光で量子コンピューターを作る 東京大学の武田俊太郎准教授
次世代の計算機である量子コンピューターの実用化に向け様々な方式が競う中、注目が高まっているのが光の量子力学的性質を利用して情報処理を行う光量子コンピューターだ。東京大学准教授の武田俊太郎は約8年前に自ら発明した「ループ型光量子コンピューター」で、光量子方式が現在苦手としている非線形の計算処理に挑戦。同方式の可能性を大きく広げようとしている。(文中敬称略)
2025年1月14日、武田は東京・本郷の東京大学で記者会見を開き、光量子コンピューターについての最新の研究成果を発表した。NTTや情報通信研究機構との共同研究で発表した成果は「光量子計算プラットフォームに世界で初めて量子性の強い光パルスを導入」したという内容。この成果は「スパコンを超える光量子コンピューターへの突破口」となる意義があるという。
量子コンピューターが「スーパーコンピューターを超える」のは既定路線のようなもので、当然の目標にも思える。2019年には米グーグルが超電導方式の量子コンピューターでスパコンで1万年以上かかる計算を200秒で実行し世界初の「量子超越性」を達成したと発表している。
だがグーグルの量子超越性は特殊な問題で達成されたものであり、今の量子コンピューターは計算スケールの拡大や幅広い計算に対応するアルゴリズム開発、量子誤り訂正技術の進展なしにはスパコンに太刀打ちできないのが現状だ。特に武田が取り組む光量子コンピューターの計算能力には原理的な弱点があるという。「足し算や引き算に相当する線形計算はできるが、掛け算に相当する非線形計算が現状ではできない」(武田)という問題だ。
量子コンピューターは光量子のほか超電導、イオントラップ、冷却原子、半導体といった各方式が入り乱れて実用化を競っている。他の諸方式の場合、それぞれの物理システムが元々非線形性を持っているため、非線形演算の実装が比較的容易だ。一方、光量子コンピューターは光子同士が直接相互作用しないことなどから、ハードウエアレベルで非線形の計算の仕組みを作るのが難しいという。
光方式の弱点を克服へ
これを解決するために武田が今回試みたのが「シュレーディンガーの猫」と呼ばれる特殊な状態の光パルスを量子演算に使うという試みだ。シュレーディンガーの猫状態は光の振幅がプラスである状態と、マイナスである状態が重ね合わさった特殊な量子状態(位相・振幅分布)をしており、武田はこれを「量子性の強い光パルス」と呼んでいる。
光量子コンピューターは光の粒である光子を操作する「量子ビット方式」と、光の波の連続値の重ね合わせを利用する「連続量方式」に大別される。近年は武田らが研究する連続量方式に勢いがあり、このタイプの光量子コンピューターでは光の量子的な揺らぎ(量子雑音)を特定の方向に圧縮した「スクイーズド光」と呼ばれる特殊な光の状態がよく使われる。
スクイーズド光は、量子状態の確率分布(ウィグナー関数)がガウス分布の形を持つ。ガウス状態の光同士をビームスプリッターや位相シフターのような光学素子で操作しても、出力される状態もガウス状態のままになる。このため足し算、引き算に相当する線形演算は可能だが、掛け算のような非線形演算は現状の光量子コンピューターでは難しい。
今回武田らは、このスクイーズド光に操作を加えることで、量子性の強い光パルス(シュレーディンガーの猫状態)を作り、これに別のスクイーズド光を補助的に作用させることで、光量子演算を行った。この演算はスクイージング演算と呼ばれる線形演算の一種。非線形演算を行ったわけではないが「世界で初めて量子性の強い光パルスを光量子計算プラットフォームに組み込んだ」(武田)という意味がある。
量子性の強い光を作るため、今回は光を4%反射し残りは透過する装置(ビームスプリッター)を使った。装置にスクイーズド光を通すと、ランダムに光子が1個反射されて光子検出器で捉えられる。1光子が引き去られたスクイーズド光は量子性の強い光の性質を持つ。これに別のスクイーズド光をタイミングを合わせて作用させることでスクイージング演算を実行した。
引き去られた光子を検出してから光パルス同士を作用させるまでの電気的なプロセスには時間がかかり、その間にも量子性の強い光パルスは光の速度で進むため、通常はタイミングが間に合わない。そこで光パルスの進路の途中に100mの光ファイバーを挟んで到着時刻を遅らせることで、プロセッサーの動作のタイミングを合わせることができた。
非線形計算の土台づくり
武田はこうした研究を「ループ型光量子コンピューター」という、自らが2017年に発明した光量子計算のプラットフォームで進めている。肝であるループ部は、0.9m離れた2枚の鏡の間で光を複数回往復させ、距離で1周18m、時間で61ナノ秒間光パルスを貯めこんだ状態を作る。このループ部はコンピューターのメモリーに相当する部分だ。光パルスはループを一周するたびに取り出されて計算処理に使われる。
実験ではまず、量子性の強い光とスクイーズド光のパルスを別々に作った後に一定の時間差を置いて合流させた。量子性の強い光パルスがループ内に導かれ、ループを周回したのち、後からやってきたスクイーズド光が作用してスクイージング演算を行う。演算後の光パルスはループ外の光測定器に送られ、計算結果が測定される。
