深淵卿第三章 エピローグ
世界の命運をかけた戦いから早一ヶ月。
光陰矢の如し、という諺を、これ以上ないほど実感するあっという間の一ヶ月だ。
世界は依然として、まったくちっとも落ち着かず随分と騒がしい。
無理もない話ではある。何せ、自然的にあり得ない異常現象のオンパレードだ。人類が積み上げてきた歴史的経験則や自然に対する研究がまったく役に立たない未知の事象が、一国を包み込む規模で発生したのだ。
おまけに、証言者には事欠かないうえに、その内容がまたぶっ飛んでいる。
――巨大でおぞましい龍の幻覚を見た
――既存の生物ではあり得ない、咆哮を聞いた
――神が降臨したのを見た
――海が突然荒れ始め、唐突に凪いだ
――闇に包まれ何も見えなくなった
――光に包まれ何も見えなくなった
――突然の氷点下で凍えるかと思った
――突然の猛暑で脱水症状を起こした
――夕立みたいな台風だった
――近所の稲荷神社の鳥居が輝いていた
――怪我や家の破損が、いつの間にか治っていた
――富士山が神々しく発光した
どれもこれも天変地異以前なら、三流オカルト雑誌に記載されているような内容、あるいは面白半分で投稿されて興味も持ってもらえないようなネット上の都市伝説だろう。
だが、そんな一笑に付するような内容が、今は公然の事実として広く認知されている。
日本にいた者は、それが外国人であれ、メディア関係者であれ、行政関係者、あるいは警察等司法機関であれ、本来疑いを以て調査する者達でさえ実際に経験したことであるから、眉唾だと切り捨てることなどできない。
というか、天変地異の様子は日本全国でメディア・個人撮影問わず映像に星の数ほど残されており、動かぬ証拠がある。
加えて世界各地でドラゴンを目撃しただとか、それと相対する少年少女、あるいは兵器を満載した幻獣っぽい何かを見た、撮影したなんてことまであって……
まして、超常現象の嵐の中でも、それに直接起因する死傷者はゼロだというのだから、厄災と捉えるべきか、奇蹟と捉えるべきか、それも判断しかねる状況だ。
結果、世界各地の専門家も答えを出せず、世界は未だに混乱の最中にあると言っても過言ではない。日本は言わずもがな、だ。
これに対し、日本政府の見解は以下の通り。
――富士山の噴火現象を起因として、天文学的な確率の、なんらかの連鎖的反応が自然界に生じた結果ではないか。
あくまで現象発生は奇跡的なものであり、そのため一晩で連鎖は途切れ、自然環境も元に戻った。現状、富士山に活発な動きは見られず、完全に鎮静状態であるため、再び同現象が起きる可能性は極めて低いだろう。というのが、専門家委員会の結論である。
専門研究機関を富士山近郊に設けると共に、万が一に備え、迅速な避難と対応が可能な自衛隊の即応部隊を、向こう五年間、近隣に駐屯させることを決定した。
引き続き、原因究明に全力を尽くす所存である――
つまり、だ。原因は不明だけど、たぶんもう起きないよ。万が一にも備えるし、調査も続けるから、安心してね。ということだ。
実質、何も分かっていないに等しく、連日、テレビに出てくる専門家や有識者は、惑乱するか絶叫をお供に紛糾しまくっている。
なお、当然のことながら日本政府の上層部は真実を知っている。
だが、到底、真実など話せない。これ以上、日本や世界を混乱に陥れるわけにはいかないし、帰還者を筆頭に超自然的な力を巡る争乱を呼び覚ますわけにはいかないからだ。
樹海での戦いに参戦した者達は、そもそも近隣住民が避難させられていて知られていないし、上空での戦闘時も既に大嵐となっていて望遠レンズのカメラでも顔を映すなんてことは不可能だった。
また、ドラゴンの影に対応していたクラスメイト達に対する画像や動画は、従来通りの方法でハジメが対応しているので、これも露出はしていない。
意外だったのは、そんな意味不明な天変地異に襲われた国に、外国人が大量に押し寄せたことだろう。
日本人の中には、「こんなヤバい災害が起きる国にいられるか!」と国外脱出する人もちらほらといたようだが……
各国、国連、民間の研究機関などからの調査団は当然、世界中の好奇心にかられた者達、オカルト信者は、むしろ我こそ先にと現在進行形で続々と入国してきている。
そのおかげというべきか、彼等の消費によりしばらくは高い経済効果が得られそうで、真実を知る政府関係は揃って苦笑いを浮べている状態だ。
「って感じが、表向きの世間の認識だ。……聞いてる?」
「もちろん、聞いていんすよ」
ところ狭しとそびえ建つ高層ビル群と、途切れることなく行き交う自動車の濁流、忙しない様子の圧倒的な人混み。
それらを興味深そうに眺める隣の美女に、浩介がジト目で尋ねる。
長い白髪に黒の和装。美麗でありながら、どこか淫靡な雰囲気を纏う身長百七十センチの彼女は、酒呑童子――夜々之緋月だ。
二メートル超えの身長は目立つので縮めているのである。角も自力で見えないようにしている。一応、緋月なりに正体を秘し、かつ目立たないようにと対策した結果らしい。
雰囲気と美しさで普通に人目を惹いているが。
注目されるのは慣れているのか、本人は全く気にしていない様子だ。
何度見ても飽きないと言いたげに現世の有様に目移りしていた緋月が、浩介へと視線を向ける。目線の高さがほぼ同じなので、その妖しい輝きを放つ瞳や端麗な容貌に、ちょっと気後れしてしまう。
「それで、裏はどうなっていんすか?」
どうやら本当に聞いていたらしい。
目的地に向かって歩きつつ――本当は直ぐに到着できるのだが、緋月が今の世を一緒に歩きたいとささやかなデートのおねだりをしたので、お礼も兼ねて応えている最中――続きを口にする浩介。
「真実を伝えたらしい」
「真実、でありんすか?」
頷きつつ、浩介の存在に気がつかず緋月の劣情を誘う雰囲気にふらふらと吸い寄せられるように寄ってきた男から緋月を守る……
ではなく、緋月から男を守ってあげるために、跳ね上がりそうだった鬼の手をガッと押さえながら緋月ごと覆う隠形を発動して認識を逸らす。
「超自然的な力の実在と復活。影法師の暗躍と、俺達の戦い。妖魔の存在と……日本の正体。そして、その超自然的な力の源――氣力のことと、それを誰が掌握しているのか」
英国の聖域や王樹、妖精界などの異世界のことは話していないが、それ以外は概ね話した。
未知は恐怖だ。それが原因不明の天変地異ともなれば、国家は絶対的に看過できない。いつ、自国も災禍に見舞われるか分からないのだから。
日本への調査は表も裏も過激になるだろう。本当は原因を知っているのだろう? と、あらゆる手段を講じてくるだろう。
それは困る。故に、欲しいものを与えたのだ。猛毒つきだが。
「ふふふっ。なんとも恐ろしい話でありんすね。真実を聞くと同時に首根っこを押さえられていることも知らされるとは」
愛しの君の主は、ほんにお人が良い、と凄絶に笑う緋月さん、実に鬼。
その感想を、浩介は否定できなかった。苦笑するほかない。
何せ、各国首脳陣を強制転移でさらった挙げ句、悪魔と神霊を従える姿を以て力の差を見せつけたというのだから。
それもう、説明会でも交渉でもない。ただの脅迫……と誰もが思ったものだ。
まさか何年も後のこと、移住してきたリリアーナが世界規模の新興宗教団体を創設し、その対応として同じようなことが行われるとは思いもしない。
「一応、ちゃんと理由はあるんだからな?」
「何も言い訳する必要はありんせん。強者が弱者を支配するのは当然のこと」
「ごく自然に蛮族ムーブするのやめて。それとな、その支配が嫌だからやったんだよ」
「?」
わけが分からないと、人差し指を頬に添えつつ小首を傾げる緋月。基本の発想が蛮族そのものなのに、仕草がいちいち可愛らしいのはずるいと内心で溜息を吐く浩介。
