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卑彌呼
余は之を以て倭姫命に擬定す。

其故は前に擧げたる官名に伊支馬、彌馬獲支あるによりて、其の崇神、垂仁二朝を去ること遠からざるべきことを知る、一なり。

其の天照大神の教に隨て、大和より近江、美濃、伊勢諸國を遍歴し、(倭姫世記によれば尾張丹波紀伊吉備にも及びしが如し)到る處に其の土豪より神戸、神田、神地を徴して神領とせるは、神道設教の上古を離るゝこと久しき魏人より鬼道を以て衆を惑はすと見えしも怪しむに足らざるべし、二なり。

余が邪馬臺の旁國の地名を擬定せるは、固より務めて大和の附近にして、倭姫命が遍歴せる地方より選び出したれども、其の多數が甚しき附會に陷らずして、伊勢を基點とせる地方に限定することを得たるは、又一證とすべし、三なり。

景行天皇を指し奉る者なるべし。國史によれば、天皇は倭姫命の兄に坐せども、外人の記事に是程の相違は有り得べし。此の記事によりても、國政は天皇の御手中に在りて、命は專ら神事を掌りたまひし趣は知らるべく、たゞ其の勢威のあまりに薫灼たるによりて、誤りて命を女王なりと思ひしならん。命の勢威盛んなりしは、日本武尊の東征に當りて、必ず之に謁し、其の凱旋に當りても、俘虜を神宮に獻つりし事などを見て知るべく、特に其の天照大神を奉じて、神領を諸國に徴するは、一種の宗教的領土擴張にして、其の成功は武力を用ひたる四道將軍にも比すべければ、外國人が女王と思ひしも故なしとせず、五なり。
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(解説)※要点部分のみ抜粋
景行天皇の姉で最高神官であれば、たとえ国政は天皇(景行、弟)が司っていても、外国人の目には「倭姫命」(=卑弥呼)はまるで最高権力者の女王のように映ったことだろう(しかも軍事的英雄である日本武尊も、倭姫命からすれば甥なのである)。
また、先の官職の考察から垂仁天皇に近い時代と推測して、それらの事情から「卑弥呼=神功皇后」説を退けている(垂仁は景行の父帝、神功皇后は景行の孫の世代)。


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倭人傳によれば難升米が景初三年(二年とあるは誤なり説下に見ゆ)に始めて使を奉じ魏に赴きしより、中間歸國の事明らかならず、其の確かに歸りしは正始八年以後魏の使張政等と偕にせし時に在り、而して其時卑彌呼以(スデ)に死せりとあり、其の往來に九年乃至十年を費せるは明かなり。一は垂仁天皇とし、一は倭姫命とするの差はあれども、使者の境遇は略ぼ相似たり。
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(解説)
倭人伝の難升米は、日本側の記録(橘良平氏の「日本紀元考概略」)の田道間守ではないかという考察(「垂仁天皇ノ末年ニ田道間守、常世(遠國ノ稱)ノ國ニ使シ、景行天皇ノ元年ニ至テ歸朝セリ」)。


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壹與
本傳には邪馬臺を邪馬壹と誤りたれば此の壹與も臺與の誤りなるべし。(中略)卑彌呼の宗女といへば、即ち宗室の女子の義なるが、我が國史にては崇神天皇の皇女、豐鍬入姫(又豐耜姫命)の豐(トヨ)といへるに近し。國史にては豐鍬入姫命の方、先に天照大神の祭主と定まりたまひ、後に倭姫命に及ぼしたる體なれども、倭人傳にては倭姫命の前に祭主ありしさまに見えざれば、豐鍬入姫の方を第二代と誤り傳へたるならん。景行天皇の五百野皇女は、倭姫命の職を嗣ぎしさまに、國史に見えたれども、其の名字の音、似ざること遠ければ、之に當つべきやうもなし。
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(解説)
卑弥呼には弟が仕えており、壹與という娘が巫女として跡の役目を継いだそうだ。
倭姫の前任者の「豐鍬入姫」が名の語源ではないかという見解(中国側の小さな記録錯誤)。
※自分はてっきり倭姫が斎宮の初代だと思っていたのだが……


