幕末もコメが高騰し、庶民の怒りが爆発

なぜこのようなタイミングで「攘夷」が盛り上がるのか。もちろん、国際情勢などいろいろな要素が複雑に絡み合っている現象ではあるのだが、「国民感情」という点において深く関わっているのは「物価高騰」だ。

1858年の日米修好通商条約締結によって始まった外国貿易は、すぐに「輸出超過」となってしまった。これによって物価が上昇したところ、幕府は金貨が海外に流出することを防ぐため、貨幣価値を下落させた。しかし、これがさらなる高騰を招き、1860年からの数年で、米価が8倍になるほどのハイパーインフレになる。

こんな状況になれば当然、庶民の怒りは爆発する。その矛先となったのが外国人。1862年の生麦事件、英国公使館焼き打ち事件など外国人をターゲットとしたテロや暗殺が続発して、外国人を追い出せという「攘夷運動」が盛り上がっていくのである。

早川松山作「生麦之發殺」
早川松山作「生麦之發殺」、大判三枚続錦絵。生麦事件の錦絵(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

八つ当たり先はいつも「外国人」だった

そこから80年を経た太平洋戦争前夜も、庶民はすさまじい物価高騰に襲われた。その深刻さは、1939年に国が「値上げ」を禁止する価格統制令を出したことが物語っている。

1941年に「生活必需物資統制令」が出て主食や燃料などが配給制になったが、崩壊間近の社会主義国家のように、質の低いものや劣悪なものばかりが配給されるので、各地に「ヤミ市」が形成され、庶民生活は困窮の一途を辿った。

1938年にできあがった「国家総動員体制」のもとでは庶民の怒りは、政治にも軍部にも向けられない。ましてや天皇陛下がご決断された大陸侵攻という「聖戦」に不平・不満を口にすることなどできない。

そうなると国民が八つ当たりできる先は「外国人」しかいない。国内メディアはそういう自国の「恥」みたいな動きは黙殺していたが、日系人が多く暮らしていたハワイの日本語日刊紙「日布時事」が報じている。

社説「外人排斥の及ぼす影響」(1941年5月9日)の中で、「一部の過激分子達は、英米人と見れば善悪の差別なくいやがらせ」をしていることや、多数の宣教師や教育者が本国への帰還を余儀なくされていることを憂慮して、このような日本社会の非寛容性は、同じく「外国人」としてハワイで暮らす日本人移民の立場をも危うくすると主張している。

当時の日本社会にはそれほど深刻な「外国人ヘイト」があったということだ。