たいもの,複雑なもの,さらには,もしかしたら,破滅したものとさえ 思われようと,我々は,常に,それを神に委ねることができる;そして,我々の歩みを再開することができる.神は あわれみぶかい;そして,神は 我々を 常に 待っている!


  20. 藤本 著『LGBTQ 聖書はそう言っているのか?(2024) を読んで



    同書は,プロテスタント福音派の「どまんなかにいる」と自認する 藤本 氏(インマヌエル高津教会 牧師,青山学院大学 兼任講師,東京神学大学 非常勤講師)による〈聖書を楯にとって LGBTQ を断罪し,排除する アメリカの保守的福音派による 聖書解釈に対する〉批判の書である(その簡潔な要約を 新井健二氏[友愛キリスト教会 牧師]が 提供してくれている).

    性的マイノリティを排除するとき,教会で頻繁に使われる表現は「聖書がそう言っている」というものです.もし聖書を神のことばであると厳粛に受けとめているのなら,何かの決めゼリフのように神のことばを使うのでは無く,「そう言っているのか?」と自問することは 大切です (p.299).

    その彼の考え方に わたしは 全面的に賛同する.なぜなら,聖書に書かれてあることは,神のことばであるとしても,神の意志を完全に言い表したものではありえないからである.神の意志は,その全体においては,我々人間には測り知れないものである.それゆえ,我々は,常に,聖書を通して(聖書を媒介として)こう問い続ける必要がある:神の意志は何に存するのか? 神は我々に何を欲しているのか? 我々が そう問いつつ 祈るとき,神は,我々に,彼の息吹 (Spiritus Sanctus) を送ってくれるだろう 我々に inspiration を与えるために.

    そして,藤本氏は,gay であることを公にしている アメリカの新約学者,もと イェール大学教授 Dale B. Martin (1954-2023) この指摘を 引用する:

    聖書解釈は,たとえそれが伝統的,歴史的,釈義的に重用されてきたものであったとしても,その解釈が人々を傷つけ,抑圧し,滅ぼすようなものなら,それが正しい聖書解釈であるはずがない (p.222).

    その 彼ら Dale Martin および 藤本氏 の考え方にも,わたしは 全面的に賛同する.もし聖書がキリストによる全人類の救済という善き知らせ(福音)を我々に伝える文書であるならば,それを〈誰かを傷つける凶器として〉用いることを許すような聖書解釈が神の意志に適っているとは考え難い.

    そこから出発して,藤本氏は,保守的福音派が LGBTQ を断罪するためにしばしば準拠する聖書箇所 特に Gn 19,01-11 ; Lv 18,22 ; Lv 20,13 ; Rm 1,24-27 ; 1 Co 6,09-11 を,改めて読解してゆく 先行研究を網羅的に挙げつつ.これほどに入念に かつ 総合的に その作業を遂行した著者は,英語圏の論者たちも含めて,藤本氏以外に存在しないだろう.それゆえ,彼のこの著書は,LGBTQ とキリスト教について考えるための このうえなく有用な そして,今や必要不可欠の 参考書である.

    そして,彼の読解は,わたしが素人ながらに試みた読解とほぼ一致しているので,わたしは 専門家から「あなたの答案は なかなか好い線を行っている」と褒めてもらった喜びを 味わっている.


    異性愛は基本であるか?


    ただ,藤本氏の或る表現 キリスト新聞の書評記事の終りに近いところで部分的に引用されている表現 に疑念を呈した人々が何人かいることを,ここで彼に伝えておきたい.それは これである (p.91) :

    創世記以来,そこ[モーセ五書 つまり Torah]にあり得る性的行動は,現代で言う「異性愛者」の男性と女性による 結婚の枠組みのなかにおける 性的行動です.わたしは,「異性愛の前提」と記すことで,ふたつのことを念頭においています.ひとつは,神の創造において 異性愛が基本であることです.しかし,その「基本」を「規範」という表現に置き換え,さらに 規範を厳格に捉えすぎると,男女二元論・異性愛の枠にはまらない人を断罪し 排除します.これが異性愛主義です.[…]

    「神が人を男と女に造られた」という異性愛の前提は,社会通念的前提である以上に,創世記 1 – 2 章を見る限りにおいても,神はそのように人類を作られ,そのようにデザインされた と言ってよいでしょう.