曰く、もはや世界規模で認識や情報を操作し続けるのは手間が過ぎるとのこと。
というのも、覚醒者の存在があるからだ。
いくらハジメが氣力を完全掌握しているとはいえ、既に目覚めてしまったものは仕方がない。もともと地球人には備わっている力なのだ。生きていれば体内で生成されるものであるから、皆殺しにでもしない限り彼等は力が使えてしまう。
また、覚醒者は素質の高い者――異類婚姻譚の子孫故に、王樹復活から間もないうちに目覚めたと考えられるが、あくまで仮説だ。今後も目覚める者がいないとは限らない。
更に言えば、陰陽師や影法師のように氣力の扱いを技術として継承している個人・組織は他にもあるだろう。
「きりがない。皆殺しなんてもってのほかだし、支配なんて面倒極まりない。まして監視し続けるなんてあり得ないだろ」
「神のごとき力を持っているのに、でありんすか?」
「そう、神のごとき力を持っていても、だ」
「ふぅむ……」
「まぁ、鬼の頭領である緋月からすれば理解し難い考えかもしれないけど……」
そんな支配欲があいつにあったなら、きっと、あんなに死に物狂いで異世界から故郷に帰ろうとはしなかっただろう、と苦笑いを浮かべる。
だって、世界を支配したいなら、ハジメには地球などよりよほど簡単にできる世界が――トータスがある。それも、押さえつけるような支配ではなく、好意的な畏敬の念を捧げられる存在として君臨できる世界が。
エヒトを打倒した後も、心が変わることはなく、家族との再会を、またかつての日常に戻ることを望んだのだ。それこそ極限の意志として概念が具現化するほどに。
ハジメにとっては、どこまでも〝その他大勢より身近な少数〟、〝その身近な者達との日常〟こそが大切なのである。
「で、だ。覚醒者の存在を前提にするなら、どうしたって世界は超常の力の実在に気がついちまう」
話題を変えるように、少し強めに手を引く浩介。緋月も気持ちを切り替えたようで、心なしか手を引かれることに高揚した様子を見せる。
「そんで、そこに気がついてしまえば、日本の天変地異の原因が〝奇跡的な連鎖反応に起因する自然現象〟などではなく、〝人災である可能性〟にも辿り着くのは時間の問題だろう?」
「確かに、そうでありんすな」
そこまでくれば、誰もが思い出すだろう。
散々世間を騒がせたオカルトニュースの先駆者――〝帰還者〟のことを。一部の国は既に影法師に唆されて帰還者の身内を狙っているのだから、なおさら。
「なるほど、読めんした。帰還者という特大の果実に手を出せば手痛いしっぺ返しが来る。だから、小粒な果実の取り合いなら勝手にしんす……という考えに持っていったわけでありんすね」
「まぁ、そんなところらしい。ただし、中国とだけは裏で約定を結んだらしいけどな」
「どういう……ああ、なるほど。そのために影法師を生かしたわけでありんすか」
肩をすくめる浩介。正解らしい。
事実、今回の件に関して、日本と中国は密約を交わしていたりする。
世界最大規模にして最速で国家戦力として確立した超自然的現象専門組織――〝影法師〟を、今後発生することが確定的な、裏の世界の更に裏というべき呪術世界における世界警察として活用してもらい、その情報や成果を日本と共有してもらうという内容だ。
つまり、今後の覚醒者関連の面倒事を丸投げにするということだ。
はっきり言えば、おいしいところだけ持って行かれるわけだから、普通はこんな内容は飲めない。
だが、影法師の返還と、世界的危機を招いた事実、何より、ただでさえ逆鱗に触れてしまった帰還者に氣力を掌握されていて、力量差的に手出しできない状況にある以上、飲まざるを得なかったというのが実際のところだ。
ただしこの点、日本政府のみならず、帰還者とも協力関係を持つこと、場合によっては帰還者が(アビスゲートが)助力することもあり得ることを約定に盛り込んだので、彼等からすれば悪くない取引ではあっただろう。
ハジメの采配次第だが霊地を継続使用可能で、帰還者との非敵対的な繋がりを持てたのだ。当初の計画目的からしても、日本こそ傀儡にはできなかったものの、最低限の利は確保できている。
「国家のやり取りではメンツが大事である。追い詰めすぎると大体の場合、不利益と悲劇しか生まない。っていうのは服部さんの受け売りだけど、そのあたりの匙加減は、南雲も相談したみたいだ。で、お互いの監視と窓口係として人員を……まぁ、南雲の場合は人外だけど……派遣し合って、一応、手打ちって感じだな」
もちろん、ハジメが世界情勢に対する政治的な手を打っている間に、ユエ達も動き回っていた。
羅針盤で調べあげた死傷者や損壊を、再生魔法が使える者だけでなく、ドクターアラクネ団(自称)やマエストロアラクネ衆(自称)も総出で治癒・修復に飛び回った。
クラスメイト達も、英国保安局やバチカンとの情報共有、各地の竜伝承の地に対する臨時封印を本格的な封印に変える作業に駆け回り、陰陽師達も、出雲の〝左天之祠〟、富士の〝右天之祠〟の修復・結界再展開の儀式を行ったり、天星大結界の強化方法の模索や、各地の妖魔封印の状況調査及び封印措置を行ったりしていたのだ。
おかげで、あの天変地異に起因する死傷者・物損はゼロであり、樹海も元の姿を取り戻している。
「なるほど。大体のところは理解しんした」
「陽晴ちゃんにいろいろ聞かなかったのか?」
実のところ、今向かっているのは陽晴のところだったりする。
お迎えだ。
実は、一ヶ月が経ってやるべきことが大分落ち着いたので、一度、今回の戦いに参加した者達でお疲れ様会をしようということになったのだ。
場所は、なんとあの〝箱庭〟である。後でハジメがゲートを開いてくれる手はずなのだが、陽晴の母親である千景から、その前にぜひ浩介に挨拶をしたいと要望が来て、それに応えた形だ。
この一ヶ月、誰も彼も対応に追われていたので、陽晴とすら中々会えていない。千景に至っては電話口で挨拶とお礼をされただけで顔合わせもまだだった。なので、直接、お礼がしたいらしい。
なお、陽晴は重要人物であるから当然護衛がいた方がいいのだが、諸事情から分身体はつけていない。代わりに緋月に護衛を頼んでいる。
今、緋月の核となっている角の触媒は陽晴が所持しているのだ。彼女が術で召喚すれば緋月が即座に現れるし、浩介がそうだったように呪術的な危機が生じれば自動で防いでくれる。
もちろん、マーキングがあるので浩介が呼ぶことも可能だ。ただし、その場合、陽晴のもとで具現化してから、という少し面倒な感じになるが。
閑話休題。
「わっちはわっちで忙しかったのでありんすよ。妖精界もてんやわんやのお祭り騒ぎでありんす」
「ああ、はい。そりゃそうですよね~」
浩介は遠い目になった。全ての龍種が狂って暴れた件も当然あるが、妖精界の高嶺の花たる緋月に人間の男ができたという事件も大事だ。
何せ、龍種は〝龍〟が眠れば正気に戻るが、酒呑童子ガチ恋勢が止まる理由はないのだから。
配下のヒャッハーだけど割と弱い部下達に矛先が向くのも時間の問題だったので、その辺りを片付けるために、緋月は緋月で大忙しだったわけだ。
何度か地球に召喚されてはいるが、大半の時間を向こうで過ごさなければならなかったくらいには。
「ふふ。安心しておくんなまし? わっちが大地の染みにできん男は愛しの君だけでありんすよ」
「……それは、妖精界の皆さんが大地の染みになったという?」
「愛しの君は、なぁんにも気にしなくて良いのでありんす♪」
なんて艶然と笑って腕を組み、しなだれかかるようにして身をすり寄せる緋月さん。うっとり顔と上気した頬で、艶やかさが三倍化した。
隠形が破れる! 道行くビジネスマン&ウーマンたちが雰囲気に当てられて陶然とした顔に!
