……次の記事後半では、内藤湖南による「魏志倭人伝」読解とその結論。
そこまでざっとでも読んでもらえれば、何故私がこんな「邪馬台国」云々の好事家じみた話題なんかが原因でカンカンに怒っているのかがご理解頂けるはずである。
この小論は、まるっきり戦後の反日歴史学者たちの「犯罪」の証拠みたいなものなのだから。
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前回の続き、後半部分。
どこまで把握できているかは私自身も怪しくもあるけれども、それでも大意だけでも見ていってみよう。……どこまで正しいかは不明ではあるけれども、これだけ完備された(しかも戦前の)考察がひたすらに黙殺・無視されて、「複数ある学説の一つ」としてすら一般人に知られないことは異常である(ここまで考察できる学者など稀にしかいないだろう)。
理由はおおよそ察せられる。この小論ではお察しの通り(このカテゴリ・シリーズ記事でも述べてきたテーマではあるが)、『古事記』や『日本書紀』に記録された歴史の大部分が大筋正しいことを前提に推論・理論が組み立てられている。
……何のことはない。戦後に「抹殺に成功」した「上古の歴史」を日本人が思い起こす惧れがあるから、極力隠蔽しておきたかったのだろう。今の学者や教師たちの多くが反日利権・イデオロギーの反日フレンドや、歪んだ意図に選抜された「都合のいいバカ」の集まりであることの証左であるかもしれないと思う(つい先日の反日教師などによる「教科書から聖徳太子の消去を画策」騒動を見れば、どういう状況であるかは一目瞭然だ!)。
※もちろん一部の真面目な学者や有識者などが「レジスタンス」ではないが、細々とでも大事な資料を整理し、密かに市井に送っていたのだろうけれども……反日左翼や在日韓国・朝鮮人などによって、どれだけ弾圧や政治圧力に晒されていたのかは想像に難くない。
さて、以下が件の内藤湖南の本論(第四節以降)。
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本文は上に掲げたれば、此には主として考證を要する字句のみを擧ぐべし。
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(解説)
この第四節で「三國志魏書第三十の本文」(先に引用紹介、早い話が「魏志倭人伝」のこと)の内容を詳細に検討している。
※魏書・魏志 ……『三国志』は「魏」「呉」「蜀」の三つの部分に分かれている。
※この記事では重要そうな部分のみ抜粋コピペで紹介していく。
※コピペの都合上、漢文の返り点が変になった部分もあるかと思われます(ご注意を!)
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舊百餘國。漢時有二朝見者一。今使譯所レ通三十國。
舊時を説くは前漢地理志に據り、今とは魚豢が魏略を作れる時を指すこと、已に前に言へり。
(後略)
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(解説)
第二節で述べられていた、魏志倭人伝の編纂時の事情。
「(古く)百餘國」は前漢の時代のこと、「今」は参照した旧資料「魏略」の編纂時。
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到二其北岸狗邪韓國一
同じ魏志の弁辰傳中に弁辰狗邪國あり、吉田東伍氏は之を韓史の伽耶、又駕洛、即ち今の金海に當てたり。日本紀にありては南加羅に當るべし。こゝに其の北岸といへるは倭國の北岸をいへるなり。
後漢書に樂浪郡徼去二其國一萬二千里。去二其西北界拘邪韓國一七千餘里といへるも、二の其字は皆倭國を指せり。(後略)
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(解説)
魏志倭人伝の「北岸狗邪韓國」とは、日本から見て「北岸」の朝鮮半島の国(同じ『魏志』の「弁辰伝」、新羅や百済以前には弁韓・辰韓などという国があったようだ)。
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對馬國、一大國、末盧國、伊都國、奴國、不彌國
(一部略、写本による誤字のこと)
一大國は本居氏が北史に據りて、一支國と改めたるを可とす、梁書も同じ、即ち壹岐なり。末盧を肥前の松浦とし、伊都を筑前の怡土とし、奴を儺縣、又那津、不彌國を應神天皇の誕生地たる宇瀰に當つることは本居氏以來、別に有力なる異説もあらざればすべて之に從ふ。
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(解説)
対馬(對馬國)、壹岐(一大國)、肥前の松浦(末盧國)、筑前の怡土(伊都國)、儺縣、又那津(奴國)、宇瀰(不彌國)。最後の「宇瀰」は応神天皇(仲哀天皇と神功皇后の皇子)の誕生地。国学者の本居宣長(江戸時代!)以来、既に指摘されていた。
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南至二投馬國一。水行二十日。
(略)
然れども支那の古書が方向を言ふ時、東と南と相兼ね、西と北と相兼ぬるは、その常例ともいふべく、又其發程の首、若くは途中の著しき土地の位置等より、方向の混雜を生ずることも珍らしからず。
後魏書勿吉傳に太魯水即ち今の兒河より勿吉即ち今の松花江上流に至るに宜しく東南行すべきを東北行十八日とせるが若き、陸上に於けるすら此の如くなれば海上の方向は猶更誤り易かるべし。
故に余は此の南を東と解して投馬國を和名鈔の周防國佐婆郡玉祖郷(多萬乃於也)に當てんとす。此の地は玉祖宿禰の祖たる玉祖命、又名天明玉命、天櫛明玉命を祀れる處にして周防の一宮と稱せられ、今の三田尻の海港を控へ、内海の衝要に當れり。其の古代に於て、玉作を職とせる名族に據有せられて、五萬餘戸の聚落を爲せしことも想像し得べし。(後略)
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(解説)
中国の古書では方角の記載は混乱しがちで「後魏書勿吉伝」などでも間違った記載がある。
内藤湖南は「南を東と解して投馬國を和名鈔の周防國佐婆郡玉祖郷(多萬乃於也)に當てんとす」だそうです。祀っている神様からして「玉」を作っていた集落のあった土地のようです。
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南至二邪馬壹國一。水行十日。陸行一月。
邪馬壹は邪馬臺の訛なること言ふまでもなし。(中略)
隋書及び北史に倭國都二於邪摩堆一、則魏志所レ謂邪馬臺者也といへり。
是れ隋の時には大和を以て邪馬臺と看做したる證なり。東晉より宋、齊、梁の代に亙りて倭王讚珍濟興武等が(中略)大和朝廷の名を以て交通したる者なるは明白なり。
されば梁代に當りて、大和朝廷の存在は明らかに彼國人に知られたるは勿論なるが、梁書は當時の倭王を以て魏志の倭王の後として疑ふ所なし。かくの如く支那の記録より視たる邪馬臺國は、之を大和朝廷の所在地に擬する外、異見を出すべき餘地なし。(中略)
尤も邪馬臺と呼べる土地の限界は、恐らくは今の大和國よりは廣大にして、當時の朝廷が直轄したまへる地方を包括するならん。
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(解説)
「邪馬台国=大和」を推して、九州説を否定しています。