戦前の中国学の大物・内藤湖南の(日本史関係の)論文(長い)から。
……今回は「卑弥呼考」、ソースの資料はこちら(↓)

 

卑弥呼考 - 青空文庫

https://www.aozora.gr.jp/cards/000284/card4643.html

 

 

抜粋コピペで本文を部分部分紹介しつつ見ていこう。
……日本武尊にも関係あるので、興味の湧いた方はソースの原資料を直接一読されたし。
結論から言えば「卑弥呼」は「倭姫」(最初の斎宮、日本武尊を援助した)だとのことです。
※コピペの都合上、漢文の返り点が変になった部分もあるかと思われます。
(文字サイズの問題で「一二点」や「レ点」が大文字になって本文に混入w)
※漢文で「建武」という年号が出てきますが、日本の「建武の親政」(後醍醐天皇・南北朝時代)のことではなく、中国の後漢の話です(勘違いすると読んでいて混乱しますので注意)。


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後漢書、三國志、晉書、北史等に出でたる倭國女王卑彌呼の事に關しては(中略)、或は之を以て我神功皇后とし、或は以て筑紫の一女酋とし、(中略)近時に於ては大抵後説を取る者多きに似たり。今余が考ふる所は此の二者に異なる者あれば試みに左の序次により、其の所見を下に述べんとす。
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(解説)
冒頭部分。中国の歴史書に記載されている「邪馬台国の卑彌呼」については戦前(この小論の書かれた当時)から「神功皇后」説と「筑紫(九州北部)の女酋長(土蜘蛛とか隼人といった地方豪族の類)」説があって、「地方の女酋長」説が優勢だったそうだ。
しかし内藤湖南は以下(後半部分、次の記事)で、両者と違う独自の見解を提示する。


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卑彌呼の記事を載せたる支那史書の中、(中略)後漢書、三國志に據りたる(中略)後漢書と三國志との間に存する異の點に關しては、史家の疑惑を惹く者なくばあらず。
(中略)兩書が同一事を記するに當りて、後漢書の取れる史料が、三國志の所載以外に及ぶこと、東夷傳中にすら一二にして止らざれば、其の倭國傳の記事も然る者あるにあらずやとは、史家の動もすれば疑惑を挾みし所なりき。
(中略)
左に三國志魏書第三十の本文を掲ぐべし。(※漢文の資料が引用されている)
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(解説)
中国(支那)の歴史書の「卑彌呼」の記事は『後漢書』『三国志』が大本であるが、後漢書の方が「東夷」(東方の異国・異民族)関係の歴史資料として豊富らしい。さらには別の歴史書同士での内容の異同だけでなく、写本による微妙な違いなどもまた学者たちの頭を迷わせる。

……参考までに中国初期の歴史。まず上古の三王朝・春秋戦国の戦乱の後に秦の始皇帝の大統一。その後に前漢・後漢の長命王朝の統一時代(紀元前後の四百年程)、後漢末の戦乱(三国鼎立)の時代が有名な『三国志』の話。魏(曹操の家)が勝利したのを家臣(司馬仲達の家)が乗っ取ったのが「晋」。さらにその後に南北朝の分裂時代(北方民族の侵入もあって四分五裂)、最終的には隋が全中国を制覇し(ただし短命王朝)、唐王朝につながる。
また中国では、王朝が滅亡後に前王朝の時代の歴史(の決定版?)が編纂・整理される慣習があるため、『後漢書』・『三国志』も後漢や三国鼎立の時代当時ではなく、後の時代に執筆されている(※この留意点がこの小論では重要になってくる)。