「ちょちょちょっ、緋月さん!」
「なぁんね、愛しの君?」
甘い。声音も、表情も、発する空気も。心なしか甘い匂いまでしているような。
「~~~~~っ、時間に遅れそうだからねぇっ、早足で行こうかぁっ」
「あんっ、愛しの君は強引でありんす♪」
「天下の往来でえっちな声出すのやめてくれますぅ!? あとえっちな雰囲気もね!」
昼前のビジネス街が混乱に陥りそうだったので、浩介は腕を包み込む柔らかな感触と、緋月の物欲しそうな瞳を極力無視して、半ば駆け去るようにして目的地へ急いだのだった。
「……マジ富豪じゃん」
東京は某所にあるオフィス街のほぼど真ん中に、でんっと建つタワーマンション。もう、エントランスが物語っている。〝資格なき者、この門を潜るべからず〟と。もちろん、生粋の小市民である浩介の錯覚だが。
しかし、だ。気後れするのも無理はない。土地の奪い合いをしているような地区で、このタワマンの周辺だけ随分と広々している。
小さめだが緑が豊かな公園があるし、周辺街路もよく手入れされていて清潔感に溢れている。大きな自走式立体駐車場なども完備されていて、テラス付きのフィットネスジムらしき階もちょっと見えている。
何より、エントランスにいる管理人さんが、ありがちなご年配の方ではなく、屈強な黒服さんだ。それも複数人。戦場帰りですと言われても納得しそうな雰囲気だ。
気配を探ってみると、奥には更に堅気じゃない警備員らしき者の気配が複数感じられる。
もし、緋月ごと隠形していなければ、明らかな部外者がエントランスの前で呆けている姿に鋭い視線が飛んできていただろう。
もちろん、まったく気が付かれていないのだが……
否、一人だけ気が付いたようだ。それも、少し前から。
警備員さん達がにわかに慌て始める。エントランスの奥の方に視線を向け、耳元の通信機で何か連絡を取り合っている。
「お迎えのようでありんすね」
ぴったりとひっついたままの緋月が呟いた通り、エレベーターの扉が開いた途端、陽晴が姿を見せた。
驚いたことに、初めて見る恰好だ。膝上丈の白のワンピースという洋服姿である。長く艶やかな黒髪と相まって、絵に描いたようなお嬢様だ。
外に出ようとする陽晴を、何か連絡を受けているらしい警備員が困り顔で止めているようだ。その陽晴の視線が外に向いた。
隠形しているのに、ばっちり浩介と目が合う。ふにゃっと緩む表情。そして、しなだれかかる緋月を見て、すんっと無表情に。かと思えば、不意にアダルトシーンを目撃してしまったかのようにきゅ~~っと真っ赤に染まっていく。
「くくっ、見事な百面相でありんすねぇ」
「はいはい、ちょっと離れて」
「ぁん、いけずなお人」
緋月を引っぺがし隠形も解く。少なくとも緋月の存在には気が付いたのだろう。
エントランスの前まで人が接近していたことに、警備員達がギョッとした顔になって一瞬のうちに戦闘態勢に入った。中々年季が入った動きだ。ただの警備員というより、ベテランの要人警護に見えるくらい。
「本日のお客様です。お通ししてください」
澄んだ陽晴の声音が響いて、黒服達が顔を見合わせる。事前に話は通してあったのだろう。扉は直ぐに開いた。
「ちょっと久しぶりかな、陽晴ちゃん」
「そうですね。この一ヶ月の間、二度しかお会いできませんでしたし」
ととっと軽やかな足取りで近寄ってくる陽晴。距離が近い。ほとんど真下から見上げるような距離だ。少しの寂しさと親愛がぎゅっと詰まったような眼差しに、浩介はちょっと照れ笑い。
「洋服姿、初めて見るけど……似合ってるなぁ」
「! そ、そうでしょうか? 普段通りですが、ありがとうございます」
嬉しさで顔がにやけそうになっているのに、必死にお澄まし顔を維持しようとしているのが、なんとも愛らしい。
反して、黒服さん達の無表情は、なんとも恐ろしい。ちょっと尋常じゃない目つきだ。もしかして、単なるマンションの警備ではなく、藤原家の警備なのかもしれない。俺達のお嬢様に手を出したらぶっ殺す……と目が言っているから。
が、実際に何か言う前に、陽晴の視線が緋月に向いた。ジト目だ。お怒りらしい。
「緋月、あまり勝手なことをするようでは〝縛り〟を与えざるを得ませんよ?」
「えっ。緋月、お前、陽晴ちゃんに許可もらって俺のとこに来たんじゃ?」
「そんなこと一言も言っておりんせん」
つんっとそっぽを向く緋月。なんでも、呼び掛けて陽晴に召喚させ、そのあとは制止を無視して浩介のもとへ飛んできたらしい。
「今の世が珍しいのは分かりますが、わたくしに召喚させて、その度に勝手に出歩くのはどういう了見ですか? 一度や二度ならまだしも、貴女はわたくしの前鬼であるという自覚を……」
説教が始まりそうな雰囲気だったが、不意に、陽晴は言葉を止めた。
そのくりくりとしたお目々が大きく見開いて、一点を見つめている。一点を、そう、浩介の首筋にある赤い痣と噛み傷らしきものを。一見して真新しいと分かるそれは……
陽晴の視線がバッと緋月を見た。目を細め、何かに気が付き、再び浩介を見る。とっても厳しい目で。
「遠藤様!」
「は、はい!」
「緋月に血を与えましたね!?」
「イエス、マム!!」
「どういうおつもりですか! 鬼に自らを喰わせるなんて!」
「いや、だって、助けに来てくれたこととか、陽晴ちゃんを守ってくれてることとか、お礼は必要かなぁって。流石にかじられるのは無理だけど、血くらいなら……その、南雲もよくユエさんにかぷちゅ~されてるし……」
「た、確かに礼は尽くしたいと思いますが、だからと言って――」
陽晴と浩介のやり取りに、黒服達の目があっちへこっちへ。緋月を見て、ぺろりと舌舐めずりする姿にうっと怯む。あまりに艶やかで、あまりに捕食者の雰囲気だったから。
そんな外野を放置して、緋月が愉しげな声音で指摘する。
「ぎゃあぎゃあと騒ぐんじゃありんせんよ、小娘。正直に言いなんし。〝私も愛しい男に口づけの証を刻みたい〟と」
「んっにゃ!?」
陽晴から変な声が出た。瞬く間に顔が赤色に染まっていく。鬼に血肉を捧げる危険性を説いていた途中だが、もしかして本当にうらやましかっただけなのか。
「ち、違いますよ。そんなはしたないこと、考えるはずがありませんっ。遠藤様! わたくし、その、違いますから!」
「あ、はい」
黒服さん達の目がますます厳しくなる中、緋月がしゃがみ込み、にやにやしながら陽晴のぷにぷにほっぺを指先でつつく。
「それに、〝守る〟とは言いんしたが、絶対服従するとは言っておりんせん。行動を縛られるいわれはないはずでありんしょう?」
「うっ……それは……確かにそうですが……」
「なんね、その不満顔は。愛しの君、将来は大変そうでありんすよ。この小娘、男を束縛して離さないタイプやも。最悪、監禁される危険性も……」
「いたしませんっ、そのようなこと!」
「では、わっちが多少、現世を物見遊山するくらい構わないでありんすねぇ?」
「うっ、うぅ……」
ほっぺをつんつんされながら、陽晴が徐々に涙目になっていく。うぅ~、うぅっと可愛らしい唸り声が漏れ出しちゃう。
陰陽師として前線に立つ姿は、あれほど凜々しかったというのに、普段は割と年相応らしい。
生きた年月の桁が違う緋月に言いくるめられて、浩介に視線で助けを求めている。
もし、緋月が出歩くついでに人食いでもしていたのなら話は違ったのだろう。が、妖精界で数多の男共に言い寄られ、それを処理するストレスを現世の見学で晴らしているのは陽晴も察しているところ。
式で監視もしているので、本当に見惚れる人達が続出する以外での騒動はまったく起こしていないのも知っている。
だから何も言えず、ぷっくりと頬を膨らませるしかないのだが……
そんな陽晴を愉しそうに弄る緋月と、涙目で睨み返す陽晴の姿は、なんだか姉妹のじゃれ合いのようで。
とにもかくにも、黒服さん達の目つきがきついのと、陽晴の救援要請に応えるべく、浩介は一歩前に出て――
ターンした。髪を掻き上げて、フッと笑った。
「ビュゥティフォーな二人の戯れは眼福ではあるが、それくらいにしたまえ。ミィに免じて、な?」
「遠藤様?」
「愛しの君?」
時が止まった。主に、浩介の。
髪を掻き上げた香ばしいポーズのまま、ダラダラと冷や汗を流し始める。ちょっと過呼吸の気配まで!