今回は量子性の強い光パルスに最大3回、異なる種類のスクイージング演算を実行した。演算前と後の光パルスの状態を測定したところ、2回の演算後にも強い量子性を表す特徴が残ることが確認され、極めて高い精度で演算ができることが実証されたという。
実験は東大の武田の研究室に置かれた長さ3m幅1.2m、畳2枚分ほどの光学テーブルで行った。光学テーブルは振動の影響を避けるため空気圧で床から浮かせた状態で設置されている。光源に使われる光パラメトリック増幅器や、ループ部を構成する各種の光学装置、光ファイバーなどの精密部品でぎっしりと埋め尽くされている。
武田の次の目標は、非線形演算を実際にやってみせること。武田のマシンの特徴であるループ部や、プロセッサーに相当する回路を拡張することで、多数の光パルスで計算ができる新プラットフォームを構想している。その先に量子コンピューター開発の最大のテーマである、誤り耐性型汎用量子コンピューター(FTQC)実現が視野に入ると考えている。
物理のワクワク感を胸に
武田は高校生のころから物理が好きだった。遊園地のジェットコースターやアトラクションの背後にある物理の仕組みを考えて楽しんでいるような少年だったという。東京大学入学後しばらくは理学部物理学科に進むつもりだったが、やがて考えが変わった。「自分がやりたいのは、物理の本質を知ることではなく物理で何かワクワクすること」。そう気づいて進学先は工学部物理工学科に決めた。
4年生の時、物理工学科の古澤明の研究室を見学した。古澤は当時、光を使った量子テレポーテーションの研究で世界的成果をあげていた。量子テレポーテーションは量子もつれという現象を利用して粒子の量子状態を転送すること。ここなら自分の物理への思いが実現しそうな気がした。「ぐっと心が動くのを感じ」(武田)、迷うことなく古澤研究室の門をたたいた。
古澤の下で大学院博士課程を終えたのち、愛知県岡崎市にある分子科学研究所の大森賢治の研究室で2014年から3年間、特任助教と助教を務めた。大森の下では冷却原子を使った量子シミュレーションを研究した。「古澤研では光、大森研では原子というように異なる量子で研究ができたのは貴重な経験だった」(武田)という。
2017年には東大の古澤研究室の助教になった。3年ぶりに戻った古澤研では、量子テレポーテーションの研究から光量子コンピューターの研究に軸足を移しつつあり、武田も量子コンピューター研究に足を踏み入れることになる。
一方で分子研の大森も冷却原子方式の量子コンピューター研究に乗り出している。今日本の量子コンピューター研究では光量子といえば古澤、冷却原子といえば大森が代表格。結果として武田はこの量子コンピューターの両巨頭の下で腕を磨いたことになる。古澤は武田のループ型光量子コンピューターを「革新的な発明」と評価するが,武田がそこにたどり着くまでには,大森の下で取り組んだ研究も大いに役立っているという。
古澤に導かれて光量子コンピューターの研究を始めた武田だが、師匠との間にはどのようなアプローチの違いがあるのだろう。武田は「古澤先生は量子コンピューター一本に絞り社会実装を最優先している。自分のマシンは量子コンピューターに限らず量子通信や量子センサーなどより幅広い用途につながるものだと思う」と説明する。
武田が汎用性を強調するのは、自分のマシンが持つ、柔軟なタスクに対応できる設計思想と関係がある。光パルスがループを周回するごとに他の光パルスと作用するのが武田のマシンの特徴だ。このプロセッサーに相当する回路はある時は足し算、ある時は掛け算、というように機能を切り替えられる。従来は多数必要だった演算回路がこの装置1個で済み、大規模な計算を最小の回路で実行できるという原理的な強みにつながっている。
光量子で汎用性を追求
武田はこれを「プログラマブル(プログラム可能)な光量子コンピューター」と呼んでいる。「入ってきた光パルスに対して、プログラマブルに処理して結果を出力する。タスクに応じたプログラムで様々な用途に使えるという意味で汎用性が高い」と説明する。
師匠の古澤が開発を進める光量子コンピューターは事前に量子もつれ状態(クラスタ状態)を作成し、適切な測定を行うことで量子計算を実行するもので、超電導方式や冷却原子など量子ゲート方式と区別して「測定型量子計算」と呼ばれる量子コンピューターだ。これに対して武田のマシンは「量子ゲート型に近い方式だ」(武田)としている。
光量子コンピューターの開発と並んで、武田が研究しているのが、「汎用量子光源」と呼ばれる、1つの光源で様々な種類の光を作ることだ。
光量子コンピューターに使われるスクイーズド光、シングルフォトン(単一光子光)、GKP量子ビットと呼ばれ量子エラー訂正に用いられる特殊な光などは、現在はそれぞれ専用の光源で生成している。「これもプログラマブルに生成できるようになれば、量子コンピューターの性能向上はもちろん、光量子技術全般を底上げするのに貢献できるだろう」(武田)。
東大の古澤と武田の研究室は隣り合わせ。光量子コンピューター研究の大御所とその一番弟子は、阿吽(あうん)の呼吸で役割分担をしながら、光量子コンピューター実用化の高みをそれぞれのやり方で目指しているようだ。(客員編集委員 吉川和輝)
日経サイエンス2025年5月号に掲載。
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