    そこにもとづいて,キリスト新聞の書評記事では こう述べられている:

    著者によれば,聖書における「異性愛」は「基本」であるが「規範」ではない.

    この「異性愛は基本である」という命題に疑念を呈した人々が幾人かいることを,わたしは SNS 等を通じて 知っている.わたしにも,上に引用した一節における藤本氏の論じ方はあまり適切でないように思われる.

    なぜなら このゆえに:聖書の文面にもとづいて,「神はしかじかのことを成した」のであり,それゆえ それは「基本的」な真理である,と断定することは 適切ではない.そうではなく,むしろ,こう言うべきであろう : Torah の主体 その者の思考と行動を Torah が規定しているところの者 cisgender かつ heterosexual の 男である という 前提 当時 聖書のテクストを作成した者たちにとっては,あまりに当然であったがゆえに,概念化することも公式化することも不必要かつ不可能であった 前提 にもとづいて,聖書は 創造神話も含めて 書かれた.

    また,しばしば heterosexism ないし heteronormativity を正当化するものとして引き合いに出される聖書箇所は,「神は人間を男と女に造った」(Gn 1,27) だけではなく,しかして,また,藤本氏も 彼の著書の pp.236-238 において吟味している Gn 2,24 である.創世記 2 章において,神は,Ha Adam[人間]を 地の塵から形造り,その鼻へ 神のいのちの息を吹き込み,人間を Nephesh Hayyah[神のいのちを生きている 地上的な生命]にした (v.07) ; そして,彼を エデンの園へ 置いた (v.15) ; そして,彼が孤独でいることはよくないと思い (v.18), 彼の肋骨から Ishshah[女 または 妻]を造り,彼女を彼のところへ連れていった (v.22) ; すると,彼は「彼女こそ,わが骨のうちの最高の骨 (Etsem MeAtsamay) かつ わが肉のうちの最高の肉 (Basar MiBasari) !」と言った[そう言って,感激した](v.23) ;

    それがゆえに,Ish[男 または 夫]は,彼自身の父および母から 離れ,そして,彼自身の Ishshah[女 または 妻]に 付く;そして,彼らは ひとつの肉 (Basar Ehad) と成る (v.24).

    その一節が異性間の生殖行為のことを言っているのではない,ということは,藤本氏が解説しているとおりである (cf. p.238). ともあれ,その一節においても,聖書全体におけるのと同様に,heteronormativity が無批判的に前提されている.

    そして,gender binarism を正当化するために必ず引用される「神は人を男と女に造った」(Gn 1,27) も,読み直されるべきである:

    そして,Elohim[神]は 創造した Ha Adam[人間]を 彼[神]の似姿において — ;
    Elohim の似姿において[神は]創造した 彼[Ha Adam : 人間]を ;
    Zakar[男 または オス]と Neqebah[女 または メス][神は]創造した 彼らを.

    以上のように原文により忠実に翻訳するならば,その節の三つめの文は,単純に「神は 男と女を創造した」 各種の動物においてオスとメスを創造したのと同様に と言っているだけである.そして,そのこと 人間を含む各種の動物においては オスとメスが存在する ということ は,古代においては あまりに自明であったがゆえに 疑い得ない前提であった.しかし,そのことを以て「人間は 男または女のいずれかであらねばならない」という gender binarism を規範として正当化することはできない.


    Freud homosexuality 精神疾患と見なしてはいない


    次に,精神分析家としては,わたしは,藤本氏の Freud への短い言及 (pp.28-29) における不正確さを 指摘せざるを得ない.というのも,Freud は,homosexuality 精神疾患と見なしてはいないからである.彼は,彼の 1905年の著作 Drei Abhandlungen zur Sexualtheorie[性理論に関する三論文]において,「同性の対象に性的に惹かれる状態」 つまり Homosexualität (homosexuality) Inversion というカテゴリーに分類し,それを Perversion[性倒錯]とは 区別した.そして,実際,彼は,ある(おそらくアメリカ人である)女性 彼女は homosexual である息子を持っていた からの homosexuality の治療可能性に関する問合せの手紙に対して,19350409日付の彼女への返信において,こう断言している:

    […] Homosexuality は,確かに[社会的には]利点ではありません;だが,それは 恥ずべきものでもありません;悪徳でも 変質でもありません;それは[精神]疾患としては分類され得ません;我々は それを〈ある種の《性的発達の》停止によって作り出される 性機能のヴァリエーションのひとつ と〉見ています.古代の または 現代の 多数の非常に尊敬さるべき人物たちは homosexual でした;彼らのうちには 最も偉大な男たちが 幾人も います (Platon, Michelangelo, Leonardo da Vinci, etc.). Homosexuality を犯罪として迫害することは,大きな[社会的]不正義であり,[非人道的な]残虐行為ですらあります.[...]

    あなたは,わたしに「あなたは助けることができますか」と問うことによって,こう問うているのだろう わたしは思います:わたしが[あなたの息子において]homosexuality を廃し,正常な heterosexuality がその代わりとなるようにすることができるか ? 答えは,一般的に言って,こうです:我々はそれを達成することを約束することはできない.[確かに]いくつかの症例においては,我々は,heterosexual の性向 それは,あらゆる homosexual の人において 存在しています の〈枯れてしまっていた〉芽を発達させることに 成功します ;[しかし]大多数の症例においては,それは もはや可能ではありません.個々人の気質や年齢の[相違の]問題です.治療の結果は 予測不可能です.

    精神分析があなたの息子のために成し得ることは,[homosexual heterosexual へ変えることとは]異なる路線を 走行します.もし彼が不幸であり,神経症的であり,葛藤に引き裂かれており,社会生活において制止されているならば,精神分析は 彼に 調和と 心の平和と 十全な能率を もたらすでしょう 彼が homosexual であり続けようと あるいは 変化しようと.[…]

    Freud の返信を受け取った女性は,後年,それを Alfred Kinsey へ寄贈した それは,当然,彼女が 彼の 1948年の著作 Sexual Behavior in the Human Male[いわゆる Kinsey Reports 男性編]を読んだからであろう この言葉を添えて:

    Dear Dr. Kinsey,

    ひとりの 偉大な かつ 善良な 男性からの 手紙を わたしは ここに同封します.返していただくには及びません.

    感謝に満ちた母親より

    つまり,察するに,彼女は 彼女の息子を 彼のあるがままに 愛し続けることができたのだろう homosexuality について 聖書に何と書かれてあろうと,彼女が通う教会の牧師が 何と言おうと,彼女の夫がどう考えていようと Freud の「あなたの息子は 病気ではありません」の ひとことのおかげで そして,実際,精神分析家たちの大多数は,精神分析の創始者の homosexuality に関する見解に,賛同し続けている.


    Sexuality の目標は 生殖ではなく 愛である


    さて,この機会に,わたしは,神は あらゆる人間を その SOGI にかかわりなく 救済することを 欲している (cf. CCC #2822) と信ずる カトリックとして,かつてカトリック教会が豪語していたのとは逆のこと 教会のなかに救いはない LGBTQ の人々に感じさせてしまう 幾つかの要素 特に,「homosexuality 自然法 (lex naturalis) に反している」という教え および「同性カップルには結婚の秘跡は授けられない」という定め に関して,改めて検討してみたい.

    Homosexuality に関して,『カトリック教会のカテキズム(Catechism of the Catholic Church : CCC) は,その 2357段から 2359段において,こう述べている(1997年に出版された改訂フランス語版にもとづく邦訳):

    2357 : Homosexuality とは〈もっぱら または おもに 同性の人々に性的な魅力を感ずる 男どうしの または 女どうしの 関係を〉指す.それは,さまざまな時代や文化をとおして 非常に多様な形態を 取る.それが如何に心的に発生するかは,大部分,未解明のままである.Homosexuality 行為[複数]を重大な堕落として提示する聖書に基づいて,伝統は 常に こう表明してきた:「homosexuality 行為[複数]は,内在的に 秩序逸脱的である」.それらは,自然法 [ lex naturalis ] に反している.それらは,いのちの賜に対して 性行為を 閉ざす.それらは,[男女の]真正なる感情的および性的な相互補完性から 発していない.それらは,如何なる場合も 是認を受け得ない.