一拍おいて震えながら姿勢を戻し、誰もが目を点にしている中、髪を掻き上げていた手を振りかぶってパァンッと一撃。自分の頬を張った。
「遠藤様!?」
「愛しの君!?」
陽晴と緋月がぎょっとする。黒服さん達も「こいつっ、薬でもやってるのか!?」と引き気味の表情に。
「ちょっと待ってね」
儚い表情でそう言って、懐から小さなケースを取り出した浩介は、スライド式の蓋を開けて、くいっと手首のスナップをきかせて中身の錠剤を口へ放り込んだ。そのままごっくん。
「っ、ふぅ~、心が落ち着く……」
「お嬢様! 離れてください! こいつ、やっぱり薬をやってます!」
「おい、警備室! 通報しろ!」
「お待ちください、皆様! これにはわけがございまして!」
陽晴の必死の制止に黒服達が渋々従うが、浩介を見る目は非常に厳しい。
「愛しの君。一ヶ月経っても、まだ完治しないのでありんすか?」
「……うん。だいぶマシになってるけどね」
やっぱり儚い微笑みを浮べる浩介。
実はこれ、後遺症だったりする。深淵卿香ば深度Ⅵの。
前人未踏の深淵に沈んだ浩介は、三日ほど心痛で寝こみ、一週間ほど半ば引き籠もり状態だったのだが、一ヶ月経った今でも少し引き摺っている。
深淵卿モードではないのに、気を抜くと言動が香ばしくなっちゃうのだ。
ぽろりと無自覚にやらかしては空気が凍りつき、その度に羞恥で心が瀕死になり、もしやもう治らないのでは? と焦燥と絶望に暮れることしばし。
今は、エミリーちゃん特製精神安定お薬のおかげで、一応、快方に向かってはいる。が、とても分身体を出して陽晴を護衛できる状態ではない。これが緋月に頼った理由である。
「ああ、まずい。そろそろお薬が切れそうだ。はぁはぁ、エミリーに早く次の分を用意してもらわないと……」
こうすけは私のお薬がないと、もうダメなのね! 大丈夫よ、任せて! 一生、面倒を見てあげる! と、満面の笑みでお薬を処方してくれるエミリーちゃんの姿が目に浮かぶ。
「遠藤様……大丈夫、大丈夫ですから。ちっとも恥ずかしくなんてございませんから。ね?」
「おいたわしや、愛しの君」
幼女と美女に、背中を優しくさすられる浩介。黒服さん達も、あまりに哀れな姿に同情心が湧いたのか、なんとも微妙な表情だ。
と、そこで、新たな声が。
「いつまでも上がって来られないと思いましたら……いったい何をなさっているのですか?」
エレベーターより姿を見せたのは、少し呆れ顔の妙齢の女性。
陽晴をそのまま大人の女性にしたような、しかし、ほんの少しだけ目元が鋭い綺麗な、あの偽椿が化けていたのと同じ顔の女性だった。
一目で陽晴の母親だと分かる。髪を後頭部できっちりとまとめ、さっきまで仕事をしていたのかビシッとスーツを着こなす姿が実にかっこいい。
「あ、初めまして、遠藤浩介と言います。エントランスで騒いですみません」
「初めまして。ようやくお会いできましたね。陽晴の母――藤原千景と申します」
惚れ惚れする所作で一礼し、にっこり微笑む千景さん。人好きのする素敵な笑顔だが、少し疲れが滲んでいるように見える。
総帥の大晴を筆頭に、幹部の一族の多くが陰陽師としての役目に従事せざるを得なかった間、彼女が最高幹部の一人として藤原グループという巨大企業群を指揮していたのだから、当然といえば当然だろう。
「娘と夫、それに親族の命を救っていただいたにもかかわらず、お電話でのご挨拶しかできておらず、大変、失礼いたしました」
「いえいえっ、そんな! こちらも凄く助けられたので、どうか気にしないでください。若造なんで、そんな丁寧な対応も必要ないですから」
「ふふ、これでもわたくしとしては幾分砕けた言動なのですが……何せ、陽晴からはたっぷりと遠藤さんのことを聞かされておりますので、他人の気がせず――」
「お母様!!」
「末永いお付き合いになるでしょうから、遠藤さんも、どうぞわたくしのことは義母のように思っていただいて――」
「お・か・あ・さ・まぁっ!!」
陽晴が顔を真っ赤にしてぴょんこっと千景のスーツにしがみつく。それをクスクスと笑ってスルーする千景ママ。
なるほど、強い。流石は巨大グループ企業を指揮するエリート中のエリートにして、最強陰陽少女の母親だ。
「今日はこの後、ご友人の〝箱庭〟でしたか? 素敵なところにご招待くださると聞いておりますが、それまでは精一杯おもてなしさせていただきますね。主人の態度に不快になることもあるかもしれませんが、内心は遠藤様のことを認めておりますので、どうか男親の性と思ってご容赦ください」
「認めて、ですか。ええっと、能力的にってことですよね?」
「近いうちに、ぜひ遠藤家の皆様とのお食事会も設けさせてくださいね」
「スルー!? いや、まぁ、はい。伝えときます」
なんだろう。お母様がお義母様になることに躊躇いがないというか、娘の恋路に積極的というか、既に外堀を埋めようと動き始めている気配がするというか……
陽晴ちゃんは、この一ヶ月の間、〝遠藤様〟のことをどんな風に伝えてきたのか。
当の本人が両手で顔を覆って、真っ赤なお顔を隠してしまっているので確かめる術もないが、お母様の好感度がやたらと高いのは……
(愛しの君よ。お気を付けを。この女、大層な女傑でありんすよ)
(緋月?)