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余が見る所にては、魏使の上陸地點は、恐らくは松浦郡名護屋附近ならん。仲哀紀に崗縣主祖熊鰐、天皇を周芳の沙磨(サバ)之浦(即ち佐波にして、本傳の投馬に近き程の處なり。此の沙磨に關しては景行紀及び豐後風土記ともに景行天皇の筑紫征伐の際經由したまひし事を記せり、以て其の古代より舟行必由の地たることを見るべし)に迎へ奉りて奏せる言の中に、穴門より向津野ノ大濟に至るを東門とし、名籠屋ノ大濟に至るを西門とすとあり。名護屋が當時に在りて、要津たりしこと以て知るべく、其壹岐より水路亦最も捷なれば、かくは決せるなり。
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(解説)
内藤湖南は当時の(日本側の!)歴史記録を勘案して魏の使節の上陸地点を「松浦郡名護屋附近」と推定する。さらには魏志倭人伝の原資料だる「魏略」の該当記事成立の事情まで、文面の書き方などから分析している(この戦前の先生は、桁違いの化け物だな!)。

また直前の箇所で、距離の記載の問題を「国境までなのか、首都までなのか」「出発地点をどこに設定するのか」などで、どうとでも解釈できる曖昧さを指摘している。
……そもそも魏志倭人伝の「距離」の問題は、邪馬台国を地方政権の小国のように解釈することから起きている面がある。もしも「邪馬台国=大和朝廷(日本のほぼ全域)」だとしてしまえば、問題設定そのものが曖昧になって意味を失ってしまうのだろう。

本当はさらに細々した考察の数々があるのだが、キリがないので、論旨の大筋だけをどうにかこうにか拾ったところで(私ではひとまずこれが限界w)、結びの結論部分を見てみよう。


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 已上の各章に於て、魏書倭人傳の
 邪馬臺とは大和朝廷の王畿なるべきこと
 女王卑彌呼とは倭姫命なること

(中略)
余は女王國が狗奴國と相攻撃せりといふによりて、其の時期を景行天皇の初年、熊襲親征の事に該當する者と斷ぜんとす。上古に在て語部が語り繼ぎたる史實なりとも、當時の大事を全く語り漏すべき者とは信ぜざるが故に、魏國の記録に著はれたる史實が、我が上古史に全く缺佚せる筑紫女酋の事蹟なりと信じ得ざること、猶かの魏使が筑紫に來りて、全く大和朝廷あることを知らずして歸れることを信じ得ざるがごとし。
故に此の魏國まで知れ渡りたる攻撃の事を、景行天皇の御事蹟に當る者と定め、かくて之より下れる世に考へ及ぼすに、神功皇后攝政の期は、那珂通世氏の説の如く、三國史記と神功紀の干支と、續日本紀の菅野眞道等の上表とによりて百濟近肖古王の時とすること當然なれば、此間凡そ百年にして、景行、成務、仲哀、神功、四朝に彌れば必ずしも荒唐に流れざるべし。又之より上に溯りて漢靈帝光和中の内亂を、崇神、垂仁の二朝に於ける百姓流離。
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(解説)
ほとんど完璧なまでの考証ですが、末筆に「(以上明治四十三年七月「藝文」第壹年第四號)」だそうです。だったら戦後の日本の歴史学・教育って、いったい……?(そうですか、マルクス革命史観イデオロギーと反日に明け暮れていたのですかねw ……そろそろ本職の学者にせよ、一般人にせよ、保守愛国のレジスタンスが全面決起する頃合なのでしょうねw)


この連続記事(前後編)における「明治の内藤湖南論文」読解の結論として、日本の古代史における「邪馬台国論争」というのは、反日イデオロギー勢力が日本の上古史(『古事記』や『日本書紀』)の大部分を抹殺した歪みの反映という一面があるのではないでしょうか?(前提認識が狂っていれば、まともな答えなど出るはずがありませんw)
この『風土記』カテゴリの記事シリーズでも述べてきたとおり、景行天皇(や日本武尊)あたりから「大筋では記紀の上古史は史実」と考えて良いのでないかと私などは思います。

 

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