043 驚愕の倭五玉宮 “九州王朝 「松野連系図」所載の夜須評督の聖地か?”
20140301
久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川清久
菊水町から発見された九州年号の新資料、仮称「納音菊水対照表」の二度目の実見に和水町に出向いた帰路、某所で車から見慣れない神社の鳥居を見掛けたことから、急遽、車を引き戻し、同行の内倉武久氏と確認に行きました。
場所は、某養鶏場と隣り合わせの微高地の縁のような場所でしたが、民家の裏手の林の中にきちんと手入れがなされた、かなり広大なひもろぎがあり、やはり、なにがしかの神社が鎮座しているようでした。
夕暮れに近いこともあり、境内に入ると光はなく、言い知れぬ不気味さも漂っていました。
始めは戸口の開いた裏から迷い込んだのですが、神社の存在が確認できたため、ぐるりと周り、改めて表参道から入り直しました。
参道を進み鳥居の神額が読めるところまで来て、心臓が止まるほど驚きました。
そこには、なんと、「倭五玉宮」と書かれていたのでした。
もちろん、そんな神社は見たことも聞いたこともありません。そもそも、なんと読むのでしょうか?
始めは讃、珍、済、興、武のいわゆる倭の五王と読み違えたのですから、当然にも九州王朝の痕跡を残す神社ではないかと緊張したことは言うまでもありません。
神額には明らかに「玉」と書かれており、倭の五王ではありません。
しかし、その五玉の意味には逸魂の可能性もあり、五つの御霊を意味しているのかも知れません。もちろん、五王のカモフラージュなのかもしれません。
勝手ながら、中を見せて頂くと、入口には「天御中主大神宮」(久留米水天宮、東京水天宮の祭神)の神額もありますし、「太古□□日向小戸之廟也」と書かれた掛札があるなど(欠字は筑紫?竺紫?)、もしも、本物ならば、大変なものかも知れません。
某地と言えば、旧某町であり、かつて、大量の甕棺墓が発見され、ガラスの玉壁(現在は東京博物館)まで見つかった遺跡のあった所ですが、その某遺跡からもそう遠い場所ではありません。
これが、明らかな金儲け目当てのものや、怪しげな新興宗教やカルト団体のものであれば、取り上げなかったのですが、どうやらそうではないようなのです。
これをネット上に公開することが許されるか、公開すべきか、迷惑にならないか悩みましたが、最低でも記録に残しておくべきものではないかと思い書き留めることにしました。
これを見つけた瞬間、直ぐにその背景や経緯を知りたくなり、近くの人家に尋ねに行きました。
これを公開して不測の輩が至らぬことをする場合もあることからかなり気にはなるのですが、もしも、本気で実見したいと思われる方があれば、失礼のないように、また、汚さぬように、できれば、お賽銭を差し上げて頂きたいと思うものです。
ともあれ、管理者の女性からお話をお聴きすることができました。
お話によると、この場所は特定の宗教団体の管理下にあるものではなく個人の所有地であり、個人で守っている杜ですとのお答えでした。
特に関心を持ったのは、旧○○○陸軍航空隊の飛行場の建設予定地として工事に手を付けたところ、鏡や剣などが大量に出てきて、工事が中止になり、出てきたものは東京の博物館に持って行かれた。
飛行場の建設予定地だったという話が、陸軍の航空隊の教育隊としてスタートした時点の話なのか、米軍による沖縄の上陸作戦前に特攻拠点をつぶす目的で行われた昭和20年5月前のじゅうたん爆撃で数百人の死者を出すことになった後の○○○の航空隊の拡張工事なのか分かりませんでしたが、拡張工事(当時、陸軍の航空隊としては日本最大の拠点基地だった)、印象としては、まだ余裕があった時代の初期の建設計画のように思えます。
もしも、急ごしらえの拡張工事だったのならば、遺物を博物館に移し建設計画を急きょ取りやめるなどしなかったはずで、恐らく大正10年前後の初期の建設計画だったのではないかと思います。
結果的には、建設計画は中止され、現在の○○○ビールの工場がある一帯に大規模に造られたのが、第五航空教育隊です。
昭和20年3月27日、サイパン島を出撃したB29の大編隊により○○○一帯に大規模な爆撃が行われ洗の軍事基地は壊滅状態となります。
筆者の父も陸軍航空士官学校上がりの現役の将校で、当時、山口県の航空隊の教育隊にいましたので、大刀洗の航空隊の話は聴かされていました。
ともあれ、お聴きしたことの中に「個人でお守りしているところです…」「こちらは松のお屋敷なんです…」があり、多少思いつくことがありました。
それは、国会図書館他に保管されている、呉の太白を始祖とする「松野連系図」(平野雅日+廣氏の著書より後段に添付)に、倭の五王と末期の○○の評督が出てくることに思い至り、もしかしたら、この家系は、その流れを引継ぐ方ではないかと思った次第です。
初めてお伺いした段階で、詳しい事情はまだお聴きできていません。「倭のイツタマグウ」とお読みするそうですが、前述のとおり、個人で密かに守り通しておられるだけに、もしかしたらという思いは消せません。
もし、お許しが得られれば、調べさせて頂きたいと思っております。
たまたま。同行して頂いた内倉武久氏(近著「熊襲は列島を席巻していた」ミネルヴァ書房刊ほかの著者)
最後に、今回はあえて現地がどこであるかは公開しませんでした。
もちろん、ご迷惑がかかる恐れがあるからですが、非常に貴重な歴史遺跡(群集墓の可能性があるため)ですので、記録は残すべきと考えオンエアに踏み切りました。
特に重要と思えるのは、現地の人ではなく、久留米の方達によって維持管理されてきたというお話をお聴きしたからです。
思いっきり引き伸ばした勝手な推測をするとして、もしも、倭の五玉が倭の五王の意味であり、実際に群集墓があるのであれば、王家の谷の可能性があるからです。