突然の念話に驚きつつも、顔には出さないよう堪える。
(わっちの正体を知っても動揺一つない胆力もさることながら、人心掌握と時勢を読む力が凄まじい。恩義に利を挟むような無粋な女ではありんせんが……気が付けば、陽晴を嫁に出すではなく、愛しの君が婿になっているやも?)
(……マジで?)
(大晴に後継者を匂わせていんす。それとなく、ではありんすが)
(マジで?)
にこにこ、にこにこ。好意的で朗らかな笑顔を向けてくれる千景さん。なんだろう、急に恐ろしくなってきた。
「さ、他にもいろいろとお話したいことはございますが、まずは場所を変えましょう」
そう言ってエレベーターへ促す千景に、乾いた笑みを浮かべながら続く浩介。
まるで恋人の家に結婚のご挨拶をしに行くような心境になってきた。そんなつもりはまったくないのに!
陽晴は羞恥で顔を伏せたまま、しずしずと後をついてくる。
緋月は緋月で、忠告はしたし、デートや陽晴弄りにも満足したと言いたげな顔でスッと姿を消してしまった。霊体化したのだろう。
それを見て、浩介がエレベーターに乗りながら「やべ……」と声を漏らす。緋月が消えるという現象を黒服さん達に目撃されてしまった……
「ご心配なく。彼等は当家の専属SPです。術者ではありませんが、理解はしております」
「あ、やっぱりそうなんですね、良かった。でも、全員ですか? マンションの警備に個人宅のSPが入るなんて凄いですね」
ほっと胸をなで下ろしつつ疑問を口にする浩介。何気なく見たエレベーターの階層ボタンに目が点になる。一階の次はまばらに途中の階層が幾つかあるだけで、あとは四十五階から五十階まで一気に数字が飛んでいる。
千景は、四十五階のボタンを押しながら、なんでもないように答えた。
「マンション自体が当家の所有ですので」
「……な、なるほど」
浩介の目が遠くなった。本当のお金持ちは、タワマンの一室を購入しているのではないのだ。タワマン自体を所有しているのだ。
「とはいえ、わたくし達が実際に住んでいるのは四十五階から上だけですので、他は社宅として貸し出しているのですけれど」
「そうですか」
としか言えない。つまり、だ。このエレベーターも藤原さん家専用というわけなのだろう。うん、昇降スピードも速いね! あ、お外が見える! わぁ~いたかぁ~い!
「あ、あの! 遠藤様、お気に召しませんでしたか? 目が死んでいらっしゃる……」
「なんでもないんだよ、陽晴ちゃん」
「まぁ、大変。高いところは苦手でしたでしょうか? こちらは仕事上の利便性を考えて建てた別荘のようなものなので、本家の方がよろしければ今からでも移動を――」
「高いところ、大好きです。ここで大丈夫です」
としか言えない。なお、東京の郊外にあるお家は、日本家屋であり庭も入れると野球場くらいの面積がある。
どっちもどっちだ。母娘の気遣いを、浩介は仏様のような澄んだ表情で固辞した。
そうして、全面ガラス張りの空中庭園のようなテラスに通された浩介は、そこで苦虫を噛み潰したような笑顔で歓迎の言葉を口にした大晴に、引きつり笑顔で挨拶を交わし後。
美味しいお茶とお茶請けをお供に、恐縮するほどのお礼を受けたり、ラナ達との関係について根掘り葉掘り聞かれたり、さりげない話術でいつの間にか経営学への興味を持たされたり。
藤原グループ関連の施設をいつでも無料で使えるカードをラナ達の分まで貰ったり、さりげない話術で正式に陽晴との婚約関係を結ばされそうになったり。
今後、帰還者が何か活動するに当たっては藤原一族が全面的に協力する旨を確約してくれたり、さりげない話術で陽晴に来る縁談話を断る理由に浩介を使うことを了承させられそうになったり。
ハジメとの約束の時間まで、大いに会話が弾む中、浩介は固まった笑顔のまま内心で叫んだ。
陽晴ちゃんのママンやべぇーーーっと。
陰陽術なんて必要ない。話術のみでいろいろ操っちゃいそうな千景さん。
父から陰陽術の才能を最高レベルで受け継いだ娘に、果たして、母の気質と才能は受け継がれているのか……
「遠藤様?」
こてんっと小首を傾げる陽晴に、浩介はなんだか末恐ろしさを感じずにはいられなかったのだった。
それから。
実に助かった――ではなく残念なことに、どうしても対応が必要な緊急の仕事が入ってしまった千景は、浩介が気遣い無用と促したこともあり、申し訳なさそうにしつつも仕事に戻っていった。
「あの、遠藤様。母がいろいろと申し訳ございませんでした」
「おしゃべり自体は楽しかったから、気にしないでくれ。フッ、我が姫のこともいろいろ聞けて満足――ちょっとごめんね。お薬の時間だ」
「さっきも飲んでいましたよね!? 過剰摂取はおやめください! ……貴方の姫と言っていただけるのは嬉しいことですから!」
「陽晴、ちょっと大胆ではないかな? お父様は悲しい。距離も近いし、もう少し慎みを持ってだね……」
陽晴が浩介の手をぎゅっと胸元に掻き抱くようにして止め、大晴パパの目元がピクピクする。
父親としては気に食わないの分かるから、懐からこっそり呪符を出すのはやめていただきたい。「貴様を、呪い殺すッ」みたいな目つきで見るのも。おかしいな。某冒涜的神父パパと同じ気配がするぞ?
