あれから10年経ったのですね。
多分私の震災の体験は他の方のそれよりたいした事は無いのだと思います。
でもやはり、記憶の無くならない内に
思い出せること書き留めておきます。
例の如く、だらだら書いてあります。
期待させるほどの話ではありませんので
スルーして下さって結構です。
1995年1月
長女、小学1年生。次女、3才。長男、2才。社宅5階建て4階部2LK、神戸市垂水区
息子は2日前より風邪による熱が続き(連休のため医者にかかれず)
次女は17日になったばかりの夜中から、食当たりなのか吐き始めて
5時過ぎ、2人分の診察券を用意して6時から受け付けてくれる
かかりつけの小児科へ行く準備をしていた。
その頃は1年の内、半分は3人の子供の病院通いの日々。
信頼できる近所の小児科は、頑固で怖いおじいさん先生。
叱られに行くようなものなのですが、見立てはバッチリ。
なので、いつも行列のできる小児科状態。
大勢の患者さんが来るため、診察券の受付は早朝6時から(それも並んで待つ)
先生が朝ごはんを食べた直後、7時過ぎには奥様が助手となって診察開始している
いつもこの時間は熟睡している旦那も、
夜中から娘が吐く為、バタバタしている私のことを察して
珍しく「俺が診察券出して来ようか」と言ってくれた。
実はそのことで旦那自身、頭が起きていてすぐ対応できたと・・・。
後で見てぞっとしたのだが、旦那の枕の上にはオーディオ機器が落ちていた。
6時まで20分。殆ど寝れてないので、横になっていた。
ウトウトしかけた頃、
トラックの走って来るような音がゴォーと遠くからしてきて
その音が近づき大きくなると共に、家がガタガタ揺れだし、
えっこれって地震?と寝ぼけた頭で疑いながらも、
横に寝ている子供達を抱きかかえ、うずくまった。
そして家の中心を考えて移動。(この間の対応は自分でもびっくりするくらい早かった)
揺れが続く中、旦那が別の部屋から来て、全員が固まったとき
真っ暗なはずの部屋がピカっと明るくなり
窓際にあった大きな整理ダンスが、20cm程ジャンプするのが見えた。
ガタッ、ガタッと2回。
始めは地震だと思ったのに、地震が上下にも動くなど知識が無かったため
飛行機がマンションに突っ込んだんじゃないかもと思ったりもした。
しばらく放心状態の5人。
程なく、揺り戻しの揺れが始まった。
途端、電話のコール音がなりだした。
取りに行くにも回りは、真っ暗。揺れで自由がきかない。
一歩踏み出して、人形ケースのガラスの破片を踏んだ。
揺れが治まってもコール音は続く。
布団を引っ張り出し、ゴチャゴチャした上にそれを敷き、
その上を歩いてベランダに出てスリッパを履き、受話器を探して電話に出る。
「大丈夫か?」
淡路に住んでいる実家の父からだった。
「うん、みんな怪我も無く大丈夫、家は無茶苦茶だけど。そっちは?」
など話して電話を切った。
父は地震が治まってすぐ、こちらにかけたのだが
電話がかかって来たときは、こちらが揺れが始まったばかり。
父のいち早い電話のおかげで、電話回線のパンク状態寸前に
安否確認でき不安材料が減った。
とりあえず脱出しないとと思い玄関まで子供を抱えて玄関へ。
靴箱が斜めに傾いて靴だらけになっている玄関。
靴箱を戻し、玄関を開け靴を探す。
またそれが、使える一組の靴にならなくて、いらないものを捨てるように
玄関前の共有の通路に投げた記憶がある。
今思えば、すぐ脱出するのは、危険な時もあるんですよね。
あの時は、地震に対して全く知識が無く、一刻も早く逃げたくて・・・。
階段を下りるときは電灯もなく真っ暗。
旦那と私がそれぞれ幼子を抱き、長女を歩かせた。
あの時、長女を抱きかかえてあげたかった思いが今でも残っている。
そして、マンション裏にある広場においてある自家用車に避難した。
しかしながら駐車場に避難したのは、我が家のみ。
後でわかったことですが
マンションの構造上、1番ひずみが来たのが我が家。
ひとつ上の階の方など、ベランダ越しに、私に向かって
「学校無いよね」などびっくりする言葉をかけてくる。
家の中、歩く隙間も無いのに・・・。
実際、友だちのSさんの旦那さんは、
普通に出勤の為、外に出て驚いて帰ってきたと言う。
車の中に子供だけにしておくことも出来ず
旦那だけが、家に入り片付け。
数時間後、電気がつき、掃除機が使えるようになって
ガラスや食器の破片を吸うことができ、作業も格段にはかどったが
追いつかないほどの量らしい。
そして旦那の上司から勤務命令の電話がかかってくる。
1番西に住んでいる主人が、車で社員を拾いながら行くことになった。
成り行き、避難先の車を明け渡さなくてはならない。
家族ぐるみでお付き合いしている1階のNさんが、
私達を引き取ってくれた。
わずかな食料を持って旦那はあっけなく出て行ってしまった。
1階に住むNさん宅は数時間で片付いており、
そこで初めて、テレビから見たこともない映像を見た。
Nさんパパ勤務オフィスは、テレビで見る限り
伊丹駅のフロア全体がペチャンコになっているところ。
行っても、人間の手では何も出来ない状態。
旦那の勤務地から100mも離れていない阪神高速道路は
コロンとおもちゃのように横倒しになっている。
出勤命令のないNさんパパと私が家に帰り
住むところを確保する作業を手伝ってくれることに。
我が家をみたNさんパパ、惨状に驚愕されてました。
病気の子供達をそう預かってもらうわけにもいかず
ある程度居場所を確保して、家に連れ帰った。
あんなに吐きっぱなしだった娘は
地震発生からは、ピタリと吐かなくなり、
息子は、地震の後、ずっーと眠り続け、
平熱になっていた。
ひっょとして敏感に、地震を感じていたのかも・・・。
虫の知らせか、旦那は、前夜、車のガソリンを満タンにしていた。
そして、不思議なことがもうひとつ。
中学以来、起きてるときはメガネが手放せなかった私。
地震で、コンタクトもメガネも行方不明。
コンタクトを買うことが出来た5日後まで
裸眼で、苦も無く過ごせた。テレビの時報もしっかり見れた。
後片付けもひと段落し、時間が経つにつれ、
全く連絡のない旦那の事が
気になってきて何も手につかなくなってきた。
携帯電話も普及していない頃。
ただかかってくる電話を待つだけ。
テレビからは、長田の黒煙が舞い上がる風景。
三宮の大通りの道路を倒壊したビルが寸断している。
旦那の勤務地はそれより東、当然通っているはず。
祈るような気持ち。時間がすごく長く感じられた。
そして夜10時過ぎ、旦那がひょっこり帰ってくる。
結局交通渋滞に巻き込まれ、会社近くまで行きながらも
女の子も乗せているし、帰ってきたとの事。
上司には嫌味を言われたようですが・・・。
会社が用意してくれた宝塚のホテルも、被災していて
ガス水道なしの素泊まり状態。
だったら車で数時間かけても
家族の顔を見て眠りたいと言って、
それから1ヶ月、早朝4時起床、5時前に出発
同僚を拾いながら出勤の日々が続いた。
~下の記事に続きます~