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蓋し三國志、特に其の東北諸夷に關する記事は、多く魏略を取りて、魚豢が當時の語として記したる文字すらも改めざる處あり。
(中略)
既に三國志の倭人傳が魏略より出でたるを決せば、次で決したきは後漢書の倭國傳も、同じく魏略より出でたりや否やなり。後漢書の作者たる范曄は支那史家中、最も能文なる者の一なれば、其の刪潤の方法、極めて巧妙にして、引書の痕跡を泯滅し、殆ど鉤稽窮搜に縁なきの恨あるも、左の數條は明らかに其馬脚を露はせる者と謂ふべし。
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(解説)
どうやら文章の癖などからして『三国志』の著者・陳寿は、過去の歴史資料として参照した「魏略」から「東北諸夷」(東北の異民族)などの記事内容を写している(一例として高句麗王伝を挙げている)。
それだけでなく、どうやら『後漢書』を書いた范曄もまた、どうやら「魏略」を資料として参照していたようだ(范曄は文章が上手かったので一見はオリジナルに見えるが、良く見れば元になった「魏略」の文章の痕跡があると内藤湖南は指摘する)。


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三國志が取れる魏略の文は、前漢書地理志の「樂浪海中有二倭人一。分爲二百餘國一。以二歳時一來獻見云。」とあるに本づきたるにて、其の「舊百餘國」と舊字を下せるは、此が爲にして、即ち漢時を指し、「今使譯所通三十國」といへる今は魏の時をいへるなり。
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(解説)
実は『三国志』の元になった「魏略」の文は「前漢書」の記事を元にしており、そのために(倭人は)「古く(漢の時代)は百余国」「今(魏の時代)に使者の往来があるのは三十国」という書き方をしている。


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然るに范曄が漢に通ずる者三十餘國とせるは、魏略の文を改刪して遺漏せるなり。
(中略)
魏略は女王國より帶方郡に至る距離を萬二千餘里としたるも、范曄は漢時未だ有らざる郡より起算するを得ざれば、已むを得ず、漢時已に有りたる樂浪郡の徼より起算せしなり。されど夫餘が玄菟の北千里といひ、高句麗が遼東の東千里といふ、いづれも其の郡治より起算せる例に照せば、女王國を樂浪の郡徼より起算せるは、例に外れたる書法なり。
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(解説)
しかし『後漢書』を書いた范曄は原資料の「魏略」から「三十国」の部分(後漢の時代ではなく、後の魏の時代の状況)を適当に引用している(時代による変化や整合性を考えていない)。漢の時代と魏の時代では国境の位置なども異なるし、そんな具合のいい加減な執筆態度だから当然に、距離などの記述も混乱して杜撰になった。


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自二女王國一東度レ海千餘里。至二拘奴國一。雖二皆倭種一。而不レ屬二女王一。

三國志のこの記事は、(中略)魏略と全然一致して、たゞ女王國の東に復た國ありといへるのみにて、之を狗奴國とはせず。狗奴國の記事は、女王境界の盡くる所たる奴國の下に繋けて、其南に在りとしたり。されば後漢書の改刪が不當なることは明らかなるに、從來の史家には、反て三國志を誤として、後漢書が他書によりて之を正したりと思へる者ありき。是れ蓋し顏師古が引ける魏略に思ひ及ばざりし過ならん。
其他、後漢書が魏略の文を割裂し、括したりと見るべき字句は、次に辯ずる數條を除く外、全篇皆然り。
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(解説)
こうして内藤湖南は「顏師古」という人が書いた「漢書」の注を手がかりに、後漢書の記載の出鱈目を暴きます。どうやら『後漢書』の(東夷関係の)記事は原資料の「魏略」の記事や文章を適当に剽窃しており、概して『三国志』の方が信用できる様子。


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已上綜べて之を攷ふれば、倭國の記事が魏略の文を殆ど其まゝに取り用ひたる三國志に據るの正當なることは知らるべく、本文撰擇の第一要件は、こゝに解決を告げたるなり。
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(解説)
第一節の結びの部分。「倭国」の記事は「魏略」からの引用をそのまま使った『三国志』の記事を参照するべきというのが内藤湖南の結論です(同じ「魏略」を原資料に用いた『後漢書』は記事がいい加減であるということが色々述べられています)。
また、写本の良し悪しについても述べていますが、本筋に関係がないので省略します。

 

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