「そ、それにしても、藤原家と土御門の家名交換の理由は意外でした!」
冷や汗を流しながら必死に話題を逸らす浩介。とはいえ、その話題は陽晴も先程までの雑談の中で知ったばかりなので普通に話題に乗ってくれる。
「……まさか、政府に陰陽寮を廃止された腹いせだったとは思いませんでした」
「う、うむ。まぁ、だから、当主以外伝えないようにしてるんだ」
元々は藤原家こそが土御門を名乗り、藤原という家名は土御門家の分家だった。当時、家名の交換を命じられた藤原家当主は、その時のことを日記にしたためて後世に残している。
それによると、土御門家当主は、陰陽寮の廃止を決定された際、政府の担当官にこう叫んだらしい。
『はぁ~~っ、いきなりクビとかありえない! 何が近代化だ! 何が西洋文化だ! ああいいっすわ! そっちがその気なら、もういいっすわ!! 国仕えなんてやめだ、やめ! 覚えとけよ! こうなったら陰陽道の全てをもって私腹を肥やしまくってやるからなぁ! それで十年後くらいに『国の吉凶判断を一手に担って支えていたわたしらをクビにしておいて、今更困ってるから戻ってこいと言っても〝もう遅い!〟最強陰陽道で大企業グループを作ってウハウハ生活します!』って、ざまぁしてやるからなぁっ!!』
まるで、未来の某小説投稿サイトの流行を先読みしたかのような捨て台詞。当時の土御門家当主さん、未来に生きすぎである。
そのうえ、土御門の名前では目立ちすぎるので、私腹肥やし中に政府の妨害があっては困ると、藤原家と名前を交換。
如何にも〝土御門は大人しくしてます。神道系に転向もしました。もうイジメないで?〟と殊勝な態度を見せつつ、本当の土御門は資本主義の申し子の如く、まんまと国家の経済に影響を与えるほどの企業グループに育っていき……
「商売の方が楽しくなってしまったんだなぁ……」
大晴が遠い目をして言う。各地の封印? 祭事? もう土御門は君達なんだから後は頼むよ! こっちはマネーゲームで忙しいからさ! と、本当にそう言ったらしい。
なるほど、それが当代まで続いているのだから、ご老公に「この俗物が!」と言われても仕方がない。
「戻さないんですか? ご老公からは、今からでもって提案されているんでしょう? ほら、ちょうどいい機会だからって」
「いや、しかし……今更だろう? 手続きとかいろいろ面倒であるし……」
「お父様……」
「ひ、陽晴も、今更、土御門陽晴と名乗るのは嫌だろう? ほら、学校のお友達とか、な?」
「それはそうですが……」
たぶん、〝面倒〟が大晴の一番の本音に違いない。
とはいえ、確かに今更ではある。にもかかわらず、なぜご老公がそんな提案をしてきたかというと。
「ご老公からすれば、待望の陰陽寮の復活です。やはり、家名もきちんとしたいのだと思いますよ?」
そう、この度、政府の一部署として陰陽寮が復活することになったのだ。
もちろん、公の組織ではない。
今回の未曾有の危機を受けて、新たに発足した部署に包括される秘密組織という形だ。
そして、その陰陽寮を包括する部署というのが、
――警察庁警備局 帰還者対応課
である。初代所長に服部が就任し、内部組織として陰陽寮が加わったのだ。
今回の事件において、政府はあまりにも後手に回りすぎた。相手が超常の力を使ってきたというのも要因だが、各々の事案に対応する部署が分散されすぎていたのも問題だった。
そこで、〝帰還者に対応を願いたい場合および帰還者の要望に対応する場合における統一的な判断が可能な専門部署〟が提言され、各国の超自然的な力への対抗手段確立の急務性も相まって、つい先日発足したのである。
「とはいえ、新生陰陽寮の初代陰陽頭もご老公だからな。やはり、家名もそのままが良いだろう。うん」
「お父様が『今でさえグループの総帥として忙しいのに、裏の仕事でまでトップをやるなんて無理』とわがままを言ったからではありませんか」
「わがままではない。事実だ」
「……本音は、競馬の時間を削られたくないから、ですよね?」
「……ハハッ。馬鹿なことを」
決して娘と視線を合わせようとしない大晴パパ。その姿が何より雄弁に本音を語っている。
確かに、突発的な事件に対応する必要もある陰陽師としての仕事は、競馬に差し障るおそれがある。夢のダービー中に対応を迫られたと思うと、恐ろしくて夜も眠れないだろう。
とはいえ、娘としては、そんな父に思うところがあるわけで。
そんな父娘の攻防を眺めながら、いつかトータスの馬娘と会わせるという男同士の密約を交わしていた浩介は、とばっちりが来ないようお茶をすすりつつ「玉露うまぁ~」と我関せずを貫く。
ついでに、帰還者対応課が正式稼働した日に人員との顔合わせで呼ばれた時のことを思い出した。
その時は、ハジメと浩介のほか、大晴と陽晴、そしてご老公がいたのだが、ちょっとした事件が起きたのは一通り課の人員と挨拶を終えた後のことである。
服部が呼びかけれど、なぜか隣室の小部屋から出てこない人員がいたのだ。
――何をしてるんです? さっさと出てきてください!
――姉様、呼ばれていますよ。挨拶をしませんと……
――こ、こんな辱めを与えておいて、まだ足りないと言うのか!
――似合ってます! 似合ってますから!!
なんて声が聞こえてきた。帰還者対応課の皆さんは苦笑いである。
かと思えば、ハジメが肩を竦めてクリスタルキーを発動した。空中にゲートが開き、「うわぁっ」「ひゃぁ!?」と悲鳴を上げながら落ちてくる人影が二つ。
普通のパンツスーツ姿の小柄な女性と……
なぜか、絶望顔のメイドさんだった。
――え、真影? なんでメイド? 趣味?
――くっ……殺せっ
――姉様! 落ち着いてください!
そう、そこにいたのはメイド姿の真影だったのだ。隣にいるのは影戯だ。覆面はしておらず、ボブカットの可愛らしい顔が晒されている。
――身内を狙った罰代わりに、メイドやらせてみた
とはハジメの言葉だ。「鬼かよ」という浩介の呟きは、その場の全員の心の声を代弁していたに違いない。それくらい、真影さんの表情は悲壮だった。確かに似合ってはいたのだけど。
ハジメ曰く、密かに計画している戦闘メイド集団の候補に入れているらしい。ただ、呪術に興味があって候補に入れてはみたが、彼女の適性と性格的に単なる罰で終わる可能性が高いとのことだった。
それはそれとして、なぜ彼女が帰還者対応課に所属することになったのかというと……
素顔を見せたことにより、真影はもう影法師ではなくなった。祖国に帰ることもできない彼女は自決するつもりだったようだが、ハジメ達と影法師との話し合いの末、組織間連携のためにも大使のような役割を持つ人員の相互派遣をすることになり、ならばちょうどいいと選ばれたのだ。
影法師でなくなっても、彼女の愛国心に揺らぎはない。
そのことは、彼女を育てた師も、影法師の幹部達も分かっていたのだろう。あるいは、掟を守りつつも、単純に彼女が死なない道を残したかったのか。
とにもかくにも、影法師からの派遣員として、真影というコードネームは剥奪されはしたものの、代わりに朱を名乗り、新たな人生を歩むことになったのだ。
メイドをやらされて絶望の再出発になったようだが。
影戯は、そんな朱を心配して、自ら影法師を辞して柳を名乗りついてきたのである。
もっとも、ある意味、止めを刺したのは陽晴だったかもしれない。
――くっ、藤原陽晴めっ。なんだその目は! 私を愚弄するか!
――しておりませんが!?
同情的な眼差しに屈辱を感じたようで、朱が涙目で陽晴に突っかかった後のこと。
その陽晴がハジメに許してあげてほしいと頼んで、それがまた屈辱だったようで、朱はぷるぷる震えながら「いっそ殺せぇっ」と自暴自棄になり。
――最も被害を受けたのは陽晴ちゃんだろう? なんなら、他の恰好にしてもいいぞ。強制的に脱着できるからな。魔法少女なんてどうだ? 今ならキラキラエフェクトもつけるぞ
――ひと思いに殺してくれぇっ!!
――姉様! 直ぐに死のうとしないでください!
――南雲様! わたくしのことはいいですから、どうかご慈悲を!
結局、陽晴の嘆願が通ってスーツ姿に戻れた後も、
――くっ、礼は言わんぞっ、藤原陽晴!
――あ、はい。結構です
――んっ。……だが、少しくらいなら何かしてやってもいい
――いえ。結構です
――なん、だと?
