【私の思い出の番組】アナウンサー編:松平定知さん(元NHKアナウンサー)
松平定知さんが歩んだ、NHKアナウンサー人生
「ニュース」や、『連想ゲーム』『NHKスペシャル』『その時歴史が動いた』など数多くの番組で名司会ぶりを発揮した、元NHKアナウンサーの松平定知さん。松平さんの38年に及んだアナウンサー人生の、当時の想い出を語ってもらった。
松平アナの“初鳴き”とは…?
NHKの新人アナウンサーは入局後、研修を経て全国各地の放送局へ配属される。1969年NHKへ入局した松平さんは、2ヶ月間の研修を経て、6月6日に高知放送局へ初赴任。そしてその4日後、アナウンサーとして記念すべきデビューを果たす。
しかし、そのデビューは本人も驚く形で迎えることとなった。新人アナウンサーの音声が初めて電波に乗って視聴者(聴取者)に届くことを“初鳴き”と言うが、当時の“初鳴き”の定番は「毎正時の2分前のお知らせ」だった。そこから徐々に天気予報、ローカルニュースなどへと移行していくのだが、松平さんは、“初鳴き”に急きょ15分のラジオ番組「ひるのいこい」を担当するよう命じられた。「当日の高知放送局は、たまたま出張や病休で先輩の休みが多かったためですが、いやあ、びっくりしました。まだ赴任4日目でしたからね、もうどうなることかというぐらい心臓が波打ったのを覚えています。放送1時間前から、出来上がった原稿を3回ほど、読み返しました」と懐かしそうに目を細めた。
高知勤務3年目の7月。土砂崩れで一度に60人もの人が生き埋めになるという大災害が、土佐山田町繁藤で起きた。その日の勤務の都合でたまたま松平さんが現場に飛んだ。この日は、東京では自民党の、あの角福戦争と言われた総裁選挙当日で、昼間のテレビは、繁藤の災害現場と自民党大会とが交互にずっと放送されるという編成だった。夜に入ると、東京の方は一段落したので、ニュースは繁藤の災害現場がメインになった。その夜、何度目かの現場中継で、被害者の母がカメラの前に立った。その母は、放送に入る随分前からカメラの前で、横にいる松平さんの手を固く握って一言も発しない。放送に入って、FDからキューを出されても一言も発しない。現場のFDは「早く、感想をきけ」と矢のような催促をする。松平さんは以前から災害中継の際、現場の遺族に「今のお気持ちは?」とマイクを向けるリポーターの無神経さが許せなかった。だから、松平さんは、その被害者の母に手を握らせたまま、彼女が口を開くまで彼女にはマイクをむけまいと思った。放送が始まった。松平さんが状況説明をするが、彼女は黙ったまま。と、30秒ほどたったころだったか、彼女が松平さんの手を握ったまま、もう片方の手で前方の土砂を指し「あそこに息子が埋まってる」と、絞りだすような声で、ひとことそう言ったという。「不躾にマイクを突きつけず、彼女の心をよく忖度してくれた、ね」と、後日、東京のアナウンサーの先輩から言われた。「これが、私の38年間のNHK人生の中で、唯一、褒められた経験でした。」
東京アナウンス室への異動
変わらぬ根幹と、歴史的瞬間を伝えた喜び
高知での新人時代を経て、5年後、松平さんは1974年に東京アナウンス室へ異動となる。2局目での東京転勤は、アナウンサーとしては極めて異例なことだった。が、物事を「伝える」という基本的な部分は当然のことながら特に変わるものではなかった。以降、『連想ゲーム』「夜と朝の7時のテレビニュース」「NHKスペシャル」などに多数出演したほか、『NHK紅白歌合戦』の総合司会も2年、勤めるなど、徐々にアナウンサーの中核を成して行くが、実は歴史に残るアノ放送にも松平さんが登場していたのをご存知だろうか。当の本人は「こんなことは、単なる巡り合わせでしかないのですが」と照れながら話してくれたのは、『年号と世紀』の変わり目に、二つとも立ち会ったこと。昭和最後と平成最初、20世紀最後と21世紀最初のTV放送を担当したこと。「それぞれ最後の一声と第一声を喋りました」と言って、お茶目な笑顔を浮かべた。まさに「時代」を伝えたアナウンサーの象徴といえよう。
視聴者に“伝わる”ことが、何より大切
松平さんの司会で印象に残っている番組といえば、『その時歴史が動いた』を挙げる人が多いのではないだろうか。放送が終了して数年経つが、今なおその人気は根強い。
番組の収録は大阪で行われており、松平さんは毎週新幹線通勤をしていた。実はその移動時間に松平さんの名司会の秘密が隠されている。「スタジオで話すコメントは新幹線で練りあげていました。東京駅を午前10時に発車すると、やおら、前日届いた台本を取りだし、番組の流れを確認して、スタジオで話す部分のコメントを台本を参考にしながら書き始めるんです。ほぼ完成するのが三河安城付近。そこから京都までの間に食事を取りながら推敲します。そして京都駅を過ぎたら、書いた原稿は破ります」。松平さんは放送の時、カンニングペーパーを「絶対」使わない。それを使って、他人が書いた文章を綺麗に、よどみなく「読んで」も、視聴者の胸には響かないことが多いと言う。かと言って、自分が書いたものを丸暗記してはいけないとも言う。「コメントは覚えるものじゃあない。紡ぐものなんです。新幹線の中で書くということは、本番でカメラに向かって、その時、新たに言葉を紡ぎだすための安心材料を持つという作業なのです。メモを破る勇気が、スタジオで新たに言葉を紡ぐ覚悟を生むんです。」と言う。松平さんがアナウンサーとして大切にしていることは「伝える」こと。インタビューの最後。松平さんはNHKでの自身の仕事を振り返り「“視聴者に伝わるように伝えるためにはどうすればよいか”、ただそのことだけを一心に考え続けたNHKアナウンサー人生でした」と締めくくった。
松平定知さんが見た、テレビ放送の変遷
1963年
日米間テレビ衛星中継受信実験【ジョン・F・ケネディ大統領暗殺事件】
「私の中では、これがNHKの放送を語る上でトップ1の事件です」と語り始めた松平さん。海外の生の映像が衛星を通して初めて日本に入ってきた、まさにその最初の日。松平さん自身はまだ高校生で大学の模擬試験を受けに行く日だったそう。「朝6時半ぐらいかな。最寄り駅に着いたとき、カランカランと音がしました。それはケネディ大統領の暗殺を知らせる号外でした。」
1969年
アポロ11号月面着陸
1974年
「NC9」の登場
1989年
昭和史報道
「かなり長期間、緊張感を持って、臨戦体制でことにあたりました」
同年
BSハイビジョン放送と、2011年の地上デジタル化放送移行
音声、画像ともに高品位のテレビの登場と、多チャンネル化。「これは、『見せてあげるテレビ』から、『見て頂くテレビ』への本格移行期の到来でした。視聴者に選んで頂ける、高品質の内容の番組を作らねばと、身が引き締まる思いでした。」