    2358 : 無視し得ない数の男女が,根本的な homosexual 傾向を 呈している.その性向は,そのものとして 秩序逸脱的であり,彼らの大多数にとって 試練となっている.彼らは,自身の homosexual という存在様態を みづから選んではいない.彼らは,敬意と共感と気遣いとを以て 受け容れられねばならない.彼らに対して,あらゆる不当な差別の刻印は 避けるべきである.彼らは,自身の人生において 神の意志を実現するよう 呼びかけられている;そして,もし彼らがクリスチャンであるなら,彼らが彼らの存在様態のゆえに遭遇し得る諸困難を 主の十字架の犠牲と 結合するよう,呼びかけられている.

    2359 : Homosexual の人々は,貞潔さ [ castitas ] 呼ばれている.内的自由を教える自制の徳によって,ときには,私欲無き友情の支えによって,祈りと秘跡の恵みによって,彼らは,クリスチャンとしての完璧さへ,徐々に かつ 決然と 近づいて行くことができ,かつ,そうすべきである.

    2357段において述べられていること 同性どうしの性行為は 自然法の秩序から逸脱している は,神学の理論の次元のことである.それに対して,2358段において述べられていること homosexual の人々は,敬意と共感と気遣いとを以て 教会に受け容れられるべきであり,不当に差別されてはならない は,司牧の実践の次元のことである.我々は,そこに,神学理論と司牧実践との間の ひとつの乖離を 見出す.

    そのような乖離は,transgender の人々に関しても 見出される たとえば このことにおいて : 20240402日に発表された 教理省の〈人間の尊厳に関する〉布告 Dignitas infinita[無限の尊厳]においては,transgender の人々のための 性別適合手術 (sex reassignment surgery, gender-affirming surgery) は,その医学的処置を受ける者が「母胎に宿ったとき以来[神から]受けている 唯一的な尊厳[の 身体的な側面]を 損なう 危険性を 有している」 神学的観点からは 非難されている(もっとも,その布告において非難されている ほかの尊厳侵害 貧困,戦争,移民労働,人身売買,性的虐待,女性に対する暴力,人為的妊娠中絶,代理出産,安楽死と幇助自殺,障碍者に対する差別,インターネット上の暴力 に対する厳しい非難に比べれば,「性別適合手術は 尊厳を損なう危険性を有している」という表現の非難の程度は かなり弱められたものではある というのも,性別適合手術は本人の求めに応じて行われるものであるから ただし,その求めは つまるところ 多かれ少なかれ 社会の gender binarism の固定観念によって 強いられたものであるが)のに対して,司牧実践の次元において Papa Francesco 性別適合手術を既に受けている transgender の人々を ためらいなく Vatican 迎え入れている.

    そして,Papa Francesco は,そのような神学理論と司牧実践との乖離を 敢えて みづから top-down なしかたで 解消しようとはしない;しかして,彼は,2023 11月の 自発教令 Ad theologiam promovendam[神学を奨励するために]において,理論と実践との関係を こう規定する:「神学[の 理論]は,教会の福音宣教と 信仰の伝達[の 実践]に,奉仕するものである」.つまり,当然ながら,神学理論は 司牧実践を妨げてはならない 1986 10月に発表された 教理省長官 Joseph Ratzinger 枢機卿(当時;のちに 教皇 Benedictus XVI)の〈全世界のカトリック司教および大司教たちに宛てられた〉書簡 Homosexualitatis problema 当時 カトリック慈善事業の〈AIDS 患者たちのための〉援助活動を 著しく妨げたようには .それゆえ,我々は,Papa Francesco の〈彼の自発教令による〉メッセージを こう捉えてよいだろう:神学理論と司牧実践とが乖離している場合,このことは あなたたちの課題である:新たな理論的構築によって その乖離を解消すること 理論が実践を妨害することなく,しかして 実践に奉仕し得るようになるために.そこで,我々は その課題に取り組んでみよう.