みたいな会話があって、陽晴に対し何やら複雑な心情を持っているらしい朱さんは、普通に落ち込み、流れるような仕草で辞世の句を口にし始め、最終的に浩介がエミリー特製精神安定お薬を分けてあげることで、どうにか場は収まったのである。
今でもちょっと情緒不安定気味らしいが……そこは柳ちゃんに任せるしかないだろう。十歳くらい歳が違うそうだが、彼女には是非とも頑張ってほしいところだ。
「もうっ、お父様ったら! 遠藤様からも何か言ってあげてくださいませ!」
「え? なんの話?」
意識が回想から現実に戻る。まったく聞いていなかったのでキョトンとする浩介。陽晴の眉が悲しげな八の字を描く。
あ、やべ……と少し焦っていると、絶妙なタイミングで救援もとい迎えが来た。
「お、時間だな!」
テラスにゲートが開く。そこからハジメが出てきた。
「遠藤、調子はどうだ? 正気か?」
「言葉は正しく選択しようぜ」
深淵卿モードの後遺症はもう大丈夫か? という意味だと察しつつも据わった目を返す浩介。
それを無視し、大晴と陽晴と挨拶を交わしたハジメは早速、ゲートへと誘った。
一瞬だけ眩む視界。
次に感じたのは、豊潤な自然の香りと、草を踏みしめる柔らかい感触。
直後、視界に飛び込んできたのは……
「うわぁ!!」
「これはまた……」
陽晴が子供らしい満面の笑みを浮かべ、大晴は驚愕に目を見開いている。
「ようこそ、箱庭へ」
ハジメの歓迎の言葉も耳に入らない様子だ。
無理もない。何せ、その情景はあまりに雄大すぎた。
どこまでも澄み渡った蒼穹の空。その空を突き破るかのような途轍もない高さの巨木。
出てきたのは小高い丘の上だったのだが、遠近感覚がおかしくなりそうな巨大さだ。上の方は雲がかかっていて目視できないほどである。
そして、丘から巨木――宝樹まではなだらかな草原が続いていて、右方には雄大な山々と麓に湖が見えた。
まぶしいほどに日の光を反射する湖面からは幾本もの河川が伸び、それを辿るようにして左方を見れば、今度はどこまでも続いていそうな森が広がっていた。背後を振り返れば、遠方に海らしきものも見える。
日本ではまずお目にかかれない大自然。
それだけでも言葉を失うには十二分だが、そこにお伽噺の存在――神霊、妖精、幻獣(中身は悪魔)、ドラゴンや龍の群れまで加われば、もはや完全に幻想の世界である。
ちなみに、龍種が多数移住しているのは、別にハジメがまた妖精界から勝手に引き抜いたせいではない。
原因は、ユエ様である。
ただでさえ無双状態だったユエ様は、無限魔力を得た後は更に手がつけられなくなった。刻一刻と力を上げていく神竜や龍神相手にすら、反撃さえ許さず他の全ての龍種とまとめて地に這いつくばらせたのだ。
加えて特製ドリンクでハイになっていたせいで、ドS全開に魂魄魔法まで使って龍達のプライドを木っ端微塵に砕いた結果。
なんか、神として崇められちゃったのだ。
それはもう、信仰心に基づく新たな想念が生み出されたくらいに。その信仰心でユエの力が増大しちゃったくらいに。
ハジメが魔神みたいになっている時、ユエもまた龍種の女神みたいになっていたのである。
で、そんな女神様にお仕えしたいと、こうして箱庭への移住を熱望したというわけだ。
神クラスの龍種が激減して、漢女神と元女神は少し泣いた。
閑話休題。
「南雲。今、どれくらいの広さなんだ? 二週間くらい前に見せてもらった時は、北側に海なんてなかっただろう?」
「さぁな。俺も忙しくて細部までは確認していない。エンティ曰く、海の向こうにまだ陸があるらしいし、森の向こうは砂漠地帯、山脈の向こうは雪原地帯みたいになり始めているそうだぞ」
「マジかよ」
「基本、自然環境の構築は神霊任せだからな。落ち着いたら探索してみるつもりだ」
「お前、それ絶対に俺も連れて行けよ! めちゃ楽しそうじゃん!」
今なお拡大し続ける、外敵皆無の幻想世界。なるほど、〝箱庭〟とは実に的を射ている。
これを、目の前の男が創造したという事実に、陽晴や大晴は言葉もない様子。
理解するには、スケールが大きすぎるのだ。天星大結界の異界を知る陽晴ですら呆けるしかない状態である。
と、そこへ、声がかかった。
「よく来たわね、人の子よ。歓迎してあげるわ」
薄緑色の風を渦巻かせて降臨したのは、一応、この世界の女神であるエンティだった。
頑張ってルトリアの真似をしているようだが、元来の溌剌さが隠せていないので、まるで背伸びした子供のようである。
「ただし、このエンティ様をきちんと敬うこと――」
「どうでもいいから行くぞ。宝樹の根元にみんな集まってるからな」
「ちょっとぉっ、女神よ女神! 貴方の女神ぃ! もっと敬いなさいよ!」
神々しい演出までして降臨したのに、神威が一瞬で霧散した。ハジメの頭の上に小ぶりなお尻を乗っけて、足をパタパタさせながら抗議している姿は、やっぱり子供……
そのやり取りに、ようやく我を取り戻した陽晴と大晴は苦笑いを浮かべ合った。そして、さっさとなだらかな丘を降り始めたハジメと浩介の後に続いたのだった。
しばらくして、宝樹の根元が見えてくる。すると、
「こうく~~ん! 陽晴ちゃ~ん! こっちよ~!」
と、ラナが手を振っているのが見えた。
エミリーやヴァネッサ、クラウディアも手を振っている。彼女達以外にも、あの日、樹海防衛戦に参加した者達はほぼ全員がいた。そこに加えて、マグダネス局長やダイム長官もいる。
当然、菫や愁、ユエ達南雲家の面々に、クラスメイト達、その一部の家族もだ。
木製のテーブルと椅子がいくつも設置され、バーベキューセットと食材が大量に置かれたコーナーもある。もう既に焼き始めているようで、そよ風に乗って良い匂いが漂ってきていた。
「ヒナちゃん! いらっしゃいなの!」
「ミュウちゃん!」
ミュウが満面の笑みで向かってくる。ドドドドッと水妖馬のケルピーに乗って。
実は、ハジメと面識を持った時に、陽晴は南雲家とも顔合わせをしていたりする。
陽晴の方が少しお姉さんだが、歳の近い同性で妖魔とも関わりを持ち、何も秘密にする必要のないミュウは、陽晴にとっても初めての存在だったのだろう。仲良くなるのは一瞬だった。
「ケルピー、だと!? すまないが、その子をよく見せて――」
「お父様?」
「……さて、私は挨拶回りに行ってくるとするよ」
ハイライトの消えた瞳を向けてくる娘に、大晴パパは一瞬で敗北。そそくさと、呆れ顔になっているご老公達のもとへ去っていった。
直後、霊体化していた緋月が姿を見せる。
「ゲッ、酒呑童子ッ」
それに嫌そうな声を上げたのは、肉焼き係になっていたシアだ。緋月の視線も真っ直ぐにシアを捉えており、爛々と輝いている。
「素敵な素敵なウサギさん? 再びの逢瀬にわっちの心は熱く滾っておりんす。どうか睦み合っておくんなまし♪」
「嫌ですよ。見たら分かるでしょ。今はご飯の時間です」
「ええ、ええ。だから、お相手願っているのでありんすよ?」
ぺろりと舌舐めずりする緋月さん。頬は上気し、全身から色気と戦意が溢れ出している! しゃなりしゃなりと近づいていく姿は、兎を見つけた空腹な獣の如く!
