……以下は第二・三節(我が国における旧説の検討)です。
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本文の記事を考證するにつきては、先づ日本書紀の作者が卑彌呼を何人と見たるかを知らんことを要す、是れ我邦史家が本文の記事に下したる最舊の批評と謂ふべき者なればなり。神功皇后紀に左の記事あり。
(中略)※『日本書紀』の引用文
此の記事にして日本紀作者の手に成りたらんには、卑彌呼を神功皇后なりと信じたりと斷ぜんに何の碍げかあらん。
(中略)
又日本紀が用ひたる韓國の地名が、往々三國志の三韓傳中に在る地名と符合することも注意せざるべからず。應神紀八年の細注に出でたる支侵(シシム)、同十六年の細注に出でたる爾林(ニリム)の如き、三國志馬韓の條にも支侵、兒林の國名あり。神功紀四十九年に出でたる古奚津は、同じく馬韓の條に出でたる古爰國なるべく、爰は奚の形似によりて訛れるなるべし。(後略)
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(解説)※第二節
我が国(日本)では中国の歴史書は上古の時代から読まれていましたが、どうやら『日本書紀』の作者は「卑弥呼」を「神功皇后」だと思ったようです。
また、外国の歴史書が国史の注に引用されていることについて、後の国学者の間でも議論があったようですが、結論から言えば『日本書紀』編纂時には諸々の資料を広く参照していたのでしょうね。
※『史記』『漢書』『後漢書』『三国志』あたりは古くから好んで読まれていたはず。
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足利氏の中世に當り、僧周鳳あり、文正の頃、善隣國寶記を著はして、始めて倭國が果して日本なりやに疑を挾めり。(中略)然るに元禄年間、松下見林が其の名著、異稱日本傳を作りし時は、後漢書、三國志の所謂卑彌呼を全く神功皇后の舊説のまゝに信じて、少しも疑ふ所なき者の如くなりき。
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(解説)※以降、第三節
室町幕府の時代(足利家の将軍)に僧侶の周鳳が「中国の歴史書に出てくる『倭国』は本当に日本のことなのか?」と疑問を提起したが、江戸時代(「元禄」は年号)の松下見林は「三国志の卑弥呼は神功皇后」という旧説を信じて疑わなかった。
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此の從來の定説を一轉したるは、本居宣長の馭戎慨言なり。本居氏は卑彌呼の名が三韓などより息長帶姫尊、即ち神功皇后を稱し奉りし者なることを疑はざるも、魏に遣したる使は、皇朝の正使にあらず、筑紫の南方に勢力ある熊襲などの類なりし者が女王の赫々たる英名を利用して、其使と詐りて私に遣はしたるなりとし
(中略)
鶴峰戊申に襲國僞僭考あり(中略)更に一新説を出し、襲國は呉太伯が後なる姫姓の國にて、久しき以前より王と僞て漢に通じ、(中略)景行帝の親征より後數度の征伐を經て、既に主を失ひつるが、神功皇后の攝政のはじめより、ひそかに皇后に擬して、一女子を立て主として、畏くも姫尊と名告せつるを卑彌呼とは傳へたるさまなりといへり。
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(解説)
国学者の本居宣長は「熊襲などの地方豪族が神功皇后の名前を使って、中国と交易していたのではないか?(正式な使節派遣だったかどうかは怪しい)」と言った。
※息長帶姫尊=神功皇后
また、鶴峰戊申は「熊襲(襲國)は中国系渡来人の国で、景行天皇に征伐された後の神功皇后の時代に密かに(神功皇后の摂政政治)を真似て「姫尊」(卑弥呼)を首長にしたのではないか」という新説を出した。
※呉太伯が後なる姫姓の國 ……中国の古代第三王朝(周)は姫姓(王家の名字が「姫」)。その長子の家系が分派して「呉」(南部、上海の辺り)の領地に封ぜられていた(呉太伯)。
この二つの説が旧来の定説(冒頭部分を参照)のルーツ。