    以前にも論じたように,問われるべきは「自然法」(lex naturalis) である.それは,Thomas Aquinas キリスト教を Aristoteles の形而上学によって基礎づけようとした際,神学のなかに持ち込まれたものである;それは,形而上学的な「目的論」(téléologie) を包含している;そして,その目的論にしたがって,こう公式化される:性的欲望は 生殖を 目的とする;言い換えれば:性的欲望の満足は 生殖を目的とする場合にのみ 道徳的に正当化され得る(勿論,結婚している異性カップルにおいてのみ).それゆえ,生殖を目的としない性欲満足の行為は,道徳的に正当化され得ない たとえば,自慰行為,性倒錯的な性欲満足,性行為の際の避妊措置,そして,同性どうしの性行為.

    18世紀の前半までは,それでよかっただろう;なぜなら,当時はスコラ的な形而上学はまだ失効していなかったから.しかし,18世紀の後半以降は,自然法に準拠することは もはや できない;なぜなら,スコラ的な形而上学は もはや有効ではなくなったから.その変化を 当時 最も雄弁に証言しているのが,Kant の『純粋理性批判』(1781, 1787) である.彼の批判書は,もはやスコラ的な形而上学を自明かつ当然の前提とすることができないという事態を受けて,それに対処するために 書かれた.Kant に続く ドイツ観念論の諸著作も,同様である.そして,彼らの努力は,Heidegger によれば,Nietzsche の「力への意志」と「同じものの永遠なる回帰」において 満了 (Vollendung) を見る;すなわち,Nietzsche 以降,形而上学の延命の努力は もはや維持され得ない.もし形而上学的な思考が続けられるならば,それは 多かれ少なかれパラノイア的なイデオロギーとならざるをえない(そのことは,現在,さまざまな形で ますますあらわになってきている;パラノイア的イデオロギーの最も顕著な例としては,たとえば Trumpism 日本会議イデオロギーを挙げることができるだろう).カトリック神学が今も準拠する「自然法」も,もはや ひとつのイデオロギーにすぎない.

    しかも,このことを改めて指摘せねばならない : lex naturalis にしたがって「性的欲望は生殖を目的とする」と規定するとき,そこには 倫理的な次元と 生物学的な次元とが 混ぜあわされている 如何にそれが自明なものに見えようと.たとえば,誰でも容易に想像できるように そして,精神分析の臨床においては そのような女性症例は 珍しくない ,たとえ或る夫婦が子宝に恵まれていても,性行為のたびに妻が夫から強姦されているように感じている場合には(そのような場合は,たいてい,夫は 妻に たとえ物理的な暴力をふるわずとも,常に精神的な暴力を以て妻を支配している),そのような夫婦における性行為は,教会法と lex naturalis の観点からは合法的であっても,欲望の倫理の観点からは性倒錯的である.使徒パウロのことばを引用しつつ,結論を先取りするなら,「だが,わたしが愛を有していなければ」(ἀγάπην δὲ μὴ ἔχω) わたしが わたしの合法的な配偶者と行う性行為は 欲望の倫理の次元においては 許容され得ないものである.したがって,ある性的な行為が倫理に適うものであるか否かは,生物学的な次元に依拠することなく,欲望の倫理そのものの次元において規定され得なければならない.

    さて,如何に 理論のなかの形而上学の残渣が 実践において障害物となり得るか 一例は,実は,精神分析家にとっては 哲学や神学よりも より身近な Freud の思考のなかに 見出される;そして,そのことをそれとして指摘したのは,Lacan である.それは 何か ? それは,性本能の発達過程の最終的な成熟段階としての Genitalorganisation[性器体制]という思念である.