樹海防衛戦でシアのパワーを見た緋月は、あの後も直ぐに決闘を挑んでいたりする。もちろん、却下され逃げられたのだが。シアを見ると、どうしても鬼の性がうずいてしまうらしい。
「ここなら多少の戯れは許されるでありんしょう? ねぇ、ウサギさん?」
「ああもうっ、どうして私に執着する奴はこんなのばっかなんですかぁっ」
せっかく上手に焼けたお肉たちが被害にあわないために、全力ダッシュで逃げるシア。
「鬼ごっこでありんすか? ふふ、受け立ちんしょう! 待て待てぇ~♪」
リアル鬼ごっこを、恋する乙女のような顔で開始する緋月。
ドMエルフのアルテナ、狂犬皇女のトレイシー、ヤンデレ神霊のソアレ。そこに、喧嘩上等の鬼神が加わったようだ。
「こ、こら! 緋月! やめなさい!」
「大丈夫、大丈夫! シアお姉ちゃんだから! それよりヒナちゃん! こっちに来るの! ミュウのお友達を紹介してあげる!」
「あわわ、ミュウちゃん引っ張らないで~」
「あとで妖怪バトルするの!」
「妖怪バトル!? 式神を戦わせるんですか!?」
「一番手は、けるちゃん! 君に決めた!」
「話を聞いてくださいませぇ~」
止めようと刀印を作って言霊を紡ごうとした陽晴だったが、その手をミュウに引かれて、お友達――つまり、デモンレンジャーや水属性妖魔達のもとへ連れて行かれてしまう。
そこへ入れ替わるようにして寄ってきたクラスメイト達が、浩介に声をかけていく。
「よぉ、ロリコ――浩介。あの子が噂の嫁さん候補か?」
「遠藤君。自首、しよ?」
「浩介。警察には付き添ってやる」
「九歳だっけ? 流石に引くわぁ」
順に健太郎、綾子、重吾、真央である。優花達女性陣も遠巻きに「ついに、手を出しちゃいけない領域に踏み込みやがった」みたいな表情を向けてきている。服部までニヤニヤしながら、「お、逮捕しときますか?」と悪乗りして手錠を出した。
「誤解だ! 陽晴ちゃんをそういう目で見てはいない!」
「でも好かれてるんだろう? 大きくなったらお嫁さんにして!ってやつだろう? あんな〝将来が約束された超美少女お嬢様〟に。――死ねばいいのに」
「中野ぉ! 言っていいことと悪いことが……あ、いや、なんでもない」
無表情で肉を噛みちぎりながら、静かにリアルな血涙を流す信治くん。不気味すぎて、良樹すら近寄らないようにしている。
浩介も口をつぐんだ。陽晴と緋月を家族に紹介した時の、宗介兄さんそっくりだったから。
今日は、遠藤家は来ていないが、二人が揃った時が恐ろしい。絶対に会わせたくない。
クラスメイトの浩介いじりに本人がタジタジになっていると、見かねたのか救援が来た。ラナだ! 流石は正妻様! 浩介を庇うように前に立ち塞がりビシッと言ってのける。
「もう、皆、あんまりこうくんをイジメちゃダメよ! ボスの右腕なら当然のことなんだから! ミュウちゃんと一緒よ!」
「おいこら、俺を遠藤と一緒にするな」
「どういう意味だっ。いや、分かっているさ、マイフレンド。俺達は所詮、同じホールのムジナさ! ――あっ、お薬……お薬を飲まないと……あれ? もうない?」
「こうすけ! お薬ならここにあるわ!」
エミリーちゃんが嬉々とした様子で駆け寄ってくる。ヴァネッサとクラウディアも「え、エミリー博士? それはさっき試作品だとおっしゃっていた薬では!?」「エミリーさん!? 最近ためらいがなさすぎですよっ」と血相を変えて駆け寄ってくる。
その向こうでは、ハジメの声が聞こえていたミュウが落ち込み。
それに菫や愁、ユエ達が非難の声を上げ、シャロンおばあちゃんもキレて銃を抜いたので、バーナード達が必死に止めに入り。
お互いに娘をハーレム野郎に奪われた者として共感があったのか、大晴とダイム長官が意気投合し、揃って「貴様を、やっぱり殴り殺すッ」「貴様を、やっぱり呪い殺すッ」みたいな目を向ける……
どころか、お酒が入ったせいか実行しようとして、それぞれの部下が総出で止めにかかり。
遠くからは「シャオラアアアアアッ」「アハッ、アハハハハッ」なんて声と、とんでもない轟音が響き始め。
箱庭のお披露目だけでなく、本日の一番の目的――世界の危機を乗り越えたお疲れ様会という名目で集まったにもかかわらず、場はどんどんカオスに。
と、そのとき、服部の携帯がコール音を響かせた。
服部のそれは、ハジメが帰還者対応課との連携において必要と判断し、課の中では彼にだけ持つことを許した異世界間通信を可能とするプロトタイプの携帯型通信機だ。
帰還者対応課にも緊急時に備えて設置型が一台だけ置かれているのだが、そこからの着信らしい。
表情を変えて電話に出た服部は、しばらくやり取りをすると……
「いやはや、オフの日に参りますね。どうやら、民間のオカルト組織が生け贄の儀式をおっぱじめるようで。既に瘴気らしきものがあふれ出ているとか」
苦笑い気味に、その視線がご老公へ向けられ、しかし、直ぐに陽晴にも向けられる。帰還者対応課として、否、陰陽寮としての仕事ということだろう。同時に、陽晴の力が必要なレベルと判断したに違いない。
ご老公が頷き、陽晴に助力を願う――前に、
「わたくしが出ましょう」
陽晴自ら、そう言葉を響かせた。一瞬前まで、ミュウの勢いにたじたじになりながらも、嬉しそうに年相応の笑顔を見せていた少女とは、まるで別人。
覇気と凜々しさに溢れた、現代最強の陰陽師の顔で前に出る。
「緋月」
「はい、ここに」
一言、力を込めて呼べば、さっきまでシアとの戦闘に興じていた緋月が一瞬で駆けつける。
「遠藤様、ご助力を?」
「もちろん」
打てば響くように応える浩介に、はんなりとした笑みを浮かべる。
「みゅっ。ヒナちゃん、お手伝いする?」
「姫様、我等もお供しますぞ」
「娘だけ行かせるわけにはいかないな」
口々に手伝いの申し出がなされる中、どこか面白そうに笑うハジメも「協力はいるか?」と確認を口にした。
「お気遣い、痛み入ります」と丁寧に一礼する陽晴。しかし、顔を上げれば、そこには不敵とすら言える笑みが浮かんでいて。
「ですが、皆様はどうか、このまま素敵な休日をお過ごしください。わたくし達も直ぐにお役目を果たして戻りますので」
「できるのか?」
「ええ、問題なく。何せ、わたくしには頼もしい前鬼と――」
緋月を見て目を細め、次いで絶大な信頼と乙女の熱を込めた眼差しを浩介へと向けて、
「世界一のヒーローである後鬼が、ついておりますから」
そう言ってのけた。
緋月は当然と言いたげに、浩介もまた、ちょっと照れつつも誇らしそうに笑って胸を張る。
その光景を見て、ハジメやユエ達、そしてクラスメイト達は思わず――
ドン引きした。
「「「「「ゴキ?」」」」」
「こ、浩介。お前……そんなこと言われてなんで嬉しそうなんだよ!」
「小さい子に罵倒されて喜ぶとか……変態ね!」
「確かに増殖する浩介はゴキ○リみたいだけどさぁっ」
「深淵卿モードの後遺症が、ここまでっ」
「香織! 遠藤君の頭に治療を!」
「任せて! 輝け、遠藤君のあれな頭!」
仲間の同情と憐憫と蔑みの眼差しと言葉に、回復魔法の輝きで頭を光らせた浩介は笑顔のまま固まった。
どうにか震える手で眉間をもみほぐし、大きく深呼吸して、一拍。
陽晴があわあわし、ラナ達樹海防衛線メンバーがぷるぷるしながら笑いを堪えている中、
「いい加減っ、そのネタから離れやがれぇーーーーーーっ!!!」
魂の叫びを、美しい箱庭の世界に木霊させたのだった。
いつもお読みいただきありがとうございます。
感想・意見・誤字脱字報告もありがとうございます。
というわけで深淵卿第三章、終幕です。
他にも色々と書きたいことが出てきたうえに、駆け足気味の部分ももっと丁寧に書きたいところでしたが、それはまた機会があればということで。長らくお付き合いいただき、ありがとうございました!
前話のあとがきの通り一ヶ月ほどお休みをいただいて、次はトータス旅行記の続きを書かせていただこうと思います。
よろしくお願いします!