    Freud は,人間において,性本能 (Sexualtrieb) 広義における性的な活動の原動力として 措定し,そして,それは 未成熟な段階から出発して 次のような発達過程を経て 成熟段階へ至る 想定した:まず,乳児期は 口の部分本能の段階である;そこにおいては 乳を吸うときに 口唇の粘膜において 悦が経験される;次いで,排泄訓練 (toilet training) の時期は 肛門の部分本能の段階である;そこにおいては 排便の際に 肛門粘膜において 悦が経験される;そして,歳ころから歳ころまでの時期は ファロス (Phallus) の段階である;そこにおいては,性器における自慰行為によって 悦が経験され,同時に オィディプス複合が活発となる;しかし,生殖器官の未発達のゆえに 性本能の発達過程は 一旦 潜伏期に入る;そして,思春期において,生殖器官の成熟にともない,性本能も 成熟段階に至る;それを Freud は「性器体制」(Genitalorganisation) と名づける;そこにおいては,前性器的な部分本能[複数]は「ファロスの優位」(Primat des Phallus) のもとに ひとつの性器的な性本能へ統合される;そして,それによって,性本能は,性交を可能にし,かくして 生殖に役立つものとなる.

    以上のような Freud の発達段階論は,一見,実際に観察される事実に即しているように思われる;しかし,それは,性本能は生殖を目的とすると想定することにおいて,形而上学的な目的論を包含しており,かつ,倫理的な次元と生物学的な次元とを混ぜあわせている;そして,そのことにおいて 自然法と同様である.

    Freud が想定した〈性本能の発達の成熟段階としての〉性器体制は 虚構にすぎない Lacan そう喝破した.つまり,Freud が「性器体制において 前性器的な部分本能[複数]は ファロスの優位のもとに ひとつの性本能へ統合される」と言うとき,そのファロスは架空のものにすぎない.そして,Lacan そのことを センセーショナルに こう公式化した :「性関係は無い」(il n’y a pas de rapport sexuel). さらに,それがゆえに 彼は こう断言する:「性行為は,男の多形性倒錯 (perversion polymorphe) である」.その「多形性倒錯的」(polymorph pervers) という形容は,Freud 前性器段階における小児の性的活動について用いた表現である.つまり,性行為は,たとえ生殖を可能にする性交の形において行われた場合でも「内在的に秩序逸脱的」である(CCC #2357 において homosexuality について用いられている表現) なぜなら,性行為は,たとえそれが生物学的な次元においては生殖の可能性に開かれたものであっても,欲望の倫理の観点からは,前性器的な悦[複数] それらは性倒錯的である をもたらすものでしかないから.

    如何に Freud の「性器体制」の理論 いいかえれば ファロス中心主義 (phallocentrisme) のイデオロギー 精神分析の実践にとって有害であるかを見るためには,如何に Freud が精神分析治療の終結について考えていたかを見るのがよい.彼は,最晩年の論文のひとつにおいて,精神分析治療の終結の問題を論じつつ,最後にこう結論する:精神分析のなかで,女性患者において Penisneid[ファロス羨望]に突き当たったとき および 男性患者において Penisangst[去勢不安]に突き当たったとき,治療は 行き詰まりに陥ったことを以て 終わらざるを得ない.なぜか ? それは,精神分析は 患者が欲している ファロス 性器体制の可能性の条件としてのファロス 与えることも 確かなものにすることも できないからである;いいかえれば,性本能の真の満足としてのファロス悦 (jouissance phallique) 患者に 与えることも 保証することも できないからである;なぜなら,そのようなファロスは架空のものにすぎないから.つまり,Freud にとっては,真の意味での精神分析の終結は不可能なものであった 彼がファロスにこだわったがゆえに.

    そのようなフロィト的な行き詰まりを打開したのが Lacan である.彼は こう公式化する:精神分析の終結を条件づけるのは,ファロス悦ではなく,しかして,欲望の昇華の悦である.そして,欲望の昇華とは ἔρως としての愛ではなく,しかして,ἀγάπη としての愛 である.

    愛は 欲望の昇華である.その愛の概念を以て,欲望の倫理は,lex naturalis の桎梏から解放されて,こう公式化することができる:性的欲望が倫理に適うものであり得るのは,生殖を可能にすることを以てではなく,しかして,欲望の昇華としての愛に至ることを以てである 異性カップルにおいてであれ,同性カップルにおいてであれ.

    もし その考え方が カトリック神学において 公認されるならば,教会は,同性カップルにも,異性カップルに対してと同様に,結婚の秘跡を授けることができるだろう ふたりが愛しあうカップルを構成している限りにおいて.

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